概要
現在ではギリシャの首都・アテネとして知られる、古代ギリシャの有力都市国家の一つ。紀元前800年頃までにアッティカ地方にイオニア人の手によって作られたとされている。名前は知恵と芸術の神であるオリンポス十二神の一柱、アテナからとられている。
古代ギリシャ史を語る上では絶対に欠かせないポリス(古代ギリシャの都市国家を指す)であり、ペルシア戦争を経て古代ギリシャ世界の覇者として君臨。経済の中心地としてだけではなく、ソクラテスやプラトンなどの哲学者やアイスキュロスやソフォクレスなどの劇作家をうんだ文化都市としても知られる。
しかし、民主政は次第に衆愚政治によって腐敗し、その後の宿敵・スパルタ(ペロポネソス同盟)との戦争であるペロポネソス戦争を経てアテナイの繁栄は影をさしはじめ、最終的にアレクサンドロス大王の父であるマケドニア王・フィリッポス2世が主導するコリントス同盟に参加したことで独立を喪失する。その後の中世から現代にかけての歴史については、アテネの記事を参照のこと。
歴史
集住~民主政の確立
紀元前12世紀から10世紀にかけてのドーリア人による侵略から免れたイオニア人たちは、アッティカ地方に集住(シノイキスモス)し、紀元前800年頃までにアテナイを形成した。神話では海の神ポセイドンと、知恵の神アテナが争って、アテナが勝利したことからこの名前がついたとされている。
この地域は気候(地中海性気候)の問題から穀物が取れず、オリーブやブドウくらいしかまともな農産物がなかったため、自然と交易と商業による生計手段が発達し、交易都市として一定の地位を築くことになる。
当初からアテナイが民主政だったというわけではなく、王による政治が布かれていたが、100年かけて貴族制に移行したと言われている。他のポリスとの争いなどで戦争も多く行われたため、重装歩兵として平民たちの発言力も増していった。この背景にはアテナイの商業の振興があり、商いで蓄財した平民たちが武具を買い、競って戦争に参加したことがあげられる。このため、時代を下るごとに貴族と平民の対立が大きくなっていった。
この対立の解決策として紀元前621年にドラコンによって成文法が成立。ドラコンの立法と呼ばれるこの出来事は貴族の恣意や贔屓が入りやすい慣習法から、法として明記される成文法主義への移行を意味し、平民であっても法廷で保護される画期的な方策であった。法を曲げることの罪を知らしめるため、徹底的な厳罰が定められていたことも特徴としてあげられる。
続いて、紀元前594年頃にはソロンによってさらなる改革が施された。成文法となったのは良いものの、土地(クレーロス)は貴族がほぼ独占しており、貨幣経済の浸透と共に生じた債務奴隷(借金を背負わせて平民を奴隷に貶めた)の問題も顕在化していた。そんな中、執政官(アルコン)に選出されたソロンは負債の帳消し、債務奴隷の禁止、財産ごとの権利義務の細分化と規定の制定(一定以上の財産をもつ平民の政治参加を容認)、民衆裁判所や400人評議会の設置という大幅な改革案を通し、平民と貴族の対立の融和を図った。特に財産政治については、共和制時代のローマも真似て採用するほど画期的な制度として知られる。
しかし、貴族からの反発は大きく、改革は十全とはならなかった。そんな中、剛腕で僭主(独裁者)となったペイシストラトスが紀元前546年にその地位を確立させ、そのはじまりこそ軍事力による強権的なものであったが、原則としては商工業者や貧農を助ける善政であったとされ、後にアリストテレスは君主制と対比して彼の政治を称賛してこの時代をアテナイの全盛期とたたえた程である。
紀元前527年にペイシストラトスが逝去すると、子のヒッピアスとその弟のヒッパルコスがその座を受け継いだが、紀元前514年に痴情のもつれから念友(早い話がホモの相手)のアリストゲイドンにヒッパルコスが暗殺されると、ヒッピアスが暴君化したため、紀元前510年にスパルタを味方につけたクレイステネスの策謀により追放される事になった。彼はその後の混乱を収拾し、地縁に基づく10部族制を基盤にした行政・評議機関である500人委員会を創り、僭主の出現を防ぐための方策として、陶片追放の制度(オストラシズム)を創設。これでアテナイの民主政は大幅に前進したと言われている。
ペルシア戦争とアテナイの興隆期
こうしてドラコンの立法から100年かかって政治体制を確立させたアテナイは、スパルタと並ぶ古代ギリシャ世界の有力都市国家となったわけだが、紀元前500年より、イオニア人の植民都市であったミレトスで、東方の大帝国・アケメネス朝ペルシャに対する反乱が発生し、それをアテナイが支援したことからペルシア戦争が勃発。危急存亡の秋を迎えたアテナイは、スパルタと共闘してこれに対処。
紀元前490年にはマラトンの戦いでアケメネス朝を破り、紀元前480年のサラミスの海戦では、アテナイそのものは占領されてアテナイ含めたポリス連合軍は海上に逃げ込むという危機を迎えるも、船ごと体当たりさせるというテミストクレスの奇策が通じてこれを徹底的に破り、ペルシャ王・クセルクセス2世に撤退を決意させた。残存兵を掃討した翌年のプラタイアの戦いでの大勝を含め、事実上アケメネス朝にギリシャ征服を断念させることに成功した。
そして、サラミスの海戦では三段櫂船の漕ぎ手として無産市民が大いに活躍したため、彼らの発言力が大幅に増加した。そんな中、テミストクレスの姪孫にあたるペリクレスは貴族派であった政敵のキモンを、紀元前462年にスパルタで発生したヘイロータイの反乱鎮圧支援の出征で不在の隙にアレオパゴス会議(評議会)における実権を掌握。しかもキモンはスパルタ側から裏切って反乱側につくのではないかという嫌疑をかけられて、戦が終わってないのにも関わらず(穏便な形ではあるが)追い出されるという屈辱的な失態を演じたため、ペリクレスはこれを盛んに喧伝して陶片追放にまでこぎつけることに成功した。
これをきっかけにしてペリクレスはアテナイの政権を掌握した傍らで、民主政治の完成に向けて役人の抽選制の徹底や、民衆裁判所の陪審員やアルコンの職業化(給料を支給)とほぼすべての公職の市民への解放を推し進め、彼らを仕事に専念させることによってアテナイ民主政の黄金期を現出した。原資はペルシャの来襲を念頭においたアテナイ主導のデロス同盟の資金と、この頃に採掘が本格化した、アテナイのドル箱ともいうべきラウレイオン銀山から産出される豊富な銀であった。彼は紀元前444年から逝去するまでの15年間に及び将軍職(ストラテゴス)に選出され、政治を行った。本当の政治のトップであるアルコンは1年任期の上に再任に制限があるため、将軍という形で発言力の根拠としたのである。
一方で、いくら資金に困らないとはいっても限界があるため、ペリクレスは紀元前451年に市民権法を制定し、両親ともアテナイの市民権を得ていなければ、その子をアテナイ市民とは認めないという法律を定めた。民会で承認されれば与えられるという、比較的緩かった市民権の範囲を限定することにより、無制限に給料を与えることを防いだのである。
ペロポネソス戦争と、アテナイの衰退
しかし、隣国であり、因縁のあるスパルタとは溝が深まり、紀元前431年より遂にスパルタ側の侵攻によりペロポネソス戦争が勃発。開戦当初ペリクレスはその巧みな弁舌を用いて市民を奮起させて籠城作戦という形でその指導にあたったが、わずか二年後の紀元前429年にアテナイに蔓延していたペストに倒れ、逝去する。
その後、ペロポネソス戦争で和平をはさみながら数十年にわたり戦い続けるも、交易の裏目というべきか、エジプトやシチリアから持ち込まれたペストが洒落にならないレベルで流行した。当代の歴史家・トゥキディデスによればアテナイの市民の3分の1が流行開始からほどなくして亡くなったと記している。ペルシャの支援を受けて海軍を増強したスパルタ相手にじわじわと劣勢に追い込まれ、起死回生を期して行ったシチリア遠征にも失敗。紀元前404年には全面降伏を認め、スパルタの膝下に屈することになる。
アテナイがペロポネソス戦争に敗れた背景にはペリクレス死後の政治状況も関係しているとされ、三十人僭主とも呼ばれる事実上の寡頭制の政治や、デマゴーゴスの台頭とそれによる無責任な政治が敗北を招いたといわれている。ちなみに、ペロポネソス戦争終結からしばらく経過した紀元前399年にソクラテスが国法に反したとして処刑されており、『ソクラテスの弁明』にもその旨が記述されている(しかし当のソクラテス裁判については従前のイメージと異なり、ソクラテス側からも死刑となるだけの相応の事情があって判決をくだされたとする見方もある)。
以後、アテナイは一時的に勢いを取り返すことに成功したりするも、もはや主軸はスパルタやテーベなどに移っていき、時代を下るごとにかつての繁栄は過去のものとなっていった。そして、紀元前350年頃より北方のフィリッポス2世率いるマケドニア王国の侵攻が頻発すると、マケドニアへの徹底抗戦を主張するデモステネスと、マケドニアと協力して東方のアケメネス朝に抵抗するべきだとするイソクラテスの間で国論が割れ、最終的にはデモステネスの主戦論が勝利するも。紀元前338年のカイロネイアの戦いで大敗を喫し、コリントス同盟の一員という体裁ながらも、事実上その従属下に屈することになる(なおデモステネスは立場を悪くして亡命した模様)。これを以てアテナイの(独立)都市国家としての歴史は終焉する。
年表
高校の世界史で出てきそうなところを中心にピックアックして作成。
西暦 | 出来事 |
BC10世紀頃 | イオニア人によるシノイキスモス(集住)で、アテナイが形成される |
BC621年 | ドラコンにより、初の成文法が制定される |
BC594年 | ソロンによる改革で、債務奴隷の禁止や、貴族政治から財産政治への転換が行われる |
BC546年 | 僭主・ペイシストラトスの権威が確立し、事実上の独裁制がはじまる |
BC510年 | クレイステネスにより、僭主の子ヒッピアスが追放される。僭主政の終わり |
BC492年 | アケメネス朝ペルシャとの戦争がはじまる(ペルシア戦争) |
BC490年 | マラトンの戦いで、アテナイ・プラタイアの連合軍がアケメネス朝を破る。 |
BC483年 | アッティカ半島南部のラウレイオン近郊のマロネイアで大規模な銀山が発見。テミストクレスの発案によって、軍船200隻の建造費に充当される。 |
BC480年 | サラミスの海戦で、テミストクレスが指揮するアテナイの海軍がアケメネス朝に大勝。無産市民たちの影響力も強まる。 |
BC479年 | プラタイアの戦いでアケメネス朝の残存兵を掃討。ペルシャ側についたテーベを略奪する。 |
BC478年 | アケメネス朝の再度の侵攻に備え、アテナイが盟主となってデロス同盟が組織される。 |
BC462年 | テミストクレスの姪孫・ペリクレスが政敵のキモンを追放し、実権を掌握する。 |
BC444年 | ペリクレスが将軍(ストラテゴス)に就任。以後15年にわたってアテナイの政治を主導し、アテナイ民主政の黄金期を築く。 |
BC432年 | ペリクレスの提言で、総監督フェイディアスの下、再建が進められていたパルテノン神殿が完成する。 |
BC431年 | スパルタとの対立が深刻化し、ペロポネソス戦争が勃発する。 |
BC430年 | アテナイにおいてペストが爆発的に流行。市民の3分の1が瞬く間に病死する。戦争を主導していたペリクレスも翌年に罹患し、ほどなく逝去した。 |
BC404年 | スパルタがアテナイの海軍を撃破し、アテナイを包囲。アテナイが降伏する形でペロポネソス戦争が終結する。これによりアテナイの盛期は完全に終焉する。 |
BC395年 | 新たに覇権を掌握したスパルタへの復讐を果たすべく、テーベやコリントスと同盟を組み、スパルタと再び戦う(コリントス戦争)。 |
BC386年 | アケメネス朝の仲介でコリントス戦争が終結。スパルタの覇権は崩れなかったが、独立は維持し、海上の覇権だけは一時的に回復する。 |
BC338年 | 北方より勢力を強めていたフィリッポス2世率いるマケドニアに対し、テーベと組んで戦うも、カイロネイアの戦いにおいて惨敗。翌年、マケドニア主導のコリントス同盟に組み入れられ、アテナイの独立したポリスとしての歴史はここに終わる。 |
社会と文化
まず、身分制度だが、上から市民→メイトイコイ(外国人)→奴隷の3つに大分された。スパルタと異なり、市民の間には貧富の差が存在し、その生活の差は歴然としていたが、民主政の進展とともに成人男性という限定はつくが政治に参与できるようになっていく。
奴隷たちは農業以外にも鉱夫や、職人、市中警備、家内雑事などで酷使され、土地をもたない中流家庭などでは奴隷一人をそういう労役に出して労賃をピンハネすることで生活していたという。
経済的に繁栄を極めたアテナイには自ずと人が多く集まり、最盛期には成人男性だけで3万人、女性や子どもを含めると8万人に達したという。その中では豊かな文化が形成され、頻繁に開かれる祭祀やペルシア戦争の顕彰などの為に演劇や歌劇が盛んに作られるようになった。アイスキュロスやソフォクレス、エウリピデスなどの高名な劇作家もその流れから輩出された。また、その自由な気風から議論も盛んに行われ、ソクラテス、プラトン、アリストテレスという倫理や世界史の教科書ではお馴染みのメンツもアテナイより輩出された。
建築については、この項目の先頭にもあげられてるペリクレスとその友人であり建築家のフェイディアスによって、アクロポリス(ポリスの中心にある小高い丘)に建てられたパルテノン神殿が一番著名な例だろう。アテナイの守護神であるアテナを主祭神とする神殿で、現在は英国の略奪によって白色になっているが、建設当初は極彩色で彩られていたことが知られている。神殿の内外には彫刻なども多数飾られており、アテナイの権威と壮麗さをこれでもかと示していた。
アテナイの経済とその盛衰
当初はろくな産物もない貧しい地域として古代ギリシャ世界では木っ端の存在でしかなかったアテナイだったが、ソロンによってその立場は大きく変化した。ソロンは工芸品の職人を呼び寄せるために市民権の条件を緩和し、その試みを成功させた。
続くペイシストラトスの時代では、ラウレイオン銀山の本格的な採掘に着手し、銀貨の鋳造を本格化させた。古代ギリシャでは豊富な銀山が他になかったため、アテナイの価値は爆発的に高まり、その経済的な地位を上昇させた。ペルシア戦争まっただなかの紀元前483年にもラウレイオンに近いマロネイアでも銀山がみつかり、海軍だけでなく、船の材料である木材や食料を調達し、国力を大幅に増強させた。
ペルシア戦争が終わり、デロス同盟の盟主となるとその豊富な資金と銀を背景に経済的支配を増し、特に銀の独占で、通貨発行権を握れたことは、貨幣経済が浸透しつつあったこの時代においては何者にも代えがたい価値を有した。
自前の農業などの地盤が脆弱なアテナイはこうして、銀と貿易のノウハウを背景にして、経済力という面で他者を圧倒することで古代ギリシャ世界の覇者に君臨した。しかし、これはペロポネソス戦争でスパルタと戦争になった際、クレーロス(市民が所収する土地、すなわち農地)への略奪や籠城戦をとったことによる食糧不足問題という形で大きな仇として跳ね返ることになり、ペストと並んで敗北への一因となった。戦争の長期化で銀山の鉱夫たちの逃亡が相次いだことも敗北とその後の衰退へとつながることになる。
登場する作品
- Assassin's Creed Odyssey ‐ スパルタと並ぶメインの都市国家として登場。緻密な時代考証に裏打ちされたアテナイの町並みは必見に値する。
- ヒストリエ ‐ 直接は登場しないが、主人公エウメネスが憧憬を抱いている都市として登場する
関連項目
- 1
- 0pt