アントワーヌ・グリーズマン(Antoine Griezmann、1991年3月21日 - )とは、フランスのサッカー選手である。
スペイン・ラ・リーガのアトレティコ・マドリード所属。元サッカーフランス代表。
ポジションはFW。176cm72kg。利き足は左足。
名前の実際の発音は「グリエズマン」らしく、メディア媒体によってこちらの名前で表記されている。
概要
フランスのマコン出身。ドイツとポルトガルにルーツを持っており、「グリーズマン」という姓名はドイツ系の名前である。13歳から1人スペインへ移住し、レアル・ソシエダの下部組織で育つ。これまでのキャリアで母国であるフランスでプレーしたことはなく、ずっとスペインでキャリアを積んでいる。
レアル・ソシエダで頭角を現すと、2014年にアトレティコ・マドリードへ移籍。在籍した5シーズン連続で二桁ゴールを記録し、ラ・リーガを代表するアタッカーとなる。2019年にはFCバルセロナへ移籍するが、クラブの象徴であるリオネル・メッシとプレースタイルが似ていたこともあって持ち味を発揮できず、2021年にアトレティコへ復帰している。2023年にはアトレティコのクラブ最多得点保持者となっている。
フランス代表には2014年にデビュー。準優勝となったEURO2016では得点王を獲得し、大会の最優秀選手に選出。2018 FIFAワールドカップでは通算4ゴールを挙げ、決勝のMOMに選出され、大会のシルバーボールを受賞するなどフランスの二度目のワールドカップ優勝に大きく貢献。2022 FIFAワールドカップでも主力として準優勝に貢献している。
コロコロ変わる派手なヘアスタイルとゴールを決めたときの独特なダンスも有名。日本では2021年には流出した日本人に対する差別発言をした動画が流出したことでネガティブなイメージを持たれている。
経歴
生い立ち
フランス東部のソーヌ=エ=ロワール県マコン出身。父親はドイツ系で母親はポルトガル系のため、出身地のフランスだけでなくドイツとポルトガルのルーツを持っている。母方の祖父がポルトガルでプレーしていた元プロサッカー選手である。父親が役所に勤務していたため比較的裕福な家庭で生まれ育ち、祖父の影響もあって幼い頃からサッカーに興味を持っていた。地元に近いオリンピック・リヨンのファンで、いつかリヨンのアカデミーに入ることを夢としていた。
6歳になった1997年に地元アマチュアクラブのECマコンでサッカーを始める。在籍しながら目標であるプロサッカー選手になるためにプロクラブチームの入団テストを受けるが、体が小さく、線が細かったことから9つのクラブから門前払いにされ、何度も落とされた経験がある。
1999年からはUFマコネーに在籍していたが、転機が訪れたのが13歳となった2005年のときだった。ASサンテティエンヌのトライアルを受けていた際に、スペインのレアル・ソシエダのスカウトであるエリック・オルハツが体は小さいながらも俊敏な動きと正確なキックに目を付け、1週間のトライアルに参加した後に実力が認められ、ソシエダとユース契約を結ぶ。
13歳で1人隣国へ移住することに両親は反対したが、オルハツの説得もあって認められ、昼間はフランスの学校に通い、夕方にはスペインで練習を続ける毎日を過ごすようになる。この頃、後に妻となるエレカ・チョペレナと出会っている。また、周囲を生かしながらゴールとチャンスメイクでチームに貢献し、守備でも献身的に振る舞う現在のスタイルはこの頃に培われたものである。
レアル・ソシエダ
下部組織で順調にステップアップし、18歳となった2009年の夏にBチームへと昇格。プレシーズンでは、トップチームに帯同して試合に出場すると、4試合で5ゴールを決める活躍を見せたことで一躍注目を浴び、2009-2010シーズン開幕後もトップチームに帯同することとなる。2009年9月6日のレアル・ムルシア戦でデビューを果たすと、9月27日のウエスカ戦で初スタメンを飾り、その試合で初ゴールを記録する。この活躍が認められレギュラーを獲得すると、18歳ながら当時セグンダ・ディビジオンに所属していたソシエダの中心選手として活躍。リーグ戦39試合6得点という成績を残し、ソシエダのセグンダ優勝と4シーズンぶりのプリメーラ・ディビジオン昇格に貢献する。
初めてトップリーグとなるプリメーラ・ディビジオンでプレーすることとなった2010-2011シーズンは、背番号を「7」に変更し、前年と同じようにソシエダの主力として実力を発揮。この頃は主に左サイドアタッカーとしてプレーし、前年を上回るチームトップの7ゴールを記録。降格圏までわずか2ポイント差だったが、ソシエダの残留に貢献。
2011-2012シーズンは、同じフランス出身のフィリップ・モンタニエが監督に就任。アーセナルから移籍してきたカルロス・ベラの活躍によって若干影が薄くなっていたが、1シーズン主力としてプレーし、チームに欠かせない選手となっていた。
2012-2013シーズンは、レアル・ソシエダがラ・リーガに大きな快進撃を起こすシーズンとなる。グリーズマンと同世代の若い選手が中心となったチームは、攻撃的なスタイルで堂々たる戦いぶりを見せる。特にベラ、シャビ・プリエトと共に形成した2列目は躍動し、自身にとっては得点力が大きく開花したシーズンとなる。チームの勢いと共に充実したシーズンを過ごし、自身初となるシーズン二桁得点を記録。開幕前は誰も予想していなかった4位という好成績に貢献し、チームは10シーズンぶりとなるUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得する。
2013-2014シーズンはさらに得点感覚に磨きがかかり、セルヒオ・カナレスというアシスト役がチームに加わったこともあってゴールを量産。すでにリーガでもトップクラスのアタッカーという評価を受けていた。CLプレーオフでは、幼少の頃よりのファンだったリヨン相手に先制ゴールを決め、本戦出場に貢献している。しかし、CLグループステージでは力を発揮することができず、インパクトを残せないまま敗退となった。それでも、公式戦50試合の出場して20得点という記録を残し、いよいよビッグクラブが獲得に乗り出すようになり、夏の移籍マーケットの目玉の一人となっていた。そして、ステップアップのために10年間所属したソシエダを離れる決断を下す。
アトレティコ・マドリード
2014年7月29日、前年のラ・リーガ王者であるアトレティコ・マドリードへ移籍することが発表される。移籍金は3000万ユーロ。背番号はソシエダ時代と同じ「7」。開幕当初から2トップの一角としてレギュラーの座を獲得するが、最初はチーム戦術に馴染むことができず苦戦をしていた。しかし、12月頃からディエゴ・シメオネ監督の求める守備戦術をマスターしたことでチームにフィットするようになる。また、ソシエダ時代よりもストライカー的な仕事を求められるようになったことでよりゴールを意識したスタイルへと進化し、移籍1年目で22ゴールという結果を残す。
移籍2年目となった2015-2016シーズンではすっかりアトレティコのエースという地位に定着し、前線からの果敢な守備と持ち前のボールテクニック、高い得点センスによって前年度以上の活躍を見せる。ラ・リーガでは、リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウドという世界最高クラスのプレイヤーと得点王争いを演じるなど、躍動。CLでも、チームトップとなる7ゴールを決め、特に準決勝2nd legのバイエルン・ミュンヘン戦では値千金のアウェイゴールを決め、チームを2シーズンぶりのファイナル進出へと導く。決勝のレアル・マドリード戦ではPK戦の末に敗れ、ビッグイヤーは逃したものの、公式戦54試合32得点というキャリアハイの成績を残し、シーズン終了後にはクラブとの契約を2021年まで延長し、リーガでもトップクラスのサラリーを受ける選手となる。
この年のバロンドールでは、クリスティアーノ・ロナウド、メッシに次ぐ3位という評価を受け、世界的なスター選手としての地位を確立したシーズンとなった。
2016-2017シーズンは、夏に決勝まで戦い抜いたEURO2016の疲労を引きずっていたこともあって躍動した前年と比べると物足りない成績となったが、それでも公式戦通算26ゴールとエースとしての仕事は果たしている。この年、ユースの頃から交際していたエリカとの間に長女が生まれ、2017年8月についに結婚する。また、オフシーズンにはFCバルセロナへの移籍が噂され、一部では移籍決定とまで報道されるが、クラブへの感謝の気持ちからオファーを断り、アトレティコへの残留を表明する。
2017-2018シーズンはクラブの本拠地が移転となり、2017年9月4日ラ・リーガ第4節マラガ戦において、新スタジアム"エスタディオ・メトロポリターノ"における第一号となるゴールを決める。CLではグループステージ敗退となったものの、UEFAヨーロッパリーグでは貴重なゴールを決め続け、2018年4月26日の準決勝1st legアーセナル戦では、勝ち抜けに重要となったアウェイゴールを決めている。5月16日におこなわれたオリンピック・マルセイユとの決勝では、前半21分に先制ゴールを決めれば、後半4分にも追加点を奪う2ゴールの活躍によってアトレティコの3度目となるEL優勝の立役者となる。また、この試合の終了間際にはすでに退団を表明しているクラブのレジェンド、フェルナンド・トーレスを投入するようにベンチに要求する粋な計らいを見せている。
2018-2019シーズンでは、再びバルセロナへの移籍報道が過熱し、周囲が騒がしい中でのシーズンとなる。勝ち切れない試合が続き、タイトル戦線から離脱したチームの中で奮闘。だが、態度をはっきりしなかったこともあってサポーターからは非難の声があがるようになる。そして、2019年5月14日ついに退団を発表。チームやサポーターへの感謝の気持ちを述べたが、最後の試合となった最終節ではサポーターから「出ていけ」という痛烈な罵声を浴びせられることとなった。アトレティコでの5シーズンでは公式戦257試合に出場し、133得点50アシストという輝かしい成績を残している。
バルセロナ
2019年7月12日、以前から獲得に熱心だったFCバルセロナへの移籍が発表される。背番号は「17」。移籍金は1億3500万ユーロとなり、このときのサッカー界では歴代3位となる高額での移籍となった。もっとも、その後移籍に関して両チームの間で対立が起き、後味の悪い契約となってしまった。
大きな期待を受けてのバルセロナ入りだったが、蓋を開けてみると多くのスター選手同様にバルセロナの独特なスタイルへの適応に苦しみ、加えてチーム最大のスター選手であるメッシとプレースエリアが被ってしまうこともあって居場所を見出せず、初ゴールが生まれるまで開幕から1カ月かかった。ルイス・スアレスが負傷で離脱した際は慣れない9番の役割を任されるが、ここでも適用できずシーズン後半戦にはベンチを温めることも多くなり、アトレティコ時代の輝きは消え失せてしまっていた。結局、リーガでは8年ぶりにシーズン一桁得点に終わる失意の1年となり、失望の大きいバルセロナでの1年目となった。
背番号を慣れ親しんだ「7」に変更し、心機一転を図ろうとした2020-2021シーズンも前半戦は状況は変わらず、チームへのフィットに苦しみ、ベンチを温める試合も珍しくなくなる。一部ではメッシとの対立話やシーズン後の放出まで書き立てられ、悩める日々が続いていた。だが、2021年に入ってから徐々に本来の姿を取り戻すようになると、ラ・リーガ第18節のグラナダ戦で2ゴールを奪ったのをきっかけに失った信頼を取り戻し始め、メッシとの連携もうまくいくようになる。4月17日のコパ・デルレイ決勝アスレティック・ビルバオ戦では先制ゴールを決め、自らの活躍により移籍後初タイトルを獲得する。終盤になるにつれて調子を上げていき、特に2021年に入ってからの公式戦では14得点9アシストという目覚ましい活躍を見せ、苦悩の続いたバルセロナでの日々に希望が見えたシーズンとなった。
2021年7月3日、2019年にツアーで日本を訪れた際にウスマン・デンベレと共に日本人に対して差別的な言動をしたと見られる動画が流出。日本はもちろん、フランス国内も含めた世界中から批判が集まり、バルセロナのスポンサーを務める楽天が抗議をし、コナミからはアンバサダーを降板される騒動に発展している。さらに、メッシが電撃退団したことで一部のバルササポーターから批判を受けることに(これに関しては若干理不尽であるが)。
アトレティコ・マドリード
2021年8月31日、古巣であるアトレティコ・マドリードに期限付きで移籍することが発表される。背番号は「8」。長髪を切り、心機一転で古巣に加入するが、以前チームを退団したときの経緯から一部のサポーターからの反感を買い、復帰後初のメトロポリターノでの試合となったCLグループステージ第1節FCポルト戦では味方サポーターからブーイングを浴びせられる。自身の調子も上がらず、四面楚歌の状況に立たされるが、9月28日CLグループステージ第2節ACミラン戦でスタメンから外れるも、途中出場から移籍後初ゴールを決める。続く10月19日の第3節リヴァプール戦では2点ビハインドの局面から2ゴールを決め、同点に追いつくが、その後足裏タックルで退場となる。その後、チームは敗れてしまい、追い上げムードに水を差してしまう。ちなみに、CLで2ゴールを奪った後に退場となったのは史上初。12月12日のレアル・マドリード戦で筋肉系の負傷で離脱すると、新型コロナウィルス感染、1月のコパ・デルレイで再び負傷したことでコンディションを崩し、11月から半年間公式戦でゴールが無いままでシーズンを終えてしまう。
2022-23シーズンも引き続きレンタルでプレーすることになるが、50%以上の試合で45分以上起用すれば4000万ユーロで買い取らなければならないという規約があったため、開幕から結果を残しながらも出場機会を60分以降に制限されていた。しかし、2022年10月10日にバルセロナ側が移籍金の値下げに応じたことで完全移籍が決定する。ワールドカップ後は髪をピンクに染めたヘアスタイルにイメチェン。年明けあがりからフリーマン的な起用をされるようになったことで本来のパフォーマンスを取り戻し、前線の中心選手へとなる。ポジションを争っていたジョアン・フェリックスを追いやる形となり、後半戦だけで10ゴールをマーク。最終的に15ゴール16アシストというハイパスコアを残し、2022-23シーズンのリーガでもっともゴールに関与した選手となった。シーズン後にはクラブの年間最優秀選手に選出。
2023-24シーズン開幕は金髪にイメチェンし、背番号を馴染み深い「7」に変更。引き続きセカンドトップの位置でフリーマン的に振る舞い、コンスタントにゴールを決め、攻撃の中心を担う。2023年10月21日のラ・リーガ第10節セルタ戦ではハットトリックの大活躍を見せ、開幕9試合で7ゴールという理想的なスタートを切る。12月19日の第18節ヘタフェ戦では2ゴールを記録したことでアトレティコでの通算ゴール数を「173」まで伸ばし、クラブのレジェンドであるルイス・アラゴネスに並んでいる。2024年2月から負傷により1か月ほど戦列を離れる。リーガ第37節のヘタフェCF戦では、キャリア2度目となるハットトリックを記録し、3-0の快勝に大きく貢献した]。このシーズンもチームの攻撃の要として公式戦48試合24得点という成績を残し、チームを支えた。
フランス代表
クレールフォンテーヌのようなエリート育成機関で育ったわけではないが、2010年にU-19フランス代表に選出され、この年の7月に開催されたUEFA U-19欧州選手権に出場。グループステージ第2節のオーストリア戦で先制ゴールを決めるなど、フランスの7回目の優勝に貢献している。しかし、翌年のFIFA U-20ワールドカップには所属するレアル・ソシエダで主力としてプレーしていたこともあり、出場していない。
2010年からはU-21フランス代表のメンバーとしても選出されるが、2012年11月の合宿中にヤン・エムヴィラ、ウィサム・ベン・イェデル、クリス・マヴィンガ、エムベイェ・ニアンらと合宿所を抜け出し、夜遊びをするという規律違反を犯してしまう。事を重大と見たFFF(フランスサッカー協会)から2013年12月31日までの1年間全てのカテゴリーにおけるフランス代表の試合への出場停止という厳罰を下される。
処分が解除された2014年3月、ラ・リーガでの活躍が認められフル代表に初招集されると、3月5日のオランダとの親善試合においてフランス代表デビューを飾る。さらに6月1日のパラグアイとの親善試合では代表初ゴールを記録する。2014年6月にブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップでは、負傷によって大会を欠場となったフランク・リベリーの代役として開幕戦の左サイドハーフのレギュラーに抜擢される。ゴールこそ無かったものの、3試合のスタメンで起用、全試合に出場するなどフランスのベスト8進出に貢献している。
その後、フランス代表において主力に定着するようになり、背番号もクラブと同じ7番を着用。2016年6月には地元開催となったEURO2016に出場。グループステージ初戦のルーマニア戦ではスタメンで出場するが、後半21分に交代させられている。第2節のアルバニア戦ではスタメン落ちとなるが、途中出場から試合終了間際に試合の均衡を破る決勝ゴールを決め、決勝トーナメント進出に導いている。スタメン復帰となったラウンド16のアイルランド戦では、1点をリードされた後半にポジションをトップ下に移すと、2ゴールの活躍を見せ、逆転勝利に貢献。以降の試合ではトップ下が定位置となり、準々決勝のアイスランド戦では、大会通算100ゴール目となるゴールを決める。準決勝のドイツ戦でも2ゴールを決め、大会通算ゴール数を6ゴールに伸ばす。決勝ではポルトガルの堅守に抑え込まれ、準優勝に終わったものの、大会最優秀選手賞と大会得点王をW受賞する。
2018年6月には2度目の出場となる2018 FIFAワールドカップ ロシア大会に出場。グループステージ初戦のオーストラリア戦では、自らの抜け出しによって得たPKから自身のワールドカップ初ゴールとなる先制ゴールを決め、この試合のMOMに選出される。ちなみに、この試合のPKがワールドカップ史上初めてVARが採用されてのゴールとなった。ラウンド16のアルゼンチン戦でも先制ゴールとなるPKを決めている。準々決勝のウルグアイ戦では、前半40分にFKでラファエル・ヴァランのゴールをアシストすれば、後半16分には無回転のミドルシュートによる圧巻の追加点を決め、1ゴール1アシストで勝利に貢献し、2度目のMOMに選出。決勝のクロアチア戦では、前半18分にゴール前に送ったFKがマリオ・マンジュキッチのオウンゴールを誘い先制ゴールをもたらす。さらに、前半38分自ら蹴ったCKがイヴァン・ペリシッチのハンドを誘いPKを獲得。これを自ら決め、大会通算4ゴール目を記録。決勝でもMOMに選ばれ、フランスの2度目のワールドカップ優勝に大きく貢献。大会のシルバーブーツ賞、ブロンズボール賞を受賞する。
2021年6月に開催されたEURO2020では、キリアン・エムバペ、5年ぶりに代表復帰したカリム・ベンゼマと強力な攻撃ユニットを結成して出場。グループステージ第2節のハンガリー戦では、1点リードを許した後半21分に同点ゴールを決め、チームを敗戦から救っている。ラウンド16のスイス戦でもカリム・ベンゼマのゴールをお膳立てしているが、チームはPK戦で敗れ、よもやのラウンド16敗退となった。
2022 FIFAワールドカップ・カタール大会では、中盤に怪我人が続出したチーム事情もあって従来よりも下がり目の位置でプレーすることになる。そのため、どちらかといえば黒子に徹していたことが多かったが、強力なアタッカー陣にボールを届ける役割や献身的な守備で欠かせない存在となっていた。特に準々決勝のイングランド戦では、オーレリアン・チュアメニのスーパーゴールと正確無比なクロスでオリヴィエ・ジルーのヘディングシュートをアシストする活躍を見せる。決勝のアルゼンチン戦では体調不良のため本来の出来とは程遠く、後半26分で交代となる。
フランス代表には2017年6月以降、84試合連続出場という世界記録を保持していたが、2024年3月の親善試合を怪我の為に辞退したことで途切れることとなった。2024年6月にはドイツで開催されたEURO2024のメンバーに選出。開幕からスタメンとして起用されたものの、調子が上がらず、グループリーグ第3節のポーランド戦では控えに回ることになる。その後はスタメンに返り咲くが、準決勝のスペイン戦では再びスタメンを外れる。結局全試合に出場はしたものの、最後までらしさを見せられなかった。
2024年9月30日、自身のSNSにおいてフランス代表からの引退を表明。代表通算133試合47得点。代表史上最多となる30アシストを記録している。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2009-10 | レアル・ソシエダ | セグンダ | 39 | 6 | |
2010ー11 | レアル・ソシエダ | リーガ・エスパニョーラ | 37 | 7 | |
2011ー12 | レアル・ソシエダ | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 7 | |
2012-13 | レアル・ソシエダ | リーガ・エスパニョーラ | 34 | 10 | |
2013-14 | レアル・ソシエダ | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 16 | |
2014-15 | アトレティコ・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 37 | 22 | |
2015-16 | アトレティコ・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 38 | 22 | |
2016-17 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 36 | 16 | |
2017-18 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 32 | 19 | |
2018-19 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 36 | 15 | |
2019-20 | バルセロナ | ラ・リーガ | 35 | 9 | |
2020-21 | バルセロナ | ラ・リーガ | 36 | 13 | |
2021-22 | バルセロナ | ラ・リーガ | 3 | 0 | |
アトレティコ・マドリード(loan) | ラ・リーガ | 29 | 3 | ||
2022-23 | アトレティコ・マドリード(loan) | ラ・リーガ | 38 | 15 | |
2023-24 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ | 33 | 16 | |
2024-25 | アトレティコ・マドリード | ラ・リーガ |
個人タイトル
プレースタイル
レアル・ソシエダでプレーしていた頃は左アウトサイドが主戦場の選手だったが、アトレティコ・マドリードへ移籍して以降はセカンドトップが適正ポジションとなっている。
前線から中盤に降りてきて、頻繁にゲームメイクに関与し、動き直してゴール前に入り込む動きを得意としている。ライン間やハーフスペースなど適切な位置でボールを受け、身体能力よりも卓越したボールコントロールで相手を翻弄し、味方とのコンビネーションを使ってドリブルを仕掛たり、ゴール前へ飛び出すタイプ。ターンやフリックといった技術で攻撃のリズムを変える。スペースよりも足元でボールを受けることを好む。
ゴールパターンは味方とのワンツーやスルーパスに反応して裏へ抜け出すことが多い。また、左足からパンチ力のあるミドルシュートを武器としており、遠い位置からゴールを狙うこともできる。左足でコースを突いた丁寧なシュートもあり、ゴールパターンは豊富。また、自身もパスで味方を操るゲームメイク能力を有しており、正確なクロスでアシストすることも多い。フリーランニングの質も高く、味方のためにスペースを作り、主役になることも脇に徹することもできる。
一方、体格に恵まれていないためDFを背負った状態でのプレーが苦手で、ポストプレーは得意ではない。サイドでのプレーは可能だが、1トップとして起用されるとほぼ持ち味が出せなくなる。
守備面での貢献度の高さもセールスポイントの1つで、アトレティコ・マドリードでシメオネ監督に鍛えられているためボールホルダーに厳しく寄せることができ、自陣深い位置に戻ってDFを助けることも多い。インテンシティも高く、スター選手ではあるが非常に献身的。
エピソード
- 子供の頃から好きなクラブはオリンピック・リヨンで、リヨン黄金期にエースストライカーだったソニー・アンデルソンが子供の頃のアイドルだった。また、デイヴィッド・ベッカムも憧れの選手で7番を愛用していることと、長袖のユニフォームなど影響を受けている。
- ゴール後に行うダンスセレブレーションはカナダのミュージシャンドレイクの楽曲「Hotline Bling」から来ている。
- イケメンでヘアスタイルが頻繁に変わることでも知られている。デビュー当初は普通の短髪だったが、2013年頃に金髪のソフトモヒカンにイメチェン。2015年にはアシンメトリーのツーブロックを横に流す素スタイルとなり、その後丸坊主となる。2016年後頃から髪を伸ばすようになり、パーマをあてたディエゴ・フォルラン風のヘアスタイルとなる。2018年には再び坊主頭となるが、バルセロナに移籍後はまた髪を伸ばし、2021年にはポニーテール姿となっていた。
- ユース時代からプレーしていたレアル・ソシエダのことを愛しており、ソシエダ相手にゴールを決めたときはセレブレーションをやらない。
- 育成組織からプロに引き上げてくれた監督が、ウルグアイ人のラサルテ氏であること、アトレティコ時代チームメイトだったディエゴ・ゴディンと非常に仲が良かったことからウルグアイを「第二の故郷」と呼ぶほど敬愛している。ロシアW杯のウルグアイ戦でゴールを決めたときも喜びを見せなかった。一時期フォルランのような髪型だったのもウルグアイへの敬意なのだろう。
- サッカー界屈指のゲーム好きとして知られ、特に子供の頃は「遊☆戯☆王」にハマっており、アニメのファンでもある。2021年6月にはコナミが展開する『遊☆戯☆王トレーディングカードゲーム』のアンバサダーに就任。そのとき目を輝かせて『遊☆戯☆王』愛を熱弁している。ちなみに好きなキャラは城之内克也とのこと。しかし、前述した日本人に対する差別発言をした動画が流出したことでわずか1か月も立たないうちに降板させられる。
- アメリカンスポーツの大ファンであることを公言しており、ヨーロッパでは人気のない野球も観戦している。MLBでプレーする大谷翔平のレアカードを入手した際は感極まった様子の動画を自身のツイッターに投稿している。
関連動画
関連項目
- サッカー / サッカー選手
- フランス / ドイツ / ポルトガル
- サッカーフランス代表
- レアル・ソシエダ
- アトレティコ・マドリード
- FCバルセロナ
- EURO2016
- 2018 FIFAワールドカップ
- イケメン
- 遊☆戯☆王
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