アスレティック・ビルバオ(バスク語: Bilboko Athletic Kluba; スペイン語: Athletic Club de Bilbao)とは、スペイン・ラ・リーガに所属するサッカークラブである。
本拠地はバスク州ビルバオ。愛称はLos Leones (ライオン)、Euskaldunak(バスク)。ホームスタジアムはエスタディオ・サン・マメス。
なお、正式なクラブ名は「アスティック・クラブ(Athletic Club)」であり、現地ではこちらの名称で呼ばれている。
概要
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プリメイラ・ディビジオン優勝8回、コパ・デル・レイ優勝24回という実績を持つバスク最大の名門クラブであり、1929年の創設以来、レアル・マドリード、FCバルセロナと並び一度もセグンダ・ディビシオン(2部)に降格したことがないクラブである。また、スペインにおいて株式会社化を行っていない4つのクラブ(その他はレアル・マドリード、バルセロナ、CAオサスナ)のうちのひとつであり、ソシオ (socios) と呼ばれる組合員によって所有され経営されている。
クラブの最大の特徴は、1912年に最後の外国人選手がクラブから去って以降、選手は「バスク人」に限定するというクラブ方針を守り続けていることである。この方針におけるバスク人は、生まれもしくは育ちがバスク州(ビスカヤ県・ギプスコア県・アラバ県)、ナバラ州、またはフランス領バスクのラブール・スール・バス=ナヴァールである選手の事を指す。フランス代表のビセンテ・リザラズやベネズエラ代表のフェルナンド・アモレビエタのように上記の条件を満たしていれば国籍を問わず入団する事が出来る。ちなみに、監督はバスク人以外の外国人監督を招いている。
このようなバスク人縛りという一見大きなハンディを抱えているクラブがなぜずっと1部に居続けているかというと、レサマ (Lezama) と呼ばれる下部組織のピラミッドを通して若いバスク人選手を育成するというカンテラから多くの優秀なバスク人プレイヤーを輩出し続けているからであり、2022年には、優れた育成組織を持つクラブに贈られるUEFAグラスルーツ賞を受賞。下部組織出身の若手を積極的に登用する傾向のあるクラブであるが、他のクラブから優秀なバスク人選手を獲得することもある。
同じバスク地方の名門であるレアル・ソシエダが最大のライバルであり、両チームの対戦は「バスク・ダービー」と呼ばれている。もっとも両チームの関係は険悪なものではなく、一般的なダービーとは異なり、友好的なダービーとして知られる。さらにスタジアム周辺で両クラブのサポーターが一緒に飲んでいたり、観戦している姿が見られる。ちなみに、ソシエダもかつてはバスク純血主義を採用していたが、1989年より撤廃している。
歴史
19世紀後半のビルバオは、近隣に鉄鉱石鉱山や造船所を抱えた一級の工業港湾であった。製鉄業や造船業などに従事した1890年代初頭にイギリス人労働者が集ってビルバオFC (Bilbao Football Club) を形成。一方、彼らの対戦相手となっていたイギリス留学を経てサッカーに興味を持ったバスク人学生が1898年にアスレティック・クルブ (Athletic Club) を設立。1903年、2つのクラブは正式に合併してアスレティック・クルブ (Athletic Club) となった。
新しく形成されたアスレティック・ビルバオは1903年のコパ・デル・レイで優勝すると、1910年、1911年に連覇。さらには1914年から1916年までは3年連続で優勝。このチームのスター選手は卓越したゴールスコアラーのピチーチであり、1915年のコパ・デル・レイ決勝ではハットトリックを達成。1921年には8度目のコパ・デル・レイ優勝を果たすが、翌年ピチーチは29歳という若さでこの世を去ってしまう。このピチーチの功績を称え、1953年以降のリーガ・エスパニョーラの得点王にはピチーチ賞というトロフィーが与えられている。
1921年にはイングランド出身のフレッド・ペントランド監督が就任。彼はエル・ボンビンという愛称で知られ、ショートパスを多用するサッカーを好んでアスレティックのプレースタイルに変革を起こすと、1922-23シーズンにチームをコパ・デル・レイ優勝に導いた。
1928年、創設された全国選手権(リーガ・エスパニョーラ)の創設メンバーとなり、この初年度から現在に至るまでプリメーラ・ディビジオン(1部)の座を守り続けている。1929年には一度クラブを離れていたペントランドが監督に復帰。1929-30シーズンと1930-31シーズンには2シーズン連続でリーグ戦とカップ戦のダブル(2冠)を達成。特に前者のシーズンでは18試合12勝6分という成績でシーズン無敗優勝を果たしている。1930年から1933年まで4シーズン連続でコパ・デル・レイを制し、1932年と1933年には2シーズン連続でリーグ戦2位となった。1931年にはバルセロナに12-1で圧勝したが、これは現在でもバルセロナの最大得点差敗北記録として残っている。ペントランド監督は2度の在任期間中にチームを2回のリーグ優勝と5回のカップ優勝に導き、クラブの黄金期を築いている。
フランシスコ・フランコの独裁時代には非スペイン語の名前の使用が禁止され、またバスク出身選手のみにプレーを許すというチーム方針が撤廃され、さらにフランコ政権時代の1941年から1973年までの間は、アトレティコ・ビルバオ (Atlético Bilbao) に強制的に改名させられる。厳しい時代となった1940年代には、下部組織で優秀な選手を育成することでクラブとしての競争力維持に努めた。その最高傑作といえる選手が1941年にデビューしたテルモ・サラだった。サラは在籍13シーズンで公式戦通算294得点を積みあげ、リオネル・メッシやクリスティアーノ・ロナウドが登場するまでは彼がリーガの最多ゴール保持者だった、サラの他にもホセ・ルイス・パニーソなどのスター選手を擁した時代には、1942-43シーズンには、リーグ戦とカップ戦のダブル(2冠)を達成し、1944年と1945年にもコパ・デル・レイを獲得。
1950年代前半にはラファ・イリオンド、ベナンシオ・ペレス、アグスティン・ガインサなどのフォワードが次々と現れ、彼らは1949-50シーズンのコパ・デル・ヘネラリシモ(現在のコパ・デル・レイ)優勝に貢献。1955年にはチェコスロバキア人のフェルディナンド・ダウチーク監督が就任し、クラブにいっそうの繁栄をもたらした。ダウチク監督は1955-56シーズンにリーグ戦とカップ戦のダブルを達成し、さらに1955年と1958年にもコパ・デル・ヘネラリシモで優勝。1956-57シーズンにはUEFAチャンピオンズカップに初出場し、準々決勝でマンチェスター・ユナイテッドに敗れて敗退した。1957-58シーズンのコパ・デル・レイ決勝は栄華を極めていたレアル・マドリードとの対戦となったが、相手のホームであるエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで勝利して優勝した。
これまでのクラブの成功は、自らのカンテラ方針を頑なに固持し、わずかの柔軟さも示さなかったことがもたらしていた。だが、レアル・マドリードが欧州のサッカー界の頂点に君臨した1960年代はタイトルから遠ざかり、二重国籍選手を多く起用するライバルたちに苦戦を強いられるようになっていた。そこでバスク地域に先祖がいる選手の獲得を許容するようになり、守護神としてクラブのレジェンドの地位まで上り詰めたホセ・アンヘル・イリバルが台頭する。1975年11月20日にフランコが死去して独裁体制が終焉すると、12月5日のレアル・ソシエダとの試合直前、アトレティコのキャプテンであるイリバルとソシエダのキャプテンであるイグナシオ・コルタバリアは、イクリニャと呼ばれるバスクの旗をセンターサークルまで運んで儀式的に広げた。1976-77シーズンにはUEFAカップの決勝に進出し、アウェーゴール差でユヴェントスFC(イタリア)に敗れる。その後、クラブはアスレティック・ビルバオに再改名する。
1981年、ハビエル・クレメンテが監督に就任。彼はすぐにチームの組織化に取り組み、サンティアゴ・ウルキアガ、ミゲル・デ・アンドレス、イスマエル・ウルティビ、エスタニスラオ・アルゴーテ、アンドニ・スビサレッタ、マヌ・サラビアなどのカンテラ出身の若手選手が、ダニ、アンドニ・ゴイコエチェアなどのベテラン選手とうまく融合。クレメンテのスタイルは守備的で荒々しいプレースタイルで悪名高かったものの、1982-83シーズンには27年ぶりのリーグタイトルを手にし、1983-84シーズンにはリーグとコパ・デル・レイのダブルを達成。新たな黄金期を築くことに成功する。
その後、加速度的に進んだ各クラブの国際化の波に飲まれ、主要なトロフィーを獲得できなくなっていた、1996年フランス人のルイス・フェルナンデスが監督に就任し、さらに「アスレティック史上初の外国籍選手」としてバスク系フランス人のビセンテ・リザラズと契約。バスク地方の他クラブの下部組織からも選手を引き抜きはじめ、ライバルであるソシエダからホセバ・エチェベリアを引き抜き、両クラブ間に険悪な感情が引き起こされる。それでも、イスマエル・ウルサイス、ホセ・マリなどがいたチームは1997-98シーズンに2位に入り、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得するなど一定の成功を収めていた。
2000年代になると、ボスマン判決以降も純血主義を貫いていたチームは成績が低迷するようになり、2005-06シーズンは初のセグンダ・ディビジオン降格の危機に直面。続く2006-07シーズンはさらに厳しい戦いとなり、シーズン終盤まで降格圏付近に位置したが、シーズン最終節、サン・マメスでのレバンテUD戦 (2-0) に勝利して辛くもトップリーグ残留を決める。
こうしたクラブ史上最悪の時期を迎えたクラブはホアキン・カパロスを監督に招聘。この時期に世代交代に成功し、フェルナンド・ジョレンテやハビ・マルティネス、マルケル・スサエタ、オスカル・デ・マルコス、そしてイケル・ムニアインといった若手が飛躍的に成長を遂げ、2008-09シーズン、コパ・デル・レイ準優勝によりUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得。2010-11シーズンのリーガでもCL出場権獲得に近づくなど、地に落ちかけていたクラブの名声を回復する。
2011年、新たに会長に就任したホセ・ウルティスは会長選の公約通りにアルゼンチンの鬼才マルセロ・ビエルサ監督を招聘。ビエルサ監督は型に嵌らない戦術や大胆なコンバートでカパロス時代に台頭した若い選手たちの才能をさらに引き出し、守備的で武骨なスタイルで定着していたチームをスペクタクルで攻撃的なチームへと変貌させる。2011-12シーズンのELの舞台でバスクノ若者たちは躍動し、マンチェスター・ユナイテッド、シャルケ04、スポルティングCPといった強豪を次々と撃破し、決勝に進出。決勝ではアトレティコ・マドリード相手に完敗したが、このときの戦いぶりは大きな称賛を浴びることになる。また、コパ・デル・レイでも決勝まで進出したが、ジョゼップ・グアルディオラ監督率いる黄金期のFCバルセロナ相手に及ばず、こちらも準優勝に終わっている。一方、この戦いぶりで大きく評価を高めたジョレンテやハビ・マルティネスは国外のビッグクラブに引き抜かれることになる。
2013-14シーズンにエルネスト・バルベルデが監督に就任。リーガ屈指の司令塔に成長したベニャがクラブに戻ってきたことで中盤は質量共にリーガ有数の陣容となり、2013-14シーズンは4位と躍進。16シーズンぶりとなるCL出場権を獲得する。2015-16シーズンの始めとなるスーペルコパ・デ・エスパーニャでは、前シーズンに三冠を達成したFCバルセロナと対戦したが、サン・マメスで行われた1stレグではアリツ・アドゥリスのハットトリックを含む4-0で大勝し、2ndレグでも1-1で引き分けて約30年ぶりとなるタイトルを獲得する。
バルベルデ監督が退任してからは再び成績が下降し、2016-17シーズンは16位に低迷。だが、2018年末にウリベ・エチャバリアが会長に就任すると風向きが変わり始める。直後に内部昇格の形で就任したガイスカ・ガリターノ監督は世代交代に着手しながらチームを立て直し、欧州のカップ戦出場を狙える位置までチームは浮上。2019-20シーズンには5年ぶりにコパ・デル・レイ決勝まで進出し、ファイナルの舞台でレアル・ソシエダとのバスク・ダービーが実現(結果は準優勝)。
2021年1月には成績不振でガリターノが解任となり、マルセリーノ・ガルシア・トラルが監督に就任。就任直後に開催されたスーペルコパ・デ・エスパーニャでは、準決勝でレアル・マドリードを2-1で、決勝でFCバルセロナを3-2で下して2015-16シーズン以来3度目の優勝を果たす。2020-21シーズンにはコパ・デル・レイ2年連続決勝進出、2021-22シーズンはFCバルセロナ、レアル・マドリードを破ってのコパ・デル・レイ準決勝進出などトーナメント戦での強さが目立っていた。
2022年6月にジョン・ウリアルテが会長に就任し、公約にしていたエルネスト・バルベルデの3度目の監督就任が実現。イニャキ・ウィリアムズとニコ・ウィリアムズの兄弟、ウナイ・シモン、ダニ・ビビアンら代表クラスの実力者が名を連ねるようになり、2023-24シーズンのラ・リーガでは5位で久々のEL出場権を獲得し、コパ・デル・レイでは決勝でマジョルカをPK戦の末下し、40年ぶりの優勝を達成する。
タイトル
- プリメーラ・ディビシオン:8回
1929-30, 1930-31, 1933-34, 1935-36, 1942-43, 1955-56, 1982-83, 1983-84 - コパ・デル・レイ:24回
1903, 1904, 1910, 1911, 1914, 1915, 1916, 1921, 1923, 1929-30, 1930-31, 1931-32, 1932-33, 1942-43, 1943-44, 1944-45, 1949-50, 1954-55, 1955-56, 1957-58, 1968-69, 1972-73, 1983-84, 2023-24 - スーペルコパ・デ・エスパーニャ:3回
1984, 2015, 2020
現在の所属選手
背番号 | Pos. | 国籍 | 選手名 | 生年月日 | 加入年 | 前所属 |
---|---|---|---|---|---|---|
- | 監督 | ![]() |
エルネスト・バルベルデ | 1964.2.9 | 2022 | FCバルセロナ |
1 | GK | ![]() |
ウナイ・シモン | 1997.6.11 | 2018 | ビルバオ・アスレティック |
2 | DF | ![]() |
アンドニ・ゴロサベル | 1996.8.4 | 2024 | アラベス |
3 | DF | ![]() |
ダニ・ビビアン | 1999.7.5 | 2020 | ミランデス |
4 | DF | ![]() |
アイトール・パレデス | 2000.4.29 | 2020 | ビルバオ・アスレティック |
5 | DF | ![]() |
ジェライ・アルバレス | 1995.1.24 | 2016 | ビルバオ・アスレティック |
6 | MF | ![]() |
ミケル・ベスガ | 1993.5.21 | 2016 | レガネス |
7 | FW | ![]() |
アレックス・ベレンゲル | 1995.7.4 | 2020 | トリノ |
8 | MF | ![]() |
オイアン・サンセト | 2000.4.25 | 2019 | ビルバオ・アスレティック |
9 | FW | ![]() |
イニャキ・ウィリアムズ | 1994.6.15 | 2014 | ビルバオ・アスレティック |
10 | FW | ![]() |
ニコ・ウィリアムズ | 2002.7.12 | 2019 | アスレティック・ビルバオB |
11 | FW | ![]() |
アルバロ・ジャロ | 1999.8.16 | 2022 | ブラガ |
12 | FW | ![]() |
ゴルガ・グルセダ | 1996.9.12 | 2022 | アモレビエタ |
13 | GK | ![]() |
フレン・アギレサバラ | 2000.12.26 | 2021 | ビルバオ・アスレティック |
14 | DF | ![]() |
ウナイ・ヌニェス | 1997.1.30 | 2017 | セルタ |
15 | DF | ![]() |
イニゴ・レクエ | 1993.5.14 | 2015 | ビルバオ・アスレティック |
16 | MF | ![]() |
イニゴ・ルイス・デ・ガラレタ | 1993.8.6 | 2023 | マジョルカ |
17 | DF | ![]() |
ユーリ・ベルルチェ | 1990.2.10 | 2018 | パリ・サンジェルマン |
18 | DF | ![]() |
オスカル・デ・マルコス(C) | 1989.4.14 | 2010 | ビルバオ・アスレティック |
20 | DF | ![]() |
ウナイ・ゴメス | 2003.5.23 | 2023 | ビルバオ・アスレティック |
21 | FW | ![]() |
マロアン・サンナディ | 2001.2.1 | 2025 | バラカルド |
23 | MF | ![]() |
ミケル・ハウレギサール | 2003.11.13 | 2023 | ビルバオ・アスレティック |
24 | MF | ![]() |
ベニャト・プラードス | 2001.2.8 | 2022 | ミランデス |
28 | MF | ![]() |
ペイオ・カナレス | 2005.1.17 | 2025 | ビルバオ・アスレティック |
32 | DF | ![]() |
アダマ・ボイロ | 2002.6.22 | 2024 | アスレティック・ビルバオB |
33 | FW | ![]() |
アインゲル・オラバリエタ ※ | 2005.11.14 | 2024 | ビルバオ・アスレティック |
34 | GK | ![]() |
オイエル・ガステー ※ | 2003.10.30 | 2024 | アスレティック・ビルバオB |
過去の所属選手
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歴代監督
シェパード(1910-1911)
ビリー・バーンズ(1914-1916)
ビリー・バーンズ(1920-1921年5月)
ジャック・バートン(1921年5月-1921年12月)
フアン・アルスアガ(1921年12月-1922年3月)
フレッド・ペントランド(1922年3月-1925年6月)
ラルフ・カービー(1925年7月-1926年6月)
リッポ・ヘルツカ(1926年7月-1928年6月)
マキシモ・ロヨ(1928年7月-1929年6月)
フレッド・ペントランド(1929年7月-1933年6月)
パトリシオ・カイセド(1933年7月-1935年8月)
ホセ・マリア・オラバリア(1935年8月-1936年1月)
ウィリアム・ガーバット(1936年1月-1936年6月)
ペドロ・ビリチナガ(1938年-1939年11月)
ロベルト・エチェバリア(1939年11月-1940年6月)
フアン・ウルキズ(1940年7月-1947年11月)
ヘンリー・ジョン・バッジ(1947年11月-1949年6月)
ホセ・イララゴリ(1949年7月-1952年6月)
アントニオ・バリオス(1952年7月-1954年6月)
フェルディナンド・ダウチーク(1954年7月-1957年6月)
バルタサール・アルベニス(1957年7月-1958年6月)
マルティン・フランシスコ(1958年7月-1960年12月)
フアン・アントニオ・イピニャ(1960年12月-1962年6月)
アンヘル・スビエタ(1962年7月-1963年6月)
フアン・オチョアンテサナ(1963年7月-1964年6月)
アントニオ・バリオス(1964年7月-1965年6月)
アグスティン・ガインサ(1965年7月-1968年10月)
ラファエル・イリオンド(1968年10月-1969年6月)
ロニー・アレン(1969年7月-1971年11月)
サルバドール・アルティガス(1971年11月-1972年6月)
ミロラド・パヴィッチ(1972年7月-1974年6月)
ラファエル・イリオンド(1974年7月-1976年6月)
コルド・アギーレ(1976年7月-1979年6月)
ヘルムート・セネコヴィッチ(1979年7月-1980年9月)
イニャキ・サエス(1980年9月-1981年6月)
ハビエル・クレメンテ(1981年7月-1986年1月)
イニャキ・サエス(1986年1月-1986年6月)
ホセ・アンヘル・イリバル(1986年7月-1987年6月)
ハワード・ケンドール(1987年7月-1989年11月)
チェチュ・ロホ(1989年11月-1990年6月)
ハビエル・クレメンテ(1990年7月-1991年3月)
イニャキ・サエス(1991年3月-1992年2月)
ヘスス・アラングレ(1992年2月-1992年6月)
ユップ・ハインケス(1992年7月-1994年6月)
ハビエル・イルレタ(1994年7月-1995年3月)
ホセ・マリア・アモロルトゥ(1995年3月-1995年6月)
ドラゴスラフ・ステパノヴィッチ(1995年7月-1996年3月)
ホセ・マリア・アモロルトゥ(1996年3月-1996年6月)
ルイス・フェルナンデス(1996年7月-2000年6月)
チェチュ・ロホ(2000年7月-2001年6月)
ユップ・ハインケス(2001年7月-2003年6月)
エルネスト・バルベルデ(2003年7月-2005年6月)
ホセ・ルイス・メンディリバル(2005年7月-2005年10月)
ハビエル・クレメンテ(2005年10月-日2006年6月)
フェリックス・サリウガルテ(2006年7月-2006年11月)
マネ(2006年11月-2007年6月)
ホアキン・カパロス(2007年7月-2011年6月)
マルセロ・ビエルサ(2011年7月-2013年6月)
エルネスト・バルベルデ(2013年7月-2017年5月)
ホセ・アンヘル・ジガンダ(2017年5月-2018年5月)
エドゥアルド・ベリッゾ(2018年5月-2018年12月)
ガイスカ・ガリターノ(2018年12月-2021年1月)
マルセリーノ(2021年1月-2022年5月)
エルネスト・バルベルデ(2022年6月-)
関連動画
関連項目
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