イモラの悲劇とは、1994年のF1グランプリ・サンマリノGPにおける死亡事故を指す言葉である。
概要
1994年、サンマリノGPにおいて発生。公式な用語ではないが、この事故において"音速の貴公子"との異名をとる名ドライバー、アイルトン・セナが事故死したこと、さらに一度のレースウィークで2名以上のドライバーが亡くなったケースが、本レースを含めてF1史上2度しか存在しない(もう一つは「暗黒の週末」と呼ばれた1960年ベルギーGP)ことから、モータースポーツファンの間では強く記憶されている出来事である。
サンマリノGPはイモラ・サーキットにて行われる。当時のイモラ・サーキットにはヴィルヌーヴ・カーブ、そしてタンブレロと呼ばれる高速カーブ群が存在し、ここでの超高速ドッグファイトが一つの見どころであった。
1994年グランプリにおいて、アイルトン・セナ(以下セナ)は、ともに一時代を築いたマクラーレン・ホンダ(実際にはホンダは1992年を最後にエンジン提供から撤退しているため、1993年は「マクラーレン・フォード」が正しい)からウィリアムズ・ルノー(以下ウィリアムズ)へ移籍を果たしていた。
ところがウィリアムズの強さを裏打ちしていたハイテク(アクティブ・サスペンションなど)がこの年からレギュレーションによって禁止され、対応を余儀なくされたマシンはきわめて操縦の難しい一台に仕上がってしまっていたという。加えてこのレギュレーション変更対応のためセナは本戦を戦うためのマシンに慣れるための準備が出来ないという事態に陥った。現にサンマリノGP直前、セナは元チームメイトであるゲルハルト・ベルガーに対して「まだこの車を乗りこなせていない」と打ち明けていたという。
かくて迎えたサンマリノGPは、予選から重大事故が多発することになる。予選初日である4月29日、セナの友人でもあったルーベンス・バリチェロが縁石でジャンプし、タイヤバリアを越えて金網に直接激突するという重大事故を起こした。結果的には鼻骨骨折で済んだが、一時は安否が心配される大クラッシュであった。
そして翌4月30日、恐れられていた事態がついに発生する。予選中、シムテック・フォードのローランド・ラッツェンバーガー(以下ラッツェンバーガー)の車からフロントウィングが脱落。ヴィルヌーヴ・カーブを攻めるため高速走行中だったラッツェンバーガーの車はそのまま時速310kmでコンクリートウォールに激突してしまった。その衝撃はカーボン・モノコックが破損する程の凄まじいものだった。ラッツェンバーガーは病院に搬送されたが、ほぼ即死の状態であったという。
この事故は関係者に激しい衝撃を与えた。レースウィーク最中にドライバーに死者が出たこと自体が実に12年ぶりのことであり、またカーボン・モノコックの車体はきわめて安全性が高く、死者が出るレベルでの事故は起きないとすら言われていた状況であった。
そんな中迎えた決勝当日、5月1日。セナがポールポジションを獲得してレースがスタートするが、直後、グリッド上でエンストしたJ.J.レート車に、躱し切れなかったペドロ・ラミー車が追突。この時に飛散したパーツが観客席まで飛んで観客に複数の負傷者が出る事態となった。このためセーフティカーが導入、以降破片の除去が終わるまでレースはセーフティカー先導の下で進められる。
セーフティカーが撤収してレースは再開されたが、その2周後、7周目のことであった。トップを走行していたセナ車がタンブレロにて突如コースアウト。時速310km以上でコンクリート・ウォールに突入してしまった。
赤旗が振られ、レースは即時中断。医療班がセナのもとに向かう。ヘリコプターにてセナは病院へと搬送されるが、その後には上空から明らかな程の夥しい血だまりが残されていた。
またこの間、ラルースチームが誤ってエリック・コマスをピットアウトさせ、トップスピードで事故現場付近に到達し二次災害を引き起こしかけた(マーシャルが必死に旗を振りスローダウンさせて事なきを得たが、事故現場を目撃したコマスはショックを受けF1引退を決意、チームが説得して年内は参戦した後、翌95年から日本の全日本GT選手権(JGTC)→SUPER GTに転向した)。
37分後、セナが病院へ搬送された後にレースは再開されたが、その後もミケーレ・アルボレート車の右後輪から脱落したリアタイヤがピットスタッフを直撃する事故が発生するなど、このレースは最後まで重大事故に見舞われ続けたのであった。
レースはミハエル・シューマッハが優勝したが、彼はインタビューに対して「満足感は無い。嬉しくない」と答えている。
そしてレースが終了してから約2時間後。アイルトン・セナの死が発表された。公式な死亡時刻は14時17分、即ちクラッシュの瞬間であり、即死であったという。
影響
「悪夢の週末」とすら呼ばれたこの呪われた3日間は、その後のF1グランプリに大きな影響を与えた。
まず、現場となったイモラ・サーキットはこの一連の事故を受けてレイアウトが改修された。セナが死亡事故を起こしたタンブレロ、ラッツェンバーガーが死亡事故を起こしたヴィルヌーヴ・カーブはどちらもシケインとなり、スピードが出にくくなるようになった。特にタンブレロは以前にも何度か重大事故が起きており、セナの事故死が改修に対する最後の一押しになった形になっている。
F1グランプリを運営するFIAはこの一連の事故を重大視し、1994年中に車体底面へのステップドボトムの取り付けとエアインテークの効果を無くすための抜け穴を開けるというレギュレーション変更を行い、翌1995年にはさらに安全対策を補強する目的でエンジンの排気量低減などの再度のレギュレーション変更を行った。このため各チームは、新レギュレーションに対応するためにグランプリカーの再設計を余儀なくされている。
また、セナの遺志とゲルハルト・ベルガーの呼びかけに答える形で、選手会組織であるグランプリ・ドライバーズ・アソシエーションが再結成。ドライバーの観点から安全対策について意見交換をするための場が設けられることになった。
次戦モナコGPでは、1番グリッドにブラジル国旗、2番グリッドにオーストリア国旗が描かれ、レース前に黙祷が捧げられて、セナとラッツェンバーガーが悼まれた。
セナの葬儀は5月5日、ラッツェンバーガーの葬儀は5月7日に行われている。特にブラジルスポーツ界の英雄であったセナは国葬の扱いになり、50万人もの人々が沿道で「神にレースを挑みに行った男」を見送っている。また、命日である5月1日はブラジル政府によって「交通安全の日」と制定された。
日本においては、フジテレビによる中継放送の最中にニュース速報の形でセナの訃報が伝えられることになった。その後中継は中断、三宅アナ、解説の今宮氏、ピットリポートの川合氏らによる即席の"追悼特番"に切り替わっている。涙を堪え、嗚咽しながら訃報を伝える三宅アナ達の痛々しい姿は視聴者の涙を誘った。
また、生前セナと深い関係のあった本田技研工業は急遽本社にマクラーレン・ホンダMP4/7Aとセナのヘルメットを展示、駆けつけたファンに駐車場を開放するなどの措置を行っている。
また、ウィリアムズF1は、2014年3月7日に、「2014年型F1マシン「FW36」に、アイルトン・セナの顔写真と追悼メッセージを添える」と発表している。
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