アンジェ・ポステコグルー(Angelos Postecoglou、1965年8月27日 - )とは、オーストラリアの元サッカー選手、サッカー指導者である。
元サッカーオーストラリア代表。イングランド・プレミアリーグのトッテナム・ホットスパー監督。
概要
出身はギリシャのアテネ。5歳の頃にオーストラリアのメルボルンへ家族で移住し、以降はオーストラリア人として過ごしている。現役時代のキャリアのほとんどをサウス・メルボルンFCの左サイドバックとして過ごしており、オーストラリア代表としても4試合に出場。とはいえ、選手としての経歴は国際的には無名といえる。
現役引退後はオーストラリアのアンダー代表やクラブの監督としてキャリアを積んでいく。2013年にオーストラリア代表の監督に就任すると、2015年のAFCアジアカップで優勝に導き、2014 FIFAワールドカップでも指揮を執っている。
2018年よりJリーグの横浜F・マリノスに就任すると、就任2年目の2019年にクラブをJ1リーグ優勝に導き、2021年からはスコットランドの名門セルティックFCの監督に就任。2022-23シーズンには国内三冠を達成するなど2シーズンで5つのタイトルを手にし、スコットランドの年間最優秀監督にも選出されている。この功績が認められ、2023年7月からプレミアリーグのトッテナム・ホットスパーの監督を務めるようになった。
ハイライン・ハイプレスの超攻撃的なサッカーを信奉する監督として知られ、同時に選手にパッションを焚き付けて力を引き出させるモチベーターとしても有名。厳つい風貌通りに「威厳を重視したマネジメント」をおこなう監督であり、日本で居た頃はサポーターから「ボス」と呼ばれていた。
ちなみに、法的には10歳の頃に両親によって改名された「アンジェロス・ポステコス」というギリシャ名になっている。もっとも本人はあまり気に入って無いらしいため公には使用していない。
経歴
現役時代
1965年にギリシャのアテネ郊外のネア・フィラデルフィアで生まれ、両親と5歳上の姉の4人家族で幼少期を過ごす。5歳となった1970年にギリシャの軍事クーデターが発端で父ジムが事業を失ったことにより、家族総出でオーストラリアのビクトリア州メルボルンへ移住することになる。
サッカーが好きだった父によくNSL[1]のサウス・メルボルンFCの試合に連れて行ってもらったことがきっかけでサッカーを始めるようになり、9歳となった1974年にサウス・メルボルンの下部組織に入団。
1984年にはトップチームに昇格し、1993年まで所属。NSL王者を決めるチャンピオンシップを1984年と1991年の2度優勝。公式戦193試合19得点という成績を残し、キャプテンも任されている。1989年から1992年にはハンガリーの伝説的なFWだったフェレンツ・プスカシュからの指導を受けている。
代表レベルでは1985年にU-20オーストラリア代表、1986年にはオーストラリア代表として4試合に出場。
27歳のときに負った膝の負傷によって彼のキャリアは事実上絶たれてしまい、ウェスタン・サバーブFCに所属した1994年に29歳で現役を引退。
サウス・メルボルン監督
引退後すぐに古巣のサウス・メルボルンFCのアシスタントコーチに就任するが、1996年に監督へと昇格。ここから監督としてのキャリアをスタートさせることになる。就任1年目で低迷していたチームを立て直し、最終的にシーズン3位にまで上昇させる。
就任2年目からはポール・トリンボリ、ヴォーン・コベニー、コン・ブラツィス、ジョン・アナスタシアディスらの活躍もあって1997-98シーズンと1998-1999シーズンのNSLを連覇している。
1999年にはオーストラリア王者として出場したOFCチャンピオンズリーグで優勝。クラブを初のオセアニア王者に導いている。2000年1月にはブラジルで開催されたFIFAクラブ選手権2000(第1回FIFAクラブワールドカップ)にオセアニア代表として出場。サウス・メルボルンは出場チーム中唯一ノンプロのクラブだったが、流石にマンチェスター・ユナイテッドやヴァスコ・ダ・ガマといった名だたる名門クラブ相手には歯が立たず、3戦全敗に終わる。1999-2000シーズン終了後に退任。
ヤングサッカールーズ監督
オーストラリア国内での監督業での成功が評価され、2000年からヤングサッカールーズと呼ばれるユース年代の強化を任され、U-17オーストラリア代表とU-20オーストラリア代表の監督を兼任することになる。U-17代表では2001年から3大会連続でOFC U-17選手権に優勝。2003年と2005年のFIFA U-17選手権でも指揮を執るが、いずれもグループリーグで敗退。
U-20代表でも2001年から2005年までの3大会連続でOFC U-20選手権を優勝。2003年と2005年のFIFAワールドユース選手権にも出場し、2003年大会ではベスト16まで進んでいる。
しかし、オーストラリアがAFCに移籍して最初の国際大会となったAFC U-17選手権2006で予選敗退となると、続くAFCユース選手権2006でも準々決勝で韓国で敗れ、敗退。U-17に続いて翌年のFIFA U-20ワールドカップの出場権を逃してしまう。すると試合に敗れた直後、TV番組のスタジオ解説者だったクレイグ・フォックスと13分間に渡ってお互いに罵り合うような言い合いに発展。
二世代続けてのアジアでの敗退とインタビューでの口論がオーストラリアサッカー連盟に問題視され、2007年2月に育成年代での仕事を解任となる。
その後はしばらくの間、FOXスポーツの解説者とビクトリア州サッカー連盟のエリートコンサルトをおこなうようになり、監督業から離れることになる。
パナハイキ
2008年3月、生まれた国でもあるギリシャ3部リーグのパナハイキ・パトラスの監督に就任。およそ1年ぶりの監督復帰となったが、同年12月に辞任。ギリシャでの再スタートは1年もたずに終了となった。
ブリスベン・ロアー
2009年10月16日、オーストラリア・Aリーグのブリスベン・ロアーの監督に就任。低迷していたチームの再建のため、まずはスター選手だったクレイグ・ムーアを含めた主力数選手をレギュラーから外すという荒療治に着手し、選手の入れ替えをおこなう。結局就任1年目はレギュラーシーズン9位に終わったが、ポステコグルーの改革が本格的に始まったのは翌シーズンからだった。
2010-11シーズンになると、これまでのチーム戦術をガラリと変えてしまい、勝利とエンターテイメントの両方を追求した攻撃的なポゼッションサッカーを見せるようになる。この改革は見事に成功し、自分を批判した批評家たちを黙らせることに成功。特に第13節のアデレード・ユナイテッド戦での4-0の勝利はAリーグ史上最高のフットボールとしてメディアから高く評価されている。ポステコグルー率いるロアーは36試合連続無敗という驚異的な強さを披露し、レギュラーシーズンに続いてファイナルシリーズも制し、クラブ創設以来初タイトルとなるAリーグ優勝を果たす。当時がペップ・バルサ全盛の時代だったこともあり、このときのロアーはFCバルセロナに例えて「ロアセロナ」と名付けられた。ポステコグルーにとっても自身のキャリアにとって大きな転機となったシーズンとなった。
2011-12シーズンでも高いボール試合率のフットボールを展開。シーズン中にはクラブから2年の契約延長を勝ち取る。レギュラーシーズンこそ2位となったものの、Aリーグ史上初のグランドファイナル連覇を果たし、4つのタイトルを獲得したポステコグルーは、オーストラリア国内で最も成功した監督となった。全てを成し遂げたことで2012年4月24日にロアーの監督を退任することを発表。2年半の在職中、Aリーグの優勝争いを演じることができた上、AFCチャンピオンズリーグ予選にも連続して出場することができた。
メルボルン・ヴィクトリー
2012年4月26日、Aリーグのメルボルン・ヴィクトリーと3年契約で監督を交わす。ロアー時代と同じく自分のスタイルに合わない主力選手を放出し、ハリー・キューウェルやマーク・ミリガンを補強。低迷するチームの再建に着手する。開幕から3試合連続未勝利とスタートに躓いたものの、レギュラーシーズンを3位で終える。ドックランズ・スタジアムで初のグランドファイナル予備戦に挑み、2-1でパース・グローリーに勝利した。続くセントラルコースト・マリナーズには1-0で敗れてしまう。
オーストラリア代表
2013年10月12日、成績不振によって解任されたドイツ人のホルガー・オジェックの後任として、オーストラリア代表の監督に就任。当時のオーストラリア代表は翌年のワールドカップ出場権こそ獲得したものの、2006 FIFAワールドカップで活躍した黄金世代に長らく頼り過ぎた結果、世代交代が遅れていた。ポステコグルーには成績と共に世代交代という使命も課せられていた。
2014年6月にブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップでは前回王者スペイン、オランダ、チリという厳しいグループに入ったが、初戦のチリ戦は低調な内容で敗戦。続くオランダ戦は善戦したものの、接戦の末に敗れ、この時点でグループリーグ敗退が決定。第3戦では同じく敗退が決まっていたスペインの前に完敗。3戦全敗という結果に終わる。しかし、エースのティム・ケーヒルは健在なものの、この難しいグループでの試合の中で新しい世代の選手の芽が出始めていた。
ワールドカップ後も続投となり、2015年1月には自国開催となったAFCアジアカップ2015に臨む。これまでのオーストラリアは高さとフィジカルを前面に出したロングボール主体のパワーフットボールを押し出していたが、ポステコグルーが就任して以降はポゼッションを主体としたパスサッカーへと変貌を遂げていた。グループリーグでクウェートに4-1と快勝、オマーンに1-0と競り勝ったが、韓国には0-1で敗れた。2位でグループリーグを突破したオーストラリアは、トーナメントで中国に2-0、準決勝でUAEに2-0と勝ち抜き、決勝で再び韓国と対戦、延長戦の末、2-1で勝利し、アジアカップ初優勝を果たす。オーストラリアにとってはAFC移転後初のビッグタイトルとなった。また、この大会では自らが就任してから代表に定着させた22歳のマッシモ・ルオンゴが2ゴール4アシストで大会MVPに選出され、世代交代と結果という両方の課題をクリアした。この年、アジア年間最優秀監督賞を受賞している。
2016年9月からスタートした2018 FIFAワールドカップ アジア最終予選では、下馬評通りに日本、サウジアラビアと2枠を争う形となるが、第3節から4試合連続引き分けとなり苦戦を強いられる。それでもサウジアラビアとのホームでの直接対決を制して持ち直すが、大一番となった2017年8月31日のアウェイの日本戦ではヴァヒド・ハリルホジッチ監督の戦略によってポゼッションサッカーが封じられてしまい、完敗。この敗戦が大きく響いてグループ3位に終わる。
それでもシリアとの第三代表決定戦を制し、大陸間プレーオフに進出。最後はホンジュラスとの2連戦をトータルで制し、ワールドカップ本大会出場権を獲得する。しかし、出場を決めた2週間後の11月22日にオーストラリア代表監督からの辞任を表明する。
横浜F・マリノス
2018年よりJ1リーグの横浜F・マリノスの監督に就任。これまで堅守のスタイルが伝統のマリノスにポステコグルーはハイライン・ハイプレスの超攻撃的なサッカーを導入する。これによってチームは爆発的な得点力を発揮するが、一方で極端なハイラインによってCBの位置する最終ライン背後の広大なスペースを狙われ続け、守備の安定を欠いていた。ルヴァンカップでは準優勝となったが、リーグでは過密日程や守備の主軸であった中澤佑二の負傷離脱、戦術と選手層のギャップが要因となり、残留争いに巻き込まれる苦しい就任1年目となった。
ギリシャ代表監督就任の話も挙がったが、2019年シーズンも残留。前年から引き続き、ハイライン、ハイプレスのアタッキングフットボールを展開するも、課題だった守備はチアゴ・マルチンスと畠中慎之助のCBコンビの奮闘によって改善されるようになっていた。攻撃面では仲川輝人が大ブレイクし、優勝争いの一角に食い込んでいく。夏にエースとなっていたエジガル・ジュニオを怪我で失うものの、緊急補強で加入したエリキやマテウスらの途中加入選手を活用することで補っていく。シーズン後半の11戦を10勝1分けという破竹の勢いで上昇し、首位に立つ。日産スタジアムで迎えた最終節は、勝ち点3差で2位のFC東京を直接対決で下し、マリノスに15年ぶりとなるJ1リーグ優勝をもたらす。総得点数68はリーグ最多で、しかもチーム内で仲川とマルコス・ジュニオールの二人が得点王に輝く。ポステコグルーのチーム改革が実を結んだシーズンとなった。
3年目となった2020年シーズンでは、コロナ禍による日程の過密化により怪我人が続出。急造で3バックを採用するなど、前年と打って変わって苦戦する試合が続いた。一時は4位まで浮上したものの最後まで優勝争いに絡むことができず、14勝5分15敗の9位で終了する。
2021年シーズンは序盤から好調を維持し、川崎フロンターレを追走する前半戦となるが、6月10日にセルティックFCの監督に就任することが決まったため、退任。なお、後任に就任したのはサウス・メルボルン時代のチームメイトであり、メルボルン・ヴィクトリー時代にアシスタントコーチを務めていたケヴィン・マスカットだった。
セルティック
2021年6月21日、スコットランド スコティッシュ・プレミアシップの名門セルティックFCの監督に就任する。欧州でオーストラリア人監督の実績が無かったこともあり懐疑的な声が聞かれる中、自らが要望して獲得した古橋亨梧が結果を残し、チームのエースとして定着。12月19日のスコティッシュ・リーグカップ決勝ではハイバーニアンを2対1で破り、スコットランドでの初タイトルを獲得する。冬の移籍マーケットでは旗手怜央、前田大然、井手口陽介の日本人3人を同時加入させ、話題となる。2022年2月2日、ライバルのレンジャーズに3対0で勝利してこのシーズン初のリーグ首位に立つと、そのまま突っ走りリーグも優勝。就任1年目でシーズン二冠を果たし、PFAスコットランド年間最優秀監督とSFWA年間最優秀監督を受賞。また、2021年10月と2022年1月から4月にかけてリーグの月間最優秀監督に5回選ばれている。
2年目となった2022-23シーズンは自らの哲学がだいぶチームに浸透するようになったことで序盤から好調を維持。その中で古橋、旗手、前田の日本人3人が戦術の中で躍動、特に前年の後半戦を怪我で棒に振った古橋は前年を上回る勢いでゴールを量産する。圧倒的な強さを見せたセルティックは、独走状態のままリーグ戦を優勝。2023年2月26日、スコティッシュリーグカップ決勝でライバルのレンジャーズを2対1で破り、2年連続の優勝を果たし、セルティックでの最後の試合となった6月2日のスコティッシュ・カップ インバネス・カレドニアン・シスル戦でも勝利。スコットランドでの国内三冠を達成、2年連続でPFAスコットランド年間最優秀監督とSFWA年間最優秀監督を受賞。
自身初采配となったUEFAチャンピオンズリーグの本戦では、レアル・マドリード、RBライプツィヒ、シャフタール・ドネツクといった強豪のグループに入ったこともあり、1勝もできないまま最下位に終わる。
トッテナム
2023年6月6日、イングランド・プレミアリーグのトッテナム・ホットスパーの監督に就任。ついに世界最高峰のリーグにたどり着いたが、就任早々に長年エースとしてチームを引っ張ったハリー・ケインが移籍。そのためスパーズに対するファンやメディアの評価は低かったが、もう1人のエースであるソン・フンミンをCFにコンバートすることでケインの穴を埋めることに成功。これまで通りの攻撃的な強気のサッカーでシーズン前半戦の台風の目となる。
監督としての成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 順位 | 獲得タイトル |
---|---|---|---|---|---|
1996-97 | サウス・メルボルン | NSL | 3位 | ||
1997-98 | サウス・メルボルン | NSL | 1位 | NSLチャンピオンシップ | |
1998-99 | サウス・メルボルン | NSL | 1位 | NSLチャンピオンシップ | |
1999-00 | サウス・メルボルン | NSL | ? | OFCチャンピオンズリーグ | |
2000~2005 | U-17オーストラリア代表 | - | - | OFC U-17選手権2001 OFC U-17選手権2003 OFC U-17選手権2005 |
|
2000~2007 | U-20オーストラリア代表 | - | - | OFC U-20選手権2001 OFC U-17選手権2002 OFC U-17選手権2005 AFF U-19ユース選手権2006 |
|
2007-08 | パナハイキ | ギリシャ3部 | ※1 | ||
2008-09 | パナハイキ | ギリシャ3部 | ※2 | ||
2009-10 | ブリスベン・ロアー | Aリーグ | 9位 | ||
2010-11 | ブリスベン・ロアー | Aリーグ | 1位 | Aリーグチャンピオンシップ | |
2011-12 | ブリスベン・ロアー | Aリーグ | 2位 | Aリーグチャンピオンシップ | |
2012-13 | メルボルン・ヴィクトリー | Aリーグ | 3位 | ||
2013~2017 | オーストラリア代表 | - | - | AFCアジアカップ2015 | |
2018 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 12位 | ||
2019 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 1位 | J1リーグ | |
2020 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 9位 | ||
2021 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | ※2 | ||
2021-22 | セルティック | S・プレミアシップ | 1位 | S・プレミアシップ スコティッシュリーグカップ |
|
2022-23 | セルティック | S・プレミアシップ | 1位 | S・プレミアシップ スコティッシュカップ スコティッシュリーグカップ |
|
2023-24 | トッテナム | プレミアリーグ |
個人タイトル
- アジア年間最優秀監督賞:(2015年)
- J1リーグ・優勝監督賞:1回(2019年)
- PFA スコットランド年間最優秀監督賞: 2回(2021–22、 2022–23)
- SFWA年間最優秀監督: 2回(2021–22、 2022–23)
指導者としての特徴
ハイライン・ハイプレスのリスキーな超攻撃的な戦術を好む監督であり、メインのフォーメーションは4-4-2、攻撃時の配置は2-3-2-2。SBとインサイドハーフの選手たちが流動的にポジションを入れ替えながら相手MF-DFのライン間を自由に使い、このスペースにできるだけ多くの選手を送り込むことを重視している。ピッチの横幅はWGをタッチライン際に立たせることで確保する。ポステコグルーのボール保持はCBとアンカー、WGは立ち位置を固定させ、その他のポジションはかなり自由度が高い。
マリノス時代はSBが中に入ってビルドアップに加わり、数的優位とスペースをつくって前線のアタッカーへパスを供給する「偽のSB」を導入していたが、セルティックやスパーズではCBがボールを持つと、SBはハーフレーンをスルスルと駆け上がり、多くの相手チームが置いているSH(あるいはWG)の背後のスペースに侵入する。CBと胸を合わせながら離れていく動きが徹底されている。
ただ、細かい配置にこだわっているタイプの監督というわけではなく、試合前に選手に細かい指示を出すタイプでもない。むしろメンタルを高めるような言葉を発し、選手をその気にさせる術に長けている。いわば、ロマン派でモチベーター型の指導者である。そのため選手から慕われやすい。
攻撃も守備も大事な局面では選手の個人の力に委ねている。そのため、相手が格上のチームになると個の勝負で負け、自由過ぎるポジションチェンジが災いしてハイラインの背後を使われて失点を重ねる傾向にある。それでも、強気にハイラインを続け、選手に勇敢な戦いを求める。
関連動画
関連項目
脚注
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 1
- 0pt