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「気持ち良かったですねえ。ほぼイキかけました。えぇ、サーセンw 日本のすべての方に感謝したい。」
イチロー(本名:鈴木一朗(すずきいちろう、1973年10月22日-)は、日本の愛知県出身の元プロ野球選手・メジャーリーガー(外野手)である。現在はシアトル・マリナーズの会長付特別補佐兼インストラクターを務める。
それは野球の神に愛された男、
プロ野球界の至宝、そして日本人の誇りである。
概要
走攻守の三拍子が高いレベルで揃っているプレイヤーで、特に守備における強肩には日本でプレイしていた頃から定評があった。
ニコニコ動画で見られるレーザービームのMADの元になったプレイはその最たるもので、MLB1年目の「新人」イチローが見せた強肩ぶりは、彼がMLBでもオールスターの常連になるほどの人気を得るきっかけになったと言える。
『レーザービーム』は2001年4月13日のオークランド・アスレチックス戦で、ライトヒットで三進を試みた一塁走者のテレンス・ロングを、正確且つ力強い送球で三塁補殺した際、実況アナウンサーであったリック・リズが「イチローからのレーザービーム攻撃だ!」と叫んだことに所以する。
(Wikipedia イチローより)
OB | |
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イチロー Ichiro Suzuki |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1973年10月22日 |
身長 体重 |
180cm 77kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1991年ドラフト4位 |
引退 | 2019年 |
経歴 | |
選手歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
WBC | 2006年、2009年 |
メジャーリーガーテンプレート |
2009年に行われた第2回WBC決勝戦で決勝点となる2点タイムリーヒットを放ち、韓国からのサイバー攻撃ですら落ちる事が無い2ちゃんねるのサーバーが5つ落ちた。
この事により同年の4月5日にひろゆき達がイチローの実家に生取材し、ヒット1本でサーバーを5つ落とした事を表彰する様子(ついでにハハローのカレーも食べる予定)をニコニコ生放送で配信するはずだったが、WBC後のオープン戦でイチローは体調不良を訴えていたため精密検査を行った結果、出血性胃潰瘍であることが判明。初の故障者リスト入りし、メジャー開幕戦出場が絶望的になってしまったため、ご家族の心配を運営が考慮した結果、生放送は中止となり表彰状を渡すのみとなった。
しかしその後、その様子を配信する事を予告し、4月22日に実際に配信された。表彰状はイチロー記念館にキチンと飾られているようである。
2012年7月23日、D.J.ミッチェル投手とダニー・ファーカー投手との2対1交換トレードで、ニューヨーク・ヤンキースへ移籍が突如発表された。入団時から背負ってきた、代名詞ともいえる背番号「51」は「31」へと変更された。
2014年オフにFAとなり、2015年以降はマイアミ・マーリンズと契約を結んでいる。背番号は2012年以来の「51」。
2017年オフにマーリンズをFAとなり、イチロー本人曰く「ペットショップで売れ残った大きな犬みたい」のままオープン戦が始まった。
2018年3月に入り、古巣マリナーズから突如オファーがあり緊急渡米。オファーからわずか1週間もせずに正式にメジャー契約、入団が決まった。背番号は2012年7月にイチローが抜けてから空きになっていた「51」。実に6年ぶりの復帰となった。
入団会見では、前途の犬の話題に絡めて、「ケージの中で一番大きく育ってしまった犬を優しく迎えてくれた。それに対して、全てをささげたい、忠誠心が生まれるというのは当然のことです」と述べた。
なおこのような表現になった背景として、後述の通りイチローは犬好きであり、「一弓」くんと、その息子の5兄弟のなかの長男である「宗朗」くんの二頭を飼っていることも関係していると思われる。
2018年5月4日にマリナーズの特別アドバイザーに就任されたことが発表され、同時に残りの試合は選手出場はないことも発表された。ただし、チームには帯同して練習は続けていき、翌年の選手復帰を目指した。
2019年3月20日、約10か月半ぶりに選手復帰を果たすものの2019年3月21日、試合終了後の会見で現役引退を表明。
引退後
マリナーズの会長付き特別補佐兼インストラクターに就任し、ホームゲーム時にはマリナーズの選手を、チームが遠征時にはマリナーズ傘下AAA級チームのタコマ・レイニアーズの選手を指導することになった。2019年9月14日にはシアトルで球団で大きな功績を残した選手に送られる「フランチャイズ・アチーブメント賞」の授与式を受けた。
人物像
バッティング
バットを掲げるイチロー。イチロー独特の行為の1つ。 |
とにかくヒットを打つ事にこだわりがあり、加算される安打数に対して、数値が上下に変動する打率には特に拘ってはいない。これは若い頃に上下変動する打率を気にするあまりプレッシャーを感じたため、それ以降このスタイルを貫くようになった。
「四球は審判の判定に左右される(≒自分自身でコントロールできない)」という考えを持っているため、四球は少ない。四球の数は出塁率の上昇に繋がるため、このスタンスは普段1番という打順上、「自分勝手なプレーだ」という批判の声も多少あるようだ。ただイチローの実際の出塁率はむしろ高い方である。また、人種差別が根強いアメリカではイチローも例外ではなく、プレーでも渡米して間もない頃は際どいボール球をストライク判定されることも珍しくなかったため、やむを得ず四球を選ぶスタイルをできなかったとも語っている。
また早打ちで尚且つバットコントロールも上手い為に三振も少ない(三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年の時の三振は僅か3つである。また、216打席連続無三振の日本記録も持っている)。
また、高校時代からその打撃センスは現われており、三年時の県大会打率は7割を超えている。高校通算で570打数279安打の打率.489を記録している。
NPBの生涯通算打率の公式な記録となる4000打数には到達していないため参考記録となっているものの、NPB通算打率は.353を記録しており、これは公式のNPB生涯通算打率である青木宣親の.329を大きく上回っている。また、2000年にはシーズン打率.387を記録しており、これはランディ・バースが記録したシーズン打率.389に次いでNPB歴代2位、パ・リーグ記録となっている。MLB通算打率でも.311という高い数値を記録した。
レギュラーに定着した94年から2010年に至るまで17年間打率3割以上をマークしていた。特にNPBに在籍していた2000年までは94年から毎年シーズン打率.340以上を記録して首位打者のタイトルを獲得していた。MLBでも2度の首位打者に輝いており、シーズン打率.350以上を4度記録している。
1994年にはNPB初となるシーズン200本安打を達成。最終的にNPBのシーズン安打数の記録を210本までに伸ばした。後にマット・マートンによってこの210本という記録は破られるものの、現在でもNPB歴代3位、パ・リーグ歴代2位である(1位は西武・秋山翔吾が2015年に記録した216本)。
MLBでは2001年~10年にかけて10年連続200本安打を達成しており、これはMLB記録となっている。単年の記録でも10回のシーズン200本安打達成はピート・ローズに並んでMLBタイ記録である。2004年にはジョージ・シスラーのシーズン257本安打という記録を84年ぶりに更新するシーズン262安打を記録した。
※前述の安打数の記録に関して、マートンは144試合制の144試合出場で214安打、秋山は143試合制の143試合出場で216安打、イチローは130試合制の130試合出場で210安打という記録である。またジョージ・シスラーは154試合制の154試合出場で257安打、イチローは162試合制の161試合出場で262安打という記録である。それぞれの記録には多少疑問が残るかもしれないが、それぞれ条件が異なるため一概に比較することは無意味であることを付け加えておく。
オリックス時代のイチロー。左は仰木彬監督(当時) |
オリックス時代には一軍定着後、毎年2桁本塁打(シーズン最高は25本塁打)を記録しており、パンチ力も兼ね備えている。だが試合では長打を狙わず単打や内野安打狙いのバッティングをしている。実際に試合前の練習などではホームラン性の打球をかっ飛ばしている。
本人も「(率が).220でいいなら(ホームランは)40本と言っておきましょう」と語っており、元同僚の佐々木主浩も「試合前の練習ではめっちゃホームランを打ってるけど、イチのホームランは誰よりも滞空時間が長くて綺麗。打率を気にしなければ40本は絶対打てる」と言うほどである。
スタメンで出ていた頃は打順で1番が定位置となっていたがチャンスに滅法強く、打順に対して割と多い打点を記録している。オリックス時代の1996年には3番を打ち、オリックス最終年の2000年には4番を打っていた。1995年には1番を打ちながら80打点で打点王を獲得(初芝清、田中幸雄と同時受賞)、1997年にはシーズン17本塁打ながら自己最高の91打点を記録している。
これだけの打率の高さ、加えて得点圏の強さが敬遠に繋がる事が多い。日米通算で279敬遠、日本通算でも歴代13位となる98敬遠を記録している。
日本で活躍していた頃は右足大きく上げる特徴があるバッティングフォームであった。メジャーに渡った頃から足を大きく上げるフォームはやめたものの、スイング中に体の回転軸が投手側に大きく移動する「振り子打法」は変わっていない。一般的にスイング中に頭の位置が動くと目線がブレて、ボールを打ちづらいとされるためスイング中の頭の位置は動かないことが基本とされる。しかしイチローの場合「自分は動いていた方がボールを見やすい」と語っており、イレギュラーな打法でヒットを積み重ねている。イチローの活躍によって同様の打法を用いる選手が出てくるようになったが、打撃のセオリーから逸脱している特殊な打法であるため活躍する選手は少なく、指導者によっては邪道とされる場合もある。
打ってからのスタートがとても速い独特のバッティングフォームであり、メジャーの後退気味の内野守備位置によってMLBに移籍してからは内野安打の数が非常に多い(概ね、毎年シーズン全安打の20%~25%)。また、イチローの場合「芯を捉えて打球を飛ばすバッティング」と「狙って芯を外して打球をヒットゾーンへ運ぶバッティング」を使い分けており、このわざと詰まらせるバッティングによって、ボテボテの内野安打や内野手と外野手の間に落ちるポテンヒットを生み出している。この「わざと詰まらせる」技術を会得している選手は非常に少なく、内川聖一や銀次などのごく一部の巧打者のみができる究極のバッティング技術である。
NPB後期には甘い球を打ち損じる傾向が強いという弱点があった。普段厳しいコースばかり攻め続けられるため突然甘い球が来ると対応ができない、という理屈である。ダイエー時代にイチローからプロ初安打を打たれた木村恵二は後に西武に移籍した時にこの弱点を見つけ、見事に抑えられたという。
春先は打撃の調子が悪く、5月になると一気に調子が上がる傾向がある。
2011年シーズンは開幕こそ好調だったものの、本来調子が上がる5月~6月半ばにかけて不調に陥った結果、規定打席に始めて到達した94年以降では始めてシーズン打率が3割を割り込み、シーズン200本安打の記録も10年連続で途切れた。以降も移籍による起用法の変化によってレギュラーが確約されなくなり、2010年を最後にシーズン200本安打、シーズン打率3割を記録することはなかった。それでもMLB通算16年目でのMLB通算3000本安打達成はピート・ローズに並ぶ最速記録だった。
なお、イチローが2004年に記録したシーズン262安打はMLB記録であるが、2001年に記録したシーズン242安打は歴代10位、新人記録では1位である。MLBのシーズン安打記録の2~9位はいずれも1931年以前の記録であり、21世紀以降においてイチロー以外で1シーズンで最もヒットを打ったのは2014年にホセ・アルテューベが記録した225安打である。なお、イチローは2007年に238安打、2009年に225安打を記録しているため、21世紀以降でのシーズン安打記録では1~4位タイはイチローであり、アルテューベが4位タイ、6位には2006年に224安打を記録したイチローとなる。
守備
フェンス際のボールをキャッチするイチロー。 |
若い頃は主に外野の右翼を守ることが多かった。2006年~2007年は中堅をメインに、ヤンキース移籍後からは外野3ポジション全ての守備に就くことが多くなった。ちなみにオリックス時代には1度だけ公式戦でサードの守備に就いた事がある。
守備も打撃に劣らず定評があり、俊足かつ打球の落下点へ最短距離で移動できるため守備範囲が広い。肩も強いので(遠投は130m前後)毎年多くの補殺を記録する。MLB初年度にみせたレーザービームは非常に有名である。クイックスローも上手く、前述のレーザービームの衝撃も相まって塁上のランナーが進塁を躊躇うことも少なくなく、フェンス直撃の打球を直前まで取れるようなそぶりをして、塁上のランナーのスタートを遅らせて進塁や得点を防ぐプレーもよく見られるなど、数字に出ない部分でも貢献度が高かった。
MLB移籍後はスタンドインギリギリのホームランボールをキャッチした事が何回かある。
ゴールデングラブ賞はオリックスの一軍に定着した1994年からMLBに移籍する直前の2000年まで7年連続受賞、MLBでもゴールドグラブ賞を初年度の2001年から2010年まで10年連続で受賞した。
ゴールドグラブ連続受賞が途切れた後も40歳ごろまで守備指標では並の選手以上の守備力を誇っているとされていた。
オリックス時代は田口壮、本西厚博(後に谷佳知)と共に外野を守り、球界一の守備力とまで言われ黄金期のオリックス・ブルーウェーブを支えた。
イチローの特技として、背面キャッチがある。その名の通り、飛んできたフライを自分の背後でキャッチするものなのだが、見た目と違って相当難しい技である。一見、これは只のパフォーマンスの様であるが、飛んできた打球から目線を外して捕球するというイチロー独特の守備練習の1つでもあるという。
オリックス時代には自身がフライアウトで3アウト目を取った時、よくボールをスタンドに投げ込んでいた。パワプロではイチローのみに、これが再現されていた。
走塁
三塁に滑り込むイチロー。 (第2回WBC強化試合日本vsオーストラリア戦にて) |
走攻守の内、イチローが最も難しいというのが走塁である理由は「バッティングの成功率は良くて3割強だけど、走塁の成功率は10割じゃなきゃならないから」。その日のグラウンドコンディションを考慮し、走塁をするということは判断力が必要とされ非常に難しいのだという。
日米通算700盗塁、MLB通算500盗塁を記録しており、MLB移籍後は10回のシーズン30盗塁以上を記録している。また、シアトル・マリナーズの通算盗塁数の球団記録保持者でもある。
盗塁技術は高く、盗塁成功率は日本通算で85.8%、MLB通算で81.3%を記録していた。2006年から2007年にかけて45連続盗塁成功という記録を打ち立てている。渡米前あたりでは打線の中軸を任される機会が多かったため盗塁企画数は減少傾向にあったものの、MLBではクイックの甘い投手が多いため30歳後半を迎えても安定した盗塁数を決めている。だが盗塁の多さにもこだわりを持っていないため盗塁王は日米共に1回のみである。
盗塁成功率は非常に高いが、リード(離塁)は大きくとらないスタイルである。これはリードを大きく取りすぎると投手の牽制を気にするあまり、帰塁への意識が大きくなってしまって盗塁のスタートが切りづらいためである。また、盗塁時に塁間を最短距離で走るために、塁間を最短距離で繋いだ線よりやや後ろに下がってリードを取っている。
リード時には体勢を高すぎず、低すぎない辺りに持っていくことで、スタートから一気にトップスピードへ乗せる事ができるようにしている。
クロスプレーになる状況において、野手を避けてセーフを狙う場合もよく見られる。
2012年のALDSのオリオールズ戦、一塁ランナーのイチローが打者の二塁打で一気にホームを狙った際に、捕手のタッチをかいくぐって得点をもたらした。
2015年にも三塁ランナーがイチローの場面で、打者が内野ゴロを打つ間にホームへ突入、タッチをかいくぐって生還した(この時は当初の判定はアウト。しかしチャレンジ制度によって判定が覆りセーフに)。
前述の連続盗塁成功記録が途絶えた時にも野手のタッチをかわそうとしたが、アウト判定で失敗に終わっている(このプレーはスロー映像で見るとタッチをかわしているようにも見えるが、チャレンジ制度導入前だったため判定は覆らなかった)。
怪我のリスクを最小限に抑えるため、ヘッドスライディングはほとんどやらない。
とびっきりの走力があるというわけではなく、走力なら田口壮の方が上だという。このため無理な走塁ができなかったと引退時に語っており、前述のようなクイックの甘い投手に対して多くの盗塁を仕掛けたのもそのためである。
晩年は盗塁数は減ってしまったものの2015年の一塁到達平均タイムでメジャー5傑に選ばれている。このときイチローは41歳。当たり前だがイチロー以外の5傑のメンバーは全員20代である。
投手として
愛工大名電時代のイチロー。 |
高校時代は投手兼外野手のエースで4番だった。しかし投手としての評価は低く、更に高校在学中に怪我をした事が原因で投手を断念せざるを得ず、ドラフトで指名された際には外野手での指名だった。
1995年のパ・リーグ東西対抗戦でプロ入り後初登板をし、広瀬哲朗をピッチャーゴロに打ち取った。本来この時は清原和博の打順だったが清原が「俺が打席に入って三振でもしたらどうするんだ。広瀬さん、行ってくれ」と言い、代わりに広瀬が打席に立った。
1996年のオールスターでは9回2死から登板した。この時対戦する打者は松井秀喜の筈だったが、代打に高津臣吾が送られてしまい、結局イチローは高津と勝負、高津をショートゴロに打ち取った。ちなみにこの時に野球中継のゲスト解説をしていたのは前述の広瀬だった。
2009年の自主練習ではWBCのタイブレーク制に備えてプルペンに入り、投球練習をした事もあった。
2015年10月4日のフィラデルフィア・フィリーズ戦において4点ビハインドの8回裏にメジャー初登板を果たし、1回を投げ2安打1失点の成績をおさめた。前述のオールスターの登板から実に中7015日ぶりの登板で、最速は88マイル(約141km/h)だった。
投手としては最高球速は140km/h後半、決め球は本人によるとフォークとの事。
投手を辞めた理由が理由なだけあって、現在も投手への未練は本人曰く相当あるという。
引退時の会見では投手イチロー、打者大谷翔平で勝負をしたかったと語っていた。
道具
「バットやグラブは道具じゃない。体の一部」と公言しており、野球道具をとても大切にしている。
使用しているバットは篠塚和典モデルのバットをベースにヘッドを軽くしたものであり、普通のバットよりもかなり細く、芯の場所が極端に狭い。そんなバットを使用してる理由は、プロ1年目のオフにバット工場へ行った時に「このバットだけ遠くから見てもチカチカ光っていた。実際に持ってみたら自分にしっくりきた」と言い、それ以降現在に至るまでそのバットを使っている。
打った後一塁へ向かう際、バットを放り投げることはほとんどしない。これは若い頃、試合中にカッとなっとしまってついバットを叩きつけてしまい、少し時間が経った後にこの行為をすごく後悔したからだという。また、MLBの試合中には投球を打って一塁に向かう際、打席付近にバットを置いてしまったことで球審がイチローのバットを蹴ってどかした事があり、この行為に激高したイチローが球審に詰め寄るという出来事があった。
バットは湿度から守るため、特注のバットケースに入れて持ち運びしている。この事はマリナーズ時代に球団CMのネタとして紹介された事もある。マリナーズ時代には当時若手のマイケル・モースに、マーリンズ時代にはディー・ゴードンにこのバットケースをプレゼントした事がある。
グラブは紐を解いて使用している。理由は紐を結んだままだとグラブが固い状態になり、ボールを捕球したときの感覚が手に伝わりにくくなるからだという。
スパイクは20年ほどアシックス製を使用していたが、2015年からはビモロのスパイクに変更。このスパイクに変更してから「5年前と比べても速くなってると思う」とイチロー本人が体感しており、40歳を超えても一塁への到達タイムが4秒を切るスピードを支えるものとなっている。
マリナーズのチームメイトだったジョージ・マッケンジー曰く、「イチローさんは絶対他人の野球道具は触ろうとしない。それは他人の野球道具を触ると、その感覚が手に残るのが嫌だから」。
故障離脱の少なさについて
NPBで9年、MLBで19年プレーしながら長期に渡る故障離脱が非常に少ない。NPB時代には99年に当時日ハムの下柳剛から手首に死球を受けて残りシーズンを全休、00年には打席でのスイングで脇腹を痛めて残り試合をシーズン最終戦以外欠場をしたものの、94年開幕戦から上記の99年の故障離脱まで763試合連続出場という記録を残している。
MLB時代には19年のキャリアがありながら故障者リスト入りした経験は前述の09年シーズン開幕直前の1度のみであり、これ以外にも同年の8月末に左ふくらはぎを痛めた(故障の原因は夢の中に出てきたウサイン・ボルトに走り方を教えてもらい、その走り方をしたため)ときに数試合を欠場した以外に長期離脱することはなかった。レギュラーを張っていた01年~12年までの12年間は年平均159試合(MLBはシーズン162試合制)に出場するほどのタフネスさであった。レギュラーを確約されなくなった13年以降でも17年までいずれも100試合以上に出場していた。日米通算で3604試合に出場しており、これはピート・ローズが持つMLB最多出場試合数を超えている。
これほどの故障離脱の少なさは、自身の体のケアが行き渡っていたことに他ならない。特に、入念なストレッチや特殊な器具を用いた初動負荷トレーニングによって柔軟な筋肉を作り出し、故障を未然に防いでいた。
若手時代にはシーズンオフにウェイトトレーニングを行って筋力強化をしていた時期もあったが、シーズンが始まると満足する成績が残せず、イチロー本人も原因がわからずにいた。しかしシーズンが進み、夏ごろになるとオフに強化した筋力が落ちるにつれて成績が向上。この時、強化した筋肉がスイングの邪魔になっていたことを自覚し、それ以降ウェイトトレーニングをすることは止めたという。
また「筋肉は鍛えられてもそれを支える関節、腱を鍛えることができない」という持論から、ウェイトトレーニングで体格に見合わない筋肉を付けることは逆に故障の原因になると警鐘を鳴らしている。
背番号
セーフティバントを決めるイチロー。 (第2回WBC東京ラウンド2回戦、日本vs韓国戦にて) |
背番号はオリックス、マリナーズ、WBC日本代表、マーリンズで一貫して51をつけている。イチローのトレードマークとも言える。
イチローに憧れる野球選手はこの51に因んだ背番号を付ける事があり、川崎宗則は「イチローのひとつ後」という理由で一貫して背番号52を付けていた。
これは国内選手だけに留まらず、他国の選手にも見られる。韓国の奉重根やキューバのヨエニス・セスペデスはイチローへの憧れから背番号51を背負っている(セスペデスは後にキューバから亡命し、アスレチックス入りした時点で背番号51が他の選手が付けていたため現在は背番号52を背負っている)。イチローの影響力が伺える。
逆にイチローと比較される事を嫌い、小関竜也は入団当初51だった背番号を変えている。
背番号51に拘る理由は、
- イチローのイニシャルSI(Suzuki Ichiro)が51に似ているから。
- 広島東洋カープの前田智徳に憧れていて、前田が入団時に背負っていた背番号が51だったから(現在は背番号1)。
- 元ヤンキースのバーニー・ウィリアムスが憧れで、背番号が51だったから。
- 自らの専用バットをつくってもらっているバット職人の久保田五十一さんにちなんでいる。
などの説が広まっていた。
実際は高卒でドラフト4位という評価でオリックスに入団したイチローにはそもそも背番号を選べるほどの権利は無く、入団当時に球団から用意された背番号が51であった(ちなみに同年に入団した他の高卒選手も全員50番台の背番号である)。そのため元々51という番号には拘りは無かった。
当時の年間最多安打記録を記録した1994年オフには球団から51より小さい背番号への変更の打診があったものの、既に背番号51で選手としての認知度が高まったという理由で打診を断った。以降、下記の理由で31を背負ったヤンキース所属時以外は背番号51をあえて選ぶようにしているという主旨を豊田彰男との対談で明かしている。
イチローのオリックス退団後、球団が合併してオリックス・バファローズになった後も51番は誰も付けていない準永久欠番扱いである。2005年にオリックス・バファローズの監督に就任した仰木彬にイチローが51番を勧めたというが、仰木は「そんな番号は恐れ多くて絶対つけられん」と固辞したエピソードがある(ちなみに仰木は近鉄のコーチ時代に背番号が51だったシーズンがある)。
また、マリナーズ移籍後は51の前任者が当時通算179勝、かのビッグユニットの異名を持つランディ・ジョンソン(マリナーズ在籍時に通算130勝、4年連続最多奪三振、最優秀防御率1回、後に通算300勝を達成する大投手)ということもあって、イチローが51番を背負う事にかなりの反発があったというが、イチローが後に多大な成績を挙げたことでその反発を黙らせた。
しかし、2012年7月にニューヨーク・ヤンキースへの移籍が決定し、 入団時から20年間背負っていた背番号が「31」に変更された。ヤンキースでは背番号51というとバーニー・ウィリアムス(2006年引退)が背負っていた番号であり、現在は永久欠番になっているほど偉大な番号であるためか、「ヤンキースではとてもつけることはできない」と発言している(前述のランディ・ジョンソンもヤンキース入りした際、ウィリアムスが51を背負っていたため「41」を背負う事となった)。
国際大会
五輪に対しては「オリンピックはアマチュアの大会」という理由で消極的であり、オリンピック出場を要請されたときは渋った結果、チームメイトの田口壮が代理でオリンピック出場したほどである。
それに対してWBCに対してはテンションが上がるほど積極的である。2006年のWBCの時には選手では一番に監督の王貞治に参加の趣旨を伝えたという。
その積極性は「対戦した相手が向こう30年手を出せないな、という勝ち方をしたい」という発言や「(同じ対戦相手に2度負けた事は)僕の野球人生で最も屈辱的な日」という発言から見てとれる。
また、「WBCを世界最高の大会に育てていきたい」という意図もあるようである。
性格
マスコミやメディアに対して冷たい当たり方をする事が多いため、一般的にとてもクールなイメージが強いイチローだが、第1回WBCでチームメイトになった上原浩治に「あの人は普通の“隣のあんちゃん”」と言われる程、普段はとってもひょうきんな性格である。
物の言い方がとても独特で、例えば自身の知名度を言い表す時には「(アメリカの)レストランで食事してたら10人中11人に話しかけられますね」と言った。プレーだけでなくジョークも一流である。
マーリンズ時代からはスプリングトレーニング期間中、練習場へ向かう時に変なTシャツを着ていくことが話題となった。引退時の会見でその件の意味を触れられた際には「野暮ったくなるから言わないほうがいい。見る側の解釈でいいんじゃないですか」と意図を明言することはなかった。
マスコミやメディアに冷たい当たり方をするようになった背景に、過去に事実無根の事を書かれた事があるからである。それ以前はよくTV出演とかしていた。
近年になって拒絶の傾向は弱くなっており、記者会見などではたまにユーモラスな答えが返ってくる事も増えてきた。しかしやはりマスコミやメディアとは一定の間隔を置いており、時には話に沿わない、意図がわからない質問をしてくる記者に対して厳しい態度を見せることもある。
2014年には関西ローカルTV番組「ごぶごぶ」に特別出演した。ほっともっとフィールド神戸で自主トレーニング中にごぶごぶのロケが訪れたことでの出演となった。しかしイチローは主演者をあまり絡むことは無く、あくまで自主トレーニング中にたまたま通りかかった感じを貫いて出演者の浜田雅功、東野幸治、撮影スタッフの笑いを誘い、終いには浜田と東野にユンケルファンティーを差し入れした。
(番組では元々イチローに出演のオファーを出していなかった。なので、あまり番組の撮影に関わり過ぎるとイチローの所属事務所や所属球団から出演料を請求される、またはそれぞれの所属との契約で中身のある話ができないという可能性があるため、たまたま通りかかった感じで出演せざるを得なかった線が強い)
メジャーで10年以上プレーしているため、英語に加えてスペイン語も喋る事ができるがMLBの公式会見では必ず通訳を通してコメントをするようにしている。言葉の意味を誤解されないように、正確に伝えるためというのが理由である。
当のイチローは「ユニフォームを着ているときだけ『鈴木一朗』ではなく『野球選手のイチロー』になれる」という趣旨の発言をしている。
意外な事に本人曰く、とってもプレッシャーに弱いとの事。近年ではシーズン200本安打が近くなるとプレッシャーのあまり、体調を崩してしまう事がよくあるとか。
実際、2009年にはWBC中の不振によるストレスでWBC後に体調が悪化。出血性胃潰瘍と診断され初の故障者リスト入りしたと同時に開幕戦出場も無理となってしまった。
ゲームや漫画も少々嗜んでいるようで、第2回WBCの日本代表メンバーの片岡易之の足の速さを「ファミスタの『ぴの』っぽい」と例えたり、2009年3月7日の第2回WBC東京ラウンド日本vs韓国戦後のインタビューではチームの雰囲気と打線爆発について「(ゲームソフトの)『ドラゴンクエスト』はテンションが上がって強くなるでしょう。ああいう感じでしょうね」と答えたり、王貞治第1回WBC日本代表監督をカリン様(ドラゴンボール)に例えたりしている。特にドラゴンクエストはシリーズ一通りをクリアしている程で、イチロー記念館にはイチローが少年時代に遊んだというドラクエのソフトが飾られている。
プレーだけでなく、社会活動にも積極的で、1992年のフレッシュオールスターに出場し、MVPに輝き100万円を手に入れたが全額施設に寄付した。他にもオリックス・ブルーウェーブが消滅するまで神戸総合運動公園野球場(現:スカイマークスタジアム)にイチローシートを設置し、2011年の東北地方太平洋沖地震の際には個人で1億円を寄付する等、熱心さが伺える。
自身曰く、組織の中で自分を殺していけないタイプの性格という。チチローこと父である宣之は「物事に囚われない、型破りな事をしなさい(もちろん人の道を外さない程度で)」という教育方針でイチローを育てたという。また、非常に我慢が苦手だと自認しており、特に体を動かすことを制限されることが一番苦手だと語っている。
食
かなりの偏食家である。幼少期、食卓に並んでいた料理は自分だけ異なっていたと述懐している。
引退後にも「食については気を遣っていなかった」とアスリートらしからぬ公言をしており、現役時代は痩せやすい体質から一例として昼食でハンバーガーを4個食べていたほどだったという。
好物はカレーライスで、MLB移籍後から2010年辺りまではほぼ毎日朝食兼昼食のカレーライスを食べていたことが知られていた。
しかし、ビーフカレーに入っている牛肉は食べない。理由は「ダシガラだから」。また他の具材についても「毎回同じものを食べたい」という理由から溶けきるほど煮込まれてるものが好ましいという。
焼き飯に入っているグリーンピースも苦手。一粒残らず皿の端に避けるほど。
焼肉も好物で、独身だったオリックス時代にはよく行き着けの焼肉屋に通っていた。焼肉にはこだわりがあり、焼肉には必ず白米は欠かせず、焼いた肉にタレを付けて、それを刷毛のようにして白米にタレを付けた部分が大好物。2006年のWBCで共に食事に行った川崎宗則のよると、その場には川崎以外に松坂大輔もいたが、絶対に焼肉を後輩には焼かせなかったという。「何が一番(牛にとって)供養になるかと考えたら、一番おいしい状態で食べる」という考えから、肉を焼くときは網に1枚ずつ、焦がさないで食べる。石井一久がMLB時代に一緒に食事に行った際には前述の焼肉の焼き方を紹介しつつ、「網に緊張感があった」と語っている。
神戸の行きつけの店では牛タンが特にお気に入りで、現在でも神戸にいる間は週6で通うほどだという。(毎日通わない理由はその店が月曜日定休のため)
白米に関して語らせたら「(テレビの)収録1日で終わらない」との事。白米に関してはオタク級を自認する。人生最後の食事には?という質問には必ず炊き立てのご飯と答えるという。また、マリナーズ在籍時にはホームでの試合の時に自宅で妻、弓子におにぎりを握ってもらって球場へ持っていって食べていたという。
30歳前後からお酒も嗜むようになり、過去にはキリンビール、現在ではザ・プレミアム・モルツのCMに出演している。引退してからは毎日飲酒する習慣が付いたと語っている。
MLB時代には決まったピザ屋のピザを食べる習慣があり、その話を聞いたジョーイ・ボットにそのピザ屋のピザを51枚送りつけられたことがある。
偏食スタイルについては食事でストレスを溜めないためであり、いくら体に良いものであっても嫌いなものを食べてストレスが溜まって体に負担になってしまっては意味が無いという持論がある。
それ以外にはカレーライスととんがりコーンのCMに出演していたこともあった。
ユンケル
my condition my YUNKER |
佐藤製薬のユンケルのCMに出演している、プロ入り前からユンケルを愛飲していたのを知った社員がオファー。同社によると、イチローが試合前に飲むのはシリーズ33種類のうち2番目に高価な「ファンティ」(税込み3150円)。
ユンケルは遠征に持って行く事もあってか、オーダーメイド製のユンケルケースを持っている。
しかしそれだけユンケルを飲んでいるにも関わらず、TV番組の企画で「利きユンケル」たるものではユンケルの品種を当てられなかった。
師・仰木彬との出会い
「オリックスのイチロー」が「世界のイチロー」となるまで順調な道を歩んで来たのかというと、実はそうではない。むしろ困難な道を歩み、多くの事を経験してきたからこそ、今のイチローがある。
イチローは1991年にドラフト4位でオリックスに入団。入団当時は特に注目を浴びている選手ではなかった。
1992年から1993年まではほぼ2軍暮らしで、一軍で試合をする機会はほとんどなかった。2軍時代も首位打者に近い打率を打ちながらも、昇格することはなかった。これは当時のオリックス監督であった土井正三と打撃コーチの山内一弘に「振り子打法」などの指導面で衝突があったからとされている。
イチローが世間に注目を浴びるようになったのは1994年、プロ野球生活3年目からである。
イチローはこの年、その後唯一の師と慕うようになる「仰木彬」との出会いにより、才能を世に知らしめる。仰木はイチローの振り子打法を否定せず、イチローの野球センスそのものを評価した。そしてイチローも自分を蘇らせてくれた仰木の思いに応え、その年に210本ものシーズン最多安打を打ちMVPを獲得した。その後も1995年のリーグ優勝や1996年の日本一などを、仰木と共に迎えている。
ポスティング制度を利用してのメジャー挑戦も、仰木の「もう一年やろう」の言葉により、挑戦を一年遅らせるなど、仰木がイチローに対して大きな影響力を持っていたのは間違いない。
なお仰木はイチローのポスティング移籍に関してはずっと反対していたが、イチローが美味い料理とお酒を武器に口説いたところそれまでが嘘のように移籍を快諾してくれたと語っている。
仰木は、「鈴木一朗」では平凡すぎて埋もれてしまうとの理由により、登録名を「イチロー」に変更した。この登録名は仰木が付けたと思われがちだが、実際は当時のオリックス打撃コーチの新井宏昌のアイデアでつけられた(同年にはイチローのみが目立つことがないように、という仰木の考えから佐藤和弘も「パンチ佐藤」に登録名を変更している)。
イチローは、仰木が当時監督をしていたオリックスのキャンプ場を訪れたり、仰木が野球殿堂入りした時はアメリカから駆けつけ授賞式に参加している。また晩年仰木が体調を悪くして入院した時は、無理を言って面会をさせてもらった。その仰木が2005年に逝去した時には、言葉を失い、しばらくの間気持ちの整理が付かず、部屋にこもっていたそうである。
イチローというスターが誕生したのは、イチローが良き師、良き理解者である仰木彬と巡り会えたからである。
ただし、1994年の躍進までには少しばかり裏話があったりする。
- イチロー自身、プロ入りから2年間は二軍で自分の打撃の型をしっかり作り、3年目に活躍しようというビジョンを描いていた。これはイチローがプロ入りした時、4年後に同い年の大卒選手がプロの世界に入った時に自分がその選手たちより上の地位にいたいという思いから、確実に自分が活躍するための計画であった。その為、練習が二軍に比べて制限され、試合に出られるかわからない状態が続く一軍は眼中になく、1年目に初めて一軍昇格を知らされた時には相当渋り、昇格を断ったという(もちろん聞き入れられず)。
- 上記の通り、2年目まで自分の打撃の型を作り上げようとしていたイチローだが、2年目にイチロー自身印象深い出来事があった。それは山内打撃コーチに「お前は俺の言う事を聞くのか?聞かないのか?」と迫られたことだった。
もちろん一軍コーチの言う事を聞かない事は二軍落ちを意味するが、指導法も合わなかった事もあってイチローは前述の理由で「聞きません」と回答した(もちろんその後直ぐに二軍落ち)。イチローはこの判断を間違ってはいなかったという。 - 実は当時のオリックス監督の土井はイチローの能力を高く買っていた。現に1993年には開幕戦でスタメン起用し、その後も積極的に起用し続けたが、結果打率1割台とまだ一軍で通用する力は無く、1992年・1993年のオリックス外野陣は層が厚かったためイチローはレギュラーから弾き出される形となってしまった。そのためただ一軍のベンチに置いておくよりも二軍の試合でより多くの打席に立たせて経験を積ませた方が良いという計らいもあって二軍落ちをさせた。これは前述のイチローの思想と偶然にも一致する。また、当時のイチローはわがままで、チームスポーツである野球において協調性の大切さを学ばせるというもう1つの理由が二軍落ちにはあったという。土井は1993年オフにファンの反発もあって監督を辞任。更に1994年は前述のイチローが活躍を計画していた3年目で、この年はオリックス主力外野陣の退団や出遅れが相次いだ事で仰木監督のイチロー抜擢に繋がり、極めつけがイチローのNPB初のシーズン200本安打達成という事が重なり、土井の指導者としての資質、評価は以前から不評があったものの更に落とす結果となった。
このような経緯から、土井はイチローを見出せなかった指導者であるため不仲であるようなイメージがあるが、イチローが日米通算3000本安打を達成した際に2009年当時癌で闘病していた土井を気遣うコメントをしており、闘病が叶わず土井が死去した際は報道陣から自身を見出せなかったという趣旨の質問に対して「そんなつもりじゃなかったのにね…」と、過去の土井の行いには理解を示しており、不仲ということは一切ないとイチローは公言している。 - 尚、土井は振り子打法に関してはイチローの飛躍後も否定をし続けた。イチローの振り子打法を否定した理由を要約すると、「あれはイチローの野球センスが高いからできる打法であって、本来は実践的な打法ではないから」と話している。更に土井はアメリカでシアトルの記者に対し、「当時の打撃コーチが彼のフォームを好きじゃなかったから」と答え、振り子打法の否定は土井よりも当時打撃コーチだった山内の影響が大きいことがわかる。もちろん、山内も土井と同様に批判が起きた。
智辯和歌山高校との関わり
現役最晩年の頃、智辯和歌山高校のブラスバンド部がイチローへの応援の演奏の動画をイチロー本人へ送ったところ、それを視聴したイチローが非常に感激し同校へ訪問して以降、智辯和歌山高校との関わりが非常に強くなった。
イチローは2019年明け、現役最後となる自主練習をしていたほっともっとフィールド神戸に智辯和歌山高校のブラスバンド部を招待し、同球場にてブラスバンド部の生演奏が行われる中で練習を行った。同部員に対して挨拶、ひとりひとりへ握手を交わすなど上記の応援の動画のお礼を行っている。
現役引退をした2019年暮れにはほっともっとフィールド神戸にて智辯和歌山高校の教職員で構成された草野球チームと対戦。イチローも自身の友人等で構成されたチームで対戦することとなったが、そのチーム名が「神戸智弁」と智辯和歌山高校に肖った名前となっている。
2020年12月には同校の野球部を訪れ、3日間指導を行なった。イチローにとっては指導者デビューであり、アマチュア選手への指導も初となった。
(イチローは引退後もシアトル・マリナーズに所属した状態であり、通常プロ球団に所属した状態での現役、引退選手は高校、大学生への指導は禁止されているが、イチローは特例によってプロ球団に所属しながら学生野球資格回復制度の認定を受けて指導が可能となっている)
イチローの指導が功を奏したのか、智辯和歌山高校は2021年夏の甲子園大会で優勝。イチローも同校の優勝に関して賛辞を送っている。
なお智辯和歌山の甲子園優勝という結果を受けて「ウチにも指導に来て欲しい」という他校からのお誘いの声も聞こえるようだ。
その他
弓子夫人(左)と一弓(右) |
妻は元TBSアナウンサーの福島弓子。イチローより8つ年上の姉さん女房であり、引退時には一番頑張って支えてくれたと感謝の意を述べている。
柴犬を飼っており、名前はイチローと弓子夫人の名前から一文字ずつ取った「一弓」。2001年に生まれ、2002年からイチロー宅へ迎え入れられた。イチロー引退時には17歳を超える高齢で毎日ふらふらの状態でも毎日を懸命に生きる姿がイチローにとって励みになっていたが、イチローの引退を見届けた2019年夏に天に召されてしまった。
その後、一弓の縁戚に当たる姉弟で雌の「姫弓(ききゅう)」と雄の「天朗(てんろ)」の2匹がイチロー宅に迎え入れられている模様。
ドラマ「古畑任三郎」に本人役で出演した事がある。その時のイチローは殺人を犯し、古畑に逮捕された。ちなみに元々出演の予定はなかったのだが、イチロー本人の希望で出演することになり、撮影ではほとんどNGを出さなかったんだとか。共演した田村正和曰く、「役者の鑑」。野球選手だけでなく役者としても一流である。
愛知出身という事もあって中日ドラゴンズファン。小学校の卒業文集では中日の他西武ライオンズ入りを希望していた記述がある。憧れた選手は田尾安志。高校時代には中日入りを望んでいたというが、当時オリックスのスカウトだった三輪田勝利に説得されてオリックスに入団した。
寝る時は枕が2つ無いと寝られない。理由は1つは頭の下に、もう1つは股の間に挟んで横を向いた状態という独特のスタンスでないと寝られないからなんだとか。その為遠征では自前の枕を1個持って行く。
本名は「一朗」であり、「一郎」ではない。長男ではなく、歴とした次男である。名前の由来はイチローにとっては祖父にあたる人物の名前が「銀一」であり、イチローが生まれる以前はチチローが会社経営をしていて非常に大変だったところを銀一に手伝ってもらい、尊敬の意味を込めて「一」の字を貰ったという。更にチチローが兄弟の名前で順番を決めることを嫌ったこと(例:長男なら一郎、次男なら二郎といった具合)、なんでも一番になってほしいという願いも「一」に込められている。それに「朗らかであってほしい」という意味を込めた「朗」が合わさって「一朗」となった。イチローの兄の名前は、「一泰」でイチロー同様に「一」という漢字が入っている。
かねてから「50歳までプレーする」と公言していたが、45歳で引退することとなってしまい「有言不実行の男になってしまった」と回顧している。しかしこの目標を持っていたからこそ45歳までプレーできたとも語っている。なお、イチローの母校である愛工大名電出身の選手には工藤公康(プロ通算29年)、山崎武司(プロ通算27年)、そしてイチロー(プロ通算28年)とプロ野球で25年以上プレーした選手が3人もいる。
東京事変の楽曲「スーパースター」は、イチローをイメージして作られた楽曲。作詞した椎名林檎との対談によれば、最初はあまり良い印象を持たなかったが、「私のスーパースター」と歌っている事に感銘を受け、印象が変わったと言う。
少年時代には練習でバッティングセンターに通っていたが、そのバッティングセンターには同郷で1学年上の稲葉篤紀も通っていた。当時、稲葉は少年にとってとても速い球を打ち返すイチローの姿を見てすごいと思ったという。長いときを経て、2009年のWBCの日本代表で両者は初めてチームメイトとなる。その後、稲葉が現役を引退してスポーツキャスターに転進し、取材のためイチローの元を訪ねると快く迎えてもらえるように、両者の関係は良好なようである。
現在、日本プロ野球審判員として活躍している深谷篤(袖番号23)は高校時代の同級生で野球部のチームメイトでもあった。深谷は二塁手でキャプテン、イチローは副キャプテンの間柄だった。深谷がプロ野球審判員として一軍の試合にデビューしたのはイチローがMLBに移籍した後の2002年であるため、残念ながらプロの舞台でイチローと同じ試合に出場した経験は無い。
MLBシーズン安打記録の前保持者であるジョージ・シスラーは1973年に亡くなっているが、シスラーの死去から約半年後にイチローが生誕したため「ジョージ・シスラーの生まれ変わり」と言われることもある。
MLB通算3000本目の安打は2016年当時コロラド・ロッキーズに所属していたクリス・ルーシンから放ったが、奇遇にもルーシンの誕生日はイチローと同じ日(10月22日)である。
イチローと同学年にあたる選手には野手では小笠原道大、中村紀洋、松中信彦、清水隆行、小坂誠、坪井智哉、礒部公一、投手では石井一久、三浦大輔、黒木知宏、薮田安彦、門倉健など主力級で活躍した選手が多くいる。特にイチロー、小笠原、中村は通算2000本安打以上、松中は平成唯一の三冠王という打者豊作の学年であった。91年ドラフト同期入団には中村、石井、三浦の他に金本知憲、田口壮、片岡篤史、落合英二、斎藤隆がおり、この年のドラフトで指名された選手では5人もメジャーリーガーが誕生している。また、イチロー、中村、金本はいずれも4位という下位指名ながら後に名球会入りしている。
NPB初のシーズン200本安打~MLB通算3000本安打の軌跡~引退
弱冠二十歳にして前述のとおりNPB初のシーズン200本安打かつ当時のパ・リーグ記録である打率.385をマークして世に名を知らしめるようになったイチロー。その後は2000年までいずれも打率.340以上の高打率で7年連続首位打者、2000年には自身の記録を更新する打率.387という規格外の成績を残し、もはや「パ・リーグの首位打者予想はイチロー以外ありえない」という敵なし状態だった。
そんなイチローは2000年オフ、ポスティングシステムを利用してメジャーリーグへ移籍。日本人初の野手でのメジャーリーガーとなる。
イチロー自身、毎年首位打者になっていたものの日本球界にマンネリを感じており、それを解消するためにメジャー移籍に到ったという。
投手でのメジャーリーガーといえば1964年の村上雅則に始まり、2000年当時は野茂英雄の活躍によって後を追うようにNPBからメジャーに挑戦する投手が続々出始めてきた頃である。しかし野手での挑戦者はそれまで誰一人としていなかったため、イチローがメジャーでいかなる成績を残すかというのは誰にも見当がつかなかった。
2000年頃のメジャーリーグというとステロイドなどのドーピングが容認されていた時代であり、筋骨隆々の打者がホームランをポンポン飛ばすビッグボール時代であった。それに対峙する投手のレベルも日本と比べて高く、特にボールの速さに対応できるかどうかが未知数であった。
実際に日本で7年連続首位打者に輝いたにもかかわらず、イチローへの期待度は高いものではなかった。当時のマリナーズ監督のルー・ピネラは「打率.280くらいならまぁまぁ」といったコメントをしているあたりからそれを読み取れる。
イチローとしても日本人野手初のメジャーリーガーという肩書きが重く、自身のメジャー挑戦の成功、失敗が今後の日本人野手のメジャー挑戦の運命を左右すると思っており、並々ならぬ想いでメジャー1年目のシーズンを迎えることとなる。
しかし2001年シーズンが始まるとイチローは当初の期待度を遥かに上回る働きをし、打率.350で新人記録の242安打を打ち、盗塁成功率80%の56盗塁、更に守備ではかのレーザービーム送球を見せ、走攻守にわたって大活躍。終わってみれば首位打者、盗塁王、新人王、ゴールドグラブ賞、シルバースラッガー賞、アメリカンリーグMVPとタイトルを総ナメ。日本人野手がメジャーリーグでも通用するという事をこれ以上ない程に実証してみせた。
これを足がかりに松井秀喜や松井稼頭央などの日本球界での一流どころの野手が続々とメジャーリーグへ挑戦していく事になる。
ところが、イチローが日本人野手のハードルを上げ過ぎてしまったようで、イチロー以降の日本人野手のメジャーリーガーでは松井秀喜以外MLB通算1000本安打すら達成してる者はおらず、おおよそ5年くらいしか活躍できていないのが現実であり、日本人野手の評価はあまり芳しくない。
そんな中イチローは毎年結果を残し続け、10年連続200本安打というメジャー新記録を打ち立て、先駆者でありながらMLB通算1000本、1500本、2000本、2500本安打とヒットを積み重ねていった。
そしてメジャー16年目の2016年8月7日(現地時間)、100年を超えるメジャーリーグの歴史で30人しか達成できていないMLB通算3000本安打を達成。アメリカ出身以外の選手では4人目の達成者であり、アジア人、かつ日本人として初の達成者である。
2017年7月6日(現地時間)、ロッド・カルーの通算3053安打を抜いた事によりアメリカ国外の出身者として歴代最多の安打を放った選手となった。(2018年にドミニカ共和国出身のエイドリアン・ベルトレにこの記録は塗り替えられた)
2019年3月21日に引退を表明。MLB通算19年で3089安打というとてつもない安打数を積み上げた。引退時にはNPB、MLBプレーヤー、関係者、イチローが過去に所属した球団はもとより、所属経験がない球団からも引退を惜しむコメントが公式から発表された他、野球以外の各界からもコメントが出されたが、サッカーのクラブチーム、バイエルン・ミュンヘンからも引退に関するコメントが発表される異例の事態ともなり、記録にも記憶にも残る活躍を見せた。
イチロー伝説
テンションが上がると分身したり、何度も人類を滅亡させるほどの能力を秘めているイチローだが、その才能は日米野球界で証明されている。
- 1994年、当時日本球界史上初の年間200本安打を達成し、首位打者を獲得。以後メジャーリーグに移籍する2000年までの7年間、毎年首位打者だった。
余談だがにルーキーイヤーの1992年にはウエスタンリーグの首位打者になっており、一軍半状態だった1993年のみ一軍、二軍両方で首位打者になっていない。
尚、1993年のウエスタンリーグでの打率は.371でその年のウエスタンリーグ首位打者の打率より高かったが、規定打席に届いていなかったため首位打者になれなかった。
1995年には首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率の五冠を獲得。本塁打もトップと3本差の25本塁打と日本野球界で誰も成し得た事が無い六冠王まであと少しだった。
2000年には日本シーズン歴代打率2位となる.387を記録した。
1994年~1996年には山田久志以来2人目となる3年連続でMVPに選出される。 - MLB初年度の2001年は新人王、首位打者、盗塁王、MVPに輝くという活躍を見せ、マリナーズのシーズン116勝というMLBタイ記録の原動力となり、マリナーズを地区優勝に導く。この活躍に国民栄誉賞を打診されたが、本人は「国民栄誉賞をいただくことは光栄だが、まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい」という理由で固辞している。
- 2004年にはメジャー年間最多安打記録を塗り替え、殿堂入りを果たした。
その功績をたたえられ、マリナーズの筆頭オーナー企業、任天堂の株約5800万円相当を山内氏からプレゼントされた。この時も国民栄誉賞を打診されたがまた固辞した。国民栄誉賞を2度打診され、2回共に固辞したのは現在までイチローのみである。 - 2007年にはMLBオールスター戦にて、史上初のランニングホームランを達成。さらにオールスターMVPも受賞した。
- 2008年7月30日、日米通算3000本安打を達成。日本の選手としては張本勲以来2人目。更に同年9月18日、8回の第4打席でショートの内野安打で8年連続の200本安打を達成した。これは1894年から1901年にかけてウィリー・キーラー(当時ボルチモア・オリオールズ)がつくった8年連続200安打のメジャー記録に並んだことになる。
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第2回WBCの優勝トロフィーを持つイチロー。
2009年3月24日(日本時間)、LAドジャースタジアムにて。
WBCの活躍もあってか、同年3月26日に行われた「理想の上司」ランキングではランキング史上最年少の35歳で1位に輝いた。 - 2009年4月16日(日本時間)に故障者リストから復帰。1番右翼スタメンでこのシーズン初出場し、3回裏にはセンター前ヒットを放ち、7回裏には1死満塁の状況で打席に立ち、張本勲に並ぶ日本人通算最多安打記録の3085安打目を満塁ホームランで飾った。
- 2009年9月7日(日本時間)、MLB通算2000本安打をMLB史上2番目の速さで達成した。
2009年9月14日(日本時間)、MLB史上初となる9年連続200本安打を達成した。 - 2009年9月18日(日本時間)、前人未到となる日本人通算3500安打に到達。奇しくも日米通算2525試合での到達である。
- 2010年9月24日未明(日本時間)、自身が持つMLB記録を更新する10年連続200本安打を達成。
また、通算10回の200本安打はピート・ローズの持つMLB通算記録に並んだ。なおマリ。 - 2011年4月3日(日本時間)、メジャー通算2248安打を放ち、エドガー・マルティネスのマリナーズ球団通算安打記録を塗り替えた。尚マルティネスの記録は通算18年、イチローの記録は通算11年での到達である。
- 2012年7月24日(日本時間)、ニューヨーク・ヤンキースへのトレードが発表され、11年半在籍したマリナーズを退団することになった。その11年半で放った2533安打はマリナーズ球団通算安打記録となる。
- 2013年8月22日(日本時間)、トロント・ブルージェイズ戦で日米通算4000本安打を達成。この試合、ブルージェイズの出場選手に川崎宗則がおり、4000本達成の瞬間をグラウンドで見届けている。なお、川崎は日米通算4000本の記念ボールをこっそり盗もうとするも失敗に終わる。
- 2014年4月9日(日本時間)、日米通算3018試合出場。野村克也が築いた日本最多記録(3017試合)を更新。
- 2015年、マイアミ・マーリンズへ移籍。キャリア初のナショナルリーグ所属球団でプレー。MLB球団所属の年長野手となる。なおマリが復活。
- 2016年4月30日(日本時間)、MLB通算500盗塁を達成(史上8人目)。6月17日(日本時間)、日米通算4257安打に到達。日米通算ながらMLB通算4256安打のピート・ローズの記録を超える。
- 2016年8月8日(日本時間)、MLB通算3000安打達成(史上30人目)。三塁打での達成はポール・モリター以来メジャー史上2人目。メジャー16年目での達成はピート・ローズと並びメジャー最速タイ。42歳での達成はキャップ・アンソン、リッキー・ヘンダーソンと並ぶメジャー最高齢タイ。また、日米通算三塁打も116本となり福本豊(元阪急)の記録を超える。
アメリカ出身以外での3000本安打達成者はロベルト・クレメンテ、ロッド・カルー、ラファエル・パルメイロに次いで史上4人目。ただし、前述の3人はアメリカ籍であるため外国籍での達成者はイチローが初である。
さらに史上7人目となるメジャー通算3000安打&500盗塁を同年達成(史上初)となった。 - 2017年7月7日(日本時間)、MLB通算3054安打を放った事によりロッド・カルーの通算安打を抜いて歴代通算安打数23位に浮上。これによりアメリカ出身以外の選手の歴代通算安打記録を塗り替えて歴代1位となった。
- 2019年3月21日、現役引退。NPB通算1278安打、MLB通算3089安打。日米通算4367安打を記録した。引退後、国民栄誉賞授与の打診をされるもまたしても辞退。辞退の理由について「人生の幕を下ろした時に頂けるように励みます」とコメント。国民栄誉賞を3度打診され、3回共に固辞したのは現在までイチローのみである。
レーザービーム
外野から送球するイチロー(第2回WBC宮崎合宿にて) |
日本が誇る国技、SUMOUと並んで日本が核を持たない理由がこれである。
主に敵チームの攻撃時、ランナーの三進の時やホーム突入の時によく見られる。
このレーザービームが放たれると、大抵ランナーはアウトになるが同時に着弾点を中心として地殻津波が発生。この時点で地球の人類の半分が滅亡するがこれだけにとどまらず、舞い上がった地殻がファールボールとなって地球に着弾するというセカンドインパクトが発生する。
これだけの大被害にも関わらず、年に何回も発生することなので各界の著名人はこのレーザービームが発生する度に「またイチローか」とコメントすることが自然となりつつある。また、人類滅亡が発生すると同時に踊りだす黄色い人たちがいるとかいないとか。
イチローの調子が良い時は宇宙滅亡、調子が悪い時は山の地滑りが起こる程度である。また、レーザービームの亜種としてレートービームたるものも観測されている。
レーザービームを放った試合は不思議とマリナーズは試合に負ける事が多い。
この逆の事例として、マーティー・レオ・ブラウン(広島東洋カープ監督時代・元東北楽天ゴールデンイーグルス監督)のベース投げがある。
ちなみに2009年のイチローによる人類滅亡は予想されていた。
Ω Ω Ω <な、なんだってー!!!
詳しくは↓の画像をクリック。
全盛期のイチロー伝説
テンションが上がって しまい、分身した。 |
ほぼイキかけそうに なり、スタンドが少し 出かけた事も。 |
- 3打数5安打は当たり前、3打数8安打も
- 初回先頭打者満塁ホームランを頻発
- イチローにとってのホームランは内野安打の打ちそこない
- 初回先頭打者サイクルヒットも日常茶飯事
- 9回裏100点差、チームメイト全員負傷の状況から1人で逆転
- 一回のスイングでバットが三本に見える
- バントでホームラン
- 打席に立つだけで相手投手が泣いて謝った、心臓発作を起こす投手も
- ホームランでも納得いかなければサードベース踏まないで帰ってきてた
- あまりに打ちすぎるから牽制球でもストライク扱い
- その牽制球もヒット
- ピッチャーを一睨みしただけでボールが二遊間に飛んでいく
- 試合の無い移動日でも2安打
- バット使わずに手で打ってたことも
- 自分のホームランボールを自分でキャッチしてレーザービームで投げ返す
- 内野ランニングホームランなんてザラ、2周することも
- 一塁でアウトになってからベンチに帰る方が早かった
- ウェイティングサークルでヒット打った
- 打球キャッチしようとしたピッチャーと、それを受け止めようとしたセカンド、ショート、センターの選手ともどもスタンドインさせた
- グッとガッツポーズしただけで5点くらい入った
- スイングでハリケーンが起きたことは有名
- 湾岸戦争が始まったきっかけはイチローの場外ホームラン
- ライトの深い位置から三塁線のスクイズも処理してた
- ボウリングの球を楽々ホームランにしてた
- 自分の打球に飛び乗ってスタンドまで行くというファンサービス
- 全盛期のイチローが打ったホームランボールを観客席で見ていた子供が捕ったんだがすでにボールにサインがしてあって驚いたそうだ
- 実は野球は一番苦手とするスポーツで、克服するために野球を続けている
- バット一振りで2chの鯖をすべて物理的に破壊した
- 2点勝ち越しの二塁打を打った次の瞬間気づいたら三塁にいた
- 本日(3月24日)9回時点で最安値だった株価をタイムリーでおよそ2倍に上げ、日本のGDPを押し上げた
- 神を降ろし、試合中にイキかけた
- 当日の再放送でも2chの鯖を落とした
- テポドン2を受け止め日本を救った(しかしさすがに当日のニコ生に出る力を残しておけなかった)
- あのウサイン・ボルトとの100m競争に勝利した(しかしこの超人同士の競争により脚を負傷してしまった)
- サヨナラ安打を達成した日に古畑任三郎の手により殺人罪の罪に問われ逮捕されるものの、翌日には試合復帰し、当時36試合連続セーブ中でこの日、通算1000奪三振を記録した、ヤンキースの守護神マリアーノ・リベラからサヨナラホームランを放つ
- 2010年の春季キャンプにて、たった1スイングで7本のホームランを放つ
- 2013年、ついに守備で安打を放つ
- この記事を全部書いたのはイチロー
- この記事を見ているのも全員イチロー
- むしろニコ動全体がイチロー
- 朝カレーを食べてない事だけで日本を震撼させ、yahooトップに記事が載った
- 引退会見中にも2安打
成績
年度別打撃成績
年 度 Year |
球 団 Team |
試 合 G |
打 席 PA |
打 数 AB |
得 点 R |
安 打 H |
二 塁 打 2B |
三 塁 打 3B |
本 塁 打 HR |
打 点 RBI |
盗 塁 SB |
犠 打 SH |
犠 飛 SF |
四 球 BB |
死 球 HB |
三 振 SO |
併 殺 打 GDP |
打 率 AVG |
出 塁 率 OBP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | オリックス | 40 | 99 | 95 | 9 | 24 | 5 | 0 | 0 | 5 | 3 | 1 | 0 | 3 | 0 | 11 | 0 | .253 | .276 |
1993年 | 43 | 67 | 64 | 4 | 12 | 2 | 0 | 1 | 3 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 7 | 2 | .188 | .212 | |
1994年 | 130 | 616 | 546 | 111 | 210 | 41 | 5 | 13 | 54 | 29 | 7 | 2 | 51 | 10 | 53 | 3 | .385 | .445 | |
1995年 | 130 | 613 | 524 | 104 | 179 | 23 | 4 | 25 | 80 | 49 | 0 | 3 | 68 | 18 | 52 | 7 | .342 | .432 | |
1996年 | 130 | 611 | 542 | 104 | 193 | 24 | 4 | 16 | 84 | 35 | 0 | 4 | 56 | 9 | 57 | 8 | .356 | .422 | |
1997年 | 135 | 607 | 536 | 94 | 185 | 31 | 4 | 17 | 91 | 39 | 0 | 5 | 62 | 4 | 36 | 10 | .345 | .414 | |
1998年 | 135 | 558 | 506 | 79 | 181 | 36 | 3 | 13 | 71 | 11 | 0 | 2 | 43 | 7 | 35 | 21 | .358 | .414 | |
1999年 | 103 | 468 | 411 | 80 | 141 | 27 | 2 | 21 | 68 | 12 | 0 | 5 | 45 | 7 | 46 | 5 | .343 | .412 | |
2000年 | 105 | 459 | 395 | 73 | 153 | 22 | 1 | 12 | 73 | 21 | 0 | 6 | 54 | 4 | 36 | 3 | .387 | .460 | |
NPB:9年 | 951 | 4098 | 3619 | 658 | 1278 | 211 | 23 | 118 | 529 | 199 | 9 | 27 | 384 | 59 | 333 | 59 | .353 | .421 | |
2001年 | SEA | 157 | 738 | 692 | 127 | 242 | 34 | 8 | 8 | 69 | 56 | 4 | 4 | 30 | 8 | 53 | 3 | .350 | .381 |
2002年 | 157 | 728 | 647 | 111 | 208 | 27 | 8 | 8 | 51 | 31 | 3 | 5 | 68 | 5 | 62 | 8 | .321 | .388 | |
2003年 | 159 | 725 | 679 | 111 | 212 | 29 | 8 | 13 | 62 | 34 | 3 | 1 | 36 | 6 | 69 | 3 | .312 | .352 | |
2004年 | 161 | 762 | 704 | 101 | 262 | 24 | 5 | 8 | 60 | 36 | 2 | 3 | 49 | 4 | 63 | 6 | .372 | .414 | |
2005年 | 162 | 739 | 679 | 111 | 206 | 21 | 12 | 15 | 68 | 33 | 2 | 6 | 48 | 4 | 66 | 5 | .303 | .350 | |
2006年 | 161 | 752 | 695 | 110 | 224 | 20 | 9 | 9 | 49 | 45 | 1 | 2 | 49 | 5 | 71 | 2 | .322 | .370 | |
2007年 | 161 | 736 | 678 | 111 | 238 | 22 | 7 | 6 | 68 | 37 | 4 | 2 | 49 | 3 | 77 | 7 | .351 | .396 | |
2008年 | 162 | 749 | 686 | 103 | 213 | 20 | 7 | 6 | 42 | 43 | 3 | 4 | 51 | 5 | 65 | 8 | .310 | .361 | |
2009年 | 146 | 678 | 639 | 88 | 225 | 31 | 4 | 11 | 46 | 26 | 2 | 1 | 32 | 4 | 71 | 1 | .352 | .386 | |
2010年 | 162 | 732 | 680 | 74 | 214 | 30 | 3 | 6 | 43 | 42 | 3 | 1 | 45 | 3 | 86 | 3 | .312 | .359 | |
2011年 | 161 | 721 | 677 | 80 | 184 | 22 | 3 | 5 | 47 | 40 | 1 | 4 | 39 | 0 | 69 | 11 | .272 | .310 | |
2012年 | 95 | 423 | 402 | 49 | 105 | 15 | 5 | 4 | 28 | 15 | 0 | 4 | 17 | 0 | 40 | 10 | .261 | .288 | |
NYY | 67 | 240 | 227 | 28 | 73 | 13 | 1 | 5 | 27 | 14 | 5 | 1 | 5 | 2 | 21 | 2 | .322 | .340 | |
12年計 | 162 | 663 | 629 | 77 | 178 | 28 | 6 | 9 | 55 | 29 | 5 | 5 | 22 | 2 | 61 | 12 | .283 | .307 | |
2013年 | 150 | 555 | 520 | 57 | 136 | 15 | 3 | 7 | 35 | 20 | 6 | 2 | 26 | 1 | 63 | 6 | .262 | .297 | |
2014年 | 143 | 385 | 359 | 42 | 102 | 13 | 2 | 1 | 22 | 15 | 9 | 27 | 21 | 1 | 68 | 3 | .284 | .325 | |
2015年 | MIA | 153 | 483 | 398 | 45 | 91 | 5 | 6 | 1 | 21 | 11 | 5 | 4 | 31 | 0 | 51 | 5 | .229 | .282 |
2016年 | 143 | 365 | 327 | 48 | 95 | 15 | 5 | 1 | 22 | 10 | 3 | 2 | 30 | 3 | 42 | 4 | .291 | .354 | |
2017年 | 136 | 215 | 196 | 19 | 50 | 6 | 0 | 3 | 20 | 1 | 1 | 0 | 17 | 1 | 35 | 2 | .255 | .318 | |
2018年 | SEA | 15 | 47 | 44 | 5 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 7 | 0 | .205 | .255 |
2019年 | 2 | 6 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | .000 | .167 | |
MLB:19年 | 2653 | 10734 | 9934 | 1420 | 3089 | 362 | 96 | 117 | 780 | 509 | 57 | 73 | 647 | 55 | 1080 | 92 | .311 | .355 |
国際大会での打撃成績
年度 | 代表 | 大会 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006年 | 日本 | WBC | 8 | 40 | 33 | 7 | 12 | 1 | 0 | 1 | 5 | 4 | 2 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | .364 | .447 |
2009年 | 9 | 44 | 44 | 7 | 12 | 2 | 1 | 0 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .273 | .273 |
年度別投手成績
年度 Year |
球団 Team |
登板 G |
先発 GS |
完投 CG |
完封 SHO |
勝利 W |
敗戦 L |
セーブ SV |
ホールド HLD |
勝率 W-L% |
投球回 IP |
与四球 BB |
奪三振 SO |
失点 R |
自責点 ER |
防御率 ERA |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2015年 | MIA | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .--- | 1.0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9.00 |
MLB:1年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .--- | 1.0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9.00 |
通算守備成績
機構 | 守備位置 Pos |
試合 G |
刺殺 PO |
補殺 A |
失策 E |
併殺 DP |
守備率 Fld% |
---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 外野手 | 934 | 1812 | 66 | 18 | 19 | .991 |
MLB | 中堅手 | 322 | 833 | 16 | 3 | 4 | .996 |
左翼手 | 106 | 165 | 7 | 0 | 2 | 1.000 | |
右翼手 | 1969 | 4003 | 100 | 35 | 22 | .992 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | |||
---|---|---|---|
NPB | 首位打者 | 7回 | 1994年-2000年 |
最多安打 | 5回 | 1994年-1998年 | |
最高出塁率 | 5回 | 1994年-1996年、1999年、2000年 | |
最多打点 | 1回 | 1995年 | |
最多盗塁 | 1回 | 1995年 | |
MLB | 首位打者 | 2回 | 2001年、2004年 |
最多盗塁 | 1回 | 2001年 | |
表彰 | |||
NPB | MVP | 3回 | 1994年-1996年 |
ベストナイン | 7回 | 1994年-2000年 | |
ゴールデングラブ賞 | 7回 | 1994年-2000年 | |
MLB | 新人王 | - | 2001年 |
MVP | 1回 | 2001年 | |
シルバースラッガー賞 | 3回 | 2001年、2007年、2009年 | |
ゴールドグラブ賞 | 10回 | 2001年-2010年 | |
WBC | ベストナイン | 1回 | |
その他 | |||
NPB | オールスターゲーム出場 | 7回 | 1994年-2000年 |
MLB | オールスターゲーム出場 | 10回 | 2001年-2010年 |
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関連項目
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- MLB(メジャーリーグベースボール)
- 師弟関係・交友関係・フォロワー
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- 肩の抑止力
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