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アレッサンドロデルピエロ
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アレッサンドロ・デル・ピエロ(Alessandro Del Piero, 1974年11月9日 -)とは、イタリアの元サッカー選手である。元サッカーイタリア代表

現役時代のポジションはFW。173cm73㎏。利き足は右足。

愛称アレピントゥリッキオ

概要

イタリア・コネリアーノ出身。テクニックフリーキックアイディアに優れる1990年代2000年代を代表するファンタジスタポジションフォワード・攻撃的ミッドフィルダー。利き足は右足で、とくにゴール前左サイド45°でのプレイシュートを得意にしており、そのあたりは「デル・ピエロゾーン」と呼ばれる。ユヴェントスの歴代最多試合出場者、最多得点者である。

その美しくも繊細で芸術的プレーからユヴェントスジャンニ・アニエリ会長イタリアルネサンス期の画になぞらえて「ピントゥリッキオ」と称し、そのまま異名となっている。

パドヴァ・カルチョユース出身。1991年にパドヴァでプロとしてのキャリアスタートさせ、1993年にはユヴェントスへ移籍。数々の栄の傍、左膝十字靱帯断裂による選手生命の危機カルチョスキャンダルによるチームのセリエB降格といった苦難も乗り越えるなど、2012年に退団するまでの19年間、ユヴェントスの10番を背負い続け、徴であり続けた。

イタリア代表には1995年デビュー2006 FIFAワールドカップでは優勝EURO2000では準優勝を経験。舞台では故障や不調で本領を発揮できなかったが、得点イタリア代表歴代4位である。

親日としても知られ、日本とはたびたび交流している。そのため日本での人気が高い。

経歴

生い立ち

1974年11月9日イタリアの北東部に位置するヴェネト県のコネリアーノに生まれる。電気技師、政婦という普通庭で育ち、農部の小さな集落に住んでいた。プロステファノのサッカーに打ち込むようになり、裏庭で頻繁に友達サッカーで遊んでいた。

8歳となった1982年に地元のサン・ヴェンデミアーノのジュニアチームに入団し、本格的にサッカーを始める。最初は出場機会を得るためにゴールキーパーとしてプレーしていたが、の助言によって攻撃的なポジションに転向し、FWとしての才を開し始める。

13歳となった1988年、地元を離れてセリエBのパドヴァ・カルチョユースチームに入団。宿舎生活を送りながら育成組織で力を伸ばし、アンダー世代のイタリア代表に選出されるなど将来を嘱望される選手となっていく。

パドヴァ

1991年16歳にしてパドヴァとプロ契約を結び、トップチームに昇格。1992年3月7日メッシーナ戦で途中出場し、セリエBデビューを果たす。1992年11月22日テルナーナ戦でプロゴール記録。この頃U-18代表のエースとして活躍していたことからセリエAの各クラブが獲得に乗り出すようになる。

ユヴェントス

1993年セリエAの名門ユヴェントスに移籍。加入当初はプリマヴェーラでプレーしていたが、才を高く評価したジョヴァンニトラパットーニ監督からすぐにトップチームに招集され、9月12日のフォッジャ戦でセリエAデビューを果たす。デビュー2戦となった9月19日のレッジャーナ戦で途中出場からセリエAゴールを決める。1994年3月ACパルマ戦ではロベルト・バッジョに代わってスタメンに抜されると、この試合18歳にしてハットトリックという衝撃的な結果を残す。この大活躍でデル・ピエロの名は欧州中に知れ渡り、「R・バッジョの後継者」「イタリアサッカーの将来を担う存在」として注を集める。1993-94シーズン公式戦14試合5得点記録

1994-95シーズンR・バッジョが負傷によってシーズンの大半を欠場したことからスタメンとして出場する機会が増え、その才を見せつける。バッジョに代わって背番号10をつけ、プレスキックも任されるなどエース不在を感じさせない活躍を見せていた。1994年12月5日フィオレンティーナ戦でデル・ピエロ伝説を語るうえで欠かせないスーパーゴールが生まれる。2-2の同点で迎えた試合終了間際の88分、後方から放たれたロングボールに鋭く反応すると、背後からのボールを落下直前に捉えて、右足ボレーでのゴールを決める。後半戦にR・バッジョが復帰してからはベンチに回ることが増えるが、リーグ戦8得点を挙げ、ユーヴェの9年ぶりのスクデット獲得の立役者であった。デル・ピエロの才に惚れ込んだジャンニ・アニエリ会長マルチェロ・リッピ監督と確執のあったR・バッジョ放出を決断する。

1995-96シーズンからは正式に栄ビアンネロの10番を背負うようになる。前年に続きジャンルカ・ヴィアリ、ファブリツィオ・ラヴァネッリと息の合った連携を見せ、この頃から左45度のデル・ピエロゾーンという言葉が定着するようになる。6ゴール10アシストという成績を残したが、セリエAでは連覇を逃す。一方、初出場となったUEFAチャンピオンズリーグきを放ち、グループステージでは開幕から5試合連続ゴール、準々決勝のレアル・マドリード戦では第2戦で合計スコアを振り出しに戻す同点ゴールを決める。決勝もフル出場し、アヤックス・アムスデルダムPK戦の末に破ってユーヴェの11年ぶりとなるビッグイヤー獲得に貢献。得点ランク2位となる6ゴール記録し、欧州でも自らの価値を高めるのだった。さらに1996年バロンドールでは4位にノミネートされている。

1996-97シーズンジネディーヌ・ジダンが加入し、顔ぶれが大きく変わった攻撃を引っる立場となっていく。1996年11月26日、初めて来日しトヨタカップリーベルプレート戦に出場。0-0で迎えた後半36分にCKの流れから得意の度でボールを受けると、反転しての右足シュートを決め、ユヴェントス1985年以来のクラブ世界一タイトルをもたらし、大会のMVPに選ばれる。シーズン後半戦に負傷によって長期離脱したものの、チームは2シーズンぶりにセリエAを制する。2シーズン連続でCL決勝進出した1997年5月28日ボルシア・ドルトムント戦で戦線に復帰し、途中出場からヒールキックによるゴールを決めるが、1-3で敗れて連覇を逃す。

1997-98シーズンは新加入のフィリッポ・インザーギと2トップを組むことになる。当初、2トップって軽量級であることに疑問のが出ていたが、いざ蓋を開けてみるとインザーギとのコンビは「デル・ピッポ」と名付けられるほど吽の呼吸を見せ、ジダンとのトライアングルリーグの攻撃力を披露する。このシーズンセリエAでは怪物ロナウドを擁するインテル・ミラノカルロ・アンチェロッティ監督ACパルマしいスクデット争いを演じ、優勝を決める大一番となった1998年4月28日第31節インテルとのイタリア・ダービーでは前半に決勝ゴールを決める。終始好調を維持したままチームに連覇をもたらし、キャリアハイを大きく上回るリーグ戦21ゴール記録イタリア最優秀選手にも選出され、カルチョ役となった。CLでも勢いはとどまらず、準決勝のASモナコ戦でのハットトリックを含む通算10ゴール得点王となり、チームを3年連続で決勝へ導く。しかし5月20日におこなわれた決勝のレアル・マドリード戦で右太もも離れによって途中交代となり、チームも敗れて2年連続準優勝となる。

1998-99シーズン開幕前、ASローマのズデネク・ゼーマン監督からドーピング疑惑を告発され、疑惑のされ、そのからか開幕から調子が上がらずにいた。そして1998年11月8日ウディネーゼ戦で左膝十字靭帯断裂の重傷を負ってしまう。この大怪によって残りのシーズンを棒に振る長期離脱を経験し、今後のキャリアに暗いを落とすのだった。

1999-00シーズンセリエA開幕戦で9かぶりに公式戦に復帰するものの、怪の後遺症によって本来のキレを失ってしまい、スランプに陥っていた。それでもリーグトップとなる14アシスト記録するなどアシスト役として貢献していたが、リーグ戦の9ゴールのうち8本はPKと得点力が大幅に落ち込み、あと一歩でスクデットを逃した戦犯としてメディアから批判を受ける。

2000-01シーズンスランプは続き、開幕からなかなかゴールが決められずにいた。9月30日SSCナポリ戦でようやく初ゴールが生まれるが、その後にまたも負傷を負ってしまいゴールから遠ざかる。シーズン終盤になって復調の兆しが見られ始め、スクデット争いの大一番となった5月6日セリエA第29節首位ローマとの首位攻防戦ではゴールを決めるが、この試合引き分けたことで優勝を逃してしまう。

2001-02シーズン監督に復帰したマルチェロ・リッピからキャプテンに任命される。ジダンインザーギチームを去り、ダビド・トレゼゲ、パベル・ネドベドと新たな攻撃を構築すると、2001年8月26日ACヴェネツィア戦で2ゴールを決め、ユヴェントスでの通算100ゴール記録。1998-99シーズン以来の二桁得点とする16ゴール記録アシストも多く記録し、シーズン最終節のエラス・ヴェローナ戦でゴールを決め、ユヴェントス大逆転優勝に貢献。キャプテン1年でスクデットを掲げることとなった。

2002-03シーズンスーペルコッパ・イタリアーナのパルマ戦で2ゴールを決め、幸先の良いスタートを切る。シーズンに入ってもCLグループステージのディナモ・キエフ戦でゴールを決め、続くニューカッスル・ユナイテッド戦で2ゴールを決めるなど好調を維持。怪のため離脱したためリーグ戦では24試合の出場にとどまったが、16ゴール記録リーグ連覇に貢献。CLでは決勝まで進出し、ミランとのイタリア対決となる。スコアレスのままPK戦に突入し、5人キッカーとして成功させるが、ユヴェントスは3人が失敗したことで準優勝に終わる。

2003-04シーズンは負傷による離脱もあってリーグ戦22試合8得点に終わり、チームも後半戦に守備が崩壊して冠となり、不本意なシーズンとなる。

2004-05シーズンよりリッピ監督の後任に就任したファビオ・カペッロはデル・ピエロのフィジカル準が不十分と判断し、新加入のズラタン・イブラヒモビッチをトレゼゲの相棒として優先的に起用。控え降格というユーヴェの徴である男には屈辱的な扱いとなったが、腐らずに限られた時間帯で結果を出し、シーズン14得点記録。首位攻防戦となったアウェイミラン戦ではオーバーヘッドでトレゼゲのゴールアシストするなどインパクトも残し、スクデット獲得に貢献している。

2005-06シーズンもトレゼゲ&イブラヒモビッチの控えという立場に変わりはなく、出場時間の減からカペッロ監督との関係も微妙なものとなっていた。それでも前年に続いて限られた出場時間できっちりと結果を残すことでティフォジのハートを掴んでいた。2006年1月10日コッパ・イタリアフィオレンティーナ戦でハットトリックを達成し、ユヴェントスでの185得点記録ジャンピエロボニペルティの持つクラブ歴代最多得点記録を塗り替える。出場時間こそ少ないものの、この年のデル・ピエロは去最高のコンディションに戻ったと評され、セリエAで12ゴール公式戦20ゴールマーク。また、セリエAにおける1シーズンの途中出場からの得点記録である6得点に並んでいる。
この年、セリエA連覇を果たしたものの、シーズン終了後に発覚した「カルチョ・ポリ」と呼ばれる審判買収の不正スキャンダルが発覚。不正事件の犯格とされたユヴェントス過去2シーズンのスクデットを剥奪されたうえにセリエB降格処分となる。多くの力が移籍することとなったが、他クラブからのオファーを断り、よりもく残留を表明。キャプテンの決断に呼応する形でネドベドジャンルイジ・ブッフォン、トレゼゲが残留を決断する。

セリエBで過ごすこととなった2006-07シーズンでは先頭を切ってチームを牽引し、ゴールを決めていく。流石に各の代表選手が名を連ねるユヴェントスはセリエBでは頭一つ以上抜けた存在であり、ペナルティによるマイナス9ポイントハンディも物ともしなかった。2006年10月21日のフロジノーネ戦でゴールを決め、ユヴェントスでのゴール数を200ゴールに到達。2007年1月20日バーリ戦ではクラブ通算500試合出場を達成。最終的に20ゴール記録し、セリエBの得点王となり、チームの圧倒的な成績でのセリエB優勝と1年でのセリエA復帰に貢献する。後にデル・ピエロはこのセリエBでのシーズンを「もう一度体験したい」と振り返っている。

2007-08シーズンクラブとの契約交渉が難航し一時は退団の話も浮上したが、2010年6月30日まで契約を延長。復帰したセリエAでは序盤こそベンスタートが多かったが、徐々に調子を上げていき、2007年12月には2週間連続でセリエA週間ベストイレブンに選出される。2008年4月6日のパレルモ戦はユヴェントスで553試合の出場を果たし、ガエターノ・シレアの持つクラブ歴代最多出場記録更新4月セリエAではアタランタ戦のハットトリックを含めて全試合ゴール記録する荒稼ぎを達成。リーグ戦21ゴールで33歳にして初めてセリエA得点王のタイトルを獲得。さらに史上2人となるセリエB・セリエA連続得点王の快挙を達成。

2008-09シーズンは開幕から5試合ノーゴールと苦しむが、3シーズンぶりの出場となったCLでは初戦となったホームゼニト・サンクトペテルブルク戦でFKによる決勝ゴールを決める。第3節のホームレアル・マドリード戦では遠距離からのミドルシュートを決れば、続くアウェイの第4節では2ゴールを決める。この活躍にはマドリティスタからスタンディングオベレーションが起き、マドリー監督でもあるベルント・シュスターもデル・ピエロを称賛している。2008年11月29日のレッジーナ戦ではユヴェントスでの通算250得点を達成。監督交代が相次ぎ、セリエAでは厳しいシーズンとなったが、それでもチームトップの13ゴールと奮闘している。

2009-10シーズンの開幕前、クラブとの契約を1年延長。35歳となったことで流石に怪による離脱が増え、スタメンから外れることも増えるが、クラブ史上最多出場記録更新し、セリエA445試合出場を達成となった2010年2月14日ジェノア戦で2ゴールを決める。3月14日のシエナ戦の2ゴールによりキャリア通算300ゴールを達成。22試合8得点に終わったが、クラブの偉大な記録更新したシーズンとなった。

2010-11シーズン前線に怪人が相次ぐこともあって出場試合数は多かったが、大ベテランの領域に入ってきたことで流石コンスタントに活躍することは難しくなっていた。2010年10月30日ミラン戦で決勝ゴールを決め、これがセリエAでの179得点となり、ジャンピエロボニペルティの持つセリエAでのクラブ最多得点記録を塗り替える。2011年5月5日、新ホームスタジアムのユヴェントスアリーナに留まるために新たに1年契約を結ぶ。

2011-12シーズンチーム世代交代と新たなサイクルを構築するためにフロント白羽の矢を立てたのがかつてのチームメイトでもあるアントニオ・コンテだった。妥協を許さないコンテ監督バンディエラであるデル・ピエロをなくベンチに置き、アンドレア・ピルロを中心とした新スタイルを作りあげていく。2011年10月18日、今シーズンがデル・ピエロの最後のシーズンとなることが発表される。2012年1月24日コッパ・イタリア準々決勝のローマ戦で新スタジアムでの初ゴールを決める。5月13日セリエA最終節アタランタ戦にスタメンで出場すると、前半27分にユーヴェでの最後のゴールとなる先制ゴールを決める。後半14分に交代した際はピッチを歩いて一周し、両チームサポーターがこれまでの功績を称える感動的な場面に包まれる。5月20日コッパ・イタリア決勝ナポリ戦がラストマッチとなり、途中で交代した際は両チームサポーターからスタンディングオベレーションが送られた。チームセリエA復帰後初の優勝を見届け、19年間着続けたビアンネロユニフォームを脱ぐことになる。
クラブ通算最多得点290点)と通算最多出場(705試合)の記録を残し、セリエA優勝6回のほか、コッパ・イタリアチャンピオンリーグトヨタカップなど、多くのタイトルチームにもたらした。

キャリア末期

ユヴェントス退団直後の2012年7月21日カシマスタジアムで行なわれた東日本大震災支援 2012Jリーグスペシャルマッチに自ら参加を申し入れゲストプレーヤーとして参加。Jリーグ TEAM AS ONEの一員としてプレーし、後半25分にはミドルシュートゴールを決める。

以上の経緯からJリーグ入りも噂されたが、2012年9月5日オーストラリア・AリーグシドニーFCに2年契約で加入する。38歳にして初めてイタリアを離れてプレーすることとなった中、10月13日のたニューカッスル・ジェッツ戦でFKにより新地での初ゴールを決める。2013年1月19日ウェリントンフェニックス戦では長いキャリアで初となる1試合4ゴール記録チームプレーオフ進出を果たせなかったが、24試合14ゴールと期待に応える成績を残す。

2年となった2013-14シーズンチームキャプテンに任命される。Aリーグ開幕戦のニューカッスル・ジェッツ戦でゴールを決めると、チームトップとなるシーズン10ゴールマークし、プレーオフ進出に貢献。シーズン終了後に契約満了により退団。2014年8月10日にはAリーグオールスターズキャプテンとして長年所属したユヴェントスと対戦している。

2014年8月23日、新設されたインドスーパーリーグのデリー・ディナモスFCに加入。同時にインドスーパーリーグアンバサダーに就任。12月9日チェンナイ戦でFKからゴールを決める。インドでは半年間の在籍となり10試合1得点となった。

その後、1年近く所属となっていたが、2015年10月に現役引退を表明。

イタリア代表

1991年U-17イタリア代表に選出。1992年にはU-18代表に選出され、エースとして14試合12得点と活躍。その後飛び級U-21代表に選出されている。

1995年3月ユヴェントスでの活躍がアリーゴ・サッキ監督にとまり、19歳にしてイタリア代表に初めて選出される。3月25日EURO96予選エストニア戦で代表デビューを飾ると、その後左MFとしてレギュラーを掴み、11月15日の同予選リトアニア戦で代表初ゴール記録する。

1996年6月イングランドで開催されたEURO96に出場。初戦のロシア戦にスタメンで出場するが、この試合で負傷したことにより前半だけで交代。その後、イタリアグループリーグ敗退となったことで出番は訪れず、初めての舞台はわずか45分のみの出場に終わる。

EURO96の後は怪もあって代表を離れているうちにレギュラージャンフランコ・ゾラに奪われてしまう。それでも1997年6月トールノワフランスブラジルフランスを相手にゴールを決め、さらに所属するユヴェントスでの活躍からイタリアの10番を任されるようになり、エースとして大きな期待が集まるようになる。

1998年6月フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場。23歳という若さもあり、大会の補として期待されていたが、大会1か前のCL決勝レアル・マドリード戦で負傷したことで出場が危ぶまれる事態となる。それでもチェーザレ・マルディーニ監督回復を期待してデル・ピエロを選出。回復が間に合わず、第2戦のカメルーン戦に途中出場したのがワールドカップ初出場となった。その後、スタメンとして出場するも本来のコンディションには程遠く、代わりに出場したベテランロベルト・バッジョが活躍をしていた。準々決勝のフランス戦もスタメンで出場するが、精を欠いて後半途中でR・バッジョと交代になる。結局初めてのワールドカップは何もできないまま終わり、役をR・バッジョに譲ることに。

フランスワールドカップ後は右膝十字靭帯断裂による長期離脱と後遺症によるスランプによって代表での序列が低下し、台頭してきたフランチェスコ・トッティの控えとなっていた。2000年6月オランダベルギーで開催されたEURO2000でも途中出場が中心となった。トッティが温存されたグループリーグ第3戦のスウェーデン戦でスタメンに起用されると、際大会での初ゴール記録する。準決勝のオランダ戦でスタメンに起用されると、前半15分で退場となったジャンルカ・ザンブロッタに代わって右SBに入り、残りの150分をオランダの猛攻から守備に奔走することで決勝進出に貢献する。決勝のフランス戦では後半8分に投入されるが、決定機に決めきれなかったことで敗戦の戦犯として批判される。

2002 FIFAワールドカップ欧州予選では、本大会出場を決めた2001年10月16日ハンガリー戦でゴールを決めるなど、4得点を決める。しかし、2002年6月日本韓国で開催された本大会ではジョヴァンニトラパットーニ監督が守備的なシステムを採用したことで控えとなり、このときから10番をトッティに譲って7番を付けるようになる。グループリーグ第3戦のメキシコ戦でトッティに代わって投入されると、後半40分にイタリアを敗退の危機から救う起死回生の同点ゴールを決める。ラウンド16の韓国戦でスタメンを勝ち取るが、1点をリードしたことで後半い時間帯で守備固めのために交代となる。その後、トッティの不可解な判定による退場もあってイタリア逆転負けを喫する。

EURO2004予選では6試合に出場しチームトップの6ゴール記録し、不振にあったイタリアを救う活躍を見せる。2004年6月ポルトガルで開催された本大会では3試合全てにスタメンで起用されたものの、不慣れな左サイドというポジションや直前の左大腿部の怪から思うような活躍をすることはできなかった。

2006年6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップではかつての恩師であるマルチェロ・リッピ監督からスーパーサブの役割を与えられる。グループリーグでは3試合のうち2試合に途中出場。ラウンド16のオーストラリア戦ではコンディション不良トッティに代わってスタメンで起用される。準々決勝では出番がかったが、準決勝のドイツ戦では延長前半9分から出場すると、延長後半終了間際に得意の左45度の度からのシュートを決め、イタリアの決勝進出を確定させる。決勝のフランス戦は後半41分から出場。PK戦では4人キッカーとして成功させ、イタリアの24年ぶりのワールドカップ優勝に貢献する。

ドイツワールドカップ後、トッティが代表を引退したため10番が位となったが、本人が7番を気に入ったということで引き続き7番を付けていた。2008年6月ウクライナで開催されたEURO2008ではベテランとなったことで出番は少なかったが、グループリーグの第2戦のルーマニア戦ではキャプテンマークを巻いてスタメンで出場。ゴールはあげられなかったが、ベスト8進出したチームを牽引した。

その後、2008年9月10日ジョージア戦で途中出場からダニエレ・デ・ロッシのゴールアシストしたが、この試合を最後に代表に呼ばれることはなかった。

イタリア代表91試合27得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1991ー92 パドヴァ セリエB 4 0
1992ー93 パドヴァ セリエB 10 1
1993ー94 ユヴェントス セリエA 11 5
1994ー95 ユヴェントス セリエA 29 8
1995ー96 ユヴェントス セリエA 29 6
1996ー97 ユヴェントス セリエA 22 8
1997ー98 ユヴェントス セリエA 32 21
1998ー99 ユヴェントス セリエA 8 2
1999ー00 ユヴェントス セリエA 34 9
2000ー01 ユヴェントス セリエA 25 9
2001ー02 ユヴェントス セリエA 32 16
2002ー03 ユヴェントス セリエA 24 16
2003ー04 ユヴェントス セリエA 22 8
2004ー05 ユヴェントス セリエA 30 14
2005ー06 ユヴェントス セリエA 33 12
2006ー07 ユヴェントス セリエB 35 20
2007ー08 ユヴェントス セリエA 37 21
2008ー09 ユヴェントス セリエA 31 13
2009ー10 ユヴェントス セリエA 23 9
2010ー11 ユヴェントス セリエA 33 8
2011ー12 ユヴェントス セリエA 23 3
2012ー13 シドニーFC Aリーグ 24 14
2013ー14 シドニーFC Aリーグ 24 10
2014 リー・ディナモス ISL 10 1

個人タイトル

引退後

現役引退後はアメリカロサンゼルスに居住。2018年よりアメリカ4部相当のリーグUPSL)に所属する独立リーグのLA 10 FCオーナーを務める。また、サングラスブランドの「AIRDP Style」やロサンゼルスイタリアンレストラン「N10」を経営。他にもアメリカ内に自身のサッカースクールを開講するなど、様々な投資を行う実業として活動。

祖国イタリアではサッカー解説者として活動。スカイスポーツイタリア解説者となっている。

ファンであるキャプテン翼イラストが入ったFC岐阜ユニフォームFC岐阜から贈られたことが縁で、2018年2019年にはJ2リーグFC岐阜応援するために岐阜に姿を見せる。

2021年イタリアサッカー連盟の監督ライセンス講習を受賞。

プレースタイル

ウイングプレーしていた時期もあるが、キャリアの大半はセカンドトップとしてプレーしている。決して恵まれた体格とは言えないが、テクニックに優れ、プレー豊富バリエーションを持つことから「ファンタジスタ」として知られている。チームメイトそして監督としてかかわったディディエ・デシャンは「9.5番」と評している。

ドリブルやパス、シュートなど全ての技術が高く、創造性溢れるプレー芸術的に崩しやフィニッシュに絡むことができる。トラップ芸術的で次のプレーに最適な場所にワンタッチボールコントロールできる。1998年11月に左膝十字靭帯断裂の大怪をする前は忘れられないゴールを決め、並外れたアシストを繰り出すことができる類なきファンタジスタと言われていた。

もっとも好んだプレーエリアは左のハーフスペースであり、もっとも得意としていたのは左斜め45度から放たれる右足から放たれるカーブをかけた高精度のシュート。このエリアは「デル・ピエロゾーン」と呼ばれ、この聖域に侵入されると分かっていても止められなかった。左サイドからドリブルで切れ込み、右足のインフロントから放たれるシュート美しい曲線を描きながらゴール右隅に吸い込まれる。

中長距離フリーキックも得意としており、回転カーブなど数種類のキックを使い分けることができ、多くのゴールを決めている。

体格的に恵まれなかったこともあってフィジカルバトルは得意ではなく、ファンタジスタの中では献身的に守備をするほうだったが、ファビオ・カペッロのようなフィジカルを重視する監督からは重宝されなかった。

人物・エピソード

親日家として

親日としても知られ、2012年7月21日日本で行われた東日本大震災支援2012Jリーグスペシャルマッチにおいて、デル・ピエロ自ら参加を打診してゲストプレーヤーとして先発出場。麗なボール捌きやスルーパスは健在で、後半25分にはミドルシュートによるゴールを決めるなど37歳とは思えないパフォーマンスを披露し、カシマスタジアムに詰めかけた多くの観客を沸かせた。後半途中に交代した後はシャワーも浴びずにインタビューに直行。去り際には日本国民へ向けて、不慣れな日本語で「ガンバッテ」とエールを送った。帰にはしゃぶしゃぶを堪するなど(本人く「イタリアでは寿司刺身くらいしか日本食が食べられないんだ」)、日本通ぶりも垣間見せた。

また、新日本プロレスファンとしても有名である。好きな選手は「アントニオ猪木」「木村」「藤波辰爾」「タイガーマスク」を挙げている。来日した際に「ワールドプロレスリング」の企画で行われた藤波辰爾との対談では

(デルピエロの私物を、波の子供プレゼントすると)

「お礼に、私の技をプレゼントしてあげるよ」

(そう言って、技のかけ方を教えようとした所)

デ「ちょwww待って!待って!先にに技かけてよ!」

と言いつつ、必殺技である「ドラゴンスリーパー」を、少年のような満面の笑顔で喰らっている。更に、対談終了後にタイガーマスクの、サイン入りマスクプレゼントされると、嬉しすぎてそれを被ったまま空港に現れexitファンを驚かせた。※尚、マスク姿はユヴェントス公式HPに掲載され全世界配信されました。

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アレッサンドロ・デル・ピエロ

1 ななしのよっしん
2010/07/10(土) 00:34:15 ID: S5mdhfYyzn
やっぱりデルピエロが一番好きな選手なんだよな。
いつまで現役続けるのか知らんが、最後までいて欲しい。


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2 ななしのよっしん
2010/09/08(水) 03:09:37 ID: SncWDNCUAT
デルピてされてるよな
アンチなんて見たことないし
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3 ななしのよっしん
2011/09/09(金) 00:54:10 ID: AkX6bMCGUF
プロレスのやつも見たいが、
速攻で消されるからなぁ・・・
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4 ななしのよっしん
2011/11/25(金) 23:30:31 ID: jJWYkvNwe4
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5 ななしのよっしん
2011/12/12(月) 01:47:50 ID: 2na8BhPtq/
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6 ななしのよっしん
2012/05/19(土) 13:34:44 ID: hE8AX3mg6e
親日である記事がないぞ・・・
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7 ななしのよっしん
2012/07/21(土) 21:35:45 ID: vKdOnNh7JZ
ありがとう。
今日はそれ以上の言葉が出てこない。
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8 ななしのよっしん
2013/01/05(土) 09:23:56 ID: vbFOd64gzH
いいやつだもんな。嫌いになれるわけがないよ。
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9 ななしのよっしん
2013/01/29(火) 20:43:40 ID: XTtgMXIb8I
本当にJリーグに来るのかな。
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10 ななしのよっしんちゃう
2013/09/20(金) 18:36:21 ID: LQdehUnNp3
デルピエロ鳥栖にきた
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