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エピクロス
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エピクロスとは古代ギリシャ哲学者である。

思想

エピクロスの自然哲学原子に代表される。ここでいう原子とは現代化学でいうところの原子ではなく、「それ以上2つには分割できない」一個の物体のことをしている。これの反対は物体の一様性や連続性をする連続論者

原子の発見は「量」に関する厳密な観念である「数」の考察がきっかけであった。エピクロスが生まれた古代ギリシャも身の回りの「量」を測ったり、計算するときには「数」が使われていた。

実在する「数」は非連続的で、1、2、3……と整数から次の整数へと飛んで進む。しかし、理論的な幾何学にでてくる「量」は1.011.00110.00011.00001……と、間に隙間はなく連続的である。この幾何学的な量を較しようとするのに「数」を適用しようとしたところから、不尽根数(循環しない無限小数)や、間の無限分割の発想が生まれた。

つまり、あるものを単なる1とみるだけでなく0.5、0.25、0.125、0.0625……と無限分割していくという発想である。

だが、この論理が「時間」に適用されることはなかった。そして、有限の時間内に無限の点を見つけることができないことを根拠に、無限分割否定論が巻き起こった。間と同様に、時間も無限分割できることをはじめて摘したのは、かの有名なアリストテレスである。

この「間」や「時間」の分割に関する議論が「物質」に適用されるのも当然の流れだろう。どれだけ小さかろうが物質が大きさをもち、一つの間を占拠して実在しているとすれば、物質は無限分割できるという考え方のほうがより科学的とみなされるのも一理ある。

これに対して、原子論者は「物質」と「間」の違いを強調して、原子宇宙間)を満たしているというわけではなく、原子の間には虚ながあるとした。そうでなければ原子運動はありえないことになるからだ(理由は後述)。

一方で、連続論者は、真空は存在せず、間のあらゆる部分は物質でつまっていて、あらゆる原子運動は、水の中運動のようなものだと考えた。が動けばの正面のが後ろに移動する。これこそが運動の元であると彼らは考えたのである。

原子論の基本テーゼ、原子と空虚

エピクロスの原子論は、

1、有らぬものからは何も生まれない

2、何ものもへとは還らない

という2つのテーゼから出発している。この2つの産出性の原理から、物質恒在の原理へとエピクロスは進む。もし物質を半分に半分にと分割していったとき、その分割無限に続くなら物質はやがて全に分解されてに還ってしまう。そこでその分割は必ずどこかで止まるはずだ。その最終地点にある不可分なものを、エピクロスは原子と呼んだ。この第一公理がエピクロスの原子論の始まりである。

この世のあらゆる物質が原子から構成されているとすれば、この世のすべての変化は原子の動きとみなすことができる。そして、原子運動をするとなれば、その一方で原子のない間、原子でない間が必要不可欠になる。それをエピクロスはと呼んだ。

もし、原子とは区別される存在である虚がなかったら、存在者(原子)は運動することもできない。また虚によって原子同士の間に間がなければ存在者(原子)は互いに分離することすらできず、ただの1になってしまう。

また、原子の中には虚は存在しない。なぜならばもし原子の内部に虚があるとすれば、外部からのによって原子が変化、分解してしまうからだ。変化、分解してしまうもの。そんなものはもはや原子ではない。

以上の虚に関する命題原子論の第二公理と呼び、これによって原子の永遠性と充実性が保されることになる。エピクロスはこれら2つの公理をまとめて「宇宙の削減不可能な内容は物体[原子][]である」と解説した。つまり、この世の森羅万象原子虚無で構成されているということだ。

ただ、エピクロスが原子論をうちたてるまえに、レウキッポスやデモクリトスアリストテレスなど初期原子論者というものも存在した。最初にあげた「有らぬものからは何も生まれない」と「何ものもへとは還らない」という2つのテーゼも実はレウキッポスやデモクリトスの思想から継承するものであった。以下にその思想とそれに対するエピクロスの対応をみていこう。

原子と空虚は無限である

物質恒在の原理は、から何かが生まれることも、物がに還ることも許さない。それを元にデモクリトスは「宇宙は外部のでうまれたものではないので終わりがない」と述べた。つまり宇宙は時間的にも間的にも無限ということだ。エピクロスも「さらに宇宙末端(アクロンを持たない。したがって限界はない」という。

この宇宙間的な無限界性は、間中の物質の量にも関連してくる。エピクロスは物体(原子)でも虚でも、それらが存在できる点は無限であると述べる。その理由はこうだ。もし虚が無限であり、原子が有限であるとすれば、物体はどこにも停止できなくなる。衝突を介してその原子間の中に留めておく他の原子がないのだから、その原子無限虚の中で拡散してしまうことになるのだ。逆に虚が有限であり、原子無限であるとすれば、無限原子は有限の間の中に自分の居場所をなくしてしまう。

このように初期の原子論者は、宇宙とは、無限原子で満たされた無限虚からなるものと考えていた。デモクリトス原子特性として「形」と「大きさ」をあげた。デモクリトスによれば、原子無限の種類の「形」、「外観」、「大きさ」をもっているという。つまり、この世にある物体の物理的な性質は、その物体を構成する原子の「形」や「大きさ」、またそれらの結びつきの様式、物体が占める虚の中での原子配列の様式によって決定されるわけだ。エピクロスもこの思想をほぼ継承している。

アリストテレスの原子論批判

レアゼノンという哲学者は、有限である時間のなかに無限の点を見つけることはできないという理由で、物質の運動を否定した。これがかの有名なアキレスと亀パラドックスである(知らない人はググってね)。ゼノンによれば理論上、この世のあらゆるものは動くことができなくなる。

これに対してアリストテレスは経験と観察から物質が運動することを認め、運動の連続性をもとにしてエレアに反論した。さらにアリストテレスは次の三つの問題提起を行い、原子論者する不可分割なもの(原子)の存在を否定した。

1つ、「すべての『量』は分割できる。線分のような量が不可分割的な点に分解されるのだ」
原子論者のいうような不可分割物(原子)には「末端」がない。というのは、もし「末端」があるとしたら、その「末端」と「末端以外の他の部分」とが区別できることになり、不可分割であったはずのものが不可分割でなくなってしまうからだ。連続とは末端が一つになっていることなのだから、末端をもたない不可分割物が連続することはない。

つまるところ、量とは連続的なものである。だから量が不可分割物(原子)から構成されることはありえない。よって「線分」が「点」から成立することも、「時間」が「今(という点)」から成立することもありえない。線分が点の連続であると考えても線分の定義には矛盾しないが、点の定義とは矛盾してしまう。幾何学における点は位置も部分も持たないからだ。ゆえに線分は常に線分に、量はつねに量に分割されるのだ。

連続的なものがつねに分割なものへと分割できることは明らかである。というのは、もし「量」が分割できないもの(原子)に分割できるとすれば、分割できないもの(原子)が分割できないもの(別の原子)と接触、つまり末端が一緒になって切れがなくなることになるからである。本来、連続的なものの末端は一つであってそれぞれが接触するはずだ。以上のことから、量はどこまでも分割であり、分割できない原子なんて物があるはずがない。

2つ、「不可分割運動は考えられない。運動は常に連続的である」
物質の運動の軌分割不可能な最小断片(原子)からできているとすれば、その運動は間欠的に(止まったり進んだりする)だけ可となる。その場合には、自動する物体は軌の各断片の上ではいつも止まっていることになるだろう。だがこれは経験的に間違っていることがわかる。それではA点が断片P運動し終わったといえても、A点が断片Pから断片Qへと運動しているとはいえないことになる。

あとの場合には、不可分割的な各断片の中間での運動が問題となってくる。そういう運動を認めないとすれば、静止しているとともに運動している物体、もしくは2つの断片上に同時に位置している物体が存在するとしなければならなくなる。だから運動が不連続だと仮定すれば、運動の考えは死んでしまう。運動が観察できる事実として存在することを認めるならば、運動は必然的に連続的でなければならず、不可分割運動は考えられない。

3つ、「運動、時間、距離はすべて分割できる」
ここで速度の違う物体Aと物体B(物体Aの速度>物体Bの速度)の2つの運動べてみよう。より速い運動をする物体Aが動き、距離d0運動しおわった。その動きに物体Aが必要とした時間t0のあいだに、遅い運動をする物体Bd0よりも短い距離d1d0d1)を運動しおえる。次に物体Aが、先ほど物体Bが動いた距離d1を移動するのに必要とする時間t1t0>t1)のあいだに、物体B距離d2d0>d1>d2)を運動しおえる。そしてまた物体Aが距離d2を動くのに必要とする時間t2(t0>t1>t2)の間に、物体Bは……これを繰り返すと、 d0>d1>d2…→0 , t0>t1>t2…→0が得られる。

つまり、距離も時間も無限分割できることを示している。このことから、運動、量(距離)、時間のうち一つが分割されるならば、同様にその他も分割できる。つまり三者は共に連続的なのである。一つだけを非連続にして他の連続的としたり、2つを非連続にして一つを連続的とすることはできない。

以上のことがアリストテレス原子論に対する批判であった。運動、量、時間のうちどれか一つが連続的であるのなら、残りの2つも連続的であるというところがポイント小学校のときに「時間」「距離」「速さ」の関係を習っただろう。この三つはそれこそ切っても切れない関係なのである。これに対してエピクロスの論駁を見ていこう。

エピクロスの反論

第一の「すべての量は分割できる」という批判に対しては、分割無限に進まず不可分割物(原子)のところで止まる、とエピクロスはいう。第二の「不可分割的な運動というものは考えられない」という批判に対しては、運動、量、時間のうちの一つに不可分割な単位があれば、他の2つにも不可分割な単位がなければならないというアリストテレス理論を逆手にとって、不可分割的な量の単位があるのだから、運動の不可分割的な1単位は時間の1単位をよぎる。つまり、不可分割的な運動はあるとエピクロスはいう。

第三の「速度の違う2つの運動較によって、時間と距離もどこまでも分割できる」という批判に対しては、ふたたびこれを逆手にとって、不可分割物(原子)の運動速度はすべて同じであって、それにはより速い運動やより遅い運動はない、とエピクロスはいう。たしかに、速度の違う運動があることは事実だ。しかし、それは原子合成体について観察されるだけの事実なのだ。原子の等速運動と可視的物体の不等速運動を理解すえれば、アリストテレス批判に反論できるはずだ。

以上がエピクロスのアリストテレスの三つの議論に対する簡単な解答である。エピクロスがアリストテレス批判を逆手にとって原子論を擁護している点が立っている。それではこの3つの解答をより深くみていってみよう。

エピクロスの原子論

デモクリトスやレウキッポスら初期原子論者の思想を継承して、エピクロスは自然学的に原子の存在を確立した。

さて以上のような原子論を聞いた時にまず思い浮かぶのはアリストテレス摘したように「その原子はもっと分割できるんじゃないか?」という疑問だ。エピクロスはこれに対してきっぱりとノーという。これは物が無限分割できるという思想を否定するもので、原子の最小部分、すなわち極限(ベラスが存在することを示している。このことから次の2つのことがいえる。

1、原子無限分割されるとしたら、実在する原子はやがてゼロ)に還ってしまう。つまり最小部分を発見したとしても、さらにそれも分割しなければならず原子研究意味となる。

2、原子無限分割できないので、限られた物体の一部分から他の部分へと移動するときの過程が、無限の通過点を持つということはありえない。それは、無限の通過点が存在するならば、全体が限られた物体であることができなくなるからだ。

また、エピクロスが無限分割拒否する理由は次の2つである。

1、ある物体Aの中に、大きさを持つ部分が無限にあるとすれば、その物体Aの大きさは無限でなくてはならない。その部分がどれだけ小さかろうが、部分の数が無限ならば全体も無限にならざるをえないからだ。

2、ある人はこうする。「もし有限な物体Bが、その物体から切り離しては観察できない、それでいて物体Bと区別できる末端(アクロン)をもっているとすれば、その末端の隣りには同様の末端がある考えられる。例えば、一つの立方体の上の面を最初の末端(アクロン)とみなせば、その面に接する4つの隣りの面が別の末端として考えることができる。こうして隣り、隣りと進んでいけば限られた物体の中に無限の部分があると考えられるはずだ。こうして原子無限分割できる」しかしエピクロスはこの考えを退ける。

特に後者は重要である。エピクロスは「原子無限分割できる」という考えを否定するために、「末端」を「知覚できる限りでの最小限」との類推を用いて考える。「知覚できる限りでの最小限」は、部分から部分へと移動するほど大きくて、その部分が知覚によって区別できるものと同じではないが、さりとてまったく似ていないものでもない。「末端」と「知覚できる限り最小限」は、両方ともが量であるという点で共通しているが、「知覚できる限りでの最小限」はその部分が知覚によって区別できないという点で異なっている。

大きくてその部分が区別できる量との類似性を根拠にして、われわれは「知覚できる最小限」の中でも、一つの部分はこちら、もう一つの部分はあっちというように、知覚によって部分が区別できると考えたくなる。しかしこの考えは間違っている。

この量は「知覚できる限りでの最小限」なのだから、知覚できる第一部分と知覚できる第二部分とは同じであって区別できないのである。こうして、われわれは、知覚できるかぎりでの最小限が最初のものから順番にならんでいて、それら最小限が同じ場所を巡って重なり合うことがないことを理解できる。

それら最小限は計測単位としてはたらき、それを用いて最小限から構成されている事物は計測させるのである。単位が多ければ大きな量だし、単位が少なければ小さな量だというように、最小限が計測単位となるのは、最小限が知覚によって区別できる部分を持たないからである。

「知覚できるかぎりでの最小限」という発想は、エピクロスの「すべての感覚は正しい」という規準論をもとにしている。後の哲学ヒュームは「一滴のインクに落として、それを凝視ながら見えなくなるまで後退してみてみよう。点がまさに毛用とする間には心、すなわち印全に不可分である」といった。

可視的対には最小限があって、それを越えた小さいものはではみえなくなる。幾何学定義にあった概念上の「点」や「線」はには見えないものなのだ。「知覚できる限りでの最小限」の存在は否定することのできない感覚の事実なのである。この最小限を単位として設定するとき、知覚できる事物の量はこの単位の倍数となる。

エピクロスは、「知覚できる限りでの最小限」についての議論原子にもあてはまると考える。「知覚できる限りでの最小限」と原子とでは小ささの点では異なっていようが、原子の最小限(極限、ベラス)については同じことがいえる。というのは、わたしたちはまさ小さなものを単位として世界をみてきた。原子が大きさを持つのなら、両者は類推が可にきまっている。つまり、最小限で部分を持たない極限はそれ自体が単位であって、原子のようにに見えないものを理論的に探究する際には、大小の原子を計測する物差しとなる。

以上が「知覚できる限りでの最小限」と原子の極限との類推によって得られるものである。ただし、知覚できる事物は「知覚できる限りでの最小限」から構成されているといえるが、原子原子の極限から構成されてくるプロセスについては何もいえない。原子永久不変であって、その大きさが極限によって計測されるだけなのである。こうして原子理論分割は極限のところで停止し、無限分割されることはないのである。これが不可分割者を拒否するアリストテレスに対するエピクロスの反論である。

原子の運動について

アリストテレス原子論者に対して「運動の存在を認めながらも、その運動の存在理由や運動本質やその原因について何もらない」と批判する。アリストテレス世界運動するとすれば、そこには何か原因があるはずだといい、質料(ヒュレー)、形相、動、的の四つの原因をあげた。

これに対して、初期の原子論者は、運動の原因を問題とせずにそれを与えられた事実として捉え、「衝突」という機械論的なモデルを用いて運動の総量をし、運動量恒在の原理を立ち上げた。その一人デモクリトスは「無限虚の中で、形、大きさ、位置、配列の相称制によって原子は組合い、複合物を作る」との述べた。

虚の中を自由運動する原子を別として、複合物を形成した原子は複合物の中で永遠に運動しつづける。その運動は近接する原子によって制限された狭い間の中で行われる。狭い囲いの中での素く、かつ頻繁な原子の衝突による運動を振動と呼ぶ。このように初期原子論者は素概念を用いて、物質の運動法則を捉えようとした。

初期原子論者原子に「重さ」があることを認めなかった。したがって原子運動は方向をもたず、の中のホコリのように巻き散って互いに衝突しあうのである。これとは対称的にエピクロスは原子に「重さ」の概念を与えた。すると原子のようにまっすぐ下に落ちる運動をすることになる。

すべての原子が直線下降運動をするとすれば、互いにぶつかり合うことはなくなってしまう。そこで導入されたのが、原子の衝突が起きるための斜め運動クリーナーメン)である。

原子の等速運動

原子は外部からの干渉を受けない限り、大きさや重さに関わらず必ず等速で運動する。その速さは思想と同じものだ。原子には二種類の運動がある。重さによる落下と、原子が互いに衝突することによる上や横への運動である。後者はやがて重さによって下降運動に戻るが働く。しかし、そのときはボールを遠くに投げるときのようにゆっくりと減速してから落下するという動きを原子はとらない。原子は上に行くときも横に進むときも落下するときも、常に速度は一定である。重さや大きさが関係するのは落下し始めるまでの距離だけだ。

以上のような等速運動の原則は、不可分割的な運動、つまり運動の最小単位に関する議論への伏線となる。これはアリストテレスの第二の批判に対する解答となる。

全成体の運動

原子合成体の場合には、原子単体のときと違い、速さに違いがでる。これは合成体内の原子どもが一つの場所に向かって最短の連続的時間のあいだに運動するからである。もっとも、思想によってのみ区別できる時間(原子的時間)の中では原子たちは同じ方向に運動せずに、さかんに衝突して、ついには原子たちの運動の連続的傾向が知覚の圏内にも入ってくることになるのである。

速度の違いを示すのは合成体の運動である。合成体の原子がある時間同じ方向に動けば、合成体も動く。全部の原子が同じ方向に動かなければ、合成体は停止する。全部の原子が長い時間のあいだに同じ方向に動くとすれば、合成体はゆっくりとうごく。全部の原子が最短の連続的時間のあいだに同じ方向に動けば、合成体は速く動く。とはいえ、もしそのように動くとすれば、合成体は原子速度(思想の速度)で動くことになる。

だが、合成体がそんな速い速度運動しないことが分かっている。だから、全部の原子がそのように動くことはない。短すぎて知覚不可能な時間(思想の中だけで区別できる不可分割的な時間単位)のあいだでは、合成体の中の原子たちは相互に衝突しあって合成体の占める場所中を運動していると考えるのが正しいのだ。

合成体の運動は、それを構成する原子たちが最短の連続的時間(不可分割的な時間単位が集積して知覚できるほど長くなった時間)のあいだにとる運動の全体的傾向なのである。エピクロスは、原子に遅い速いがあるのは、最短の連続的時間の間の合成体の運動についてなのだという。これがアリストテレスの第三の批判に対する解答である。

最短の連続的時間と不可分割的な時間単位

今までの議論の中には二種類の時間が存在している。思想の中だけで区別できる時間とは不可分割的な時間単位(これは時間の長さであって、間や末端ではない)であって、その時間単位のあいだに原子間の不可分割的な単位を通って運動したのである。つまり、原子は1原子的時間単位のあいだに1原子間単位を移動したのでる。だから原子は等速運動をするのである。しかしその速さは思想の速さと同じで、知覚されはしない。

最短の連続的時間はこの時間単位の倍数の長さであり、知覚できるほど長い時間のことである。運動の全体的傾向が見つけられるのは連続的時間のあいだである。たとえば、最短の連続的時間が10時間で1単位だとしよう。ある原子はそのうちの4時間単位を上に向かって進み、6時間単位は下に向かって運動するとする。となればその原子は最短の連続的時間のあいだに2間単位を下にむかって進むことになる。別の分子は3時間単位を上に、7時間単位を下に進むとすれば、その原子は最短の連続的時間のあいだに4間単位を下に運動することになる。

第一の原子は第二の原子よりも2間単位だけゆっくりと最短の連続的時間のあいだに下方に移動することになる。このように、最短の連続的時間のあいだでは原子速度の違いが現れることが理論的に説明できた。知覚できる合成体は、これら最短の連続的時間のあいだに異なる速度で異なる方向に運動する原子たちから構成されている。知覚できる物体が知覚できる時間に速度の違う運動をするという観察の事実はこうして原子論的に説明することができた。

とはいえ、不可分割的な時間単位のあいだでは、原子運動速度は等しい。エピクロスは連続的時間のあいだに生起されることを時間単位のあいだに生起することに適用することはできないという。「に見えないものについて考える。それゆえに思考によってのみ認知できる短時間の間に原子運動に連続性がある」と考えることは間違っているのである。

二種類の時間について述べるとき、エピクロスは、前述の、より大きな知覚できる量と知覚できる限りでの最小限、知覚できる限りでの最小限と原子原子原子の極限についての議論と同じような議論を展開する。そして、不可分割的な時間単位は時間の長さである点で最短の連続的時間と似ているが、時間単位が部分をもたないという点では連続的時間とは似ていないとする。

関連項目


参考文献

  • 『人と思想 エピクロスとストア』堀田

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