アントニオ・サリエリ(1750~1825)とは、古典派を代表する作曲家であり、ある意味モーツァルトの犠牲者でもある。
概要
幼いころ両親から音楽教育を受け才能を発揮した。そのような両親が死去した後、北イタリアのパドヴァ、ヴェネツィアに住み、ヴェネツィアを訪れたフローリアン・レオポルト・ガスマンに才能を見出された。1766年に師であるガスマンとともにウィーンの宮廷に招かれ、以来死ぬまでほぼウィーンを中心に活躍した。
ウィーンでは皇帝ヨーゼフ2世をはじめとした人脈を築き、さらに才能も開花させて音楽界に多大な貢献をしていった。はじめはオペラ・ブッファで成功し、のちにグルックの様式で作曲したフランス語のオペラ『タラール』などがパリで大盛況をおさめ、これらの功績から1788年オーストリアの宮廷楽長となる。ほかにもオラトリオやカンタータ、ミサ曲を含む多くの宗教曲、そしていくつかの器楽曲が知られている。
また教育者としての評価も高く、有名な生徒としてベートーヴェン、シューベルト、リスト、チェルニー、フンメル、モシェレス、マイアベーア、ジュスマイヤー、モーツァルトの息子フランツ・クサーヴァー・モーツァルトが彼の指導の恩恵を受けた。
言ってて悲しくなるけど、ここ読む人そんな記述よりももっと興味があることがあるよね。
モーツァルトとサリエリ
彼とモーツァルトは当時からライバル的な存在であった。そのモーツァルトが35歳という若さで早世したために、当時から彼がモーツァルトを毒殺したのではないかとうわさされることになった。
さらにロシアの詩人プーシキンの詩劇『モーツァルトとサリエリ』でこの二人の関係は一躍有名になる。そして現代、イギリスの劇作家ピーター・シェーファーの戯曲、およびその映画『アマデウス』の一躍ヒットによってサリエリの名とそのスキャンダルは音楽ファン以外にも知られることとなり、モーツァルトを殺したかもしれない男としての名が広まってしまったのである。
もちろん映画はほとんどフィクションであり、彼がモーツァルトにレクイエムを依頼した上に死の床で彼の作曲を口頭記述したり、精神病院で錯乱した最期を迎えたりといったことはなく、普通に19世紀前半までぴんぴんしており音楽・教育活動に従事している。
なお、彼のスキャンダル自体は彼の生前からすでに存在しているが、これが事実かどうかは今の今まで立証されていない。しかし実際の二人の関係は互いを尊敬しあうライバルというものでしかなかったようだ。
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