アナト(Anat)とは、紀元前2000~1000年ごろに中東のカナンで信仰されていた女神で、世界最古のキモウトである。
概要
多神教ではしばしば、時代を越えて人々に愛されるやたら人気の高い神が見られることがある。日本神話でいえばアマテラスやスサノオがその一例といえよう。神聖なだけでなく、どことなく人間臭かったり、普遍的に民衆の共感を得やすいキャラクター性が付与されていることなどが、その人気の秘訣として挙げられる。
メソポタミアで信仰された大女神イシュタルもまた非常に人気の高い神だった。時代が下るにつれてメソポタミアと交易のあった周辺地域にも幅広く伝播し、それぞれの地でも高位の女神として崇拝されたが、当時の情報伝達はいわば伝言ゲームであったため、しだいにイシュタルはもともと備えていた属性が強調されたり、あるいは性質ごとに複数の女神に分割されたり、土着の神と融合されたりして、各地の風土風俗に沿って徐々に姿かたちを変容させていった。
カナン人の偉大な女神であるアナトも、こうしたイシュタルの“娘”たちの一柱である。その属性は、当然のように処女であり、イシュタルのもっていた戦神の血をもっとも色濃く受け継いだ、ひとことでいうなら、「お兄ちゃんのためなら笑顔で敵を皆殺しにする妹」という恐るべき女神だった。
前提となる設定
カナン人の神話で最高位に据えられていた神は天空神エルだった。神々のさらに父であり、最高権力者である。しかしエルは基本的に日がな一日、玉座にボケーッと座っているだけの半ニート。よって実権は息子である嵐の神バアルが握っていた。バアルはウガリット神話において「正義と王権を守る神」として、なにもしないエルに代わって海神ヤムや死神モートと勇壮に戦う、まさに主人公のような扱いで輝かしく描かれている。
女神アナトは、バアルの妹とも、妻ともとれる非常に近しい神として登場する。
アナトはなによりも兄バアルを一途に思い、甲斐甲斐しく寄り添うが、ひとたび戦闘となると兄すら凌駕する凶暴性と戦闘力を発揮。父エルをも震えさせるほどに血を好む残虐さを見せ、ことバアルの敵には容赦せず、身命を賭して兄を助け、あらゆる困難を克服する女神だった。アナトの形容詞として「少女」が用いられていることもあることから、武装した美しいうら若き乙女としてイメージされていたと推測される。
バアルのもうひとりの妻が、豊穣の女神アスタルテだ。少女アナトと豊満な女神アスタルテは赤の他人ではない。どちらも女神イシュタルを原型にもつのである。アナトはイシュタルの戦神の属性を、アスタルテは豊作を約束する地母神の属性をそれぞれ受継したわけだ。すなわち姉妹といってもいい。よって仲は良かったようで、エジプト神話では、アナトとアスタルテの二柱はファラオの戦車を護衛する神として崇拝されていた。
慈雨をもたらす嵐の神が、愛や豊穣の女神の助けを借りて、死の季節である冬を象徴する死神モート、氾濫する水の象徴である水神ヤムを打倒して秩序と恵みを取り戻す……。カナン神話には、豊穣息災への痛切な祈願がこめられていると考えることができる。
お兄ちゃんのためなら神をも殺す妹アナト
アナトの活躍を記した物語は大半が逸失してしまっているが(だいたいキリスト教のせい)、残された断片だけでもその強さの一端がうかがいしれる。バアルの使者が「あなたの兄上にすごい強敵が現れました(意訳)」と口上を述べたとき、アナトはこう聞き返している。
バアルに、あの「雲に乗るもの」に、いったいどんな敵が来たと?
わたしはエルが慈しむ神ヤムを殺したではないか。荒れ狂う大いなる神『川』を叩きのめしたではないか。
竜を打ち滅ぼしたではないか。七つ頭の這い回る蛇を破ったではないか。
わたしは神々のありがたがる神『欲望』を粉砕した。
エルの子牛『破壊』を討った。
神々のメス犬『火』を破り、エルの娘『ゼブブ』を殺した。
一例として、ヤムは、かつて神々の集会を脅かしたことのある、バアルの敵だった。父エルが主催する神々の集会は現代の国会であり、横暴なるヤムは使者をよこしてバアルを奴隷として引き渡せと要求してきた。使者はヤムの威光を笠に着て無礼な態度をとりつづけたが、なにしろ背後にいるのは川の化身である。強大な力に屈したエルと神々は腰砕けになって唯々諾々と受け入れてしまった。まだ実権がエルからバアルに委譲される前のことだった。バアルは逆上しその場で使者を殺そうとしたが、アナトとアステルテに引き止められている。アナトは兄に囁いた。「殺すのはこいつではない。ヤムです」
バアルはヤムに決闘を申し込んだ。技術神コシャルとハシスから魔法の棍棒(雷光という説も)を授かったバアルはヤムに辛勝。この一事をもって神々は「やっぱエルよりバアルだわ」としてバアルを実質的な最高権力者として迎え入れたのである。
大筋は変わらないまでも、おそらく地方によってはヤムとの一騎打ちではなく、アナトの助力も借りてバアルが勝利をおさめたとする異説も存在したのだろう。同様に、アナトが数々の恐るべき敵をことごとく誅戮せしめた神話も当時は多く語り継がれていたと考えられる。
敵の血で化粧をするアナト、でもやっぱりお兄ちゃんには…
アナトを語るうえで彼女の戦闘狂ぶりと流血への渇望を避けることはできない。ある神話には、人間の軍勢と戦ったアナトが戦士たちを一方的に虐殺する場面がある。足の踏み場もないほどの無数の死体から切り取った生首を背に負い、落とした手首を薪のように束ねて我が物としている(首級や手首は勝利のあかしだった)。膝まで血に浸かりながら、虫の息の戦士の頭を棍棒で砕き、逃げる者あらば笑いながらその背に矢を打ち込んだ。討ち漏らすなど彼女には考えられなかったのだ。
殺せる者がいなくなると彼女は宮殿に帰ったが、しかしまだ足りぬ。いちど点いた火は容易には消えなかった。アナトは宴と称して無関係の兵士たちを宮殿に招き、心ゆくまで殺戮の喜びに酔いしれた。テーブルからテーブルへと飛び移り、兵士らの首を斬り、槍で刺し、矢で射抜いた。滑らかな肌を返り血で染め抜き、肉片と血潮で彩られた宮殿を見渡した彼女は高らかに哄笑したという。ようやく満足したアナトは犠牲者たちの血で手を洗った。
妹のむやみな虐殺を好ましく思っていなかったバアルは、この血の饗宴の直後に「久方ぶりにこちらへ来ないか。もう益のない戦は終わらせ、地に愛と平和をもたらそう」と使者を遣わした。血と戦を好む凶暴な女神でありながら、兄にはぞっこんな処女でもあるアナトが、バアルの願いをはねつけられるわけもない。アナトは兄に、地上から戦をなくし愛を大地に広めようと誓った。ちなみに、兄との再会が待てなかったとみえ、アナトは帰還する使者を追い抜いてバアルのもとへ馳せ参じている。
バアルは多数の妻たちを用心深く隠した。アナトの眼に触れたら彼女たちは血の海に沈められかねない。到着したアナトにバアルは自身の希望を語った。
「自分はまだほかの神々のような宮殿を持たない。父エルに建ててくれるようそなたから頼んでくれないか」
兄に会えた喜びでいっぱいのアナトは自信満々で引き受けた。さっそくエルの宮殿へと向かう。
「娘よ、可愛い娘、いくとせぶりであろうか、もっとよく顔を見せておくれ」
久しぶりの娘の来訪にエルは破顔するが、直後にその笑みは凍りつく。
「わたくしの言うことを聞いてくれなければ、わたくしの拳があなたの頭を砕きます。あなたの白髪と白髭を血潮に染めて滅ぼしてくれましょう」
アナトはかりにも最高神である父を恫喝したのだ。兄バアル以外にはとりつく島さえないのである。
そういえばこんな奴だったと思い出したエルはすっかり脅えきってしまい、
「おお、わが娘よ! なにが望みだ。女神というものは自制を知らぬ。なにが欲しいのだ、処女アナトよ」
いまでいう「お願いします!なんでもしますから!」と全面降伏をみせた。こうしてバアルはりっぱな宮殿を造営できたのである。
宿命の対決。その名は“死”
技術神のコシャルとハシスに宮殿を建築してもらったバアルはまさに絶頂期にあった。そんな彼に最大の敵が立ちはだかる。モートだ。その名は「死」を意味する。モートは作物の育たない荒涼たる冬と旱魃期を象徴する神で、冥界の支配者でもある。豊穣期の支配神たるバアルとは対極に位置する敵であり、最悪の相手である。
「かつて数多の神を打ち倒してきたおまえだが、天は萎えて枯れ果てた。わたしはおまえを飲み干し、食べつくす」
モートの最後通牒にバアルは戦慄を隠せなかった。草も木も枯れる旱魃期にバアルの力は半減する。両者はついに対峙のときを迎えたが、死を司るモートにバアルはなすすべもなく倒され、冥界へと引きずり込まれてしまったのだった。
神々はバアルの死に嘆いたが、アナトの絶望はかれらの悲しみをすべて合わせたよりも深かった。彼女は泣き叫びながら己が全身をかきむしり(古代中近東における最大級の服喪表現)、啼泣の声はあらゆる山と森を駆け抜けた。涙が枯れるほどに泣いたのち、アナトは兄の遺骸を求め、太陽の女神シャマシュを引き連れて冥界へと下った。バアルの亡骸を背負って地上へ戻ったアナトはしかるべき場所に愛する兄を葬った。
神々はバアルに代わる主権者の選出にかかっていた。しかしアナトにバアルの代わりなどいない。ついには仇敵モートに戦いを挑む。
アナトの請願をモートは拒絶。ただでさえ血と殺戮の女神であるアナトが、兄の仇になぞ容赦するはずもなかった。バアルを下した強大なモートをアナトは大剣で一刀両断(モートが善戦した描写すらない)。ただ殺すだけではあきたらず、その遺骸を火で焼き、臼でひき、ふるいにかけ、野原に灰を撒いた。
モートは死んだ。「死」が死んだことで、生がよみがえる。旱魃が終わり、大地は活気と潤いを取り戻し、豊穣の神バアルも息を吹き返した。死を克服したバアルは自身の留守のあいだに主権をふるっていた偽りの主神を懲罰し、ふたたび王権の座に返り咲いた。そのそばにアナトがつきしたがっていたことは想像に難くない。
いまなお愛される「愛と生命の女神」
アナトは神話に登場するたび返り血を浴びている。「アクハト」という神話では、アクハト王子が譲り受けた、技術神コシャルとハシス謹製のすぐれた弓を欲しがったアナトが、いつものようにエルを脅して彼の殺害許可をとりつけ、実際殺してしまうなど、わりと自分勝手な側面もみせている。しかし側面は側面、それらの短気な性分はアナトという複雑な女神の一側面にすぎない。
アナトの戦いはそのほとんどが、兄バアルのためにおこなわれたものである。海神ヤム、死神モート、七つの頭をもつ邪竜レヴィアタン……これらはすべてバアルを脅かした敵であり、アナトはほかならぬ兄への愛で戦い、そして勝利するのである。
殺戮をことさら好むアナトはまた、愛と生命の女神とも謳われた。矛盾しているようにもみえるが、バアルと彼女の関係を考えてみていただきたい。一年を通じて常に作物が実ることはないし、ときには旱魃や洪水が大地を襲う。豊穣の神バアルはその性質ゆえに季節の移り変わりや天災に敗北することがあるのだ。そんなとき、バアルを救わんと立ち上がり、敵を倒し、彼を復活させるのがアナトの役割なのである。かくして収穫は約束され、民の命も救われる。こう考えれば、処女、つまり子供を産んだことのない彼女が生命の女神と尊ばれるのも理に適っていえよう。血のいけにえを欲する女神がより多くの命を育む豊穣の基礎となる。これは世界中の豊穣神に共通する特徴である。
最強とよべるほど強く、血気盛んだが、大好きなお兄ちゃんの前でだけはしおらしくなってしまう美しい妹(しかも処女)。現代日本ではヤンデレやキモウトと呼ばれるヒロインたちが一定の市民権を得ているが、大衆に愛されるキャラクターの本質は3000年以上もの昔から変わっていないことを証明しているという意味でも、彼女は研究価値が非常に高い女神であるといえる。
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