アニリンとは、
- 芳香族化合物の一つ、Aniline。示性式C6H5NH2、化学式C6H7N。形容しがたい変な臭いがする。
常温では無色透明の液体だが、放置すると酸化して黄色っぽくなる。褐色瓶に入れ遮光保存する。
人工色素や合成ゴム、医薬品の合成出発物質であり、使えなくなったらえらいことになる。
実業家パーキンはアニリンを使って世界初の、染料の工業的化学合成に成功している。
文字通り「世界を変えた化学物質」の一つである。 - 上記の化合物を名前の由来に持つ、1961年生まれのソビエト連邦の競走馬。こっちはAnilin(ドイツ語表記らしい)。
鹿毛の牡馬。冷戦期であったがアメリカやフランス、西ドイツに遠征している。
本項では2番の競走馬について説明を行う。
ソ連競馬?
18世紀末にサラブレッドが輸入されて以後、モスクワを中心に競馬が発展し、帝政廃止と共産化を経た後も競馬は庶民の娯楽として行われていたらしい。
現在はICSCの認定を受けていないので国際グレード競走は存在せず、また世界情勢もあってロシア国外からの殴り込みや有力馬の海外挑戦もほとんどなく、海外競馬ファンでもほとんど情報が流れてこない。2007年に何故かダノックスが2頭のロシア産馬を購入し走らせたことくらいしか話題がなかったが、近年ではカザフスタンからロシアに移籍し6戦5勝を挙げ、さらにUAEに鳴り物入りで移籍した経歴を持つカビールカーン(Kabirkhan)が有名。同馬は2024年のアルマクトゥームチャレンジを制し、ドバイワールドカップではウシュバテソーロらとも戦った。
サラブレッドによる平地・障害競走の他、トロッター競走も行われている。ウラル山脈以西の各地に競馬場があるが、特に大きいのは首都モスクワのЦентральный Московский ипподром(セントラルモスクワ競馬場、2025年まで改修休業中)、北カフカスのПятигорский ипподром(ピャチゴルスク競馬場)、そして馬産地に近いКраснодарский ипподром(クラスノダール競馬場)あたり。
現在のロシア競馬はアメリカ血統が流入し、ノーザン・ミスプロ・エーピーが主流。ちなみに引退後アメリカで種牡馬生活を送ったハットトリックの子供も輸入されており、どうやらСеребряный (Serebryany)という産駒がロシアで種牡馬入りして直系をつないでいるようだ。母父としても複数のロシアローカルG1を勝利しているМетрополь (Metoropol)などを輩出するなど、活躍しているようである。
血統
父Element、母Analogichnaya、母父Agregatという血統。ゲインズバラの5×4のクロスを持つ。
一見まったく分からない血統であるが、実は父も母も母父もソビエトクラシック勝ち馬という超良血。
父エレメントはフロリゼルを介したセントサイモン直系で、1955年のソビエトダービーなど25戦12勝。アニリンの他にも活躍馬を輩出した。
母アナロジクナヤもロシア産。1956年のソビエトオークス馬で、ソビエトダービーにも挑戦したがArgonavtの2着。チェコやルーマニアにも遠征して勝利を収めた。現在、ロシアの競馬場それぞれにダービーやオークスを冠するレースがあるのだが、少なくないオークスにアナロジクナヤ記念という副題が付いている。よほどの名牝だったのだろう。
母父アグレガットは11戦6勝。その中にはソビエト三冠の三冠目ソ連賞が含まれる。ハンガリー産で、ハンガリーはキンチェムで知られる帝制オーストリア時代から有名な馬産地。ただし本馬にはキンチェムの血は流れていない。
ちなみに、エレメントの母はMargaritkaと言うナチスドイツ生まれの馬で、ドイツ敗戦後ソ連にやってきたのだが、その母Macedonjaはポーランドからナチスドイツに連れ去られてきた馬だった。WW2のドサクサでポーランドでの血統背景が不明だった時期があり、アニリンは純血主義のサラブレッドとしては一時期かなり微妙な位置に立たされていたとか。
血統表には基本19世紀末~20世紀の馬が多いので見たことない馬が多いが、前述の通りゲインズバラのクロスを持つほか、5代血統表にはサンインローも見える。
誕生~2歳
1961年1月31日生まれ。シンザンやノーザンダンサー、レイズアネイティヴと同い年である。
クラスノダールの国営ヴァスホートスタッドで生を受ける。ちなみにここは民営化された現在もロシアの一大牧場でありつづけている。のちにソ連の…いやロシアの馬産史上でも最高の評価を欲しいままにすることになる仔馬は、しかし生まれたての頃は全くと言っていいほど期待されていなかった。足を引きずるほどの酷い跛行があったのである。
2023年天皇賞(春)のタイトルホルダーがそうだったように、跛行は競争中止の原因にもなりえ、もちろん仔馬の段階で重大な歩様異常なんか持っていたらサラブレッドとしては将来は絶望的である。厩務員たちは彼を鼻つまみ者として扱い、毒と悪臭を持つ化学物質にちなみアニリンと呼んでいたという。厩務員たちにとって彼の相手をするのは時間の無駄でしかなく、牧場の端っこの厩舎に追いやった。彼の将来はもはや決まったも同然だった──ある男が彼を見初めるまでは。
ニコライ・ナシボビッチ・ナシボフ。当時のスタージョッキーである。それまでにソビエトダービーを4勝など輝かしい成績を上げ、「ヤギに乗っても勝てる」とさえ言われた不世出の天才騎手だった。競馬ではなく彼を見るために競馬場に赴く者もいたという。
しかしそんな彼の幼少期は大変なものだった。ナシボフの父はアゼルバイジャンの大地主で、裕福な家庭に育った。しかし、時は1920年代。裕福な地主ということは、プロレタリアートの敵ということである。父はボリシェヴィキによって銃殺され、母も直後に亡くなり、ナシボフはわずか5歳にしてストリートチルドレンとなる。その後病にかかって倒れてしまった彼が目を覚ますとそこは遺体安置所だった。ここで息子を探していた女性に引き取られてなんとかホームレスを脱却した彼だったが、この時の経験は彼の性格に大きく影響したという。大祖国戦争中、ある牧場で厩務員として働くようになった彼は、優秀な仕事ぶりを認められ、15歳で騎手としてのキャリアを始めたのだった。
そんな訳で暗い幼少期を送ったナシボフに、アニリンはどう映ったのだろうか。彼はアニリンの素質を見抜くと最高クラスの調教施設へ連れていき、こう宣言した。
「理由は説明できないが、こいつは地球上で最高の馬の1頭になるだろう」
ナシボフ自らが直々に調教師として管理したアニリンは、みるみるうちに跛行を克服し、ナシボフを背にデビューから3戦3勝で2歳馬の頂上決戦、M.I.カリーニン記念を制覇した。
…これら幼少期のエピソードは21世紀になって作られた回顧記事やドキュメンタリーフィルムに基づいたものだが、お察しかもしれないがものすごい誇張臭がする。半分ぐらいは盛られているだろう。
ただ確かなのは、アニリンとナシボフがとても相性のいいコンビだったことである。その後アニリンはソ連代表として東ドイツとハンガリーで東欧の2歳馬たちと戦うのだが、2戦して3着と6着に惨敗する。これでシーズンを終え、2歳時は5戦3勝。この2敗、6着の方に至ってはシンガリ負けなのだが、敗因は明らか。ナシボフが政治的な事情で出国できずアニリンに跨れなかったのだ。これ以降全てのレースでナシボフが跨ることになる。
3歳、敵国遠征
明けて1964年、アニリンは3歳。ナシボフが跨ったアニリンに敵はなく、4戦4勝でバリショイ・フセサユツニー賞、つまりソビエトダービーを快勝、父エレメントとの父子2代制覇を達成する。その後再び東ドイツ遠征を行い東欧の実力馬たちと相まみえる。今度はナシボフが騎乗出来たためか、東ドイツ最大のレースである社会主義国家大賞を含む3戦3勝を挙げる。ここまでシーズン7戦全勝。東側諸国に敵はもはやいない彼に、西側諸国の親玉、冷戦真っ只中のアメリカから招待状が届く。ワシントンDCインターナショナルの招待状である。まだ競馬後進国の日本を含め世界中の有力馬に招待状を送っていたアメリカは、東側陣営の最強馬にも目をつけたのだった。
確かにアニリンは東側陣営では敵なしの最強馬ではある。しかし競馬の本場は西側諸国であり、そのレベル差は小さくないだろう。しかしながら、競馬はもともと貴族のすることで、ブルジョアジーの高尚な趣味として始まったものだ。
もし、建国から半世紀もない、労働者の国家で生まれた馬が、ブルジョア階級の所有馬達と対等に渡り合えたとしたら?
それが意味するのは、ソビエトの成長の早さ、共産主義文明の優秀さである。そしてアニリンには、それを証明するだけの実力がある。ソ連政府は、アニリンとナシボフにアメリカ行きのゴーサインを出したのだった。
多大な政治性を帯びはしたが、それでも初の西側諸国遠征。しかも相手は強敵ばかりだった。アメリカ代表はここまで4年連続でアメリカ年度代表馬に輝く最強馬KelsoとそのライバルでウッドワードSではKelsoを破って勝利したGun Bow。招待を受けたのはアニリンのほかに本年のフランスオークス馬Belle Sicambre、アイリッシュセントレジャー馬Biscayne、日本からも1963年に天皇賞(秋)と有馬記念を制したリユウフオーレルなど合わせて8頭の集う戦いとなった。レースは逃げるGun BowをKelsoとアニリンが追走する形になったが、Kelsoの加速について行けず、Gun BowとKelsoの一騎打ちを後方で見守るだけに終わった。KelsoがGun Bowに4馬身半差をつけて全米レコードを叩き出して完勝したが、アニリンはその後方で3着を確保し、外国勢の中では再先着を果たす。これが3歳シーズンの最終レースで、3歳時の成績は8戦7勝となった。
4歳、三冠達成と世界最高レース
1965年になり4歳を迎えてもアニリンは衰えず、当たり前のように3戦3勝。この3戦目がソビエト社会主義共和国賞で、ソビエト版セントレジャーにあたる。これでソビエト三冠を達成した。
ソビエト三冠の中身は、M.I.カリーニン記念・バリショイ・フセサユツニー賞・ソビエト社会主義共和国賞であり、2歳で2000ギニー、3歳でダービー、4歳でセントレジャーという長期の挑戦となる。
アメリカ三冠のように短期で連続するのも厳しいが、2歳から3年間世代トップであり続けなければならないソビエト三冠も達成が非常に難しく、1930年達成のБудынок(Budynok)、1949年達成のГрогⅡ(Grog)、そして1965年達成のАнилин(Anilin)の3頭だけしか三冠を達成していない。
ソ連崩壊後もレース体系は存続しているようであるが、M.I.カリーニン記念・バリショイ・フセサユツニー賞・ソビエト社会主義共和国賞の後継レース、バリショイ賞・バリショイ・フセラシースキー賞・ロシア農相賞をすべて制した馬はいない。近年では、2011年生まれのЮбилeй(Yubiley)という馬がバリショイ賞とバリショイ・フセラシースキー賞を制したが2015年のロシア農相賞は11着に大敗している。他に、2012年生まれのクラスノダール二冠馬Пeрсeй Барс (Persey Bars)が2016年にロシア農相賞を勝利。変則的な三冠に思えるが、クラスノダール競馬場はアニリン以来51年ぶりの三冠馬だとしている。
話をアニリンに戻すが、やはり東側に敵がいないことを悟った陣営は西側への遠征を敢行、世界最高の競走、凱旋門賞に次走を定める。この年から100万フランにまで賞金が増額した凱旋門賞は、英ダービーで他馬を「まるで乗馬クラブの去勢馬のようにあしらった」と言われるほどの大楽勝で制し、前走サンクルー大賞も古馬相手に楽勝した怪物シーバード、英ダービーではシ-バードの2着に敗れるも愛ダービーやキングジョージを勝ったメドウコート、フランスダービー、パリ大賞、ロワイヤルオーク賞を無敗で勝ったリライアンス、凱旋門賞連覇のリボー産駒で4連勝中のプリークネスステークス馬トムロルフなど、前年のワシントンDCインターナショナルの比ではないハイレベルな勝負であったが、アニリンは健闘。一時先頭に立つもシーバードに並ばれ、5着に終わった。しかしその後ケルンのオイロパ賞に出走し、ここを快勝。遂に西側での初勝利を挙げ、5戦4勝でシーズンを終える。
5歳以降
5歳となった1966年も現役続行。ソビエト社会主義共和国賞を連覇したり、2年ぶりの出走となった社会主義国家大賞も優勝した後、三年連続の西側遠征に赴き、オイロパ賞を連覇。このオイロパ賞は無音ながら鮮明な映像が残っており、最後の直線でサルヴォ(翌年のバーデン大賞勝ち馬)の猛追を交わして勝利している。 サルヴォから5馬身差の3着に入ったのは、自身が参加した昨年の凱旋門賞で3着だったダイアトムが次走のワシントンDCインターナショナルで鼻差2着に下したカルヴァン。 これを受けてか2年ぶりにワシントンDCインターナショナルに挑み、仏国調教馬ベイストウンに直線で交わされ惜しくも2着に敗れた。5歳時の成績は6戦5勝だった。
6歳でも走り、再び凱旋門賞に参戦したが、この時は人気薄トピオの11着と惨敗した。サルヴォが二着に入っている。この時点で引退の予定だったが、ナシボフ騎手たっての希望で3連覇のかかるオイロパ賞に臨む。この年のサンクルー大賞を勝っていたタネブらを切り捨てて3連覇を達成。この年4戦3勝の成績を残して引退した。
戦績は28戦22勝、2着1回、3着2回。ロシア語の記述では27戦21勝とも。
6つの敗戦は2歳の遠征時の2敗、ワシントンDCインターナショナル2回、凱旋門賞2回。つまりソ連国内では無敗を貫き、その中にはソビエト三冠が含まれている。
映像に残るレースはわずかだが、逃げ~先行で直線も粘るというのが得意だったようである。太く大きい流星を持ち、白黒の中継映像の中でよく目立つ。
1968年から種牡馬入りし、1975年に14歳で死去。その後、1975・76・78年と3回のソ連リーディングサイアーを獲得している。1976年にGazomiotで、1979年にEtenでソビエトダービー父子3代制覇を成し遂げた。牝系は残っているが、父系もアメリカ勢に押されて風前の灯火ながら存続している。貴重なセントサイモン直系だが、残ってくれるだろうか。ロシアは現在では化石ともいえる血統が残っており、先述のПeрсeй Барс (Persey Bars)もリボー系、つまりセントサイモン直系である。
現在は3歳限定重賞アニリンステークスに名を残すほか、相棒のナシボフ騎手もN.N.ナシボフ記念というレースに名前が見られる。また、ロシアの馬用飼料メーカーに、アニリンから名をとったものがある。
血統表
Element 1952 鹿毛 |
Etalon Or 1936 栗毛 |
Massine | Consols |
Mauri | |||
La Savoyarde | Filibert de Savoie | ||
La Balladeuse | |||
Margaritka 1944 鹿毛 |
Gainslaw | Winalot | |
Margaret Burr | |||
Macedonja | Mah Jong | ||
Cylicja | |||
Analogichnaya 1953 栗毛 FNo.27-a |
Agregat 1943 鹿毛 |
Artist's Proof | Gainsborough |
Clear Evidence | |||
Abeba | Balbinus | ||
Az a Hired | |||
Giurza 1938 栗毛 |
Zator | Tagor | |
Ziya | |||
Gagara | Getman Ney | ||
Gortenziya | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Gainsborough 5×4(9.38%)
関連動画
この動画の44秒あたりで、「The Russian Derby winner, Anilin」と聞こえる。
YouTubeにもレース映像が複数残っている。
ワシントンDC国際→ 1964年(3着) 1966年(2着)
オイロパ賞→ 1965年 1966年
1967年
また、引退後の1968年に製作されたフィルム
でも、引退後の様子とレース映像(1965年オイロパ賞)が残る。
関連商品
適当に色付いたもの買ってみよう。大体アニリン由来の色素・染料です。
アニリン使いたい方は是非大学の化学科や研究機関へ。毒劇物だから取扱注意。
馬の方のアニリンを見たい方はクラスノダールへどうぞ。ヴァスホートスタッドには像と墓が残っている。
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