アスレティック・ビルバオ単語

96件
アスレティックビルバオ
1.1万文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

アスレティック・ビルバオバスク語: Bilboko Athletic Kluba; スペイン語: Athletic Club de Bilbao)とは、スペインラ・リーガに所属するサッカークラブである。

本拠地はバスクビルバオ。愛称はLos Leones (ライオン)、Euskaldunak(バスク)。ホームスタジアムはエスタディオ・サン・マメス。

なお、正式なクラブ名は「アスティック・クラブAthletic Club)」であり、現地ではこちらの名称で呼ばれている。

概要

ヨーロッパサッカーリーグ
アスレティック・ビルバオ
基本情報
創設 1898年
所属リーグ ラ・リーガ
ホームタウン ビルバオ
ホームスタジアム サン・マメ
(53,332人)
クラブカラー
代表者 エンリケ・セレソ
プロサッカークラブテンプレート

プリメイラ・ディビジオン優勝8回、コパ・デル・レイ優勝24回という実績を持つバスク最大の名門クラブであり、1929年の創設以来、レアル・マドリードFCバルセロナと並び一度もセグンダ・ディビシオン(2部)に降格したことがないクラブである。また、スペインにおいて株式会社化を行っていない4つのクラブ(その他はレアル・マドリードバルセロナ、CAオサスナ)のうちのひとつであり、ソシオ (socios) と呼ばれる組合員によって所有され経営されている。

クラブの最大の特徴は、1912年に最後の外国人選手がクラブから去って以降、選手は「バスク人」に限定するというクラブ方針を守り続けていることである。この方針におけるバスク人は、生まれもしくは育ちがバスク州(ビスカヤ県・ギプスコア県・アラバ県)、ナバラ州、またはフランスバスクラブール・スール・バス=ナヴァールである選手の事をす。フランス代表のビセンテ・リザラズやベネズエラ代表のフェルナンド・アモレビエタのように上記の条件を満たしていれば籍を問わず入団する事が出来る。ちなみに、監督バスク人以外の外国人監督を招いている。

このようなバスク縛りという一見大きなハンディを抱えているクラブがなぜずっと1部に居続けているかというと、レサマ (Lezama) と呼ばれる下部組織のピラミッドを通して若いバスク人選手を育成するというカンテラから多くの優秀なバスクプレイヤーを輩出し続けているからであり、2022年には、優れた育成組織を持つクラブに贈られるUEFAラスルーツ賞を受賞。下部組織出身の若手を積極的に登用する傾向のあるクラブであるが、他のクラブから優秀なバスク人選手を獲得することもある。

同じバスク地方の名門であるレアル・ソシエダが最大のライバルであり、両チームの対戦は「バスクダービー」と呼ばれている。もっとも両チームの関係は険悪なものではなく、一般的なダービーとは異なり、友好的なダービーとして知られる。さらにスタジアム周辺で両クラブサポーターが一緒に飲んでいたり、観戦している姿が見られる。ちなみに、ソシエダもかつてはバスク純血義を採用していたが、1989年より撤している。

歴史

19世紀後半のビルバオは、近隣に鉱石鉱山や造所を抱えた一級の工業港湾であった。製鉄業や造業などに従事した1890年代初頭にイギリス労働者が集ってビルバオFC (Bilbao Football Club) を形成。一方、彼らの対戦相手となっていたイギリス留学を経てサッカー興味を持ったバスク学生1898年アスレティック・クルブ (Athletic Club) を設立。1903年、2つのクラブは正式に合併してアスレティック・クルブ (Athletic Club) となった。

新しく形成されたアスレティック・ビルバオは1903年のコパ・デル・レイで優勝すると、1910年1911年に連覇。さらには1914年から1916年までは3年連続で優勝。このチームスター選手は卓越したゴールスコアラーピチーチであり、1915年のコパ・デル・レイ決勝ではハットトリックを達成。1921年には8度のコパ・デル・レイ優勝を果たすが、翌年ピチーチは29歳という若さでこの世を去ってしまう。このピチーチの功績を称え、1953年以降のリーガ・エスパニョーラ得点王にはピチーチ賞というトロフィーが与えられている。

1921年にはイングランド出身のフレッドペントランド監督が就任。彼はエルボンビンという愛称で知られ、ショートパスを多用するサッカーを好んでアスレティックのプレースタイルに変革を起こすと、1922-23シーズンチームをコパ・デル・レイ優勝に導いた。

1928年、創設された全選手権(リーガ・エスパニョーラ)の創設メンバーとなり、この初年度から現在に至るまでプリメーラ・ディビジオン(1部)の座を守り続けている。1929年には一度クラブを離れていたペントランドが監督に復帰。1929-30シーズンと1930-31シーズンには2シーズン連続でリーグ戦とカップ戦のダブル(2冠)を達成。特に前者のシーズンでは18試合12勝6分という成績でシーズン優勝を果たしている。1930年から1933年まで4シーズン連続でコパ・デル・レイを制し、1932年1933年には2シーズン連続でリーグ2位となった。1931年にはバルセロナに12-1で圧勝したが、これは現在でもバルセロナの最大得点敗北記録として残っている。ペントランド監督は2度の在任期間中にチームを2回のリーグ優勝と5回のカップ優勝に導き、クラブ黄金期を築いている。

フランシスコ・フランコの独裁時代には非スペイン語名前の使用が禁止され、またバスク出身選手のみにプレーを許すというチーム方針が撤され、さらにフランコ政権時代の1941年から1973年までの間は、アトレティコビルバオ (Atlético Bilbao) に強制的に改名させられる。厳しい時代となった1940年代には、下部組織で優秀な選手を育成することでクラブとしての競争力維持に努めた。その最高傑作といえる選手が1941年デビューしたテルモ・サラだった。サラは在籍13シーズン公式戦通算294得点を積みあげ、リオネル・メッシクリスティアーノ・ロナウドが登場するまでは彼がリーガの最多ゴール保持者だった、サラの他にもホセルイス・パニーソなどのスター選手を擁した時代には、1942-43シーズンには、リーグ戦とカップ戦のダブル(2冠)を達成し、1944年1945年にもコパ・デル・レイを獲得。

1950年代前半にはラファ・イリオンド、ベナンシオ・ペレス、アグスティン・ガインサなどのフォワードが次々と現れ、彼らは1949-50シーズンのコパ・デル・ヘネラリシモ(現在のコパ・デル・レイ)優勝に貢献。1955年にはチェコスロバキア人のフェルディナンド・ダウチー監督が就任し、クラブにいっそうの繁栄をもたらした。ダウチク監督は1955-56シーズンリーグ戦とカップ戦のダブルを達成し、さらに1955年1958年にもコパ・デル・ヘネラリシモで優勝。1956-57シーズンにはUEFAチャンピオンズカップに初出場し、準々決勝でマンチェスター・ユナイテッドに敗れて敗退した。1957-58シーズンのコパ・デル・レイ決勝は栄を極めていたレアル・マドリードとの対戦となったが、相手のホームであるエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで勝利して優勝した。

これまでのクラブの成功は、自らのカンテラ方針を頑なに固持し、わずかの柔軟さも示さなかったことがもたらしていた。だが、レアル・マドリード欧州サッカー界の頂点に君臨した1960年代はタイトルから遠ざかり、二重籍選手を多く起用するライバルたちに苦戦を強いられるようになっていた。そこでバスク地域に先祖がいる選手の獲得を許容するようになり、守護神としてクラブレジェンドの地位まで上り詰めたホセアンヘル・イリバルが台頭する。1975年11月20日フランコが死去して独裁体制が終焉すると、12月5日レアル・ソシエダとの試合直前、アトレティコキャプテンであるイリバルとソシエダのキャプテンであるイグナシオ・コルタバリアは、イクリニャと呼ばれるバスクの旗をセンターサークルまで運んで儀式的に広げた。1976-77シーズンにはUEFAカップの決勝に進出し、アウェーゴール差でユヴェントスFCイタリア)に敗れる。その後、クラブはアスレティック・ビルバオに再改名する。

1981年、ハビエル・クレメンテ監督に就任。彼はすぐにチームの組織化に取り組み、サンティアゴ・ウルキアガ、ミゲル・デ・アンドレス、イスエルウルティビ、エスタニスラオアルゴーテ、アンドニ・スビサレッタ、マヌ・サラビアなどのカンテラ出身の若手選手が、ダニ、アンドニ・ゴイコエチェアなどのベテラン選手とうまく融合。クレメンテスタイルは守備的で荒々しいプレースタイルで悪名高かったものの、1982-83シーズンには27年ぶりのリーグタイトルを手にし、1983-84シーズンにはリーグとコパ・デル・レイのダブルを達成。新たな黄金期を築くことに成功する。

その後、加速度的に進んだ各クラブ際化の波に飲まれ、要なトロフィーを獲得できなくなっていた、1996年フランス人のルイスフェルナンデス監督に就任し、さらに「アスレティック史上初の外籍選手」としてバスクフランス人のビセンテ・リザラズと契約バスク地方の他クラブの下部組織からも選手を引き抜きはじめ、ライバルであるソシエダからホセバ・エチェベリアを引き抜き、両クラブ間に険悪な感情が引き起こされる。それでも、イスエルウルサイスホセマリなどがいたチームは1997-98シーズン2位に入り、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得するなど一定の成功を収めていた。

2000年代になると、ボスマン判決以降も純血義を貫いていたチームは成績が低迷するようになり、2005-06シーズンは初のセグンダ・ディビジオン降格の危機に直面。続く2006-07シーズンはさらに厳しい戦いとなり、シーズン終盤まで降格圏付近に位置したが、シーズン最終節、サン・マメスでのレバンテUD戦 (2-0) に勝利して辛くもトップリーグ残留を決める。

こうしたクラブ史上最悪の時期を迎えたクラブはホアキン・カパロス監督に招聘。この時期に世代交代に成功し、フェルナンド・ジョレンテやハビ・マルティネス、マルケル・スサエタ、オスカル・デ・マルコス、そしてイケル・ムニアインといった若手が飛躍的に成長を遂げ、2008-09シーズン、コパ・デル・レイ準優勝によりUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得。2010-11シーズンリーガでもCL出場権獲得に近づくなど、地に落ちかけていたクラブの名回復する。

2011年、新たに会長に就任したホセウルティスは会長選の約通りにアルゼンチン鬼才マルセロ・ビエルサ監督を招聘。ビエルサ監督に嵌らない戦術や大胆なコンバートでカパロス時代に台頭した若い選手たちの才をさらに引き出し、守備的で武スタイルで定着していたチームをスペクタクルで攻撃的なチームへと変貌させる。2011-12シーズンのELの舞台バスク若者たちは躍動し、マンチェスター・ユナイテッドシャルケ04スポルティングCPといった強を次々と撃破し、決勝に進出。決勝ではアトレティコ・マドリード相手に敗したが、このときの戦いぶりは大きな称賛を浴びることになる。また、コパ・デル・レイでも決勝まで進出したが、ジョゼップ・グアルディオラ監督率いる黄金期FCバルセロナ相手に及ばず、こちらも準優勝に終わっている。一方、この戦いぶりで大きく評価を高めたジョレンテやハビ・マルティネス外のビッグクラブに引き抜かれることになる。

2013-14シーズンエルネストバルベルデが監督に就任。リーガに成長したベニャがクラブに戻ってきたことで中盤は質量共にリーガ有数の容となり、2013-14シーズンは4位と躍進。16シーズンぶりとなるCL出場権を獲得する。2015-16シーズンの始めとなるスーペルコパ・デ・エスパーニャでは、前シーズン三冠を達成したFCバルセロナと対戦したが、サン・マメスで行われた1stレグではアリツ・アドゥリスハットトリックを含む4-0で大勝し、2ndレグでも1-1で引き分けて約30年ぶりとなるタイトルを獲得する。

バルベル監督が退任してからは再び成績が下降し、2016-17シーズンは16位に低迷。だが、2018年末にウリベ・エチャバリア会長に就任すると向きが変わり始める。直後に内部昇格の形で就任したガイスカガリターノ監督世代交代に着手しながらチームを立て直し、欧州カップ戦出場を狙える位置までチームは浮上。2019-20シーズンには5年ぶりにコパ・デル・レイ決勝まで進出し、ファイナル舞台レアル・ソシエダとのバスクダービーが実現(結果は準優勝)。

2021年1月には成績不振でガリターノが解任となり、マルセリーノ・ガルシアトラルが監督に就任。就任直後に開催されたスーペルコパ・デ・エスパーニャでは、準決勝でレアル・マドリードを2-1で、決勝でFCバルセロナを3-2で下して2015-16シーズン以来3度優勝を果たす。2020-21シーズンにはコパ・デル・レイ2年連続決勝進出、2021-22シーズンFCバルセロナレアル・マドリードを破ってのコパ・デル・レイ準決勝進出などトーナメント戦での強さが立っていた。

2022年6月ジョンウリアルテ会長に就任し、約にしていたエルネストバルベルデの3度監督就任が実現。イニャキ・ウィリアムズニコウィリアムズ兄弟、ウナイ・シモンダニビビアンら代表クラスの実力者が名を連ねるようになり、2023-24シーズンラ・リーガでは5位で久々のEL出場権を獲得し、コパ・デル・レイでは決勝でマジョルカPK戦の末下し、40年ぶりの優勝を達成する。

タイトル

現在の所属選手

背番号 Pos. 選手名 生年 加入年 前所属
- 監督 エルネストバルベル 1964.2.9 2022 FCバルセロナ
1 GK ウナイ・シモン 1997.6.11 2018 ビルバオ・アスレティック
2 DF アンドニ・ゴロサベル 1996.8.4 2024 アラベス
3 DF ダニビビアン 1999.7.5 2020 ミランデス
4 DF アイトール・パレデス 2000.4.29 2020 ビルバオ・アスレティック
5 DF ジェライ・アルバレス 1995.1.24 2016 ビルバオ・アスレティック
6 MF ミケル・ベス 1993.5.21 2016 ガネ
7 FW アレックス・ベレンゲ 1995.7.4 2020 リノ
8 MF イアン・サンセト 2000.4.25 2019 ビルバオ・アスレティック
9 FW イニャキ・ウィリアムズ 1994.6.15 2014 ビルバオ・アスレティック
10 FW ニコウィリアムズ 2002.7.12 2019 アスレティック・ビルバオB
11 FW アルバロ・ジャロ 1999.8.16 2022 ブラ
12 FW ゴルガ・グルセダ 1996.9.12 2022 アモレビエタ
13 GK フレン・アギレサバ 2000.12.26 2021 ビルバオ・アスレティック
14 DF ウナイ・ヌニェス 1997.1.30 2017 セル
15 DF イニゴ・レクエ 1993.5.14 2015 ビルバオ・アスレティック
16 MF イニゴ・ルイス・デ・ガラレタ 1993.8.6 2023 マジョルカ
17 DF ユーリベルルチェ 1990.2.10 2018 パリ・サンジェルマン
18 DF スカル・デ・マルコ(C) 1989.4.14 2010 ビルバオ・アスレティック
20 DF ウナイ・ゴメス 2003.5.23 2023 ビルバオ・アスレティック
21 FW マロアン・サンナディ 2001.2.1 2025 バラカルド
23 MF ミケル・ハウレギサール 2003.11.13 2023 ビルバオ・アスレティック
24 MF ベニャト・プラード 2001.2.8 2022 ミランデス
28 MF イオ・カナレス 2005.1.17 2025 ビルバオ・アスレティック
32 DF アダマ・ボイロ 2002.6.22 2024 アスレティック・ビルバオB
33 FW アインゲル・オラバリエ  2005.11.14 2024 ビルバオ・アスレティック
34 GK オイエルガステー 2003.10.30 2024 アスレティック・ビルバオB

ビルバオ・アスレティック所属選手。

過去の所属選手

歴代監督

関連動画

関連項目

関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

>>3が理解できることが不幸 (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: ベホマ
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

アスレティック・ビルバオ

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • アスレティック・ビルバオについての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!


ニコニコニューストピックス