アイルトン・セナ(Ayrton Senna da Silva, Brazil, 1960-1994)とは、ブラジル人のレーシング・ドライバーである。F1では、3度のワールドチャンピオンに輝き、日本にF1を根付かせた立役者でもある。甥は同じくレーシング・ドライバーのブルーノ・セナ(Bruno Senna Lalli, Brazil, 1983-)。
概要
1960年、ブラジル・サンパウロの裕福な家庭に生まれる。本名はアイルトン・セナ・ダ・シルバ。
ファミリーネームは「ダ・シルバ」で当初はこの姓を使っていたが、後に母方のファミリーネームである「セナ」を名乗った。
幼いころからエンジン付きカートを与えられ、才能を磨いていった。
1984年、トールマン・ハートよりF1デビュー。弱小チームでありながらもデビュー2戦目の南アフリカGPで6位となりいきなりのポイントゲット。さらに6戦目のモナコGPでは豪雨により他のドライバーが苦戦する中、セナのマシンは次々に強豪を追い抜いていきトップのアラン・プロストを追い抜くもその直前に中断され、2位となる。
しかし、このレースでセナに対する注目が集まる。
1985年にはロータスに移籍。第2戦ポルトガルGPにて初のポールポジション、そして初優勝を飾る。
さらに第13戦ベルギーGPでも予選2位からの優勝をし、この年は2勝という結果になった。
以後、セナは着実に力を着け、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケら当時のトップドライバーと肩を並べるようになる。しかし、この年から急速に力をつけてきたホンダエンジンにあっさりと抜かれてしまった経験から、セナはホンダエンジンに興味を持つようになる。
翌1986年もロータス・ルノーを操り、2勝を果たした。特に第2戦スペインGPではウィリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルの激しい追撃を振り切り0.014秒差で勝利し、脅威を感じたセナはますますホンダパワーを欲するようになる
そして、1987年にはロータスで中嶋悟とチームメイトになり、さらに念願のホンダからのエンジン供給を受けた。しかし、この年はロータス99Tの革新的なアクティブサスペンションのセッティングに苦労し、ポールポジション1回、優勝2回にとどまる。
1988年、マクラーレンに移籍。この年マクラーレンは、強力なホンダエンジン、そしてアイルトン・セナ、アラン・プロストのジョイントナンバーワン体制によってシーズン16戦15勝を挙げる。そしてセナも第15戦日本GPにて初のワールドチャンピオンに輝く。また、この年の記念パーティで故・本田宗一郎氏と出会い、「来年も最高のエンジンを作ってやるからな」と言われ感激する。
しかし、翌89年にはプロストとの仲が悪化。チャンピオンをかけた第15戦日本GPではシケインで接触、セナは復帰し1位でゴールするが後に失格処分に、チャンピオンの座をプロストに明け渡してしまう。
90年、フェラーリに移籍したプロストに代わりゲルハルト・ベルガーとコンビを組む。この年もプロストとチャンピオンの座を争う。そして、またしても第15戦日本GP、スタート直後、1コーナーでセナはプロストと接触、これによりセナの2度目のワールドチャンピオンが決まる。(後にセナはこの接触が故意であると認めている。)
91年はウィリアムズのナイジェル・マンセルとのチャンピオン争いを制し、3度目のワールドチャンピオンを経験する。しかし、翌92年はウィリアムズに圧倒される。セナは随所で輝きを見せたが、結局ランキング4位となる。
93年、ホンダエンジンを失い、非力なフォードエンジンで戦うことになったセナだが、序盤から前評判を覆す活躍を見せる。結局中盤で失速し、ウィリアムズのアラン・プロストにチャンピオンを奪われるが、終盤2戦連続で優勝するなど意地を見せる。この年ランキング2位。最終戦オーストラリアGPでは、プロストと握手する姿も見られ、二人の和解は多くの感動を呼んだ。
94年、念願のウィリアムズに移籍、しかしレギュレーションの変更でハイテク装備が禁止されたためマシンのバランスが不安定になり、セナは序盤の2戦でポールポジションを取りながらリタイヤ。精彩を欠く。
そして、1994年5月1日、第3戦サンマリノGP、イモラサーキットのタンブレロでクラッシュ、病院に搬送されるが、死亡する。
その後、ブラジル政府が国葬の礼をもってあたったことからもセナのブラジル国内での人気がうかがい知れる。
現在、彼はサンパウロのモルンビー墓地で静かに眠っている。
また、彼の甥っ子(姉ビビアーニの息子)にあたるブルーノ・セナが2010年HRT F1からF1デビューを果たした。しかし、彼は叔父のようにはF1では大成できず、2020年現在はWECでLMP2マシンを駆って活躍している。
日本での評価
1987年に日本人ドライバーの中嶋悟がF1デビューするのと同時に本格的なF1中継が開始されたが、当時のチームメイトであったセナのルックスと速さから日本でファンが増え、88年日本GPでのスタート失敗からの劇的な大逆転勝利とチャンピオン獲得が人気を決定的なものとし、空前のF1ブームが到来した。
セナ自身も地元のブラジルGPに次いで強い声援をもらえる地として、日本を大いに気に入ることになった。
しかし、多くのファンはF1ファン=セナファンという人間が多く、サンマリノGPで事故死するとF1を見なくなるようになり、F1ブームは一気に消沈した。特に1989年から実況を務めていた古舘伊知郎が大のセナファンであり、セナの亡くなった1994年を以てF1実況から去ったことは有名である。
フジテレビをはじめ、日本のメディアにおいてもセナを贔屓する報道が多くを占め、ライバルであったアラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ミハエル・シューマッハをヒール的なポジションで批判することが多かった。日本でセナの短所、問題点が指摘されることが少ないのも、これらの報道が影響している。
通算成績
出走回数:161
優勝回数:41
通算獲得ポイント:614
表彰台:80
ポールポジション:65
ファステストラップ:19
デビュー戦:1984年ブラジルGP
初勝利:1985年ポルトガルGP
最終勝利:1993年オーストラリアGP
最終戦:1994年サンマリノGP
タイトル:3回(’88、’90、’91)
関連動画
4番手スタートからたった1周でトップに立った、1993年ヨーロッパGPでの伝説のオープニングラップ。
もはや伝説。1992年モナコGPでのナイジェル・マンセルとのドッグファイト。
アイルトン・セナとアイルトン・”タカ”との夢の対決。
セナの死後この時の賞品として、鈴鹿サーキットで使われたヘルメットが送られたという。
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