イギリスの鉄道とは、グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国における鉄道である。
なお、本稿では基本的にグレートブリテン島及びそれに付帯する島々の鉄道に限って解説する。北アイルランドの鉄道は軌間がアイルランドの鉄道と同じ1600mmであり、そちらとの結び付きが強いためである。
基本データ | |
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鉄道を意味する 言葉 |
Railway(英語) Rheilffordd(ウェールズ語) |
創業 | 1825年 ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道 |
軌間 | 1435mm |
営業キロ | 17,052km[1] |
電化キロ | 3229km(AC25kV:50Hz) 2035km(DC750V) |
複線化キロ | 11,885km |
概要
鉄道の発明により、人々はその土地から離れ、新しい人々や、物や思想に触れることが出来るようになった。イギリスは世界で最も古くに蒸気機関車による鉄道が開通した、鉄道発祥の地である。しかし、鉄道の近代化には立ち遅れ、信頼性は大きく落ち込んでしまった。その一方で産業革命の遺産として各地で保存鉄道が残り、蒸気機関車と未だ手軽に触れ合えることは大きな魅力となっている。
イギリスの鉄道の特徴としては、電化区間が少ないことが挙げられる。欧州の国々では営業キロの内半分以上が電化されていることが多い[2]が、イギリスは当てはまらない。ほとんどはディーゼル機関車や気動車による列車である。この理由は定かではないが、イギリスでは架線が景観を損なうので余り積極的に電化されないのではないか、とよく言われる。電化路線も40%ほどが第三軌条方式[3]である。HST[4]はあまり電化されていないイギリスならではの車両である。ただ、最近は環境に配慮して少しずつ電化していこうという動きが見られる。
![]() イギリス国鉄・ロゴマーク 「ダブル・アロー」[5] |
イギリスの鉄道のサービス
イギリスの鉄道は25以上の鉄道会社によって地域別に運営されているが、発券システムは統一されているので列車がどの鉄道会社のものかを気にする必要はあまりない。料金は1等、2等の区別はあるが、特急・急行・各駅停車の区別が無く、総じて高めである。1等は2等の料金の1.5倍ほど。
高めの運賃であるが、各種パスや事前予約による割引が豊富なため、うまく使いこなせば旅を安く済ませることができる。ただしややこしい。
イギリスの鉄道の仕組み
「歴史」項の「民営化」の部、「イギリスの鉄道のこれから」の部でも述べるが、イギリスの鉄道網は日本の鉄道網とは異なり、「上下分離方式」が取られている。即ち、線路を保有している会社と列車を運行させている会社が異なる。
現在、イギリスの鉄道網の大部分を管理しているのはネットワーク・レール社という事実上公営の企業であり、事実上国が管理している。路線・設備の保守管理についてもネットワーク・レール社が行なっている。
一方、旅客や貨物の輸送業は民間企業が行なっている。旅客輸送はフランチャイズ制で交通局から地域ごとに競争入札で認可を受ける形になる。貨物輸送については大部分を4つの運行会社が行なっており、DBシェンカー(DB Schenker)鉄道[6]が最大のものとなっている。その他に小規模な運行会社も存在する。
隣接国の鉄道との接続
イギリスと欧州大陸のフランスの間に存在するドーバー海峡の海中には世界一海底部の総距離が長い海底トンネルの「英仏海峡トンネル」があり、フランス、ベルギーとの直通列車が存在している。
アイルランドにおいては、北アイルランドのベルファストからアイルランドのダブリンを結ぶ国際列車「エンタープライズ(Enterprise)」が存在している。
国際鉄道連絡船も存在しており、イギリス・ハリッジ(Harwich)国際港~オランダ・ホーク・ファン・ホランド(Hoek Van Holland)港を結ぶオランダとの鉄道連絡船やアイルランドへの鉄道連絡船がある。
イギリスの鉄道と遅延
イギリスの鉄道は遅延がひどいことで有名である。発車・到着の10分遅れは当たり前であり、30分以上遅れることもざらにある。平日と休日のダイヤは極端に違い、休日に保線作業を行なっているため、突然運休になり振替バスが用意されたりする。イギリスの人々は寧ろ鉄道が遅れるのは当たり前で時刻表は単なる目安、と考えているらしい。
"The wrong type of snow"(雪の間違ったタイプ:The wrong kind of snowとも)[7]は鉄道が遅れた際の言い訳として有名である。
ロンドン市内の鉄道
ロンドンのターミナル駅
イギリスの首都ロンドンにはロンドン・ステーション・グループと呼ばれる18のターミナル駅がある。ターミナル駅が複数ある都市は珍しくないが、ロンドンは群を抜いて多い。
鉄道狂時代(歴史項にて詳述)に作られた鉄道網はすべて民間資本が建設したものであった。その為に各鉄道会社は競ってターミナル駅を建設したのである。18のターミナル駅はロンドンの中心部を取り囲むようになっており、それぞれの駅間は地下鉄によって結ばれている。
- ブラックフライアーズ(Blackfriars)
- キャノン・ストリート(Cannon Street)
- チャリング・クロス(Charing Cross)
- シティ・テムズリンク(City Thameslink)
- ユーストン(Euston)
- フェンチャーチ・ストリート(Fenchurch Street)
- キングズ・クロス(King's Cross)
- リバプール・ストリート(Liverpool Street)
- ロンドン・ブリッジ(London Bridge)
- メリルボーン(Marylbourne)
- ムーアゲート(Moorgate)
- オールド・ストリート(Old Street)
- パディントン(Paddington)
- セント・パンクラス(St Pancras)
- ヴォクソール(Vauxhall)
- ヴィクトリア(Victoria)
- ウォータールー(Waterloo)
- ウォータールー・イースト(Waterloo East)
「おれさまがわかかったころ、ロンドンにいったことがある。駅は、キングズ・クロスっていうんだ。しっているかい?」
と、機関車たちがロンドンの駅はどこかについて言い争いをする場面がある。実は3台は自分の所属していた鉄道会社の駅をロンドンの駅だと言っており[8]、暗に自分の所属していた鉄道会社が一番であるという比喩になっている。それぞれのターミナル駅は所有する鉄道会社の象徴のようなものだったのだ。
ハリー・ポッターシリーズにおいてホグワーツ行きの特急が出る9¾番線で知られるキングズ・クロス駅やくまのパディントンのパディントン駅など、創作作品の舞台となって有名となった駅も多い。
2013年放送のアニメ「きんいろモザイク」の第1話では、大宮忍がホームステイ先であるアリスの家へ向かう際にパディントン駅よりHSTに乗車した。その後、途中の駅(スウィンドン駅と思われる)で別の列車に乗り換えて、忍を迎えに来たアリスの父親が待つケンブル駅で下車している。
2011年公開のアニメ「映画けいおん!」では、放課後ティータイムの面々がロンドンへ卒業旅行へ出発し、終盤のライブシーンではチャリング・クロス駅が映っている。
![]() ロンドン地下鉄のロゴマーク |
ロンドン地下鉄
ロンドン地下鉄(London Underground)は各ターミナル駅の間を結んでおり、ロンドン市民には"the Tube"というあだ名で呼ばれている。これは文字通り管型のトンネルに由来している。
地下鉄電車はトンネルの大きさすれすれに作られており、電車の天井も丸くなっている。電化方式は世界でも珍しい第四軌条方式である[9]。
総延長は400kmほど。ロンドン中心部と郊外を結ぶ路線も存在しており、ロンドン市民の足となっている。
ロンドン地下鉄の歴史
ロンドン地下鉄は、世界初の地下鉄道である。1863年1月10日、メトロポリタン鉄道(Metropolitan Railway)[10]が開業したことにより、その歴史は始まった。当時、ロンドン市内の交通状態は行き交う馬車や人々で芋を洗うようになっており、とても混雑していた。その解消のために鉄道の乗り入れは切望されていたが、ロンドン中心部には主だった建物が既に建っている状態で駅を作る土地がなかった。そこで地下鉄という発想が出てきたのである。
だが、当時は鉄道の主な動力は蒸気機関車であった。蒸気機関車の排煙をどうするか検討の末、運河を掘るように長い掘割のようなものを掘り、そこに蓋をしてしまう。と言う方式が取られた。これならば適当なところに蓋をしなければ、そこから煙を出すことができるのである。また、GWRの機関車技師長・ダニエル・グーチ(Daniel Gooch)が開発した凝結装置(復水装置)を機関車に取り付けた。これは煙を機関車のサイドタンクに導き、排煙を抑える装置である。石炭ではなく、コークスを焚き、なるべく排煙を抑えようと努力された。とはいえ蒸気機関車の煙は物凄いものだ。普通に煙たい。おまけに当時の駅のホームは木製で、蒸気機関車から出た火の粉がホームに引火したりして頻繁に火災が起こり、乗客からの評判は悪いものであった。
それでもロンドン地下鉄は延伸を続けた。シールド工法により、更に地中深い所を掘れるようになり、1890年には電気機関車を用いたシティー・アンド・サウス・ロンドン鉄道(City and South London Railway:現在のノーザン線)が開業し、世界初の電化された地下鉄となった[11]。
当初は一般の鉄道と同じように様々な鉄道会社が地下鉄事業を行なっていたが、1933年に公共機関としてロンドン旅客輸送委員会(London Passenger Transport Board:LPTB)が創設され、すべての地下鉄道がLPTBに組み込まれることになった。現在、ロンドン地下鉄はロンドン交通局(Transport for London)の傘下として運営されている。
イギリスの鉄道の歴史
目次
世紀 | 出来事 |
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~19世紀 | 鉄道のはじまり / 蒸気機関車の誕生 / 鉄道狂時代 / ゲージ戦争 / 狭軌鉄道 / 北への競走 |
20世紀 | ビッグ・フォー / 第二次世界大戦 / 国有化 / 保存鉄道 / ビーチング・アックス / 高速鉄道 / 民営化 |
21世紀 | イギリスの鉄道のこれから |
鉄道のはじまり
16世紀の半ばにはドイツやイギリスなどのヨーロッパの炭鉱で木製のレールによる軌道がすでに使用されていたという。
鉄道が大きく発達するきっかけになったのは言うまでもなく18世紀後半からの産業革命である。1769年にはジェームズ・ワット(James Watt)が新方式の蒸気機関を発明し、1793年にはL字型の鋳鉄製のレールが発明された。
当時イギリスの主要産物であった綿織物、その原料の綿花の輸送のためにイギリス中の道路が整備され、馬車による交通網が発達していた。また製鉄や蒸気機関の発達のために石炭、鉄鉱石の需要が高まり、その輸送の需要も高まった。重量のあるそれらを輸送するために運河や馬車鉄道が数多く作られた。特に運河は平地の多いイングランドでは大変有効な交通手段であり、数多くの運河が作られた。大規模な運河の建設ラッシュは「運河狂(Canal Mania)時代」と呼ばれた。
ところが、運河には大きな欠点があった。夏には渇水し、冬には凍結して使用不能になってしまうのである。その為、運河による貨物輸送は非常に不安定なものであった。
1807年にはウェールズで世界初の馬車による旅客鉄道・オイスターマス鉄道(Oystermouth Railway)が開通する。まだまだ鉄道車両の動力は馬や人力であった。だが、技術者たちは蒸気機関を動力に用いれば格段に工業化が進むと確信していた。
蒸気機関車の誕生
1804年、リチャード・トレヴィシック(Richard Trevithick)がとうとう軌道上を走る蒸気機関車を発明した。ただし、飽きっぽかった[12]馬車用の脆い鋳鉄製のレールだったため、また、エネルギーを動力として伝える機構に問題があったために実用化とはならなかった。1812年にはラック・アンド・ピニオン式の蒸気機関車・サラマンカ号(The Salamanca)がミドルトン鉄道(Middleton Railway)[13]を走った。サラマンカ号は初めて商業的に成功した蒸気機関車となった。
公共輸送を目的とした鉄道としては1825年に開業したストックトン・アンド・ダーリントン鉄道(Stockton and Darlington Railway:以下S&DR)が世界初と言われる。S&DRを計画し、蒸気機関車・ロコモーション号(Locomotion No.1)を製作したジョージ・スティーブンソン(George Stephenson)は「鉄道の父」と呼ばれるようになった。
だが、S&DRは今日の鉄道とは違い、線路や敷地を所有しているというだけで、その線路を利用させて利益を得るという方式をとっていた。つまり、動力や、客車、貨車は自前で用意しなければいけなかったのである。運河や道路で通行料をとって利益を得る、という方式と変わらなかったのだ。そのため、蒸気機関車や馬車列車が行き交う、というカオスな状況だったようだ。
1830年にはリヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道(Liverpool and Manchester Railway:以下L&MR)が開業した。この鉄道は鉄道が車両を走らせ、運賃を取って利益を得るという事が考えられていた。現在我々が知っている「鉄道会社」の登場である。
L&MRにおいては列車の動力に蒸気機関車を使うか蒸気機関によりケーブルを動かして動力とするか検討され、レインヒル・トライアル(Rainhill Trials)という競走が行われた。結果、ジョージ・スティーブンソンとその息子・ロバート・スティーブンソン(Robert Stephenson)が制作した蒸気機関車・ロケット号(Rocket)が勝利し、蒸気機関車の採用が決定された。スティーブンソン親子は機関車だけではなく、駅、橋梁などの施設の設計も担当した。鉄道の駅など今まで誰も作ったことがない。まさに試行錯誤であった。
そんなL&MRの記念すべき開業の日に不運なトラブルが起きてしまう。来賓の大物政治家のウィリアム・ハスキッソン(William Huskisson)がロケット号に轢かれて死亡してしまったのだ。ハスキッソンはL&MRの開業に尽力した人物であったが、何の因果か世界初の鉄道死亡事故の犠牲者となってしまったのである。
幸先が良いとは言えないスタートを切ったL&MR。だが当時、世界に冠たる工業都市であったマンチェスターから港のあるリヴァプールをつなぐL&MRはまさしくドル箱路線となり、イギリス中へ、ひいては世界中へと鉄道建設ブームをもたらすこととなった。
時代はイギリスが栄華を極めた「ヴィクトリア朝時代」へと突き進んでいくこととなる。
鉄道狂時代
L&MRの成功は投資家達の注目の的となった。そう、「鉄道は儲かる」のだ。強欲な投資家達はこぞって鉄道に投資した。イギリス国内には雨後の筍の如く鉄道が敷かれまくり、特に1840年代から50年代には路線長が急激に、一挙に伸びた。馬車や運河は完全に時代遅れの交通手段となってしまったのだ。
この鉄道建設ブームは「鉄道狂(Railway Mania)時代」と呼ばれた。ピーク時の1846年には272の新鉄道会社の設立法案が可決され、1848年には総路線長が5127マイル(8251km)を超えた。それまでイギリスの輸送の中心であった運河の総延長を抜いたのだ。
人々は鉄道会社の株券を買い漁った。鉄道株は国債と同じくらい安定したものだと思われていたのである。老若男女、貧富の差無くたくさんの人が少なからず鉄道株を所有していたと言われる。
だが、この鉄道建設ブームで作られた路線の大部分は全く無秩序に作られたものであった。同じ区間に重複して線路が建設されたり、採算の見込みが全くない地域に路線を敷いたり、とにかく鉄道さえ敷いてしまえば儲かると言わんばかりだった。
イギリス議会は自由放任主義に基づき、これに特に規制は加えなかったが、安全上の問題から1840年に鉄道規制法を制定した。鉄道規制法は鉄道調査院(HMRI:Her Majesty's Railway Inspectorate)[14]を設立し、事故の原因を調査し、再発防止策を勧告することを定めた。鉄道調査院は1840年8月7日にハル・アンド・セルビー鉄道(Hull and Selby Railway)で起きたハウデン(Howden)事故より活動を開始した。
1845年を境にイギリス全国の鉄道の年間収入の総計は少しずつ落ちていった。乗客・荷主の奪い合いとなってしまったのだ。ただし、運賃が安くなったことにより庶民が手軽に鉄道を利用することができるようになった。
1844年にダービー(Derby)駅を共用していたミッドランド・カウンティーズ鉄道(Midland Counties Railway)、ノース・ミッドランド鉄道(NorthMidland Railway)、バーミンガム・アンド・ダービー・ジャンクション鉄道(Birmingham and Derby Junction Railway)がミッドランド鉄道(Midland Railway)として合併した。イギリス史上最初の鉄道会社の大合併と言われる。3社は熾烈な乗客の争奪戦を繰り広げていたが、共倒れとなる前に合併することを選択したのである。この合併に尽力したのがノース・ミッドランド鉄道役員のジョージ・ハドソン(George Hudson)。彼は「鉄道王(Railway King)」[15]のあだ名で知られることになる。
ジョージ・ハドソンは鉄道の技術については素人で、バリバリの投資家であった。1830年代から鉄道の買収を続け、1844年には1016マイル(約1635km)の鉄道を手中に収めていた。これは当時のイギリスの鉄道の半分ほどに当たる。国会議員にも当選し、「鉄道王」として名誉の絶頂を誇っていた。ところが、鉄道狂時代による熱狂的な鉄道バブルがはじけたことによって彼の権勢は零落してしまう。さらに1849年にはインサイダー取引、粉飾決算、不当な新株発行などの詐欺行為が明るみとなり、完全に凋落してしまった。
鉄道バブルの崩壊は株式市場の崩壊を招き、鉄道株に投資した人々はすべてを失ってしまった。しかし、イギリスの鉄道網は整備され、手軽な旅行ができるようになった。鉄道狂時代は確かな、そして莫大な功績を残したのである。
ゲージ戦争
当時、鉄道の軌間(ゲージ)は北イングランドの炭坑鉄道で用いられていた4フィート8½インチ(1435mm)の軌間が多く用いられていた。これを積極的に採用していたのがスティーブンソン親子である[16]。
これに異を唱えた者がいた。グレート・ウェスタン鉄道(Great Western Railway:以下GWR)の技師長であったイザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel)[17]は「列車ってもっと速く出来るんじゃね? だったら1435mmとか狭すぎて安定しねーし」と、高速運転には7フィート¼インチ(2140mm)のブロード・ゲージ(広軌)が有利だと主張した。また、イースタン・カウンティーズ鉄道(Eastern Counties Railway:以下ECR)の技師長・ジョン・ブレイスウェイト(John Braithwaite)[18]は「いくらなんでも7フィートは大きすぎるだろJK」ということで5フィート(1524mm)の軌間を採用した。
だが、すでに軌間は1435mmのものが主流となっていた。軌間が1435mmの鉄道と異なる軌間の鉄道で、乗客の乗り換え、積荷の乗せ替えの問題が生じていた。接続駅での乗り換えを人々は疎み、イギリス議会もこれを重く見た。
とうとうブレイスウェイトのECRは大きくなっていた世論の波を止めることが出来ず、1844年に1435mmの軌間を採用した。議会は軌間委員会を設け、1846年に「1435mmの軌間を標準軌とし、これ以外の軌間の鉄道は認可しない」とした軌間法を制定した[19]。今日の日本の新幹線にも用いられている標準軌の誕生であった。
しかし、ブルネル率いるGWRはこれに挫けない。しぶとく広軌列車を走らせ続けた。ブルネルの走らせた広軌の鉄道は確かに速く、乗り心地も良いものであった。当時、1435mm軌間の最高速度は時速90km/hほどであったのに対して、ブルネル軌間の最高速度は100km/hほどであり、現在の高速鉄道のはしりと呼べるかもしれない。それでも広軌の列車の需要はどんどんと減少し、ブルネルが死去した1859年からは徐々に三線軌条としたり、標準軌への改軌を行なったりしていった。乗客は乗り換えが必要な列車より、直通の列車の方を好んだのである。1892年5月20日をもってGWRは広軌列車の運転をやめ、すべての路線での標準軌への改軌を余儀なくされた。
狭軌鉄道
イギリス西部のウェールズには石炭や鉱石が多く埋蔵されており、採掘が盛んであった。特にウェールズ炭と呼ばれる石炭は世界最高レベルの質の良さで知られ、イギリスの有用な外貨獲得源の一つであった。
ウェールズでは急峻な地形が多いため、標準軌より狭い狭軌(ナロー・ゲージ)の線路が敷かれ、積み出し港や運河へと輸送されていた。動力は主に重力が用いられていた。決して馬鹿にできるものではなく、高い山から輸送するには重力は非常に有効だったのだ。ただ、高い場所に貨車を上げるのには馬や人力が使われており、とても効率が良いとは言えなかった。
「きかんしゃトーマス」の原作「汽車のえほん」では重力鉄道の描写がある。
「(前略)とつぜん、ガタガタ、ゴーッとにもつをつんだ、貨車のれつが、はしってきたんだ。
ぼくが びっくりして、『機関車がついてないじゃないか』 っていうと、さぎょういんがわらっておしえてくれたんだ。
『重力でおりてきたんだよ。でも、重力っていうのは、くだるときにしかやくにたたないんだ。
だからからの貨車をひっぱりあげるときには、きみのような機関車がひつようなんだよ』
石炭や鉄鉱石の需要は産業革命により高まり、また、ウェールズにも標準軌鉄道が続々と乗り入れてきたことによってウェールズの狭軌鉄道にも引用文の通り蒸気機関車を導入することが求められた。1862年にはノルウェーにて3フィート6インチ(1067mm)の狭軌鉄道[20]が成功していた。だが、ウェールズの炭鉱鉄道の軌間はそれよりも狭い1mにも満たないものが多かった。
1860年、ウェールズでスレート(粘板岩)の輸送をしていたフェスティニオグ鉄道(Ffestiniog Railway)[21]では、蒸気機関車を走らせることを計画していた。フェスティニオグ鉄道の軌間は1フィート11½インチ(597mm)であった。マネージャーであり、技師であったチャールズ・イーストン・スプーナー(Charles Easton Spooner)[22]は甥のチャールズ・ホランド(Charles Holland)と共に狭軌の小さな蒸気機関車を設計した。この設計図はジョージ・イングランド(George England)社に持ち込まれ製造された。1863年には蒸気機関車[23]がフェスティニオグ鉄道を走りだした。だが、まだスレートを運ぶのみで客扱いは出来なかった。先述の軌間法により、標準軌以外の鉄道が客扱いをすることは禁じられていたのである。
イギリス商務省はフェスティニオグ鉄道の客扱いの認可申請を受けて調査に乗り出した。鉄道査察官は施設の不備などを厳しく指摘したが、狭軌鉄道は非常に有用なものであり、客扱いも認められるべきだとの結論を出した。
1865年1月5日、とうとうフェスティニオグ鉄道を客車が走ることとなった。フェスティニオグ鉄道に続けとばかりに、ウェールズではタリスリン鉄道(Talyllyn Railway)やコリス鉄道(Corris Railway)など軌間が1m未満の狭軌鉄道が次々と蒸気機関車を走らせ、開通させた。ウェールズの石炭・鉄鉱石の輸送は格段に進歩したのである。また、この時培われた狭軌鉄道のノウハウはイギリスの植民地に鉄道を敷設するのにとても役立った。
北への競走
乱立していた鉄道会社は鉄道狂時代の終焉の後、買収・合併などにより整理・統合が進み、いくつかの比較的大規模な鉄道会社となった。
当時はヴィクトリア朝の栄華たけなわの時代であり、鉄道はその発展を支えていた。鉄道の保安技術が大きく発展したのはこの時期であるが、その一方でそれぞれの鉄道会社は如何に利益を上げるか、集客率を上げるかで他社との間で熾烈な争いを繰り広げていた。その象徴とも言える出来事が1880年代から90年代に起きた通称「北への競走(Race to the North)」である。
イングランドの首都・ロンドンからスコットランドの首都・エディンバラを結ぶ路線はブリテン島の背骨と呼ばれるペナイン山脈を挟むように、東西に1本ずつ存在している。東側の路線はイースト・コースト本線(East Coast Main Line:東海岸本線)と呼ばれ、ロンドン・キングズ・クロス駅からヨークまでがグレート・ノーザン鉄道(Great Northern Railway:以下GNR)が走っており、ヨークからエディンバラまではノース・イースタン鉄道(North Eastern Railway:以下NER)が走っていた。2つの会社は協力して「フライング・スコッツマン(Flying Scotsman)」[24]という急行列車を運行させていた。
一方、西側の路線はウェスト・コースト本線(West Coast Main Line:西海岸本線)と呼ばれ、ロンドン・ユーストン駅からロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道(London and North Western Railway:以下LNWR)がカーライルまで、カーライルからエディンバラまでをカレドニアン鉄道(Caledonian Railway)が結んでいた。この2社も急行列車を運行していた。
競走の発端は1887年11月、フライング・スコッツマンに三等車が連結されたことだった。東海岸線はロンドン~エディンバラ間を9時間で、西海岸線は10時間で結んでおり、所要時間としてはフライング・スコッツマンに若干の分があった。それでも西海岸急行には三等車が連結されており、労働者階級に人気があった。フライング・スコッツマンは三等車を連結していなかったのである。ところが、フライング・スコッツマンにも三等車が連結されたことにより西海岸急行の乗客は徐々に徐々にとフライング・スコッツマンに奪われてしまったのだ。
西海岸急行を運行するLNWRとカレドニアン鉄道は1888年6月になると対策を講じた。重連運転を開始したのだ。これにより所要時間が1時間短縮され、フライング・スコッツマンと互角に渡り合えるようになった。ところがフライング・スコッツマンを運行するGNRとNERも黙ってはいない。昼食のための停車時間を短縮するなどして対策した。この果てしない競争はだんだんと泥沼化していき、7月に入ると時刻表は連日書き換えられ、連結する客車の数も減らされていった。停車時間も短くなったことにより、乗客の不満は爆発寸前となった。とうとう両者は8月に手を打ち、フライング・スコッツマンが7時間45分、西海岸急行が8時間で走ることになった。この競走は終焉した。
しかしそれから7年後の1895年、再び北への競走は勃発した。今度はエディンバラより更に北にある都市・アバディーン(Aberdeen)への競走であった。アバディーンへの列車は、東海岸線がGNR、NERにノース・ブリティッシュ鉄道(North British Railway)を加えた3社で運行されていた。西海岸線は変わらずLNWRとカレドニアン鉄道の2社である。
アバディーンへの路線の距離は西海岸線がグラスゴーを経由すれば東海岸線に比べて分があった。東海岸線はフォース湾とテイ湾を大きく迂回しなければならなかったからである。ところが、東海岸線が2つの湾に橋を掛け、所要時間を大きく短縮してしまった。ここに再び過激な競走が始まってしまったのである。
西海岸線が夜行急行の所要時間を短縮すると東海岸線も同じ時間に出発する夜行急行の所要時間の短縮をした。だんだんと時刻表上の時間より早着するようになり、とうとう7時20分着の夜行列車が6時25分に到着するようになってしまった。さらに、客車が2両しか連結されなくなり、停車時間が極端に削られた。乗客は夜行列車があまりにも速く到着してしまうので駅で途方に暮れてしまった。乗客の利便などまるで無視で速さのみが競われた。
8月21日、東海岸線の列車が4時40分着を実現した。これによって東海岸急行は競走の中止を宣言した。負けたままで終われない西海岸急行は8月23日、走行中に水の補給を行うなど苦心してアバディーン4時32分着を実現した。これにより、両者は協定を結んだ。東が10時間25分、西が10時間30分の所要時間を守ることになり、北への競走はようやく終止符が打たれた。
1896年7月13日、プレストン(Preston)にてグラスゴー行きの急行列車が脱線転覆事故を起こしたことによって、世論は安全を鉄道会社に求めるようになった。
ビッグ・フォー
1914年になり、第一次世界大戦が勃発すると鉄道網は政府の管理下に置かれた。数多くある鉄道会社が一時的にとは言え合併状態になって利点も生じた。戦後は経済が疲弊し、経営状態が危機的な鉄道会社も現れ始めた。イギリス議会では鉄道網の国有化も検討されたが、鉄道事業者や政府の反対もあり、実現には至らなかった。
そこで、1921年鉄道法によって123の鉄道会社が統合され、
- ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道(London, Midland and Scottish Railway:LMS)
- ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(London and North Eastern Railway:LNER)
- グレート・ウェスタン鉄道(Great Western Railway:GWR)
- サザン鉄道(Southern Railway:SR)
の4つの鉄道会社に集約された。これを四大鉄道会社という。通称「ビッグ・フォー(Big Four)」の誕生である。ビッグ・フォーは1923年に発足した。
1925年には総路線長はピークを迎え、約3万2000kmを数えた。イギリス鉄道の黄金時代がやってきた。当時、技術水準もサービス水準もイギリスの鉄道は世界最高レベルのものだったのだ。統廃合された事により、鉄道会社間の争いは沈静化するかに思われた。が、サービス水準や高速化の争いはなおも続けられた。LMSはホテルチェーンを経営して乗客の利便を図ったし、LNERはとにかく車両を高速化して優雅な旅を目指した。GWRは販売戦略で乗客を惹きつけようとし、SRは所管する地域が狭いことを活かして路線の大部分を第三軌条方式で電化し、電車を走らせた。この通り、4つの鉄道会社はそれぞれ個性を持っていた。
特にLMSとLNERはルートが違うだけで目的地は同じという路線が多かった為、高速化が(「北への競走」程ではないにしろ)競われた。例えば、LNERは1935年からクラスA4蒸気機関車を建造した。このクラスA4蒸気機関車4468号機「マラード」[25]は1938年7月3日に時速126マイル(約202km)を記録し、蒸気機関車による世界最高速を記録した。これもLMSとLNERの争いのたまものである。
イギリスの鉄道はまさに絶頂期を迎えていた。だが、盛者必衰の喩えもある。1929年に起きた世界恐慌により、ビッグ・フォーの経営は大きな打撃を被った。しかし、それより手痛かったのは、この頃、すでに自動車による道路輸送が徐々に力を増していたことだ。各鉄道会社は政府の厳しい規制に苦しんだ。道路輸送は当時、新しい産業で規制は緩いものであったが、鉄道輸送は公共事業であるとして、運賃などが統一されていたのだ。鉄道輸送は道路輸送に対して不利な戦いを余儀なくされ、廃線となる路線が多くなった。
第二次世界大戦
1939年9月1日、ドイツへの宣戦布告の2日前であった。鉄道網は再び政府の管理下に置かれた。鉄道は軍需品や兵士の輸送、さらに疎開など様々な任務を与えられた。イギリスの蒸気機関車は貨物用でもない限り鮮やかな色が塗られていた[26]。しかし、掃除の手間を省くために、また、ドイツ軍の目標とならないように全ての蒸気機関車が黒く塗られた。
ドイツ空軍によるブリテン島の爆撃が始まると、鉄道は格好の標的となった。ロンドンやコヴェントリーなど、重要な都市は激しい空爆に晒され、付近の線路は寸断された。しかし、ドイツ軍の凄まじい空爆の中でもロンドン・キングズ・クロス駅を発車するLNERの急行列車・フライング・スコッツマン[27]は、午前10時の発車時刻を毎日守り通した。ロンドン地下鉄の駅は空襲から身を守るシェルターとして活用された。
1940年のダンケルクの戦いからの撤退作戦(ダイナモ作戦)においても鉄道は大きな役割を果たした。イングランド南部の港へと命からがら引き上げてきた30万人以上の兵士を620本の列車で連れ戻したのだ。ロンドン~ドーバー間の駅では兵士のための食料が用意され、駅がさながらファストフード店のようだったと言われている。
イングランド南部の前線に位置するSRは、軍需品を運ぶため貨物輸送の扱い量が普段の6倍にも膨れ上がった。増加していく貨物輸送は絶望的な機関車の不足をもたらした。SR主任技師のオリバー・バリード(Oliver Bulleid)はSRQ1型蒸気機関車[28]を製造してこれに対策した。40両のQ1型はサザン鉄道の貨物輸送の救世主となった。
南イングランドのケント州にある軌間15インチ(381mm)のロムニー・ハイス・アンド・ディムチャーチ鉄道(Romney Hythe and Dymchurch Railway:RH&DR)[29]も沿岸の補給品、兵士の輸送やパトロールにあたった。人間の背丈よりも小さな装甲列車がドイツ軍の爆撃に晒されながら必死に走っていた。
この通り前線の近くでは大きな鉄道から小さな鉄道までが全て戦争の遂行のために駆り出されたが、それ以外の鉄道では戦時下の緊張感はあったものの特に被害もなく穏やかであった。しかし、投資や保守は減少し、最低限の保全しか行われなくなってしまった。設備や車両は荒廃した。
国有化
第二次世界大戦で受けた損害により、民間企業によって鉄道網を維持していくのは不可能であった。また、第二次大戦前後での道路や航空などの発達によって鉄道事業は需要が減退していた。設備・車両の荒廃に、経営悪化が追い打ちをかけたのだ。イギリス議会では労働党・クレメント・アトリー(Clement Attlee)内閣が打ち出した重要産業国有化の政策にのっとり、1947年運輸法が可決された。即ち、ビッグ・フォーの国有化である。
1947年12月31日をもってビッグ・フォーは消滅し、1948年1月1日、イギリス運輸委員会(British Transport Commission:BTC)が誕生した。鉄道部門の商標はBritish Railways(BR:イギリス国鉄)[30]と制定された[31]。
BRではイギリスの鉄道網を6つの管理局(リージョン)として分けた[32]。
新しい区分にスコティッシュ管理局が出来ただけで実は四大鉄道会社時代とそれほど変わらない。各管理局の独自権限は強いものであったが、全国な設備・車両の標準化・平均化の動きは確実に見られた。BR発足当時は戦争被害からの復興に手一杯で、設備・車両の近代化は遅々として進まなかった。1950年代初頭には少額ながらも利潤を生むようになったが、これは近代化を棚上げした故のものだった。この黒字は僅かな期間のもので、イギリス国鉄はすぐさま赤字に転落した。
この時点でイギリスの鉄道は電化や新型車両導入などの近代化の点で他のヨーロッパ諸国の鉄道と比べて大きく遅れをとっていた。大陸のヨーロッパ諸国、特にドイツやフランスなどでは戦争によって鉄道網が大きな打撃を受けていた。その為、実質的に0から鉄道網を再構築する必要があり、近代化がスムーズに成功した。ところが、幸か不幸かイギリスの鉄道の戦争被害はそこまで重大なものではなかった。確かに前線であったイングランド南部や、空爆があった都市部の鉄道網は大きく被害を受けていたが、前述通りそれ以外の地域ではそれほど被害を受けなかった。結果、近代化の妨げとなってしまったのである。
1954年、イギリス運輸委員会によって道路輸送に奪われた鉄道輸送を回復するための近代化計画が発表された。
が計画には盛り込まれていた。信頼性・安全性の向上を謳い、近代化計画には12億4千万ポンドが投じられることになった。1956年の政府の白書は1962年にはイギリス国鉄の赤字は解消されるだろうとした。
が、そう上手く行くものでもない。イギリス運輸委員会は完全に読み違えていた。当時、既にトラックによる道路輸送が主流になっており、貨物需要が落ち込んでいたにも関わらず貨物ターミナルや貨物車両に巨費が投じられた。また、性急に蒸気機関車からディーゼル機関車への置き換えを行おうとしたがために開発期間が取れず、新型ディーゼル機関車の初期不良が頻発した。ディーゼル機関車はただゴロゴログルグルと唸るばかりで全く役に立たなかった。そのせいでこの頃製造されたディーゼル機関車は短い間で廃車となってしまったものが多い。
1960年代末までに蒸気機関車は全廃され、多くの路線が廃止された。それにも関わらず、イギリス国鉄の赤字は解消されなかった。イギリス運輸委員会の近代化計画は大失敗に終わった。
保存鉄道
イギリスの多くの鉄道ファンは近代化計画失敗への失望と共に蒸気機関車廃止への危機感を抱いていた。
1950年、産業史家のL.T.C.ロルト(L.T.C.Rolt)は産業革命の遺産を保存することを考えていた。そこでL.T.C.ロルトが目をつけたのが国有化もされず廃線寸前の憂き目となっていたウェールズの狭軌軽便鉄道・タリスリン鉄道であった。L.T.C.ロルトは「汽車のえほん」原作者のウィルバート・オードリー(Wilbert Awdry)牧師など多くの鉄道ファンの助力を得て、タリスリン鉄道の存続を模索した。保存はしたいが利益は見込めない。そのため保存協会を立ち上げ、沿線住民や鉄道ファンの手によりボランティアにより鉄道を運営していくことに決めた。沿線のゴミ拾い・保線、駅員・切符売りはもちろんのこと、機関士や車掌、車両整備に至るまで全てが無給のボランティアなのである。世界初のボランティアによる保存鉄道(Heritage railway、Preserved railway:遺産鉄道とも)の誕生であった。
タリスリン鉄道については当該項に任せるが、タリスリン鉄道の成功は保存鉄道の運営方法の礎となった。続いて1948年に廃線になった先述のフェスティニオグ鉄道が1954年にボランティアの手により復活し、少しずつ保存運動の芽が広まっていった。だが、これらは狭軌の鉄道であった。標準軌の鉄道を保存していくには、より高いコストや人手が必要で難しいことだと思われた。
だが1960年、その壁を打ち破ってイングランド南部のブルーベル鉄道(Bluebell Railway)[33]が世界初の標準軌の保存鉄道として誕生した。ブルーベル鉄道はもとイギリス国鉄サザン管理局所管の鉄道で、1958年に廃線となった区間であった。当初、路線の持ち主のイギリス運輸委員会はブルーベル鉄道保存協会への路線の譲渡に難色を示した。「国が管理している路線は国家財産であり、民間に譲渡していいのか」という問題があったのである。ブルーベル鉄道保存協会は、協会を会社組織にすること、イギリス運輸委員会は路線を年2250ポンドで保存協会へ貸与することで合意した。ブルーベル鉄道発足当初の路線長はたった5マイル(8km)であったが、徐々に買増しを続けて現在は9マイル(14.5km)の路線を保有している。
ブルーベル鉄道が標準軌の鉄道を保存したことでイギリス国内やさらに国外でも保存活動が盛んになった。後述するビーチング・アックスにより更にイギリス国鉄の路線が廃止になり、保存鉄道も増加した。現在、イギリスでは100を超える保存鉄道が存在しており、蒸気機関車はとても身近なものとなっている。沿線住民にはレジャー施設として、鉄道ファンには鉄道と触れ合うことの出来る施設として欠かせないものであり、イギリスでは休日に保存鉄道へ行ってボランティア活動に従事する人が多くいる。
ビーチング・アックス
近代化に大失敗したイギリス運輸委員会は1962年運輸法により解体され、鉄道部門が1963年1月1日にイギリス国鉄委員会(British Railways Board)として分割された。
イギリス国鉄の赤字を解消しようと時の国鉄総裁・リチャード・ビーチング(Richard Beeching)[34]は「イギリス国鉄の再建(The Reshaping of British Railways:ビーチング・レポートと呼ばれる)」という報告書を発表した。ビーチング・レポートは当時18000マイル(28968km)に及ぶイギリスの鉄道の内、収益の低い6000マイル(9656km)の路線を廃止し、利用者の見込めない小駅は全て廃止すべきだとした。ビーチング・レポートでは「路線・駅の廃止」とともに「主要幹線の電化」などの近代化も提案されていたが、政府は投資よりも歳出削減に興味を示した。
この大規模な提案をマスメディアはビーチング・アックス(Beeching Axe:ビーチングの斧)として報道した。イギリス国鉄発足から既に3000マイル(4828km)以上の路線が廃止になったというのにさらに廃止を進めるというのだ。鉄道が廃止されると公共交通機関を失ってしまう地域からは激しい抗議、批判が巻き起こった。イギリス政府はバスによる代行を約束し、ビーチング・アックスは実行されることとなった。1963年から1974年にかけて4000マイル(6437km)以上の路線と3000以上の駅が廃止になった。
が、ビーチング・アックスによる路線・駅の廃止はイギリス国鉄の赤字を食い止めるには至らなかった。むしろ完全に鉄道輸送に引導を渡してしまう結果となり、イギリス国鉄の経営状況はさらに悪化した。バスによる代行は単に駅跡をつなぐバス路線を運行したというだけであって、集落から離れたところに駅があった地域では大変不評であった。収益を上げられるような路線は少なく、ほとんどのバス路線が数年で廃止されてしまった。更に、鉄道が無くなったことで道路輸送の需要が多くなり、道路交通が麻痺状態になってしまった。
ビーチングは1965に年「主要幹線ルートの開発(The Development of the Major Railway Trunk Routes:第二ビーチング・レポートと呼ばれる)」という報告書を発表したが、ほとんどの支線を廃止して幹線のみを残すべきとしたこの報告書はやりすぎであるとして実行されなかった。同年、ビーチングは国鉄総裁を辞任した。
高速鉄道
1964年10月1日、イギリス国鉄を震撼させる出来事が起きた。極東の島国・日本において標準軌で常時時速200kmを出せる新幹線[35]が開業したのだ。世界初の高速鉄道であった。さらにフランス、イタリア、ドイツなどが高速鉄道の開発をスタートさせた。近代化に立ち遅れたイギリス国鉄はこれを見て見ぬふりをするわけには行かなかった。仮にも鉄道発祥国の意地がある。イギリスも高速鉄道の開発をスタートさせた。
そこで立ち上げたのがAPTとHSTの2つの高速鉄道プロジェクトである。
詳しくは当該項に任せるが、APTは大失敗し、HSTは成功を収め、現在のイギリスでもインターシティ125として広く用いられている。
1980年代末には電気機関車を用いたインターシティー225が開発されたが、イギリスは予算不足で高速新線の開発が出来ず、結局はこれらを規格の低い在来線[36]で走らせるしかなかった。
1994年5月。ドーバー海峡の地中を刳り抜いた英仏海峡トンネルが開通し、同年11月14日イギリスとフランス、イギリスとベルギーを高速列車「ユーロスター」が結ぶことになった。パリ~ロンドン間を結ぶ路線は画期的で英仏両国の悲願であったが、フランス側には不満があった。フランス、イギリス、ベルギーの三カ国共同開発による車輌・Class373電車[37]はフランス側では時速300kmの走行が可能であったが、イギリスではまだ高速新線が開通しておらず、更にイングランド南部は第三軌条方式による電化だったため、時速160kmまでしか出せなかったのである。
これを受け、当時のフランスのフランソワ・ミッテラン(François Mitterrand)大統領はイギリスのジョン・メージャー(John Major)首相に皮肉を飛ばした。
因縁ある隣国フランスにこんなことを言われたのでは黙っていられない。とうとう2003年に高速新線・CTRL(Channel Tunnel Rail Link)の英仏海峡トンネルイギリス側出口からフォーカム・ジャンクション(Fawkham Junction)駅までの74kmが開通した。イギリス初の高速新線だった。2007年にはフォーカム・ジャンクションからロンドン・セント・パンクラス駅までが開通し、同年11月14日にはとうとうロンドンまで高速新線が走ることになった。これにより、パリ~ロンドン間は2時間15分で結ばれた。CTRLのブランド名はHS1(High Speed 1)となった。
民営化
1970年代末に誕生した「鉄の女」こと保守党・マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)の内閣はイギリス国鉄の経営努力に満足しなかった。
1982年、イギリス国鉄は下部組織を地域別の管理局から、扱う業務によって5つの部門に分割した。
- インターシティ(InterCity):特急列車の運行
- ネットワーク・サウスイースト(Network SouthEast):ロンドンの通勤路線やイングランド南東部の都市間輸送列車の運行
- リージョナル・レイルウェイズ(Regional Railways):上記以外の旅客輸送の運行
- レール・エクスプレス・システムズ(Rail Express Systems):郵便・小包輸送列車の運行
- レールフレイト(Railfreight):貨物列車の運行
保守管理は新会社の「British Rail Maintenance Limited(BRML)」が受け持った。
サッチャー政権は多くの国営事業を民営化したが、イギリス国鉄に関しては早急な民営化は困難としてホテルや連絡船など付帯事業を売却した以外は民営化を行わなかった[38]。
1988年にはロンドン近郊のクラッパム・ジャンクション(Clapham Junction)駅[39]にて3台の通勤電車が衝突し、35名の死亡者・500名の負傷者を出したクラッパム・ジャンクション事故が起きた。この事故によりATP(自動列車防護装置)の導入が勧告されたが、赤字体質のイギリス国鉄にはとてもそんな余裕はなく、棚上げされた。
1990年に誕生した保守党・ジョン・メージャー内閣[40]はイギリス国鉄の民営化を計画した。1992年の総選挙では保守党は国鉄民営化を公約として掲げ、選挙に勝利した。メージャー政権はビッグ・フォーの復活を目指し、1993年鉄道法を成立させて1994年、イギリス国鉄の分割民営化が実行された。
分割民営化はEUで主流だった線路・施設・その他のインフラと輸送事業を分離させる上下分離方式が取られた。当初インフラはそのまま国で保有することが想定されたが、結局インフラ部門も民営化することとなり、線路保有会社「レールトラック(Railtrack)」にインフラが受け継がれた。レールトラック社が運輸事業者に線路や施設を貸し出す、という方式である。路線の保守をする会社は別に分割された。
一方、旅客列車部門・貨物列車部門は分割して民間に売却された[41]。車両のみを保有して運輸事業者に車両を貸し付けるリース会社も設立された。民営化当時は運輸事業者に多額の補助金が拠出されており、国鉄時代よりも却って負担が多いほどであった。しかし、徐々に乗客数は増え、1950年代後半のレベルまで上昇し、確実に利益を出すようになっていた。1997年に誕生した労働党・トニー・ブレア(Tony Blair)内閣は鉄道の再国有化を検討しなかった。
だが、大きな落とし穴があった。1997年に7人が死亡したサウソール(Southal)事故、1999年に31人が死亡したラドブローク・グローブ(Ladbroke Grove)事故が発生し、鉄道を機能別に分割したことが安全や保守作業に悪影響を与えたのではという指摘が出てきた。とどめは2000年に4人が死亡したハットフィールド(Hatfield)事故[42]であった。ハットフィールド事故の原因は老朽化したレールを交換していなかったことが原因であり、乗客の不信感はピークに達した。国鉄時代にだましだまし設備を使用してきたツケが回ってきたのである。
レールトラックは多額の緊急の保守点検費用と賠償金を支払わざるを得なくなり、経営は完全に破綻してしまった。2001年10月、政府が資金供与を拒否するとレールトラックは破産手続きをとった[43]。
これが意味するのは、即ち「民営化の失敗」であった。
イギリスの鉄道のこれから
レールトラック社の破綻により政府は早急な鉄道インフラ部門の再建を迫られた。
2002年10月。配当金を目的としない保証有限会社としてネットワーク・レール(Network Rail)が設立された。ネットワーク・レールはレールトラックの事業を引き継ぎ、さらに保守管理部門の会社を傘下に入れていった。ネットワーク・レール社は民間企業とされているが、事実上公営であり、イギリスの鉄道網は再び(事実上)政府の管理に置かれることになった。
と、この通り第二次世界大戦以降のイギリスの鉄道政策は裏目裏目、失敗失敗の連続であったが、ネットワーク・レール社は確実に業績を伸ばしており、これからが期待される。それに、列車運行部門の各企業は競走の中で切磋琢磨し、乗客へのサービスはやはり確実に良いものになっている。
HSTを見れば分かる通り技術的に劣っているわけではない(英国面はある)。また、日立製作所が製造したClass395電車など、高速鉄道では積極的に新型車両を導入している。また、鉄道旅客が盛り返してきていることからビーチング・アックスによる廃止路線が徐々に復活したりしている。
とかくイギリスの鉄道は老朽化した設備や近代化が遅れた保安設備、幹線の非電化が問題であり、特に老朽化は深刻なものとなっている。中には1830年代の鉄道初期に建造されたような橋梁やトンネルが未だに使用されている箇所もあり、それらはイギリスの鉄道の大きな遺産であり泣き所にもなっている。現在、設備の更新、修繕、電化が進められているが、予算不足により遅滞している地域もあるという。
これら大きな課題を乗り越えて、イギリスの鉄道が再び黄金期を迎えることを期待しよう。
イギリスの鉄道と日本の鉄道
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この記事は、概ねグレート・ブリテンの事柄について書かれていますが、 この項では日本の事柄についても触れます。 |
イギリスのお雇い外国人
日本の鉄道が開業したのは明治5年(1872年)9月12日(天保暦による。グレゴリオ暦では10月14日)。有名な鉄道唱歌の一節にもある新橋駅~横浜駅間が本開業したことによりその歴史は始まった。詳しくは「日本の鉄道」項を参照して欲しいが、この時日本の鉄道敷設を指導したのはイギリスからのお雇い外国人たちであった。
日本の初代鉄道建築師長であったエドモンド・モレル(Edmund Morel)は明治3年(1870年)3月の来日後、汐留付近の測量を開始し、本来、イギリスから鉄材のものを輸入する予定であった枕木を森林資源の豊富な日本では国産木材で枕木をまかなうほうが良いと助言したり、民部大蔵大輔・大隈重信、鉄道頭・井上勝と相談の上、コストを抑えられる1067mm軌間を導入するなど日本の鉄道の夜明けに向けて日々尽力していた。しかし、モレルは来日以前に肺を患っていたと言われ、明治4年(1871年)年9月(新暦11月)、日本でこの世を去った。30歳の若さであった。現在も横浜・山手の外国人墓地にはモレルの亡骸が眠っている。
また、リチャード・フランシス・トレヴィシック(Richard Francis Trevithick)、フランシス・ヘンリー・トレヴィシック(Francis Henry Trevithick)の兄弟も日本で活躍したお雇い外国人である。姓を見れば分かる通り、蒸気機関車の発明者「蒸気機関車の父」ことリチャード・トレヴィシックの血縁である。リチャード・トレヴィシックの孫である二人はリチャード・トレヴィシックの子である父親・フランシス・トレヴィシック(Francis Trevithick)が北部管区技師長を務めたLNWRにて鉄道技師としての腕を磨いていた。弟のフランシス・ヘンリー[44]は1876年に来日し、新橋工場の汽車監察方を務め、信越本線の横川駅~軽井沢駅間(横軽)の急峻な峠を走る日本初のアプト式軌道の敷設を指導し、1893年4月に開通させている。
兄のリチャード・フランシスは弟より12年遅れて1888年に来日した。神戸工場の汽車監察方を努め、日本初の国産蒸気機関車・860形蒸気機関車を制作。
ウォルター・マッカーシー・スミス(Walter Mackersie Smith)は日本からの帰国後、イギリスで功績を残したお雇い外国人である。1874年に来日後、日本においては神戸工場の汽車監察方に就任。軸配置0-6-0の貨物用蒸気機関車7010形を4-4-0に改造し、同時に輸入した5130形の予備の部品を使って7100形を更に改造。2両の旅客用機関車・5100形を制作している(とんでもねー魔改造である)。スミスは1878年にイギリスに帰国し、1883年、LNERに入社。3シリンダー、4シリンダーの二種類の複式蒸気機関車を開発し、日本の鉄道史のみならず、鉄道技術史に名を残している。
英国鉄道ときかんしゃトーマス
イギリスの鉄道を一番手軽に垣間見れる創作作品が「きかんしゃトーマス」及びその原作の「汽車のえほん」であろう。原作者のウィルバート・オードリー牧師は筋金入りの鉄ちゃんでリアリティのある創作を心がけた。「きかんしゃトーマス」では子供向けにと省略されている部分が多いが、「汽車のえほん」ではとんでもなくマニアックな英国鉄道ネタが満載されている。
汽車のえほんで起こった一見突拍子も無いような事故はほとんどがイギリスで実際に起った事故を元ネタとしたものだし、1948年にイギリス国鉄として鉄道網が国有化された際には、舞台となるソドー島の鉄道も国有化された旨が書いてある(3巻「赤い機関車ジェームス」にて)。
また、オードリー牧師が汽車のえほんシリーズを執筆し続けた理由には保存鉄道への援助活動といった側面も大きく、タリスリン鉄道やブルーベル鉄道、車輌だとシティ・オブ・トルーロー(City of Truro)[45]、フライング・スコッツマン[46]などが実名で登場する場面がある。しかもオードリー牧師は本の売上の一部を保存鉄道に寄付していた。
イギリスの鉄道と切っても切れないのが「きかんしゃトーマス」「汽車のえほん」なのである。イギリスの鉄道についての知識を持ちあわせてから見ると、より物語が深く、面白く見えたりするかもしれない。
国内の創作作品に登場するイギリスの鉄道
関連動画
国鉄時代
民営化後
高速鉄道 High Speed 1
ロンドン地下鉄
保存鉄道・保存機関車
その他
MAD
関連コミュニティ
関連項目
- 鉄道 / 海外鉄道 / 鉄道車両一覧(海外) / 鉄道歴史シリーズ / 世界の交通事情 / 上下分離方式
- グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国 / 英国面 / 産業革命
- きかんしゃトーマス / 汽車のえほん / ウィルバート・オードリー / クリストファー・オードリー
- ランヴァイル・プルグウィンギル・ゴゲリフウィルンドロブル・ランティシリオゴゴゴホ
- ウェールズ炭
脚注
- *営業キロ・電化キロ・複線化キロのデータはぎょうせい「最新 世界の鉄道」より。営業キロはソースによって違うが2万kmから1万5千kmの間くらい。
- *オランダ、ドイツ、スイス、オーストリア、イタリア、スペイン、スウェーデンなどでは路線の過半数以上が電化されている(ぎょうせい「最新 世界の鉄道」より)。
- *イングランド南東部では架空電車線方式ではなく、第三軌条方式によって電化されている。
- *変態紳士イギリス国鉄が創りだした世界最速のディーゼル機関車による高速列車。「HST(イギリス国鉄)」項を参照。
- *後述通り1969年に導入されたイギリス国鉄のロゴマークである。現在はイギリスの鉄道運営会社の代表団体・アソシエーション・オブ・トレイン・オペレーティング・カンパニーズ(Association of Train Operating Companies:ATOC)のブランド・「ナショナル・レール(National Rail)」のロゴマークとなっている。早い話が日本でいう在来線のマークである。
- *東西ドイツ国鉄を前身とするドイツ鉄道(Deutsche Bahn)傘下の会社。ドイツ鉄道はヨーロッパでも有数の輸送規模を誇る。DBシェンカー鉄道の前身はイングリッシュ・ウェルシュ・スコティッシュ鉄道(English, Welsh and Scottish Railway:ちなみにアメリカ資本であった)であったが、2007年にドイツ鉄道に買収され、2009年よりDBシェンカーと改称した。イギリスの鉄道なのにドイツ鉄道傘下の会社が貨物輸送のシェアを大きく占めているのは皮肉にも感じられる。ちなみにDBシェンカーは日本では西濃運輸との合弁企業「西濃シェンカー」を設立し、国際輸送事業を展開している。
- *1991年2月、雪でロンドンの交通網が麻痺した時にイギリス国鉄担当者が言った"We are having particular problems with the type of snow"(我々は雪のタイプに関する特別な問題を持っている)という言葉が由来。2009年の欧州豪雪の影響で英仏海峡トンネルを走行中のユーロスターにトラブルが起こった時にもマスコミ各社によって用いられた。
- *「8だいの機関車」項も参照のこと。
- *通常、第三軌条方式では、集電レールから取り入れた電気を走行用のレールに流すが、第四軌条方式はさらに電気を流すためのレールを備えたもの。
- *「地下鉄」を意味する「メトロ」という言葉はメトロポリタン鉄道が語源となっている。メトロポリタン鉄道は当初車輌を保有しておらず、GWRより蒸気機関車と客車を借り受けて運行させていた。
- *「地下鉄」項にもあるが、このとき導入された客車は窓が一切付いていなかった。ボギー車&クッション張りの椅子で乗り心地は良かったようである。なお、この窓無しの客車は「精神病院の独房」と呼ばれたそうな。
- *トレヴィシックは蒸気機関車が世間に認められないと分かると蒸気機関車に対する興味を失ってしまった。その後中南米を放浪して、詐欺に遭い一文無しになってしまった。結局スティーブンソン親子に旅費を工面してもらってイギリスに帰ってきたが失意の内に1833年にこの世を去った。
- *炭山から石炭を輸送するための馬車鉄道であった。開業は1758年。現在も保存鉄道として運営されており、世界最古の現存する鉄道と言われている。
- *直訳すると「女王陛下の鉄道検査団」。イギリスの人々にも古めかしく聞こえるらしい。
- *「鉄道王」と呼ばれた人物はコーネリアス・ヴァンダービルト(Cornelius Vanderbilt)など、19世紀から20世紀にかけてのアメリカにおいて多く見られたが、これは現在で言う「石油王」の概念に近い。世界ではじめて「鉄道王」と呼ばれたのはジョージ・ハドソンが初めてである。
- *1435mmであることに特に意味はない。
- *ブルネルは高速かつ優雅な列車の旅を目指した。ロンドンから港町のブリストル(Bristol)までの鉄道を開通させようとして橋梁やトンネルを設計し、さらにブリストルからアメリカ・ニューヨークまでを結ぶ大西洋横断航路を就航させようとして当時世界最大の蒸気船・グレート・ウェスタン号を建造したとんでもねーお方(ちなみに「そんなにでかい船でニューヨークまで行くとか月に行くのと同じくらい不可能だろHAHAHA」とか言われてた)。鉄道国際デザインコンペティションの「ブルネル賞」に名前を残している。
- *世界初の自走する消防車を作ったお方。レインヒル・トライアルにも参加しており、軍人上がりのスウェーデン出身のエンジニア・ジョン・エリクソン(John Ericsson)と共に消防車を改造した蒸気機関車・ノベルティ号(Novelty)を出走させた。
- *アイルランドの鉄道の軌間が1600mmと定められたのもこの時である。
- *ノルウェー道路局主任技師のカール・アブラハム・ピール(Carl Abraham Pihl)が採用した。ピールはロバート・スティーブンソンの弟子にあたる。1067mm軌間は南アフリカなどイギリスの植民地で多く用いられ、日本でも主流となっている。
- *1836年に開業した馬車鉄道。保存鉄道として現在も運営されている。
- *エンジニアの家系・スプーナー家の出。スプーナー家はウェールズの狭軌軽便鉄道の敷設に大きな貢献を果たした。例えば、タリスリン鉄道の技師であったジェームズ・スウィントン・スプーナー(James Swinton Spooner)はチャールズの兄である。
- *その内の2号機「プリンス(Prince)」は現在でもフェスティニオグ鉄道に在籍している。ちなみにプリンスは汽車のえほん/きかんしゃトーマスに登場するデュークのモデルである。
- *当時、フライング・スコッツマンを牽引した蒸気機関車はグレート・ノーザン鉄道スターリング・シングルである。きかんしゃトーマスTVオリジナルキャラクター・エミリーのモデル。
- *ナイジェル・グレズリー(Nigel Gresley)卿設計の流線型の蒸気機関車。きかんしゃトーマスのTVオリジナルキャラクター・スペンサーのモデルである。また、マラード自体も汽車のえほん35巻にて登場している。
- *もともとは貨物用機関車も色鮮やかに塗られていたが、四大鉄道会社化の際に貨物用機関車は黒、貨客両用機関車は黒に赤色のストライプで塗ることになった。
- *当時フライング・スコッツマンを牽引していたのはLNERクラスA4蒸気機関車である。
- *極力資材を最小限に用いて製造された戦時形車両。頼むから英国一醜い蒸気機関車とか言わないであげて下さい。きかんしゃトーマスTVオリジナルキャラクター・ネビルのモデルでもある。
- *ハイス(Hythe)~ダンジェネス(Dungeness)の21.7kmを結ぶ世界最小の公共鉄道。静岡県伊豆市修善寺にあるテーマパーク・虹の郷には、RH&DRと同じサイズの車輌を用いた遊覧鉄道「ロムニー鉄道
(外部リンク)」がある。実際にRH&DRで使われていた車輌も使われている。
- *のち1969年の蒸気機関車全廃時に「British Rail」に改称した。マークの「ダブル・アロー」はこの時に導入され、車輌はレール・ブルー(Rail Blue)と呼ばれる青色で塗られることになった。
- *少数の軽便鉄道、産業鉄道や地下鉄、路面電車などは国有化されなかった。
- *旧LMSが所管していた北アイルランドの鉄道は北アイルランド政府に売却され、1949年にアルスター運輸機構(Ulster Transport Authority)の一部となった。
- *ブルーベル鉄道が保存のために最初に購入した蒸気機関車が55号機「ステップニー」である。汽車のえほん18巻「がんばりやの機関車」及びきかんしゃトーマスではステップニーがソドー島へやって来る、という物語でブルーベル鉄道が取り上げられた。
- *物理学の博士で、前職はインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(英国最大の化学会社)の技術部長。あらゆる意味で鉄道経営とは何の縁もゆかりもない人物だった。
- *イギリス国立鉄道博物館には0系新幹線電車が展示されている。現在国立鉄道博物館に展示されている車両で、イギリス以外で製造された車両は0系のみである。
- *「在来線」は日本の鉄道の用語なのでこの言葉の用い方は不正確なのだが、わかりやすくするために「既存の路線」という意味で在来線の語を用いた。
- *フランスの高速列車「TGV」の技術を元にして作られた。Class373項も参照のこと。
- *サッチャー政権は1980年代後半に国有バス事業会社・ナショナル・バス・カンパニー(National Bus Company :NBC)の民営化・バス事業自由化を行ったが、これが大失敗に終わった。自由化により、最低限の安全基準を満たせば(事実上)誰でもバスが運行できるようにしたところ、儲かるようなバス路線に事業者が集中したり、逆にすぐに廃止されてしまう路線が現れたり、バス会社が新設されたりすぐに倒産したり、サービス水準がガタ落ちしたり大混乱となった。鉄道が直ちに民営化されなかったのはこの二の舞を避けるためだと言われている。バス事業民営化に力を尽くした時の運輸大臣・リッズデイル(Liddesdale)男爵ニコラス・リドリー(Nicholas Ridley)は性懲り無くイギリス国鉄の民営化を進めようとしたところサッチャーに「鉄道民営化はこの内閣のワーテルローになるでしょう。その言葉を二度と口にしないで下さい」と言われてしまった(クリスチャン・ウルマー著、坂本憲一訳「折れたレール」P89より)。
- *クラッパム・ジャンクション駅には「Britain's busiest railway station(ブリテンで最も忙しい鉄道駅)」という看板がある。大きな幹線がX字の様に交差する分岐駅で車両基地もあるために分岐器や渡り線がものすげーことになっている。
- *この決定には首相辞任直前のサッチャーの変心がある。ただし、サッチャーの後継者のメージャーは民営化は「したらいいんじゃないの?」くらいの関心しか持っておらず、前述のサッチャーの懸念事項は全く共有していなかったと言われている。赤字続きとはいえ、イギリス国鉄は上手く維持管理されている組織であり、政府内でBRを民営化する理由が考えられた。つまり、BRの民営化はさしたる目的もなく民営化するために民営化されたと指摘されている。
- *分割して叩き売られた状態に近い。
- *死者こそ前述の2つの事故よりも少なかったが、ハットフィールド事故がきっかけでレールトラック社は過剰に列車の速度制限を行い、列車のダイヤは乱れに乱れ、ロンドン近郊で起こったハットフィールド事故は遠く離れたスコットランドの路線にまで影響をもたらした。
- *レールトラック社は破綻寸前にもかかわらず同年5月には株主に配当金を支払っていたことから、この政府の判断を批判するものは少数だった。
- *フランシス・ヘンリーは日本人と結婚し、その子の奥野由太郎氏は日本郵船欧州航路の船長として活躍した。
- *GWR3700型蒸気機関車3440号機。非公式ながら世界で最初に時速100マイル(160km)を出した蒸気機関車として知られる。13巻「ダックとディーゼル機関車」にて登場した。
- *こちらは列車名ではなく、機関車の名前である。LNERクラスA1/A3蒸気機関車4472号機のこと。こちらは公式に最高時速100マイル(160km)を記録した、イギリスで最も有名な蒸気機関車の一つである。きかんしゃトーマス/汽車のえほんのゴードンのモデルであり、23巻「機関車のぼうけん」ではフライング・スコッツマンとゴードンが同型機として会談した。
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