エドワード・ハレット・カー(1892~1982)とは、イギリスの歴史学者・政治学者・外交官である。
通称のE・H・カーの方が通りがいいと思われる。
概要
ロンドンで生まれ、マーチャント・テイラー校を経てケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学ぶというエリートコースを歩む。1916年に外務省に入り一等書記官の地位にまで上り詰めたが、1936年にこれを辞す。カー自身の回想によるとロシア革命に外交官として接したことがロシアへの関心を深め、1930年代にはロシア関係の伝記を数多く刊行している。
しかし彼は外交官としての仕事にも伝記叙述にも満足せず、40代半ばにして新たなキャリアを歩むことになる。それがウェールズ大学アバリストゥイス公で国際政治学の教授となるというものであった。当時ヨーロッパでは第一次世界大戦という未曽有の被害をもたらした戦争を再び起こさないために、国際政治学などの発展が生じていた。カーはまさにその時代に国際政治学に関わっていくのである。
そのカーの最初の代表的な著作が1939年の『危機の二十年』である。第二次世界大戦がまさしく始まりを告げた時代に書かれたこの本は国際関係を冷徹に分析し、道義と権力の整合と、ユートピアニズムとリアリズムの「らせん的発展」の必要性を論じたもので、国際政治学ではリアリズムの立場に属するこの本は古典的名著となったのである。
戦中カーは『ザ・タイムズ』の論説委員を兼ねることになり、本来右寄りの同紙が左寄りになっていく一翼を担う。そしてその流れで発表されたのが『平和の条件』で、保守的思考を糾弾し戦後に築かれるべき「新しいヨーロッパ」の展望で終わるのである。この本は戦中の日本でも読まれるほど広い人気を博した。
しかし開戦直後に立て続けに汎ヨーロッパ的な著作を出し続けたのちは、ロシア革命以降のソヴィエト・ロシア史の研究に打ち込み、カーはそのために教授の座を辞し以降教職には戻らなかった。ロシア革命から1929年までを扱った『ソヴィエト・ロシア史』は完成にかけて53歳から86歳までかかるというカーの晩年のライフワークとなり、さらに1930年代のコミンテルンを扱う『コミンテルンの黄昏』を執筆中にカーは90歳で亡くなるのであった。
一方歴史家としてのカーはやはり『歴史とは何か』に集約される。これは1961年にケンブリッジ大学で行った連続講演の記録である。要約すると、歴史を研究する前に歴史家を研究する必要があり、また歴史家を研究する前にその歴史家が置かれた歴史的・社会的環境を研究する必要があることを述べたものである。カーはこの本の中で「客観的」歴史観も「空想的」歴史観も排し、未来を見通す歴史家の方向感覚といったものによって全く異なる歴史学の在り方が保証されるとしたのであった。
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