アントニーン・レイハ / アントン・ライヒャ / アントワーヌ・レイハ(1770~1836)とは、18世紀末から19世紀前半に活動したチェコの作曲家である。
概要
プラハで生まれ、幼い時に楽士だった父親を亡くし、ワレルシュタイン宮廷楽団で活躍していた叔父・ヨゼフのもとで育つ。叔父からヴァイオリン、ピアノ、フルートの手ほどきを受け、1785年にボンに移り住むと、選帝侯楽団の宮廷オーケストラでフルートを演奏する傍ら、ベートーヴェンやネーフェから学んだ。このころにフーガに親しんだとされる。
1789年にはボン大学に入学。数学、物理、哲学を学ぶ一方、ハイドンと知り合った。1794年から1799年にかけてフランス軍がボンを占領したためハンブルクに逃れ、さらに1799年にはパリに移る。そこでオペラの成功を狙ったが、結果は失敗。続いてウィーンに戻るとハイドンと再会。ベートーヴェンとも互いに刺激を与えあい、かの有名な「36のフーガ」を手掛ける。
1808年に再びパリに戻ると、1814年に『旋律論』を発表するなど音楽理論家として活躍。1818年にパリ音楽院の対位法とフーガの教授となり、ベルリオーズ、リスト、フランク、グノーなどを育て上げていった。1824年ごろ発表した『高等作曲理論』の革新性は大きな議論を呼び、パリ音楽院をケルビーニやフェティスといった保守派と、レイハ率いる革新派に二分していった。こうした著作はチェルニーが翻訳し、出版。世界各地に広まっていったのである。
1829年にようやくフランス国籍を取得し、1831年にはレジョンドヌール賞を獲得。1835年にはアカデミー会員に選ばれるが、このころから健康を崩し、そのまま亡くなった。
彼といえばやはりフーガであり、前述した「36のフーガ」が極めて有名である。彼はフーガを
、という3点を必須条件とする一方、
といった様々な可能性を試していったのである。
もちろんこうしたピアノ作品を多く作曲したが、膨大な数の管楽合奏曲も残しており、「36のフーガ」以外にも注目すべきところが多い作曲家なのだ。
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