アバ・ラーナー(Abba Lerner 1903年~1982年)とは、ロシア帝国に生まれてイギリスやアメリカ合衆国で活動した経済学者である。
アバ(Abba)はアブラハム(Abraham)の略称。
概要
業績
ケインズ経済学や現代貨幣理論(MMT)が理論的な柱としている機能的財政論の提唱者として知られている。
マーシャル・ラーナー条件を提唱した。通貨安になった場合、どのような条件になれば、その国の貿易収支が改善されるか考察し、条件式を与えた。アルフレッド・マーシャルの理論をアバ・ラーナーが拡張した。
経済計算論争(社会主義経済の可能性についての論争)に参加し、フリードリヒ・ハイエクと対立するオスカル・ランゲに同調し、社会主義経済の可能性を肯定する側に回った。
ラーナー指数(ラーナーの独占度 Lerner's index)を提唱した。企業がどれだけ独占的に行動しているかを示す指標で、0から1の間の値をとり、この値が大きいほど、独占的であるとされる。
ラーナー効果を提唱した。国債などの公債を発行して売却し、それを国民が購入して保有した場合、国民所得が増大して消費が増える、と説く。
ラーナーの対称性定理(Lerner symmetry theorem)を提唱した。貿易収支が均衡しているとき、輸入品にかける関税の効果は、輸出品にかける輸出税の効果と等しい、と論ずる。
著作
『統制の経済学:厚生経済学原理』(The Economics of Control: Principles of Welfare Economics)という本を1944年に書き上げた。これがアバ・ラーナーの代表作とされる。
私生活など
残された写真を見ても想像が付くように、風貌を整えるということが上手でなくて学者仲間の中で政治的に出世していくというのが苦手だった、と伝えられている。
27歳でアリス・センダック(Alice Sendak)と結婚し、マリオン(Marion)とライオネル(Lionel)という子どもを得た。アリスとはのちに離婚して、57歳の頃、ダリア・ゴールドファーブ(Daliah Goldfarb)と再婚している。
略歴
1903年10月28日に、当時ロシア帝国に属していたベッサラビアで生まれた。
ベッサラビアは、ロシア帝国とその隣国が争っていた係争地である(場所)。1812年に露土戦争で勝利したロシア帝国がオスマン帝国から奪い取る形で併合し、1918年にロシア革命のどさくさに紛れてルーマニアが奪い返し、1940年にソ連が併合し、1941年にルーマニアが奪還し、1944年にまたソ連領になる、という波乱の歴史を持っている。2020年現在のベッサラビアは、ほとんどがモルドバ共和国になっており、一部がウクライナ共和国の領土になっている。
1905年にロシア帝国は日露戦争に敗北した。その翌年の1906年に、ラーナー一家はロシア帝国から出て、イギリスの首都ロンドンへ移住している。ラーナー一家はユダヤ人なのだが、ベッサラビアの中心都市であるキシナウにおいて1903年4月6日に50人ほどが犠牲となったユダヤ人虐殺(ポグロム)が発生しており、身の危険を感じたのだろう。
流れ着いたのは、ロンドンで最も貧しい地帯であるイーストエンド・オブ・ロンドンだった。11歳となる1914年に第一次世界大戦が勃発している。第一次世界大戦が終わった1918年の翌年ごろ、つまり16歳頃から働き始め、機械工やヘブライ語学校の教師をするようになった。ちなみに、ヘブライ語というのはユダヤ人の言語である。
1929年、26歳の頃に、経済学の名門大学として名高いロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に入学した。そのときはフリードリヒ・ハイエクの教えを受けた。
1935年から、つまり32歳の頃から、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で教え始め、それと同時にケンブリッジ大学でも教えるようになる。ケンブリッジ大学で20歳年上のジョン・メイナード・ケインズと出会い、その影響を受けてケインズ経済学に傾倒するようになった。
1937年、つまり34歳の時に、アメリカ合衆国へ移住した。アメリカ合衆国に移住してからは、様々な土地を渡り歩いて色んな大学で教鞭を執った。
1950年代には、ユダヤ人の国家であるイスラエルの経済顧問を務めた。
1982年10月27日に、フロリダ州タラハシにおいて、78歳で他界した。
関連リンク
Wikipedia記事(日本語版)
Wikipedia記事(英語版)
その他
関連項目
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