アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック
(Alfred Joseph Hitchcock、1899年8月13日~1980年4月29日)
イギリスの映画監督で、後にアメリカでも活躍。
『サスペンス映画の神様』と呼ばれた、20世紀を代表する映画監督である。
2001年にAFIが作成した『スリルを感じる映画ベスト100』では、9本の作品が選出され、見事トップとなっている。ちなみに1位に選ばれたのは、彼の代表作『サイコ』であった。
作品の特徴としては「ドラマチックなシチュエーション」が、現実ではありえないほど連続で起こる点が挙げられる。
例を挙げると『北北西に進路を取れ』では主人公が車ごと崖から落とされそうになったり、飛行機に襲われたりする。また『海外特派員』では偽警官、偽探偵に命を狙われたり、風車でのスリリングな潜入シーンなど。
このありえない偶然の連続が強烈な緊張感を生み、往々にして見られる「辻褄が合わない点」への疑問を観客に抱かせず、映画に没頭させている。
まさにこの名文句通りの作風であった。
ヒッチコックの巧みな映画技法はマーティン・スコセッシ、ウェス・アンダーソン、デヴィット・フィンチャー、スティーヴン・スピルバーグなど多くの映画監督に影響を与えている。
経歴
1899年8月13日、ロンドンのレイトンストーンに生を享ける。実家は鶏肉店兼果物の卸売商で、三人兄弟の真ん中だった。
幼少時のアルフレッドにまつわる逸話としては「やんちゃが過ぎた為に父親に連れられ、馴染みの警官の手で留置場に入れられ、その恐怖体験がサスペンスに傾倒するきっかけとなった」という話が本人の口から語られている。ただしこれは、サスペンス映画の名手である自分の生い立ちを脚色した可能性が高い。
14歳の時に父が死去。ケーブル会社の技師として働きながらロンドン大学美術学科で絵の勉強をしたアルフレッドは、広告宣伝部を介して映画の世界に入る事となる。
映画のタイトル・字幕デザインを重ねて実績を積み、脚本・助監督を経験。そして1925年、『快楽の園』の監督としてデビュー。3作目の『下宿人』は初のサスペンス映画で、興行・評価ともに高く、大成功を収めた。次々と作品を発表する中、アシスタントディレクターを務めていたアルマ・レヴィルと結婚する。
折しも時代はサイレントからトーキーへと移行が始まり、新たなるエンターテインメントは爆発的に需要が高まっていた。
1938年には『バルカン超特急』を発表。特急列車という閉鎖空間におけるスパイ騒動を絶妙のテンポで描き出した本作をもって、ヒッチコックの名は一気に高まった。
長らくイギリスで活動していたヒッチコックだったが、やがて映画の都・ハリウッドに活動の場を移す。1940年の『レベッカ』を皮切りに、コメディ色の強い作品からフィルム・ノワール風まで、多様な作品を世に送り出す。しかし40年代後半から低迷、スランプに陥ってしまった。
そんな彼をスランプから救ったのは、後にモナコ王妃となった大女優、グレース・ケリーをヒロインに起用した『ダイヤルMを廻せ!』であった。その後もヒッチコックと彼女は『裏窓』『泥棒成金』でもタッグを組み、いずれも大ヒットを記録。
勢いに乗った彼は『知りすぎていた男』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』と、現在彼の作品群の中でも最も知名度の高い、まさに映画史に残る名作を連発。黄金期を迎えることとなった。なおこの頃アメリカの市民権を獲得している。
1955年には、アメリカのテレビ局で、自身がプロデュースした短編サスペンスを毎週放送する『ヒッチコック劇場』がスタート。
映画評論家・淀川長治のように、自ら解説として出演していた。また、一部作品は彼が監督も務めた。これもアメリカで人気を集め、1965年まで放送された。日本語の吹替は熊倉一雄が担当し、のんびりとした語り口調で馴染みが深いファンも多い。
しかし1964年の『マーニー』以後はやや精彩を欠き、制作ペースが落ちる。映画産業の低迷も拍車をかけた事も一因に挙げられているが、加えて1963年に『007 ドクター・ノオ』が公開、この新たなスパイ映画の登場でヒッチコック映画のスパイ映画は古いと観客が感じ始めてしまったのも原因の一つだった。
しかし1972年の『フレンジー』では女性を絞殺する連続殺人犯をスリリングに描き出し、ヒッチコックの復活を内外にアピールする結果となった。
だが依然高かった制作意欲に反して、70代も後半を迎えた彼の体からは最早その意欲に耐える体力は失われていた。1976年に『ファミリー・プロット』を撮影し、これが遺作となる。
実はヒッチコックは次に『ショートナイト』というスパイスリラーの映画を撮影しようとしていた。脚本、絵コンテ、キャスティングも決まり、スタジオにも大掛かりなセットを作り上げ、あとは撮影を始めるだけだったのだが、高齢で病を抱えた体に限界を感じたヒッチコックは自らユニバーサルにこれ以上映画作りをすることが出来ないと伝え、『ショートナイト』は幻の作品となった。
1980年にエリザベス2世よりナイトの叙勲を受けるが、その4か月後に腎不全を起こし、アメリカ・ロサンゼルスで亡くなった。享年80歳。
主な監督作品
イギリス時代
公開年 | 邦題 | 原題 | 備考 |
1925 | 快楽の園 | THE PLEASURE GARDEN | デビュー作 |
1926 |
山鷲 | THE MOUNTAIN EAGLE | 現存しているのは僅かな写真のみ |
下宿人 | THE LODGER | ヒッチコック初のサスペンス映画 | |
1927 |
下り坂 | DOWNHILL | |
ふしだらな女 | EASY VIRTUE | ||
リング | THE RING | ||
1928 |
農夫の妻 | THE FARMER'S WIFE | |
シャンペン | CHAMPAGNE | ||
1929 |
マンクスマン | THE MANXMAN | |
恐喝 | BLACKMAIL | 初トーキー作品 | |
1930 |
エルストリー・コーリング | ELSTREE CALLING | |
ジュノーと孔雀 | JUNO AND THE PAYCOCK | ||
殺人! | MURDER! | ドイツ語版有 『MARY』 | |
1931 | いかさま勝負 | THE SKIN GAME | |
1932 |
金あり怪事件あり | RICH AND STRANGE | |
第十七番 | NUMBER SEVENTEEN | ||
1933 | ウィーンからのワルツ | STRAUSS' GREAT WALTZ | |
1934 | 暗殺者の家 | THE MAN KNEW TOO MUCH | |
1935 | 三十九夜 | THE THIRTY-NINE STEPS | 英国映画トップ100:4位 |
1936 |
間諜最後の日 | THE SECRET AGENT | |
サボタージュ | SABOTAGE | ||
1937 | 第3逃亡者 | YOUNG AND INNOCENT | |
1938 | バルカン超特急 | THE LADY VANISHES | |
1939 | 巌窟の野獣 | JAMAICA INN |
アメリカ時代
公開年 | 邦題 | 原題 | 備考 |
1940 |
レベッカ | REBECCA | アカデミー作品賞 受賞 |
海外特派員 | FOREIGN CORRESPONDENT | ||
1941 |
スミス夫妻 | MR. AND MRS. SMITH | |
断崖 | SUSPICION | ||
1942 | 逃走迷路 | SABOTEUR | |
1943 |
疑惑の影 | SHADOW OF DOUBT | |
救命艇 | LIFFBOAT | ||
1944 |
ボン・ヴォアヤージュ | BON VOYAGE | プロパガンダ映画 |
マダガスカルの冒険 | AVENTURE MALGACHE | 同上 お蔵入り? | |
1945 | 白い恐怖 | SPELLBOUND | |
1946 | 汚名 | NOTORIOUS | |
1947 | パラダイン夫人の恋 | THE PARADINE CASE | |
1948 | ロープ | ROPE | |
1949 | 山羊座のもとに | UNDER CAPRICORN | |
1950 | 舞台恐怖症 | STAGE FRIGHT | |
1951 | 見知らぬ乗客 | STRANGERS ON A TRAIN | |
1952 | 私は告白する | I CONFESS | |
1954 |
ダイヤルMを廻せ! | DIAL M FOR MURDER | |
裏窓 | REAR WINDOW | ||
1955 | 泥棒成金 | TO CATCH A THIEF | |
1956 |
ハリーの災難 | THE TROUBLE WITH HARRY | |
知りすぎていた男 | THE MAN WHO KNEW TOO MUCH | 『暗殺者の家』のリメイク | |
1957 | 間違えられた男 | THE WRONG MAN | |
1958 | めまい | VERTIGO | |
1959 | 北北西に進路を取れ | NORTH BY NORTHWEST | |
1960 | サイコ | PSYCHO | |
1963 | 鳥 | THE BIRDS | |
1964 | マーニー | MARNIE | |
1966 | 引き裂かれたカーテン | TORN CURTAIN | |
1969 | トパーズ | TOPAZ | |
1971 | フレンジー | FRENZY | |
1976 | ファミリープロット | FAMILY PLOT |
イギリス時代では『下宿人』『暗殺者の家』『三十九夜』『バルカン超特急』、アメリカ時代では『裏窓』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』といった、映画通なら誰もが知っているであろう名作を数多く手がけている。
特に『北北西に進路を取れ』『めまい』『サイコ』は映画史上に残る傑作として、オールタイムベストランキングの常連である。
もちろんその作品のほとんどはサスペンスで、悪夢のような出来事が主人公に降りかかるものばかりであり、これだけ恐怖を描き続けた映画監督はヒッチコックぐらいである。
観客をすさまじい緊張感と恐怖の底へ叩き込む、巧みな演出手腕が最大の特徴であった。そのため彼が映画を作るにあたってまず取り掛かっていたのは、絵コンテの作成だったという。
『めまい』のカメラワークをはじめとして、技術面で後世に多大な影響を与えた斬新な演出も多く、スティーヴン・スピルバーグは彼の技術を存分に継承し、現在の評価を得ている。
しかし、これほどたくさんの名作を手がけたヒッチコックであったが、つくづく賞レースには縁がなかった。
アカデミー賞監督賞には5度に渡ってノミネートされたが、結局受賞はなし。当時のハリウッドではサスペンス映画は軽視されていたジャンルだったのが大きな理由の一つであった。『鳥』が特殊効果賞を受賞できない点からも、サスペンス映画への軽視が伺える。
1940年の『レベッカ』で作品賞を受賞したものの、「これはプロデューサーであったデヴィット・O・セルズニックに与えられたもの」と本人は語っている(実際、作品賞のオスカー像を受け取るのは、監督ではなくプロデューサーである)。セルズニックは数多くの傑作に携わっている名プロデューサーである。
1968年には、映画業界に多大な功績を残した人物に与えられる『アービング・G・タルバーグ賞』を受賞したが、これはある意味「頑張ったで賞」的な意味合いが強いものであった。
事実、授賞式で像を受け取ったヒッチコックは「THANK YOU」という一言だけの、彼らしい皮肉たっぷりのスピーチを披露している。
エピソード・人物
自ら出演していた予告編やテレビ番組では、流暢かつ紳士的な、親しみやすい話し方で人気を集めていた。対談した淀川長治も、まるで日本人と話しているかのような流暢なトークの進みぶりに好感を持ったと語っている。
とにかくそのユーモアのセンスは抜群で、彼が大衆の人気を得たのは、映画製作の手腕のみによるものではなかった。ちなみに淀川は、彼のことを「映画の神様」と評している。
しかし一方、基本的に人づきあいが苦手で、皮肉屋であったとされる。プライベートではサンフランシスコの自宅に篭ることが多かった。
この若干の引きこもり体質には、批評家や観客からの評価をかなり気にする繊細な性格が影響していたようだ。その打たれ弱さたるや、酷評されると毎度ドン底まで落ち込んでいたほどらしい。
若い頃から晩年に至るまでの長いキャリアの中でも変わらずヒットを飛ばす実力と感性の持ち主でありながら、3度に渡って長いスランプに陥ったという事実とも、おそらく無関係ではない。彼自身その性格をわかっており、過去の作品のことはすぐに忘れて常に次の作品の事を考えるようにしていたという。
彼の孫がいうには「しつけに厳しかったが、物静かで、とてもいい祖父であった」ようだ。一方、関係者の間では、俳優の扱いが酷いという批判の声が上がっており、オスカーに嫌われた原因の一つとして知られる。
ヒッチコックは俳優を『家畜』呼ばわりし、彼らが演技しづらいような演出も平気で使った。これは映画撮影時に常にスクリーンを想像し、観客に最も効果的な映像を見せる事を最優先していた為である。
ヒッチコックとプライベートでも親交の深かった俳優ノーマン・ロイドの自宅には、ヒッチコックの貴重なメモが残されている。それには打ち合わせ中などにたまたま思いついた皮肉溢れる言葉が書かれている。
自身の映画にはほぼ必ずカメオ出演する他、映画の予告には自ら出演してその内容や魅力を直接観客に説明していたことで知られている(同時期のスリラー映画作家に共通する特徴である)。
彼の遠目にも判別できるデブっぷり独特のシルエットはあまりにも有名。
もともとは低予算でエキストラもまともに雇えなかった時期に仕方なくやっていたことだったのだが、彼のそのユーモラスな姿がファンに受け、やめたくてもやめられなくなったというのが真相らしい。
ブロンド美女、特に知的でクールな印象の俳優を好んで起用していた。その中でもイングリッド・バーグマンには特別な感情を抱いていたとかいないとか。
生涯に渡ってアルマ夫人との夫婦関係を維持し、スキャンダルらしいスキャンダルはなかったが、『マーニー』のティッピ・ヘドレンに関係を迫って断られたことが晩年までのスランプの原因であったともされており、いろいろあったのは事実なようである。
そのアルマ夫人は、時には脚本の執筆に協力するなど、陰に日向に彼を支えた功労者であり、現在では「サスペンスの神様」を支えたもう一人の神様とさえ称されている。
一般的に使いやすいと言われるアクターズ・スタジオ出身の俳優(ダスティン・ホフマン、アル・パチーノなど)を起用せず、昔ながらの役者であるケーリー・グラントやジェームズ・スチュワートを好んで起用していた。ただスタジオのゴリ押しでポール・ニューマンを使わざるを得なかった事もあったが。
ヒッチコックは晩年、ケーリー・グラント、ジェームズ・スチュワートに代わるスターが存在しない旨の発言を残している。
実家が鶏肉屋で、小さいころから散々鶏を見続けたせいで、大の鳥&鶏卵嫌いであった。そのため彼の映画では、剥製にされていたり、卵を投げられたり、卵料理にもたばこが押し付けられられたりと、鳥の扱いがやたら酷い。そして『鳥』では、とうとう恐怖と嫌悪の的にされ、人々に襲い掛かるモンスターとして演出された。
しかしアルマ夫人によれば、生きている鳥は嫌いだが鶏肉料理は大好きだったとの事で、「だから『鳥』を作ったんじゃないかしら」と冗談交じりで話している。
『ヒッチコック劇場』で放送する作品について、ヒッチコックは試写室でその出来をチェックしていたが、いい作品は「Good」という一言だけで称賛し、駄作には何も発言せずに試写室から退室していたという。
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