アレッサンドロ・デル・ピエロ(Alessandro Del Piero, 1974年11月9日 -)とは、イタリアの元サッカー選手である。元サッカーイタリア代表。
現役時代のポジションはFW。173cm73㎏。利き足は右足。
概要
イタリア・コネリアーノ出身。テクニックやフリーキック、アイディアに優れる1990年代と2000年代を代表するファンタジスタ。ポジションはフォワード・攻撃的ミッドフィルダー。利き足は右足で、とくにゴール前左サイド45°でのプレイ・シュートを得意にしており、そのあたりは「デル・ピエロゾーン」と呼ばれる。ユヴェントスの歴代最多試合出場者、最多得点者である。
その美しくも繊細で芸術的なプレーからユヴェントスのジャンニ・アニエリ会長はイタリアのルネサンス期の画家になぞらえて「ピントゥリッキオ」と称し、そのまま異名となっている。
パドヴァ・カルチョのユース出身。1991年にパドヴァでプロとしてのキャリアをスタートさせ、1993年にはユヴェントスへ移籍。数々の栄光の傍、左膝十字靱帯断裂による選手生命の危機、カルチョ・スキャンダルによるチームのセリエB降格といった苦難も乗り越えるなど、2012年に退団するまでの19年間、ユヴェントスの10番を背負い続け、象徴であり続けた。
イタリア代表には1995年にデビュー。2006 FIFAワールドカップでは優勝、EURO2000では準優勝を経験。国際舞台では故障や不調で本領を発揮できなかったが、得点はイタリア代表歴代4位である。
親日家としても知られ、日本とはたびたび交流している。そのため日本での人気が高い。
経歴
生い立ち
1974年11月9日、イタリアの北東部に位置するヴェネト県のコネリアーノに生まれる。父は電気技師、母は家政婦という普通の家庭で育ち、農村部の小さな集落に住んでいた。プロを目指す兄ステファノの影響でサッカーに打ち込むようになり、裏庭で頻繁に友達とサッカーで遊んでいた。
8歳となった1982年に地元のサン・ヴェンデミアーノのジュニアチームに入団し、本格的にサッカーを始める。最初は出場機会を得るためにゴールキーパーとしてプレーしていたが、兄の助言によって攻撃的なポジションに転向し、FWとしての才能を開花し始める。
13歳となった1988年、地元を離れてセリエBのパドヴァ・カルチョのユースチームに入団。宿舎生活を送りながら育成組織で力を伸ばし、アンダー世代のイタリア代表に選出されるなど将来を嘱望される選手となっていく。
パドヴァ
1991年、16歳にしてパドヴァとプロ契約を結び、トップチームに昇格。1992年3月7日のメッシーナ戦で途中出場し、セリエBデビューを果たす。1992年11月22日、テルナーナ戦でプロ初ゴールを記録。この頃U-18代表のエースとして活躍していたことからセリエAの各クラブが獲得に乗り出すようになる。
ユヴェントス
1993年、セリエAの名門ユヴェントスに移籍。加入当初はプリマヴェーラでプレーしていたが、才能を高く評価したジョヴァンニ・トラパットーニ監督からすぐにトップチームに招集され、9月12日のフォッジャ戦でセリエAデビューを果たす。デビュー2戦目となった9月19日のレッジャーナ戦で途中出場からセリエA初ゴールを決める。1994年3月のACパルマ戦ではロベルト・バッジョに代わってスタメンに抜擢されると、この試合で18歳にしてハットトリックという衝撃的な結果を残す。この大活躍でデル・ピエロの名は欧州中に知れ渡り、「R・バッジョの後継者」「イタリアサッカーの将来を担う存在」として注目を集める。1993-94シーズンは公式戦14試合5得点を記録。
1994-95シーズンはR・バッジョが負傷によってシーズンの大半を欠場したことからスタメンとして出場する機会が増え、その才能を見せつける。バッジョに代わって背番号10をつけ、プレスキックも任されるなどエース不在を感じさせない活躍を見せていた。1994年12月5日のフィオレンティーナ戦でデル・ピエロ伝説を語るうえで欠かせないスーパーゴールが生まれる。2-2の同点で迎えた試合終了間際の88分、後方から放たれたロングボールに鋭く反応すると、背後からのボールを落下直前に捉えて、右足ボレーでのゴールを決める。後半戦にR・バッジョが復帰してからはベンチに回ることが増えるが、リーグ戦8得点を挙げ、ユーヴェの9年ぶりのスクデット獲得の立役者であった。デル・ピエロの才能に惚れ込んだジャンニ・アニエリ会長はマルチェロ・リッピ監督と確執のあったR・バッジョの放出を決断する。
1995-96シーズンからは正式に栄光のビアンコネロの10番を背負うようになる。前年に続きジャンルカ・ヴィアリ、ファブリツィオ・ラヴァネッリと息の合った連携を見せ、この頃から左45度のデル・ピエロゾーンという言葉が定着するようになる。6ゴール10アシストという成績を残したが、セリエAでは連覇を逃す。一方、初出場となったUEFAチャンピオンズリーグで輝きを放ち、グループステージでは開幕から5試合連続ゴール、準々決勝のレアル・マドリード戦では第2戦で合計スコアを振り出しに戻す同点ゴールを決める。決勝もフル出場し、アヤックス・アムスデルダムをPK戦の末に破ってユーヴェの11年ぶりとなるビッグイヤー獲得に貢献。得点ランク2位となる6ゴールを記録し、欧州でも自らの価値を高めるのだった。さらに1996年のバロンドールでは4位にノミネートされている。
1996-97シーズンに司令塔のジネディーヌ・ジダンが加入し、顔ぶれが大きく変わった攻撃陣を引っ張る立場となっていく。1996年11月26日、初めて来日しトヨタカップのリーベル・プレート戦に出場。0-0で迎えた後半36分にCKの流れから得意の角度でボールを受けると、反転しての右足シュートを決め、ユヴェントスに1985年以来のクラブ世界一のタイトルをもたらし、大会のMVPに選ばれる。シーズン後半戦に負傷によって長期離脱したものの、チームは2シーズンぶりにセリエAを制する。2シーズン連続でCL決勝進出した1997年5月28日のボルシア・ドルトムント戦で戦線に復帰し、途中出場からヒールキックによるゴールを決めるが、1-3で敗れて連覇を逃す。
1997-98シーズンは新加入のフィリッポ・インザーギと2トップを組むことになる。当初、2トップが揃って軽量級であることに疑問の声が出ていたが、いざ蓋を開けてみるとインザーギとのコンビは「デル・ピッポ」と名付けられるほど阿吽の呼吸を見せ、司令塔のジダンとのトライアングルでリーグ屈指の攻撃力を披露する。このシーズンのセリエAでは怪物ロナウドを擁するインテル・ミラノ、カルロ・アンチェロッティ監督のACパルマと激しいスクデット争いを演じ、優勝を決める大一番となった1998年4月28日第31節インテルとのイタリア・ダービーでは前半に決勝ゴールを決める。終始好調を維持したままチームに連覇をもたらし、キャリアハイを大きく上回るリーグ戦21ゴールを記録。イタリア最優秀選手にも選出され、カルチョの主役となった。CLでも勢いはとどまらず、準決勝のASモナコ戦でのハットトリックを含む通算10ゴールで得点王となり、チームを3年連続で決勝へ導く。しかし5月20日におこなわれた決勝のレアル・マドリード戦で右太ももの肉離れによって途中交代となり、チームも敗れて2年連続準優勝となる。
1998-99シーズン開幕前、ASローマのズデネク・ゼーマン監督からドーピング疑惑を告発され、疑惑の目に晒され、その影響からか開幕から調子が上がらずにいた。そして1998年11月8日のウディネーゼ戦で左膝十字靭帯断裂の重傷を負ってしまう。この大怪我によって残りのシーズンを棒に振る長期離脱を経験し、今後のキャリアに暗い影を落とすのだった。
1999-00シーズンのセリエA開幕戦で9か月ぶりに公式戦に復帰するものの、怪我の後遺症によって本来のキレを失ってしまい、スランプに陥っていた。それでもリーグトップとなる14アシストを記録するなどアシスト役として貢献していたが、リーグ戦の9ゴールのうち8本はPKと得点力が大幅に落ち込み、あと一歩でスクデットを逃した戦犯としてメディアから批判を受ける。
2000-01シーズンもスランプは続き、開幕からなかなかゴールが決められずにいた。9月30日のSSCナポリ戦でようやく初ゴールが生まれるが、その後にまたも負傷を負ってしまいゴールから遠ざかる。シーズン終盤になって復調の兆しが見られ始め、スクデット争いの大一番となった5月6日のセリエA第29節首位ローマとの首位攻防戦ではゴールを決めるが、この試合に引き分けたことで優勝を逃してしまう。
2001-02シーズン、監督に復帰したマルチェロ・リッピからキャプテンに任命される。ジダン、インザーギがチームを去り、ダビド・トレゼゲ、パベル・ネドベドと新たな攻撃陣を構築すると、2001年8月26日のACヴェネツィア戦で2ゴールを決め、ユヴェントスでの通算100ゴールを記録。1998-99シーズン以来の二桁得点とする16ゴールを記録。アシストも多く記録し、シーズン最終節のエラス・ヴェローナ戦でゴールを決め、ユヴェントスの大逆転優勝に貢献。キャプテン1年目でスクデットを掲げることとなった。
2002-03シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナのパルマ戦で2ゴールを決め、幸先の良いスタートを切る。シーズンに入ってもCLグループステージのディナモ・キエフ戦でゴールを決め、続くニューカッスル・ユナイテッド戦で2ゴールを決めるなど好調を維持。怪我のため離脱したためリーグ戦では24試合の出場にとどまったが、16ゴールを記録しリーグ連覇に貢献。CLでは決勝まで進出し、ミランとのイタリア対決となる。スコアレスのままPK戦に突入し、5人目のキッカーとして成功させるが、ユヴェントスは3人が失敗したことで準優勝に終わる。
2003-04シーズンは負傷による離脱もあってリーグ戦22試合8得点に終わり、チームも後半戦に守備が崩壊して無冠となり、不本意なシーズンとなる。
2004-05シーズンよりリッピ監督の後任に就任したファビオ・カペッロはデル・ピエロのフィジカル水準が不十分と判断し、新加入のズラタン・イブラヒモビッチをトレゼゲの相棒として優先的に起用。控え降格というユーヴェの象徴である男には屈辱的な扱いとなったが、腐らずに限られた時間帯で結果を出し、シーズン14得点を記録。首位攻防戦となったアウェイのミラン戦ではオーバーヘッドでトレゼゲのゴールをアシストするなどインパクトも残し、スクデット獲得に貢献している。
2005-06シーズンもトレゼゲ&イブラヒモビッチの控えという立場に変わりはなく、出場時間の激減からカペッロ監督との関係も微妙なものとなっていた。それでも前年に続いて限られた出場時間できっちりと結果を残すことでティフォジのハートを掴んでいた。2006年1月10日のコッパ・イタリア、フィオレンティーナ戦でハットトリックを達成し、ユヴェントスでの185得点目を記録。ジャンピエロ・ボニペルティの持つクラブ歴代最多得点記録を塗り替える。出場時間こそ少ないものの、この年のデル・ピエロは去最高のコンディションに戻ったと評され、セリエAで12ゴール、公式戦20ゴールをマーク。また、セリエAにおける1シーズンの途中出場からの得点記録である6得点に並んでいる。
この年、セリエA連覇を果たしたものの、シーズン終了後に発覚した「カルチョ・ポリ」と呼ばれる審判買収の不正スキャンダルが発覚。不正事件の主犯格とされたユヴェントスは過去2シーズンのスクデットを剥奪されたうえにセリエB降格処分となる。多くの主力が移籍することとなったが、他クラブからのオファーを断り、誰よりも早く残留を表明。キャプテンの決断に呼応する形でネドベドやジャンルイジ・ブッフォン、トレゼゲが残留を決断する。
セリエBで過ごすこととなった2006-07シーズンでは先頭を切ってチームを牽引し、ゴールを決めていく。流石に各国の代表選手が名を連ねるユヴェントスはセリエBでは頭一つ以上抜けた存在であり、ペナルティによるマイナス9ポイントのハンディも物ともしなかった。2006年10月21日のフロジノーネ戦でゴールを決め、ユヴェントスでのゴール数を200ゴールに到達。2007年1月20日のバーリ戦ではクラブ通算500試合出場を達成。最終的に20ゴールを記録し、セリエBの得点王となり、チームの圧倒的な成績でのセリエB優勝と1年でのセリエA復帰に貢献する。後にデル・ピエロはこのセリエBでのシーズンを「もう一度体験したい」と振り返っている。
2007-08シーズンはクラブとの契約交渉が難航し一時は退団の話も浮上したが、2010年6月30日まで契約を延長。復帰したセリエAでは序盤こそベンチスタートが多かったが、徐々に調子を上げていき、2007年12月には2週間連続でセリエA週間ベストイレブンに選出される。2008年4月6日のパレルモ戦はユヴェントスで553試合目の出場を果たし、ガエターノ・シレアの持つクラブ歴代最多出場記録を更新。4月のセリエAではアタランタ戦のハットトリックを含めて全試合でゴールを記録する荒稼ぎを達成。リーグ戦21ゴールで33歳にして初めてセリエA得点王のタイトルを獲得。さらに史上2人目となるセリエB・セリエA連続得点王の快挙を達成。
2008-09シーズンは開幕から5試合ノーゴールと苦しむが、3シーズンぶりの出場となったCLでは初戦となったホームのゼニト・サンクトペテルブルク戦でFKによる決勝ゴールを決める。第3節のホームのレアル・マドリード戦では遠距離からのミドルシュートを決れば、続くアウェイの第4節では2ゴールを決める。この活躍にはマドリティスタからスタンディングオベレーションが起き、マドリーの監督でもあるベルント・シュスターもデル・ピエロを称賛している。2008年11月29日のレッジーナ戦ではユヴェントスでの通算250得点を達成。監督交代が相次ぎ、セリエAでは厳しいシーズンとなったが、それでもチームトップの13ゴールと奮闘している。
2009-10シーズンの開幕前、クラブとの契約を1年延長。35歳となったことで流石に怪我による離脱が増え、スタメンから外れることも増えるが、クラブ史上最多出場記録を更新し、セリエAで445試合出場を達成となった2010年2月14日のジェノア戦で2ゴールを決める。3月14日のシエナ戦の2ゴールによりキャリア通算300ゴールを達成。22試合8得点に終わったが、クラブの偉大な記録を更新したシーズンとなった。
2010-11シーズンは前線に怪我人が相次ぐこともあって出場試合数は多かったが、大ベテランの領域に入ってきたことで流石にコンスタントに活躍することは難しくなっていた。2010年10月30日のミラン戦で決勝ゴールを決め、これがセリエAでの179得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つセリエAでのクラブ最多得点記録を塗り替える。2011年5月5日、新ホームスタジアムのユヴェントス・アリーナに留まるために新たに1年契約を結ぶ。
2011-12シーズン、チームの世代交代と新たなサイクルを構築するためにフロントが白羽の矢を立てたのがかつてのチームメイトでもあるアントニオ・コンテだった。妥協を許さないコンテ監督はバンディエラであるデル・ピエロを躊躇なくベンチに置き、司令塔アンドレア・ピルロを中心とした新スタイルを作りあげていく。2011年10月18日、今シーズンがデル・ピエロの最後のシーズンとなることが発表される。2012年1月24日、コッパ・イタリア準々決勝のローマ戦で新スタジアムでの初ゴールを決める。5月13日、セリエA最終節アタランタ戦にスタメンで出場すると、前半27分にユーヴェでの最後のゴールとなる先制ゴールを決める。後半14分に交代した際はピッチを歩いて一周し、両チームのサポーターがこれまでの功績を称える感動的な場面に包まれる。5月20日のコッパ・イタリア決勝ナポリ戦がラストマッチとなり、途中で交代した際は両チームのサポーターからスタンディングオベレーションが送られた。チームのセリエA復帰後初の優勝を見届け、19年間着続けたビアンコネロのユニフォームを脱ぐことになる。
クラブ通算最多得点(290点)と通算最多出場(705試合)の記録を残し、セリエA優勝6回のほか、コッパ・イタリア、チャンピオンリーグ、トヨタカップなど、多くのタイトルをチームにもたらした。
キャリア末期
ユヴェントス退団直後の2012年7月21日、カシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチに自ら参加を申し入れゲストプレーヤーとして参加。Jリーグ TEAM AS ONEの一員としてプレーし、後半25分にはミドルシュートでゴールを決める。
以上の経緯からJリーグ入りも噂されたが、2012年9月5日にオーストラリア・AリーグのシドニーFCに2年契約で加入する。38歳にして初めてイタリアを離れてプレーすることとなった中、10月13日のたニューカッスル・ジェッツ戦でFKにより新天地での初ゴールを決める。2013年1月19日のウェリントン・フェニックス戦では長いキャリアで初となる1試合4ゴールを記録。チームはプレーオフ進出を果たせなかったが、24試合14ゴールと期待に応える成績を残す。
2年目となった2013-14シーズンはチームのキャプテンに任命される。Aリーグ開幕戦のニューカッスル・ジェッツ戦でゴールを決めると、チームトップとなるシーズン10ゴールをマークし、プレーオフ進出に貢献。シーズン終了後に契約満了により退団。2014年8月10日にはAリーグオールスターズのキャプテンとして長年所属したユヴェントスと対戦している。
2014年8月23日、新設されたインド・スーパーリーグのデリー・ディナモスFCに加入。同時にインド・スーパーリーグのアンバサダーに就任。12月9日のチェンナイ戦でFKからゴールを決める。インドでは半年間の在籍となり10試合1得点となった。
その後、1年近く無所属となっていたが、2015年10月に現役引退を表明。
イタリア代表
1991年にU-17イタリア代表に選出。1992年にはU-18代表に選出され、エースとして14試合12得点と活躍。その後飛び級でU-21代表に選出されている。
1995年3月、ユヴェントスでの活躍がアリーゴ・サッキ監督の目にとまり、19歳にしてイタリア代表に初めて選出される。3月25日のEURO96予選エストニア戦で代表デビューを飾ると、その後左MFとしてレギュラーを掴み、11月15日の同予選リトアニア戦で代表初ゴールを記録する。
1996年6月、イングランドで開催されたEURO96に出場。初戦のロシア戦にスタメンで出場するが、この試合で負傷したことにより前半だけで交代。その後、イタリアがグループリーグ敗退となったことで出番は訪れず、初めての国際舞台はわずか45分のみの出場に終わる。
EURO96の後は怪我もあって代表を離れているうちにレギュラーをジャンフランコ・ゾラに奪われてしまう。それでも1997年6月のトールノワ・フランスでブラジル、フランスを相手にゴールを決め、さらに所属するユヴェントスでの活躍からイタリアの10番を任されるようになり、エースとして大きな期待が集まるようになる。
1998年6月、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場。23歳という若さもあり、大会の主役候補として期待されていたが、大会1か月前のCL決勝レアル・マドリード戦で負傷したことで出場が危ぶまれる事態となる。それでもチェーザレ・マルディーニ監督は回復を期待してデル・ピエロを選出。回復が間に合わず、第2戦のカメルーン戦に途中出場したのがワールドカップ初出場となった。その後、スタメンとして出場するも本来のコンディションには程遠く、代わりに出場したベテランのロベルト・バッジョが活躍をしていた。準々決勝のフランス戦もスタメンで出場するが、精彩を欠いて後半途中でR・バッジョと交代になる。結局初めてのワールドカップは何もできないまま終わり、主役をR・バッジョに譲ることに。
フランス・ワールドカップ後は右膝十字靭帯断裂による長期離脱と後遺症によるスランプによって代表での序列が低下し、台頭してきたフランチェスコ・トッティの控えとなっていた。2000年6月にオランダとベルギーで開催されたEURO2000でも途中出場が中心となった。トッティが温存されたグループリーグ第3戦のスウェーデン戦でスタメンに起用されると、国際大会での初ゴールを記録する。準決勝のオランダ戦でスタメンに起用されると、前半15分で退場となったジャンルカ・ザンブロッタに代わって右SBに入り、残りの150分をオランダの猛攻から守備に奔走することで決勝進出に貢献する。決勝のフランス戦では後半8分に投入されるが、決定機に決めきれなかったことで敗戦の戦犯として批判に晒される。
2002 FIFAワールドカップ欧州予選では、本大会出場を決めた2001年10月16日のハンガリー戦でゴールを決めるなど、4得点を決める。しかし、2002年6月に日本と韓国で開催された本大会ではジョヴァンニ・トラパットーニ監督が守備的なシステムを採用したことで控えとなり、このときから10番をトッティに譲って7番を付けるようになる。グループリーグ第3戦のメキシコ戦でトッティに代わって投入されると、後半40分にイタリアを敗退の危機から救う起死回生の同点ゴールを決める。ラウンド16の韓国戦でスタメンを勝ち取るが、1点をリードしたことで後半早い時間帯で守備固めのために交代となる。その後、トッティの不可解な判定による退場もあってイタリアは逆転負けを喫する。
EURO2004予選では6試合に出場しチームトップの6ゴールを記録し、不振にあったイタリアを救う活躍を見せる。2004年6月にポルトガルで開催された本大会では3試合全てにスタメンで起用されたものの、不慣れな左サイドというポジションや直前の左大腿部の怪我から思うような活躍をすることはできなかった。
2006年6月にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップではかつての恩師であるマルチェロ・リッピ監督からスーパーサブの役割を与えられる。グループリーグでは3試合のうち2試合に途中出場。ラウンド16のオーストラリア戦ではコンディション不良のトッティに代わってスタメンで起用される。準々決勝では出番が無かったが、準決勝のドイツ戦では延長前半9分から出場すると、延長後半終了間際に得意の左45度の角度からのシュートを決め、イタリアの決勝進出を確定させる。決勝のフランス戦は後半41分から出場。PK戦では4人目のキッカーとして成功させ、イタリアの24年ぶりのワールドカップ優勝に貢献する。
ドイツ・ワールドカップ後、トッティが代表を引退したため10番が空位となったが、本人が7番を気に入ったということで引き続き7番を付けていた。2008年6月にウクライナで開催されたEURO2008ではベテランとなったことで出番は少なかったが、グループリーグの第2戦のルーマニア戦ではキャプテンマークを巻いてスタメンで出場。ゴールはあげられなかったが、ベスト8進出したチームを牽引した。
その後、2008年9月10日のジョージア戦で途中出場からダニエレ・デ・ロッシのゴールをアシストしたが、この試合を最後に代表に呼ばれることはなかった。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1991ー92 | パドヴァ | セリエB | 4 | 0 | |
| 1992ー93 | パドヴァ | セリエB | 10 | 1 | |
| 1993ー94 | ユヴェントス | セリエA | 11 | 5 | |
| 1994ー95 | ユヴェントス | セリエA | 29 | 8 | |
| 1995ー96 | ユヴェントス | セリエA | 29 | 6 | |
| 1996ー97 | ユヴェントス | セリエA | 22 | 8 | |
| 1997ー98 | ユヴェントス | セリエA | 32 | 21 | |
| 1998ー99 | ユヴェントス | セリエA | 8 | 2 | |
| 1999ー00 | ユヴェントス | セリエA | 34 | 9 | |
| 2000ー01 | ユヴェントス | セリエA | 25 | 9 | |
| 2001ー02 | ユヴェントス | セリエA | 32 | 16 | |
| 2002ー03 | ユヴェントス | セリエA | 24 | 16 | |
| 2003ー04 | ユヴェントス | セリエA | 22 | 8 | |
| 2004ー05 | ユヴェントス | セリエA | 30 | 14 | |
| 2005ー06 | ユヴェントス | セリエA | 33 | 12 | |
| 2006ー07 | ユヴェントス | セリエB | 35 | 20 | |
| 2007ー08 | ユヴェントス | セリエA | 37 | 21 | |
| 2008ー09 | ユヴェントス | セリエA | 31 | 13 | |
| 2009ー10 | ユヴェントス | セリエA | 23 | 9 | |
| 2010ー11 | ユヴェントス | セリエA | 33 | 8 | |
| 2011ー12 | ユヴェントス | セリエA | 23 | 3 | |
| 2012ー13 | シドニーFC | Aリーグ | 24 | 14 | |
| 2013ー14 | シドニーFC | Aリーグ | 24 | 10 | |
| 2014 | デリー・ディナモス | ISL | 10 | 1 |
個人タイトル
- UEFAチャンピオンズリーグ得点王(1997-98)
- セリエA得点王(2007-08)
- セリエB得点王(2006-07)
- トヨタカップMVP(1996年)
- イタリア最優秀選手:2回(1998年、2008年)
引退後
現役引退後はアメリカのロサンゼルスに居住。2018年よりアメリカ4部相当のリーグ(UPSL)に所属する独立リーグのLA 10 FCのオーナーを務める。また、サングラスブランドの「AIRDP Style」やロサンゼルスにイタリアンレストラン「N10」を経営。他にもアメリカ国内に自身のサッカースクールを開講するなど、様々な投資を行う実業家として活動。
祖国のイタリアではサッカー解説者として活動。スカイスポーツイタリアの解説者となっている。
大ファンであるキャプテン翼のイラストが入ったFC岐阜のユニフォームをFC岐阜から贈られたことが縁で、2018年と2019年にはJ2リーグのFC岐阜を応援するために岐阜に姿を見せる。
2021年にイタリアサッカー連盟の監督ライセンス講習を受賞。
プレースタイル
左ウイングでプレーしていた時期もあるが、キャリアの大半はセカンドトップとしてプレーしている。決して恵まれた体格とは言えないが、テクニックに優れ、プレーに豊富なバリエーションを持つことから「ファンタジスタ」として知られている。チームメイトそして監督としてかかわったディディエ・デシャンは「9.5番」と評している。
ドリブルやパス、シュートなど全ての技術が高く、創造性溢れるプレーで芸術的に崩しやフィニッシュに絡むことができる。トラップも芸術的で次のプレーに最適な場所にワンタッチでボールをコントロールできる。1998年11月に左膝十字靭帯断裂の大怪我をする前は忘れられないゴールを決め、並外れたアシストを繰り出すことができる比類なきファンタジスタと言われていた。
もっとも好んだプレーエリアは左のハーフスペースであり、もっとも得意としていたのは左斜め45度から放たれる右足から放たれるカーブをかけた高精度のシュート。このエリアは「デル・ピエロゾーン」と呼ばれ、この聖域に侵入されると分かっていても止められなかった。左サイドからドリブルで切れ込み、右足のインフロントから放たれるシュートは美しい曲線を描きながらゴール右隅に吸い込まれる。
中長距離のフリーキックも得意としており、無回転やカーブなど数種類のキックを使い分けることができ、多くのゴールを決めている。
体格的に恵まれなかったこともあってフィジカルバトルは得意ではなく、ファンタジスタの中では献身的に守備をするほうだったが、ファビオ・カペッロのようなフィジカルを重視する監督からは重宝されなかった。
人物・エピソード
- 性格、人間性なども優れた人格者でイタリア国内での人気も高い。
- 兄のステファノもUCサンプドリアに所属するプロサッカー選手だったが、怪我によってキャリアを終え、以後はデル・ピエロの代理人として活動する。
- 2005年に結婚し、3人の子供を授かっている。
- 音楽好きであり、彼が選曲した楽曲を集めた「デル・ピエロ・セレクション」というコンピレーション・アルバムを制作している。
- 2006年のトリノでの冬季オリンピックでは聖火ランナーを務めた。
- 元日本代表の中田英寿と親交があり、2006年7月の中田現役引退のニュースを聞いた際には、ワールドカップの試合前にもかかわらずインタビューで中田に対してのコメントを残している。
- ヨハン・クライフは「私はどんなイタリアのプレイヤーよりもデル・ピエロを好む。彼のプレーはとてもファンタスティックだ。ただ強いて言うなら彼はイタリアに生まれるべきではなかった。イタリアサッカーは彼がそのプレースタイルのままでいようとすることを許さないだろう。」と評している。
親日家として
親日家としても知られ、2012年7月21日に日本で行われた東日本大震災復興支援2012Jリーグスペシャルマッチにおいて、デル・ピエロ自ら参加を打診してゲストプレーヤーとして先発出場。華麗なボール捌きやスルーパスは健在で、後半25分にはミドルシュートによるゴールを決めるなど37歳とは思えないパフォーマンスを披露し、カシマスタジアムに詰めかけた多くの観客を沸かせた。後半途中に交代した後はシャワーも浴びずにインタビューに直行。去り際には日本国民へ向けて、不慣れな日本語で「ガンバッテ」とエールを送った。帰国前夜にはしゃぶしゃぶを堪能するなど(本人曰く「イタリアでは寿司や刺身くらいしか日本食が食べられないんだ」)、日本通ぶりも垣間見せた。
また、新日本プロレスのファンとしても有名である。好きな選手は「アントニオ猪木」「木村健吾」「藤波辰爾」「タイガーマスク」を挙げている。来日した際に「ワールドプロレスリング」の企画で行われた藤波辰爾との対談では
(そう言って、技のかけ方を教えようとした所)
と言いつつ、藤波の必殺技である「ドラゴンスリーパー」を、少年のような満面の笑顔で喰らっている。更に、対談終了後にタイガーマスクの、サイン入りマスクをプレゼントされると、嬉しすぎてそれを被ったまま空港に現れ
ファンを驚かせた。※尚、マスク姿はユヴェントスの公式HPに掲載され全世界に配信されました。
関連動画
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 青山敏弘
- アンドレス・イニエスタ
- アーセン・ヴェンゲル
- イケル・カシージャス
- 伊東純也
- 稲本潤一
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