アンネ・フランク(1929~1945)とは、ナチス政権下で活動したユダヤ人の女性である。本名はアンネリース・マリー・フランク。
概要
ナチス(NSDAP)ドイツ政権下においてホロコーストの犠牲となった100万人以上の子供のうちの一人。ユダヤ人として生まれたためにナチスに迫害され、逃亡生活の末に投獄されて短命に終わった悲劇の少女である。
逃亡生活の最中に彼女が書き記した日記は日本を含む世界各国で書籍化・販売されており、学校によっては教材として扱っている所もあるため、幼い頃に習った諸氏も多いのではなかろうか。
生涯
1929年6月21日、ドイツの中央西部に位置するヘッセン州フランクフルトにて純粋なユダヤ人として誕生。出産は前日の夕刻から午前7時まで掛かるという大変な難産で、しかも当初は男の子と間違われていたという。記録には「生まれた時から何処か女の子らしからぬ感じがあった」と記されている。家族構成は父オットー、母エーディト、3歳年上の姉マルゴット、そしてアンネの4人であった。フランク一家はユダヤ人ではあったがユダヤ教にはそれほど熱心ではなかったらしい。アンネ誕生の翌年に家族は市内のガングホッファー街24番地へ移住。そこには姉妹のために用意した、前より立派な家が建っていた。何事も控えめで大人しいマルゴットとは対照的にアンネは男の子のようにやんちゃで無邪気、少しきまぐれな性格だったようで、しばしば母親や家政婦の頭を悩ませた。
当時のドイツは第一次世界大戦後に締結された忌まわしきベルサイユ条約に縛られ、景気はどん底、驚天動地のハイパーインフレが襲って国内の経済はメチャクチャであり、失業者があふれ返っていた。
アンネが4歳になった1933年、アドルフ・ヒトラー率いるNSDAPが政権を掌握した事で一家は破滅の運命へと転がり落ちてゆく。第一次世界大戦の敗因はユダヤ人にあるとし、国内のあらゆる問題を押し付けたNSDAPは様々な追放政策を打ち出し始める。元々国内に反ユダヤ感情が渦巻いていた事もあり追放政策は滞りなく浸透。このためフランク一家は徐々にドイツ国内に居づらくなってきた。幸いオットーには仕事上のコネがあり、それに頼ってオランダのアムステルダムへ移住する事を決意。
まず最初にオットーがアムステルダムへ行き、ジャム作りに使うペクチンの取引会社オクタペを設立。生活費を稼ぐべく必死に働いた。その間、妻子は母方の実家があるドイツの田舎町アーヘンに身を寄せる。かろうじて収入が安定したので、1934年2月に残る家族もフランクフルト郊外のアパートを引き払い、アンネたちも移住。翌年からは個性と自由主義を教育方針とするモンテッソリ幼稚園に通い始める。アンネはオランダ語を覚え、友達を作り、近所にあるモンテッソリ小学校に進学。2年生になった1936年より病気で学校を休みがちとなり、3年生に進級した時もそれは変わらなかった。生活は豊かではなかったが人並みの幸せは確かにあった。収入を増やすべくオットーはイギリスでも起業しようとしたが失敗、代わりに取り扱う商品に香辛料を加えた事で収入が増え、生活基盤は確たるものになったが――オランダへ移住してもなお、ドイツの影は一家の前に姿を現すのだった。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻した事で第二次世界大戦が勃発。ドイツは英仏連合軍と戦争状態に入った。当初オランダは中立を表明していたが、連合軍の航空機の通過を認めるなど明らかに英仏寄りの態度を取ったため、ドイツに攻める口実を与えてしまった。そして1940年5月10日、フランスを攻めるための進軍路にするべくドイツはアンネのいるオランダに宣戦布告、空挺降下による電撃的な侵攻により僅か5日でオランダ軍が降伏してしまい、全土がドイツに支配される事となった。さっそくユダヤ人の生活を困難にする制約が発布される(例えばユダヤ人に公園、映画館、商店などの出入りを禁じるなど)。オットーは立ち上げた会社がドイツに奪われる事を予期し、信頼出来る友人のコープバイスとクラーレルに譲渡する。そして日を追うごとに迫害政策は激しさを増していった。船で亡命する手も残されていたが、船の少なさから失敗する者が後を絶たなかったという。
オランダでは9月に各種学校の入学式が行われる。1941年9月、アンネはモンテッソリ小学校を卒業してユダヤ人中学校へと進学した。隔離政策により中学校に通う生徒は全員ユダヤ人であった。この頃になるとドイツの迫害政策は苛烈を極め、ユダヤ人に同調してストライキを行っていたアムステルダム市民にも命の危険が及ぶようになったため、次第にユダヤ人をかばう言動は少なくなっていく。夜になるとピーポーピーポーという救急車のサイレンのような音を鳴らしながらゲシュタポの車が巡回。隊員がユダヤ人を家から引きずり出して乱暴に連行し、サイレンとともに夜の闇へと消えていく。いつしか無人の家が目立つようになってきた。
隠遁生活の始まり
1942年6月21日、13歳の誕生日にアンネは父親から格子柄の日記をプレゼントされた。それから間もない7月5日、姉マルゴットにNSDAPが運営する労働キャンプ(ヴェステルボルグ収容所とも)への招集がかかる。両親はこの招集が労働のためとは信じず、かねてより用意していた隠れ家――かつてプリンセン運河263番地にあった会社の後ろの離れ家――へ逃げ込む決意を抱く。7月6日午前7時、大雨が降りしきる中、まず最初にマルゴットが通学を装って家を出る。通学鞄の中には日用品がギッシリと詰め込まれていた。30分後、続いて一家が玄関の鍵を閉めて脱出。少しでも服を持っていくためマルゴットもアンネも“まるで北極にでも行くかのように”何重にも着込んでおり、パンティーを3枚履いた上からドレスとスカートを履き、靴下は二重、頭には毛糸の帽子、首にはスカーフを巻いた。目立つ危険性を避けるためトランクやスーツケースは使えなかったのだ。隠れ家には連れていけない飼い猫のモールチェは1ポンドの肉とともに家へ残される。
家から隠れ家までは4km。辺りを窺いつつ、雨に濡れながら建物の陰から陰へと注意深く移動する。緯度の高いオランダと言えど夏に重装備を着込むのは大変な苦痛だった。幸運にも誰にも怪しまれる事無く一家は隠れ家まで辿り着き、隠遁生活を始めた。会社の上階に設置された本棚の裏に秘密のドアが隠されており、その先にある階段を昇ると4つの部屋と屋根裏部屋が姿を見せる。これが隠れ家であった。元の住居には「スイスに亡命する」という旨の偽手紙を置いていたので逃亡を深く追及されずに済む。引っ越しから一週間後、オットーの仕事仲間だったヘルマン・ファン・ペルスが妻子を連れて合流、彼らとの共同生活を始める。またオットーに雇われていた4名の元会社員が危険を冒してまで食糧や生活必需品を運んできてくれた。11月には歯科医のフリッツ・プフェファーと家族が共同生活に加わり、計8人になった。狭い部屋に3世帯が同時に住み、ゲシュタポに見つからないよう息を殺し、時々連合軍の爆撃もあるなど過酷な隠遁生活は大人にとっても辛く厳しいものだった。泥棒に貴重品や食糧を盗まれる事もあったが警察に言う訳にはいかず、むしろ盗難被害よりも泥棒に人の気配を察知されてゲシュタポに通報される方が恐ろしい。
アンネは印象的な出来事や思った事を日記につけた。時には自作の物語や小説、ヴィーナスのような女性の裸に興奮するといった思春期特有の下ネタジョーク、お気に入りの本の一節、母親への反発やペルス一家とプフェファー一家の軋轢なども書き連ねている。日記を書く事は辛い隠遁生活を送る上で慰めであった。
1943年4月30日夜に行われた連合軍の爆撃は凄まじかった。ドイツ軍の高射砲が唸るたびに隠れ家のビルは列車のように振動、あまりの恐怖にアンネは非常用の持ち出し鞄を持って4回も隠れ家から飛び出そうとしたが、寸前で母親に止められている。どれだけ危険が迫ってもフランク一家は外へは逃げられないのである。爆撃によって生じた火災も一家にとっては脅威だった。隠れ家が焼失してしまうとゲシュタポに見つかってしまうからだ。他にも、ドイツ軍はイギリス軍に対して「もし上陸してきたら全ての水門を開いて洪水を起こす」と警告しており、全人口の約6割が水位以下に住んでいるオランダ国民にとって水門を開く事はノアの洪水を起こすのと同義であった。隠れ家は上階にあるので水没こそしないが土台部分は押し流されてしまうだろう。1944年3月末、イギリスに亡命していたオランダ政府の教育大臣が、ラジオを通じて戦時中の日記や記録を残しておくよう促す。それを聞いた彼女は日記に「後ろの家」という題名をつけて1つの物語にまとめる事にした。オランダ政府曰く日記や記録は公開されるという事で、プライバシーを考慮してか登場人物の何名かは名前を変え、日記の内容は架空の友人「キティ」に宛てた手紙という体裁を取って物語性を持たせている。日記帳の他にルーズリーフにも文章を綴った。また、アンネは年頃の乙女らしく、ペルス夫妻の一人息子ピーターに恋心を寄せており、日記の中にこっそり登場させていたとか。現実世界においても二人の仲は進展し、4月16日にはファーストキスまでしているが、愛を注ぐピーターとは対照的にアンネの心は次第に彼から離れていった。
逮捕、収容所での暮らし
清書が終わりかけていた1944年8月4日、アンネたちが隠れ住んでいた家がドイツの秘密警察ゲシュタポに発見されてしまう。どうやら匿名希望の情報提供者がいたらしく、関係者に裏切り者が潜んでいたとされるが、現在に至るまで誰が裏切ったのかは分かっていない。踏み込んできたゲシュタポの隊員カール・ジルバーバウアーとオランダ人警察官2名はフランク一家を逮捕。ゲシュタポは「手回りの品物を早くまとめろ」と命令した。この際に貴金属類や宝石は没収された上、彼らは手土産で持っていくのに鞄を必要としていたため、アンネが持っていた非常用持ち出し鞄の中身を床にぶちまけて貴重品を入れた。そしてアンネの日記は破棄されてしまった…と思いきや一緒に住んでいた2名の元社員が一部を隠したため完全な喪失は免れた。
身柄を拘束されたフランク一家と同居人4名は8月8日にオランダ北部ドレンデ州ヴェステルボルグ収容所へ移送。昼間は厳しい労働が課せられたが、18時以降は家族全員が顔を合わせる事が出来たため、オットーは「ちょっと奇妙に聞こえるかもしれないが、収容所での暮らしは隠れ家での生活より我慢しやすかった。天候は良いし、アンネとマルゴットは同年代の子供たちと一緒に暮らす事が出来た」と回想記に述懐している。意外な事に収容所の方が隠遁生活より良かったのだ。アンネもまたこれまでの分を取り戻すかのように、太陽の下で新鮮な空気を吸いながら同年代の友と語り合った。だがこの一握りの幸せも1ヶ月しか続かなかった。間もなく収容所の全ユダヤ人に移動命令が出され、9月3日にドイツ占領下ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所行き列車に乗せられる。彼らは長々と連なった家畜用貨車に乗車、1車両につき70~100人が詰め込まれ、鉄の引き戸には外から鍵が掛けられた。貨車内には手の届かぬ場所に換気用の鉄格子付き小窓が1つあるだけでトイレは無い。昼夜兼行で走り続け、2日後に1019人のユダヤ人を乗せた列車がアウシュヴィッツに到着、ここで男女ごとに選別を受けてエーディトやマルゴットと女子労働施設に収監された。絶望的状況下においてもアンネは勇気と元気を持っていた。何時間も続いた収容所内での辛い行進にも泣き言一つ漏らさず整然とこなし、乏しい食糧を姉や母に分け与え、時には赤の他人にもとっておきの小さなパンきれを渡した。
10月末、若くて労働力となりえるアンネやマルゴットは母親と引き離され、アウシュヴィッツから列車に乗って11月初旬にドイツ北部ツェレ付近のベルゲン・ベルゼン収容所に移送。ハンブルクから南へ約80km、カッコウの鳴く林の中の村にあるベルゲン・ベルゼン収容所は、その自然豊かな環境とは対照的に一つの地獄を作り出していた。とにかく何も無いのである。敷地内を取り囲む有刺鉄線とサーカス団のようなテントがあるだけで、バラックもトイレもガス室も焼却炉も無い。またベルゲン・ベルゼンは元々1万人分の収容能力しか無かったが、東部戦線の崩壊に伴ってポーランド方面から多数のユダヤ人が移送され、その数は6万人にまで膨れ上がった。当然食糧や飲料水は不足、既に囚人が衰弱し切っていた事もあって伝染病が流行り、冬になると凍てつくほどの寒波が襲来。囚人たちが朝目覚めてまず最初にする事は、昨日まで動いていた仲間の死体の処理作業だった。そのような過酷な環境で姉妹が長生き出来るはずがない。やがて姉妹ともども発疹チフスに罹患。
1945年1月にエーディトがアウシュヴィッツで餓死、2月にマルゴットが病死し、3月21日には後を追うようにアンネも病死した。享年15歳。姉妹の遺体は集団墓地に放り投げられ、遺体の特定を不可能にしてしまった。共同生活を送っていた仲間も収容所で全員死亡している。
その後
隠れ家に住んでいた者の中で唯一生き残ったのはオットーだけだった。戦後の1945年6月3日にアムステルダムへ戻ってきた彼は、7月にベルゲン・ベルゼン収容所にいた人物からマルゴットとアンネが死亡した事を告げられた。その後、元秘書で隠れ家に食糧を届けるなどの支援活動をしていたミープ・ヒースと出会い、ゲシュタポから隠した日記の一部(アンネが書いた5冊のノートと約300枚の紙束)を受け取る。マルゴットも日記をつけていたようだがこちらは発見されていない。
娘が遺した日記と悲劇を後世に伝えるべく、オットーの尽力で日記を書籍化。1947年6月25日に『後ろの家』というタイトルでオランダのコンタクト社から出版。関係者や知り合いにも配った。この初版は家族への批判やエロ描写などを排除し、当たり障りのないよう編集を加えたものである。発売後、口コミで次第に人気が出始め、いつしか社会的人気を獲得。様々な言語に翻訳されて世界中でベストセラーとなった。しかし重苦しい内容から、アメリカの出版社だけは販売に後ろ向きだったという。
1959年、ベルギーの育種家ヒッポリテ・デルフォルヘはスイスを旅行していた時にオットーと出会った。アンネの日記に感銘を受けていたヒッポリテは自身が生み出したバラの中で最も美しい品種を「アンネの形見」として捧げたいと提案し、オットーの賛同を得た事で1960年にアンネのバラという名で品種登録された。5月から12月にかけてサーモンピンクや橙色の花を咲かせる。日本へは1975年12月25日にオットーからバラの苗10本が寄贈されたものの、このうち9本は枯れてしまい、唯一生き残った1本のみが京都の嵯峨野で開花。1975年秋、「アンネのバラを育ててみたい」と杉並区の高井戸中学校の要望でオットーから更に苗10本(中学校には3本)が贈られ、これを機にキリスト系の学校で栽培されるようになった。
新発見された5ページを加え、更に初版で削除を喰らった部分を復活させた“完全版”アンネの日記が1988年に発売。現在書店で販売されているのはこの完全版である。2014年初頭、東京都内の図書館で何者かがアンネの日記やホロコースト関連の書籍のページを破るという破損事件が発生。後に犯人の男が逮捕された。捜査の結果、犯人は心神喪失状態と認められて不起訴となり、また動機に関してネオナチや人種差別の思想ではないと結論付けられている。
2016年、歴史的資料としての価値を見出され、オランダ戦争資料研究所と隠れ家を改装した博物館が協同で調査したところ、新たに2ページを発見。その2ページには黒塗りして隠した下ネタジョークや性的描写が書き綴られていた。アンネ本人が隠したかったページを公表した件について、博物館側は「アンネの日記に対する学術的関心の高さ」「(エロ描写を出しても)アンネのイメージは変わらない」と説明している。世界中に黒歴史を晒された彼女の悲劇を忘れてはならない。
ちなみにアンネが通っていたアムステルダム市内ニールス通りのモンテッソリ・スクールは現在アンネ・フランク・スクールと呼ばれている。
関連項目
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