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ウィリアムズF1とは、F1世界選手権に参戦するイギリスレースチームコンストラクターである。 

2017年現在の代表者は、創設者であるフランクウィリアムズ。だが、彼は年齢上の理由から段階的に身を引いており、事実上のトップは副代表でありクレアウィリアムズである。 

2020年8月チームアメリカの投資会社ドリルトン・キャピタルへ売却され、同年9月イタリアGPをもって、フランククレア子はチームを離脱した。

概要

正式名称は、ウィリアムズグランプリ・エンジニアリングで、F1での参戦の他、他のカテゴリー向けのレースシャシーパーツ開発提供も行っている。

1980年代90年代においてはチャンピオンを幾度も獲得し、フェラーリマクラーレンロータスと並び、F1の名門と言われる。 しかし近年では優勝すらも遠ざかっている。

歴史

F1参戦(1969~1976年)

ドライバーメカニックを経験したフランクウィリアムズは、1966年フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズを設立。

1969年友であったピアス・カレッジをドライバーに起用してブラバム中古マシンを購入し、F1に参戦した。

元々才のあったカレッジだっただけに、デビューイヤーに2度2位を経験した。しかしデ・トマソのセミワークスとなった翌年はマシン熟成に手こずり、その年のオランダGPで、カレッジは事故で亡くなってしまった。

その後は成績不振となり、1972年には初めての自作マシン、ポリトーイFX3を出走させるも結果は悲惨。1973年にはイタリアメーカーイゾマールボロスポンサーを得て参戦を続けるが、1975年奇跡的な2位台を獲得した以外はテールエンダーの常連のようになり、さらには資不足で破産しそうになった。

なお、この中で1974年マシンに初めてFW03のナンバーを付けた。なぜ03から始まるかというと、これまでのマシンにさかのぼってナンバリングしたためである。

1976年に、カナダの富ウォルターウルフスポンサードを受け、潤沢な資によってそれまでの債務を解消することが出来たものの、今度はウルフ自身がチーム運営フランクウィリアムズを外す論見が出たことで、チームを売却して一時グランプリから去った。

新体制~第1次黄金期(1978~1982年)

1977年に、一度チームに関わっていたパトリックヘッドを口説き落とし、共同オーナーとして資を出資し合い、ウィリアムズグランプリ・エンジニアリングを設立。

パトリックヘッドデザイナー、後にテクニカルディレクターとしてマシン開発を行うようになった。

ヘッドは先進的なものにはすぐに手を出さず、納得のいくまで検証し、理解できてから投入するという現在まで通じるウィリアムズ保守的、堅実的な社理論ができあがった。 

実際、ロータス1977年に導入したグラウンド・エフェクトカー(ウィングカー)相手には、敢えてオーソドックスなFW06で堅実に戦う。1年間検証の後、上手くロータス79のパクリアレンジを加えたものとして1979年にFW07としてデビューさせた。このマシンによってチームは念願の初勝利を上げる。そして、FW07は稀代の傑作マシンとなり、あわててロータスのデッドコピーを作った結果大やけどするか、上手くいっても本家えられないライバルチームに、3年間の使用で2度のコンストラクタータイトルアランジョーンズ1980年オーストラリア人としては2人(1人ジャック・ブラバム)のドライバータイトルを手にした。

1982年にはティレルの6輪の発想を転換し、後輪を4輪として全てをフロントタイヤ同様のサイズで補える6輪開発した。これは、巨大なリアタイヤを小さくすることでグラウンドエフェクトエアトンネルを大きくし、より強ダウンフォースを得ようとしたもの。さらに4輪で地面を蹴ることによる強トラクションを得て、加速面でも利点を得られるはず。だったのだが、後部の重量がかさんでバランスが悪化するのがどうしても解決できず、この年の6輪の導入を断念した。

しかし怪の功名と言うべきか4輪にコンバートしたFW08は、引退したジョーンズに変わってエースとなったケケ・ロズベルグクイックマシンを好むスタイルに合い、彼がチャンピオンを手にした

ホンダとの提携、第2次黄金期(1983~1987年)

1983年シーズンを前に、ヘッドは依然6輪の投入を狙っており、FW08Bとして実完成していた。だが、シーズン前にウィングカーと共に6輪そのものが禁止となり、結局4輪のままフラットトム改造したFW08Cを使うことになった。そしてルノーが先を付けたターボエンジンパワーで圧倒するようになり、自然吸気エンジンを使い続けたウィリアムズは苦しくなっていった。名手ケケを持ってしても、パワーの差が帳消しになるちょい濡れのモナコで勝つのが精一杯だった。

その年の後半に、ウィリアムズホンダエンジンワークス供給契約を結び、同年の最終戦に搭載マシンデビューさせた。最初のフルシーズン1984年こそ1勝のみと苦戦したものの、翌年の後半には熟成なったホンダエンジン搭載のマシンは幾度の勝利を手にするようになった。なお、この時のFW10はモノコックがチーム初のカーボンコンポジットとなったものの、リアサスペンションに旧式のロッキングアーム式を採用し続けており、的にも劣るマシンだった。しかしホンダパワーがそれらの弱点を補ってあまりあったのである。なお、シーズン後半にはリアサスペンションもプルロッド式となるなど良され、終盤のレースは3連勝を飾ることになる。

1986年にはナイジェル・マンセルと2度のチャンピオンを手にしたネルソン・ピケの体制になり、昨年までよりはるかにスリムになったFW11によってコンストラクタータイトルを獲得した。しかし、ドライバータイトルマンセルとピケの争いの間をかいくぐったマクラーレンアラン・プロストが取るという、まさにトンビ油揚げをさらわれる羽になった。

さらには、大きな不幸として私用で出かけたフランクウィリアムズ自動車事故重症を負い、下半身不随の障害が残ってしまう。しかし、これにめげずにフランク車椅子に乗ってまでグランプリの現場に通うようになる。「車椅子の闘将」の誕生であった。

翌年にはFW11Bが作られ、変わらずマンセルとピケがしいタイトル争いを繰り広げた。だが、マンセルが自滅する形で負傷し、ピケがドライバータイトルを手にし、チームも連続してコンストラクタータイトルを手にした。

しかしホンダウィリアムズとの関係を解消してマクラーレンエンジンを供給することを決めてしまう。ピケもロータスに移籍、セカンドドライバーにはリカルド・パトレーゼが加入する。

1988年には高とロール制御をコンピューター油圧ダンパーで行うリアティブサスペンションを搭載したFW12を投入するが、信頼性やパワーで劣るジャッドV8エンジンと不安定なサスペンションによって優勝を逃してしまう。こうしてマンセルも勝てるマシンめてフェラーリに移ってしまった。

ルノーとの提携、第3次黄金期(1989~1997年)

その間にウィリアムズは、ターボチャンピオンは取れず、ターボ禁止による自然吸気エンジン開発を行うために活動休止していたルノーワークス契約を結び、1989年にはルノーV10エンジンを搭載したFW12Cを導入した。ドライバーはパトレーゼベネトンから移籍したティエリーブーツェンのコンビとなった。

シーズン中にFW13が導入され、この年に2勝を挙げ、コンストラクター2位に躍り出た。翌年は、のFW13Bを投入したが、結局勝ちは変わらず、翌年のマシン開発に集中したこともあって終盤ではジリ貧になった。日本GPでは格下のラルースにも負けるなどして、コンストラクターズラキングフェラーリばかりかベネトンにも抜かれ、4位に終わった。

1991年には先進的なマシンデザインを行うエイドリアンニューウェイを引き抜き、フェラーリに移籍して引退を考えていたマンセルを口説いて復帰させた。FW14はニューウェイの先端的な処理をしつつもヘッドによって手堅くまとめたマシンで、この年にはチャンピオン獲得まであと一歩まで迫った。

1992年には良を続けてきたリアティブサスペンションを搭載したFW14Bを投入。を最大限に活用できるようになったことで圧倒的な速さを見せつけ、マンセルに待望のドライバータイトルチームコンストラクタータイトルをもたらした。が、翌年の契約に関してチームマンセルが対立しマンセルシーズン途中で引退表明。翌年にはCARTに転向してしまう。

1993年には1年間の浪人生活を送っていたアラン・プロストと前年にFW14Bの開発に貢献したデイモン・ヒルテストドライバーから抜。より洗練されたFW15C(当初は92年後半に投入予定だったが、あまりにもFW14Bが余裕だったため、テストで熟成を重ねてCスペックになっていた)によってダブルタイトルを手にした。が、マンセルに続き今度はプロストシーズン途中で引退表明。

1994年にはアイルトン・セナを起用するも、ハイテク機器の禁止によってリアティブサスペンションが使えず、FW16は不安定で信頼性の低いマシンになってしまった。

セナは2度のポールポジションを手にするもトラブルによって完走すら出来ず、第3戦のサンマリノGPでもポールを獲得するがステアリングトラブルにより、高速カーブタンブレロを曲がり切れずそのままウォールに突し、事故死してしまう。→イモラの悲劇

その後、デビュー3年デイモン・ヒルと新人のデビッド・クルサード、そしてスポット参戦で復帰したナイジェル・マンセルによってコンストラクタータイトルを手にした。

1995年ミハエル・シューマッハベネトンに両方のタイトルを獲られてしまうものの、翌年にはジャックヴィルヌーブを起用、コンストラクタータイトルを奪取するとともにデイモン・ヒルドライバーチャンピオンをもたらした。

ところが、この年のフランスGPにてエンジンサプライヤーのルノー1997年を最後に撤退することを発表。さらに、チームBMWエンジン獲得を的にドイツドライバーを乗せる事を画策したため、イタリアGP前にヒル解雇を発表。が、これに関してニューウェイ激怒チームを離脱してしまう。こうして、ヒルの後釜にはハインツ・ハラルド・フレンツェンが座ることになった。

1997年にはヴィルヌーブとシューマッハとの熾タイトル争いが行われ、最終戦で辛くもヴィルヌーブがチャンピオンを手にした。また、コンストラクタータイトルも獲得した。しかし、ヒルニューウェイの抜けたはあまりにも大きく、次第にマシン開発は迷走しつつあった。

1998年チームは前年エンジンをそのまま使用して(メカクロームメンテナンス1999年にはスーパーテックが供給) いたものの、開発が終わったエンジンの性は衰え、勝利すら味わえなくなった。

翌年は両ドライバー共に新たな展開をめてチームを去り、ミハエル・シューマッハとして注を集めつつあったラルフ・シューマッハと、CARTチャンピオンを何度も取って満を持してF1再挑戦してきたアレックス・ザナルディコンビとなった。しかしラルフが何度か表台に食い込んだ他は振るわず、ザナルディは全くの不発に終わって再びF1を惨めに去ることになった。

BMWとの提携(2000~2005年)

1999年ル・マン向けのプロトタイプカーV12LMR開発した縁もあってか、ターボ禁止以降グランプリから遠ざかっていたBMW2000年からワークス契約を結んだ。初年はさすがに開発に終始し、勝利かった。この時に、ジェンソン・バトンデビューを果たしている。

2001年にはラルフ・シューマッハファン・パブロ・モントーヤを起用、それぞれで4勝を挙げて再びチャンピオン争いに加わるようになった。

しかしフェラーリマクラーレンとの戦いでなかなかタイトルには届かず、2004年ブラジルGPを最後に勝利からも遠ざかってしまった。この中で、FW26は「セイウチノーズ」と呼ばれる革新デザインを投入したが、思ったような効果は得られず結局終盤にありきたりなノーズに戻している。そして、遂に長年マシン設計に携わってきたパトリックヘッドは第一線から身を引くことになる。

2005年にはBMWからワークスチームとして買収したいとの打診があったが、フランクウィリアムズらは拒否。

さらに成績不振も相まってBMWと確執が生まれ、BMWは予算の高騰で疲弊していたザウバーを買収することを決め、ウィリアムズと結んでいた2009年までの契約は打ち切られた。ドライバーマーク・ウェーバーニック・ハイドフェルドに変わっていたが、両者とも表台の一を得るだけに終わった。

プライベーターへ(2006年~2013年)

2006年にはワークス供給できるエンジンを手に出来ず、フォード支援を失ったコスワースエンジンを導入した。ドライバーにはGP2初代チャンピオンニコ・ロズベルグを起用した。しかし、シーズン序盤は入賞争いを繰り広げたものの、戦闘力・信頼性の低下もありヨーロッパラウンド以降は入賞もままならなかった。

2007年にはトヨタエンジンを採用するも、ワークスではなくカスタマ契約であった。ロズベルグは3度の表台を経験するものの、勝利には遠かった。もう一人のアレクサンダー・ヴルツも未勝利のままF1引退した。

2008年は後釜に座った中嶋一貴とのコンビとなったが、今度もロズベルグが2度表台に登ったのみ。

2009年にはロズベルグはこまめに入賞するも表台に上がれず、チームメイト中嶋一貴に至ってはノーポイントに終わってしまった。2010年までこの体制が続くかと思われたが、トヨタ全撤退を決めたため供給も打ち切られた。 

2010年に再びコスワースを採用したが、チームコスワースも資不足で戦闘力が低下。ロズベルグはウィリアムズに見切りをつけてメルセデス(それは前年のチャンピオンチームブラウンGPが名を変えたものだった)に移籍。入れ替わりに前年までブラウンで走っていたベテランルーベンス・バリチェロシートを得た。その中で、ブラジルGPにおいて新人、ニコ・ヒュルケンベルグ久々ポールポジションを獲得した。しかし、全体的にジリ貧の状況は変わらず、スポンサーも数多くが引き揚げてしまう。

2011年にはベネズエラ支援を受けるパストール・マルドナードを起用するも、獲得できたのはたった5ポイントで、現体制、つまり1977年以来のなかで最低得点記録した。そしてパトリックヘッド全にグランプリの現場を去ることになった。

2012年1997年以来となるルノー契約を結び、ウィリアムズルノー黄金コンビ復活した。ただし黄金期とは異なりこちらもカスタマ契約である。バリチェロに変わって、アイルトン・セナの甥ブルーノセナが加入し、マルドナードとコンビを組んだ。しかし戦闘力は格段に上がり、トップチームにも薄するまでになった。その中で、スペインGPではマルドナードがポールポジションを獲得、さらには優勝を果たした。チーム勝利自体が8年ぶりであり、カスタマエンジンでの勝利1983年以来となった。これらによって、76ポイントランキング8位とまずまずの結果を得ることが出来た。

しかし、翌2013年はまたもマシン戦闘力が落ちてしまう。ブルーノセナに代わり、リザーブドライバーからバルテリ・ボッタスが昇格したが、成績はチーム全体で5ポイントと2年前に逆戻りしてしまった。マルドナードはチームを離れ、ロータスへと移籍することを発表した。

メルセデスとの提携(2014年~)

2014年F1はこれまでのNAエンジンKARSのシステムに変わって、ターボエンジン+複雑なエネルギー回生システムを含んだPU(パワーユニット)を動とした。当然、チームもこれに対応せねばならず、メルセデスからPUの供給を受けることを決定していた。ドライバーフェラーリからベテランフェリペ・マッサが移籍した。新たなメインスポンサーとしてマルティニが付き、マルドナードの離脱後も契約が残っていたベネズエラ企業との間でも違約の形で資が払われた。BMWワークス時代以来の潤沢な資が集まったが、それでもフェラーリなどのトップチームべれば半分程度のものだった。

さて、戦績の方はこれもBMW時代以来の予選でのフロントロー(1,2位)独占を達成するなど確実に上向いた。ボッタスの成長もあって、優勝こそかったがランキング3位という久々の好成績となった。

2015年もほぼ同じ体制が続き、表台の一を何度か占めてみせた。ランキングも同じ3位だった。

2016年、やはりマッサとボッタスのコンビは続いたが、どうしてもトップチームに追いつくまでには至らない。逆に、同じメルセデスPUを使うフォース・インディアをつけてきて、直接的な相手は彼らとなった。結局コンストラクターズラキング5位と少し勢いが落ちてしまった感があり、マッサがこの年限りで引退を表明した。彼にとって最後のブラジルGPでは、盛大な引退セレモニーが行われ、マッサは数多くの優勝経験はあれども冠のままのドライバーひとりとしてグランプリを去った。

…ところが。

メルセデスチームニコ・ロズベルグチャンピオン決定後突如引退を表明したのだ。その後釜に急遽ボッタスが移籍することになり、シートが一つきとなってしまった。これによってマッサ引退を撤回しセレモニーの感動茶番となったがリザーブドライバーから昇格したカナダ人のランス・ストロールコンビを組むことになった。

2017年は、1977年以来の現在チーム体制が40週年を迎えることからマシン名をFW40とした。もう1年走ることになったマッサだが、結局は入賞を何度かするにとどまる。一方のストロールは当初は親の七光りによるペイイング・ドライバー(資持ち込みでシートを得る、つまりドライバーとしてのレベルは二の次)と見られていたが、地元のカナダGPで初入賞すると、続くアゼルバイジャンGPで3位に入り表台に登ってみせた。この年はランキング5位と順位はキープしたが、4位のフォース・インディアにはポイント数で大幅に差をつけられてしまった。

2018年、今度こそ引退したマッサに変わり、ロシア人のセルゲイシロトキンがチームに加わった。しかし、ニューマシンのFW41は失敗作に終わり、ドライバーは両名ともに低迷を極めた。なんと2戦でしかポイントゲットできず、コンストラクターズラキングは最下位とまさにチーム状態はどん底に落ちた。さらに、このシーズン前にマルティニがスポンサーからシーズン終了後に撤退することが発表されており、もう一つの資であるストロールも、父親フォース・インディアを買収して彼を移籍させることになり、泣きっ面に蜂の状態となってしまった。

2019年、新たなタイトルスポンサーロキット」を得て、ドライバーはかつてBMWザウバールノーで活躍するもラリーでの負傷で9年もF1を離れていたポーランド人のロバート・クビサと、イギリス人の新人ジョージ・ラッセルコンビ復活を図る体制となった。しかし、不振から抜け出すどころかライバルと争う事すら困難な程に低迷し、荒れたドイツGPでクビサが辛うじて1ポイントゲット(しかも自入賞ではなくアルファロメオ勢のペナルティによる繰上げ)したものの、昨年に続いてコンストラクターズラキングは最下位に終わった。クビサはかつてのきを取り戻すことはとうとうなく、ラッセルクビサを大半のレースで上回って見せて、才の片鱗を感じさせたのが一の救いだった。

2020年ドライバークビサに代わって昨年のリザーブドライバーを努めたニコラス・ラティフィが加入。しかし、コロナウィルス世界的流行のシーズン開始が大幅に遅れる中、メインスポンサーの「ロキット」が離脱。とうとう資繰りに行き詰まったチームは、せめてチームそのものの消滅を回避するために売却先を探すことになった。8月アメリカの投資会社ドリルトン・キャピタルチームは買収された。9月イタリアGPをもって、フランクウィリアムズクレアウィリアムズチームを離脱。ウィリアムズ一家は43年にわたるチーム運営から全に手を引いた。チーム名称と本拠地は当面は受け継がれる模様。

シーズンの方はというと、前年にべればマシン戦闘力はある程度善され、予選Q2にも度々進出するようになった。が、肝心の入賞に中々手が届かず、15戦終了時点で10チームノーポイント。最高位は11位が4回(ラッセル1回、ラティフィ3回)となっており、特にトスカーナGPではラッセルが一時9位を走行するも、2度リスタートに失敗し11位に終わった。そんな中、第15戦バーレーンGP後にメルセデスAMGルイス・ハミルトン新型コロナウイルスに感染し、翌週のサヒールGPを欠場する事になったで、メルセデスの育成ドライバーであるラッセルが急遽招集され、サヒールGPではリザーブドライバージャックエイトキンが代役を務めた。

2021年シーズンメインスポンサーを欠いたままの状態ながら、マシンのFW43B明らかエンジニアリング面が善。ラッセルベルギーGPでチームにとって2014年以来のフロントローを獲得。レースは悪でたった1周で中断してそのまま成立となったため、これも久々ハーフポイント扱いとは言え2位台を得ることになった。ラティフィもハンガリーGPでのラッセルとのダブル入賞を含めて複数回の入賞を果たし、チーム全体の成績はランキング8位にまで回復した。

2021年シーズン終了をもってラッセルが離脱し、メルセデスに移籍する。

2022年シーズンラティフィは残留し、後任としてアレクサンダー・アルボンが加入する。

お家芸

このチームる上で欠かせない点として戦略ピット作業のミスの多さが挙げられる。

特に有名なのが1991年ポルトガルGPと1997年モナコGP。

1991年ポルトガルGP

ピット作業のミスで挙げられる事が多いレース

予選4位だったナイジェル・マンセルスタートマクラーレンの2台を抜き2位へ浮上、その後トップを走行していたチームメイトリカルド・パトレーゼに順位を譲られトップに躍り出た。

この日、ライバルマクラーレンウィリアムズに全くが立たずマンセルにとって非常に楽な展開であった。

そしてタイヤ交換のためピットインし、作業を終えてピットアウトしたのだが…直後に右リアタイヤが外れて他チームピットに転がっていってしまった。原因はタイヤをはめたクルータイヤのナットを締め終わる前に作業了の合図を出してしまった事だった。

ナットを締め損なうミス自体はウィリアムズに限らず他チームでも時折見られるミスであり、これだけなら20年以上も話題にされたりしない。重要なのはここからである。

この後、タイヤが外れてピットレーンに立ち往生していたマンセルマシンタイヤを再装着して再スタートさせるのだが、本来であれば自チームピットまでクルーが押し戻さなければならないところをピットレーン上でそのまま作業を行ないマンセル旗を振られ失格となってしまった。

・当時の流れ
タイヤをはめたクルーが「作業了」の合図

ジャッキを降ろす

ナット担当のクルーが「ダメだ」の合図

ロリポップが気付かずにマンセルを発進させ、タイヤポロリ

ピットレーン上でマンセルマシンタイヤ装着

旗が振られる(失格

余談だが、マンセルフェラーリに所属していた1989年の同GPでもピットレーン上でのレギュレーション違反バックギア使用)で旗を振られている。この時は無視してレースを続行した挙句、トップを走行していたアイルトン・セナに接触しリタイアに追い込んでしまったため、罰と翌戦の出場停止処分を受けている。

1997年モナコGP

戦略ミスで挙げられる事が多いレース

予選ではハインツ・ハラルド・フレンツェンが初のポールポジションジャック・ヴィルヌーヴが3位を獲得し、ここまでは順調だった。

決勝スタート直前にが降り始め、他チームスタート前にウェットタイヤへの交換や、セッティング変更で慌しくなる中、ウィリアムズはすぐ止むと信じスリックタイヤスタートするという暴挙に出る。

しかも予選2位ミハエル・シューマッハ大雨用のセッティングに変更していたにも関わらずである。案の定、暖まっていないスリックタイヤでは走れない程に路面が濡れ始め、スタートミハエル・シューマッハにあっさりトップを奪われた。当然ながらウィリアムズ勢は全くペースが上がらず、でさえ狭いモナコで大渋滞の原因となる。

3週ヴィルヌーヴがウェットタイヤに交換するが、この段階でも一番が少ない時に使うインターミディエイト(当時、グッドイヤーのウェットタイヤは3種類あった)に交換。だが、直後に脚が強くなり結局スタート時の二の舞となってしまい、最後はサン・デボーテでガードレールにヒットリタイア。

直後に、フレンツェンもウェットタイヤに交換するが、まだが止むと思っていたのかヴィルヌーヴより一段上のウェットタイヤに交換。結局フレンツェンペースが上がらず、こちらもヌーベル・シケインガードレールにヒットリタイア。

ウィリアムズグダグダ作戦に両ドライバーが振り回された挙句に周回遅れにされ、路面状況に合わないタイヤが原因でクラッシュするというトップチームとしてあるまじき醜態をす羽に。どうしてこうなった

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ウィリアムズF1

31 ななしのよっしん
2020/06/06(土) 14:08:12 ID: yHdk3YPIE3
よりにもよってメインスポンサーROKiT逃げられるとは…。
ウィリアムズ明日はどっちだ?
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32 ななしのよっしん
2020/06/06(土) 19:57:29 ID: mKDTO9sxfa
ラルフ・シューマッハーのインタビュー記事が中々辛辣
クレアどころかフランク御大すら全に手を引かないと身売りがチャンスにならないとま
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33 ななしのよっしん
2020/09/04(金) 15:41:50 ID: EsE5+X5tcT
身売りによって事、無能クレアが放逐されたので巻き返すことができるかな
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34 名無しな訳で
2020/11/30(月) 02:29:36 ID: DKA/UGwZ5b
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35 ななしのよっしん
2021/03/28(日) 03:09:36 ID: mKDTO9sxfa
ハースが今季全に捨てたからブービーは固いな
ただ、ギヤボックス製造技術を失っているのでこれからトップクラスに返り咲くには長いのりだ
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36 ななしのよっしん
2021/04/28(水) 19:24:20 ID: PZ0kspJan9
記述に間違いチラホラあるな
79年から81年にかけてはドライバータイトル獲得1回だし
FW10はフルカーボンモノコックだよ、アルミハニカムはFW09まで
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37 ななしのよっしん
2021/09/08(水) 21:26:31 ID: yFHan0uBI+
更新アルボンが復帰だね!よかった
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38 ななしのよっしん
2021/10/13(水) 09:00:45 ID: Vw0jI4UHct
知名度だけはあったからまずまず良い身売り先が見つかってチーム自体は存続できてるが、
躍進の立役者キーマンを悉く冷遇・放逐した組織の末路として反面教師にするべき見本になったな。
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39 ななしのよっしん
2021/11/29(月) 00:30:32 ID: Lz98VCXWuR
フランクが亡くなってしまわれた…一時代が終わった感
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40 ななしのよっしん
2022/09/05(月) 16:25:30 ID: W8jSsnrpsp
>>38
ウィリアムズが退いてから明らか調子いいの本当笑える
まあ、ラティフィは去年が何だったんだと思うような出来だから次第で首元が涼しいが
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