アラン・プロスト(Alain Prost)とは、元F1ドライバーである。プロフェッサーの異名を持つ。
概要
1955年2月24日フランス ロワール県ロレットにて生まれる。
1979年はヨーロッパF3選手権、フランスF3選手権に出場、両方ともチャンピオンになり、F1へステップアップする。
F1
1982年 ドイツGPで視界の悪い中ディディエ・ピローニと衝突、ピローニは両足複雑骨折の重傷を負いF1を去る、この事が原因でプロストは雨のレースがトラウマとなる。
1984年 マクラーレンへ移籍、チームメイトのニキ・ラウダと互角の争いをするが2位に終わる。
1985年 2位以下を20ポイント引き離し初のワールドチャンピオンとなる。
1986年 ウィリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルとネルソン・ピケとチャンピオン争いをする、最終戦オーストラリアGPではマンセルを4位以下で優勝しないと厳しい状態だったがマンセルがタイヤをバースト、ピケはピットイン中にプロストは逃げ切りそのままチェッカー、2度目のワールドチャンピオンになる。
1988年 マクラーレンはホンダエンジンを手に入れる、チームメイトのアイルトン・セナと2人で16戦15勝と勝ち続けお互いにいい勝負をする、この年は2人とも仲が良かったらしい。
1989年 第2戦サンマリノGPはゲルハルト・ベルガーが炎上事故を起こし再スタートとなったが「スタート直後の最初のコーナー抜けるまでは勝負しない」という紳士協定がセナとの間で結ばれてたが、再スタート後セナが抜いてしまったため2人の間に亀裂が入る、セナ曰く「1回目のスタートのみ」だったとか、プロストはぶち切れて記者会見をボイコットして帰ってしまう、その後も勝手にマクラーレン離脱やフェラーリ入りを発表したりエンジンも「セナのと同じエンジンじゃねーだろ」とクレーム入れたりチームとホンダとも険悪になる、日本GPではシケインで衝突、プロストはリタイアするがセナはそのまま走りチェッカーを受けるがシケイン不通過で失格になる、最終戦は2人ともノーポイントに終わりポイントで上回ったプロストが3度目のワールドチャンピオンになる。
1990年 フェラーリに移籍、この年もセナとほぼ互角の争いになる、9ポイントセナに離された状態で第15戦日本GP、第1コーナーでセナと接触リタイアとなる、これでプロストはチャンピオンを逃すことに、因みにチームメイトのマンセルとは最初は仲良かったがチームはプロスト主導に映ったためマンセルと険悪になりマンセルはウィリアムズへ戻る事に。
1991年 マシン製作に失敗、マクラーレンはおろかウィリアムズにも離され優勝から離れて行く事に、第15戦日本GPの後に「まるでトラックだ」と発言、最終戦を待たず1勝も出来ずフェラーリを解雇されてしまう。
1992年 どこにも所属せずフランスのTV解説者になる、水面下でウィリアムズと接触してシートを得る、マンセルはぶち切れてインディカーへ移籍する事になる。
1993年 ウィリアムズのドライバーになる、前半は苦手の雨に足元を掬われ、アクティブサスペンションに慣れなかった事もあるが中盤から盛り返していき4度目のワールドチャンピオンになる、チームメイトのデイモン・ヒルに後を託しこの年限りで引退する。
1980年から1991年と1993年の13年間、出走回数202回、優勝51回、PP33回、FL41回の成績を残す。
その後は1997年にリジェを買収して「プロスト・グランプリ」とチーム名を変えオーナーになるが中野信治を冷遇飼い殺しするわジョン・バーナードという過去のデザイナーを雇っては開発費たくさん使って失敗に終わるわジャン・アレジにはマネー未払いで険悪になるわチームの不振をプジョーに擦りつけるわスポンサーも離れるわスタッフ、ドライバー何度も入れ替えるわで最終的には破産宣告して解散してしまう、ドライバーとしては一流だがオーナーとしては三流だった。
現在はフォーミュラEに参戦するDAMSに共同オーナーとして、参戦してる息子のニコラ・プロストを支援している。
ドライバーとして
アグレッシブでもなくタイヤを痛めないよう無茶な走りとかせずうまくセッティングしたり、ピット回数減らして有利な状況に持ち込んだ走りを信条とする、背が小さい事もあってかコクピットも窮屈なく乗りこなせたのも大きいと思う、前述の通りピローニの事故の事もあってか雨のレースが苦手で豪雨の時は自らピットに戻ってリタイアしたり中止にしろと他のドライバーに駆け寄ったりする事もある。
関連動画
セナと最後の会話
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関連項目
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