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アントンアレンスキー
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アントン・アレンスキー1861~1906)とは、19世紀に活躍したロシア作曲で、サンクトペテルブルク音楽院の音楽的、モスクワ音楽院の西欧的な音楽性の折衷的な作で有名な人物である。

アレンスキーの生涯

1861年ノヴゴロドで4人兄弟の3人に生まれ、幼少期はピアニストの母親からピアノを習った(ちなみに父親医師だがチェロをたしなんでいる音楽一家である)。79年に一家総出でサンクトペテルブルクに移り、そのまま同地の音楽院に入学リムスキー=コルサコフらから作曲を、ヨハンセンから対位法を師事し、82年に金メダルをもらって卒業した。学友から見た彼の印は、芸術家らしい、情熱的で中になりやすい、気ままな欲望に支配される自制心に欠けた人、というものであった

と、ここまではロシア五人組をはじめとした民学の強い人物だったのだが、卒業モスクワ音楽院の教師となると、同地でチャイコフスキータネーエフらから強くを受け、彼らを作曲の手本とした。その結果リムスキー=コルサコフの不を買うのだが、逆にモスクワ音楽院の人々にサンクトペテルブルク音楽院の作に理解を示させる端緒にもなった。また演奏にも熱中し、技巧的ではなくは強かったものの、ピアニストとして成功をおさめたようだ。

そのまま同地でラフマニノフスクリャービンメトネルグリエールグレチャニノフゴリデンヴェイゼルらを師事し送り出し(スクリャービンとは仲たがいをするが)、95年からはバラキレフの後任でサンクトペテルブルクに戻り宮廷合唱団の学長を務めるのだが、精神病、賭博といった生活の乱れが年々強まり、晩年には結核を患い41歳の若さで亡くなった。

アレンスキーの音楽性

チャイコフスキー音楽からのから「エピゴーネ(独創性のない模倣者)」と評され、またロマンから、「折衷義」と非難されることもあった。師であるリムスキー=コルサコフからも『青年時代は私の下から逃げようとしなかったが、その後チャイコフスキーされるようになり、彼はすぐに忘れられるだろう』と回想録に記されるほど辛い評価を得ている。

しかし、チャイコフスキーダイナミズムやドラマティシズムは受け継がず、ロシア音楽サロンの雰囲気をうかがい知ることができる、繊細で優美なメロディーの作品が多い。また、演奏会を開く程度にはピアノの腕前に優れ、カンティレーナ作品と呼ばれる抒情的な作の作品群はラフマニノフメトネル、初期のスクリャービンに強くを与えることとなった。

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アントン・アレンスキー

1 ななしのよっしん
2023/02/01(水) 15:16:26 ID: hUAzmYMUek
アレンスキーにはシリンダーに録音された演奏が残っている。ピアノ三重奏曲第一番等の演奏で、それなりの数が残っている。録音状態は極めて悪いが、重な記録となっている。特にピアノ三重奏曲の演奏は初演からそれ程経っていない頃に録音されたと思われるので、(アレンスキーを除けば初演時とは顔ぶれが違うが)興味深い物となっている。
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