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エリザベス1世(Elisabeth I)とは大英帝国の礎を築いたイングランド女王である。生涯結婚しなかったため「処女王」と通称された。
概要
イギリスというと19世紀の世界帝国のイメージが強いがエリザベスの勢力範囲はイングランドのみの小さいものであり、現在イギリスの一部であるスコットランド王国とは敵対していた。また大陸には大国フランス、スペイン、ハプスブルク帝国等が相争っていた。
エリザベス1世はそのような欧州情勢の中、国内の産業や文化(かのシェイクスピアもこの時代)を扶養し、太陽の沈まない国といわれたスペインの無敵艦隊をアルマダ海戦で撃破しイングランドの黄金時代を築いた。そのためイギリス史におけるもっとも偉大な人物の1人とされる。
イギリスはエリザベス1世、ヴィクトリア女王、エリザベス2世など珍しく女性の名君を多数輩出している。
危うい即位
エリザベスが生まれたのは宗教戦争が過激化した血なまぐさい時代であった。ルターの95カ条の論題から始まった宗教改革は欧州各国の内外部に新旧宗教対立を引き起こしていた。イングランドではエリザベスの父ヘンリ8世が男児を産まないキャサリン妃との離婚問題に関連してカトリック協会と対立を始める。ヘンリは新教徒ではなかったが上訴禁止法と国王至上法を制定することによってカトリック教会の内政干渉を排除して、イングランドの主権を確立する。そんなゴタゴタの中、ヘンリ8世は2人目の妻となるアン・ブーリンとの間に女児を儲ける。これがエリザベス1世であった。
しかしヘンリ8世は男児を生まないアン・ブーリンにも飽きて、これに罪を被せて処刑した(酷い)。母の刑死に伴いエリザベスは王女から一転して非嫡出子扱いになってしまう。ところでヘンリには前妻キャサリンに産ませたメアリという娘がいた。エリザベスからすると異母姉に当たるメアリは母追放の原因となったエリザベス母娘のことを最初憎んでいたが、徐々にエリザベスに愛情を注ぐようになっていた。互いに日陰の身である共感もあったのか、2人は姉妹としての交流を育んでいた。
ヘンリは3人目の妻との間にようやく待望の男児エドワード6世を得てこれが王位を継ぐことになった。しかし少年で即位したエドワードは早世し、次にメアリがメアリ1世として女王となった。メアリは旧教派が強いスペインのフェリペ2世と結婚し国内の新教派を弾圧し始めたため、ブラッディメアリーと呼ばれ恐れられた。即位したメリアにとって王位継承権を持ち新教派であるエリザベスは危険人物であったため、彼女に濡れ衣を着せロンドン塔に幽閉した。1558年、義姉の監視の中で明日の命をもしれない生活を送っていたエリザベスの元にメアリの訃報が届く。こうして彼女はエリザベス1世としてイングランド女王に即位することとなる。
統治
エリザベスは国家評議会の中から20人ほどのメンバーで枢密院を構成し、事実上の政府とした。その中で重きをなしたのはかの大哲学者F・ベーコンの父大法官ニコラス・ベーコンと、エリザベスから「私の精霊」とまで呼ばれた首席秘書官のウィリアム・セシルである。この2人をはじめとした枢密院議員たちがエリザベスの治世の前半を担っていた。
彼女が一番最初に着手したのは危険を孕む宗教問題についてである。彼女自身は新教派に理解を示していたが、政策としては過度に新教に肩入れをすることはなかった。まず彼女は首長法と礼拝統一法を議会で可決させ英国国教会を樹立した。これは教義は新教のカルヴァン派、制度や儀式は旧教のカトリック派という両者の中庸を行くものであった。中途半端ともいえるこの路線は新旧両派から批判を生み、これに反発した急進的な新教派は後にピューリタンと呼ばれることとなる。エリザベスは治世当初は穏健に過ごしていたがやがて彼女は新旧両派のバランスをとるため新旧それぞれの派閥を大勢粛清している。
エリザベスの内政に関しては貨幣政策と社会福祉法が有名である。当時アメリカ新大陸から流入してきた銀によってイングランドは空前のインフレに悩まされていた。これにはヘンリ8世が悪い貨幣を流通させたことも原因の一つであった。そこでエリザベスは自らの金融代理人であったトーマス・グレシャムを登用して良貨を市場に出して英貨ポンドの価格暴落を食い止めた。歴史や経済学でよく聞く「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則はこのグレシャムから来ている。また女王は救貧法を定め、働けない貧困層に救貧院を用意し、働けるものには労働の場を与えた。この社会福祉政策は後にエリザベス救貧法としてまとめられる。
独身であったエリザベスの元には数多くの求婚が届いた。その候補の中にはハプスブルク家の御曹司や、後にライバルとなるフェリペ2世もあった。しかし新教派であった彼女にはいずれも宗教の問題ですんなりとはいかなかった。その裏で彼女には政略婚とは無関係に胸に秘めた人物がいた。それが貴公子ロバード・ダッドリである。彼は既婚者であったにも関わらず女王から「ロビン」と呼ばれるほど懇ろになり枢密議員にも取り立てられた。その後、彼の妻は謎の死を遂げてダッドリは晴れて独り身になるが世間体を気にしたのか女王は理性的に彼から身を引いていった。
スペインとの対立
イングランドを取り巻く国際情勢は流動的でエリザベスにとって少しの油断もならない存在ばかりであった。
当時のスペインは、イスラム勢力と長く国土回復運動を戦っていた影響で旧教のカトリックが強い勢力を持っており、新教派は異端審問で容赦無く弾圧されていた。スペインは自領ネーデルラント(現オランダ)でも同様の宗教弾圧と課税を加えたことによってこの地に火種が燻り始める。イングランドは新教派を援助するためにここに介入を開始する。しかし当時のスペインは「太陽の沈まない国」と言われた強豪で争いを挑むにはかなりの準備が必要とされた。
一方で北のスコットランドでも女王メアリ・スチュアートがフランス王太子フランソワと旧教派同士で結婚し、新教派のイングランドへの圧力を強めた。夫が死去した後にメアリは再婚するのだが、この夫も不慮の事故死をしてしまう。メアリはこの事故の首謀者と目される人物と三回目の結婚をするが、この節操のなさにスコットランドの反メアリ派が蜂起し、メアリはイングランドへと亡命してきた。
メアリはイングランド王家の血筋も引いていたので、非嫡出子のエリザベスより王位継承権と見ることもできるため、以後度々反エリザベスグループの神輿として担ぎだされることになった。1569年には旧教派の北部諸侯がメアリを担いて反乱を起こした。反乱自体は簡単に鎮圧されたもののエリザベスはローマ教皇から破門の憂き目を見る。それでもエリザベスがメアリに軟禁とはいえ高待遇を与え、彼女のスコットランド王位復帰に尽力していたのは当時はスペインとの関係がそれほど緊張していなかったからである。しかしその後の19年の間に国際関係は状況を変えていく。
イングランドとスペインの争点は主に3つあった。エリザベスから私掠特許状を得た海賊ドレイクがスペインの船を襲っていたこと。イングランドがネーデルラントの新教派ユトレヒト同盟を援助したこと。またイングランドが異教徒のオスマン帝国と接近したこともスペインを強く刺激した。両国とも金のかかる戦争は避けたいところであったが、事態は抜き差しならないぬところまで至ってしまっていた。
1586年にメアリがエリザベス暗殺に関与していた動かぬ証拠が見つかった。旧教派のメアリを害することはカトリックのスペインをこれ以上ないほどの憤慨させることは想像に難くなかった。既に局地的な戦闘が始まっていたとはいえ全面戦争を回避したいエリザベスは最後まで迷ったがついにメアリ・スチュアートを処刑する。これに怒ったスペインはイングランドへ向けて自慢の海軍、いわゆるアルマダ(無敵艦隊)を出撃させた。
アルマダ海戦
海賊ドレイクは元々奴隷商人であったがエリザベスから騎士(サー)の称号を授けられ、また世界一周航海をも成し遂げた一流の船乗りであった。エリザベスはそのドレイクに加えハワード男爵、ホーキンスなどベテランに艦隊を預けた。一方スペインはレパントの海戦でオスマン海軍を倒した英雄サンタ・クルーズ候を起用する予定であったが、彼が死んでしまったため海戦には素人のメディナ・シドニア公が総司令官に任命された。彼は身に余るとして辞退しようとしたがフェリペは「イングランドに上陸してからが本戦だ」と反論して辞退を認めなかった。
両国には船に関しても大きな差があった。イングランドは長距離砲を積んだ新型のガレオン船で、スペインは船に船をぶつけて白兵戦を挑む古代以来のガレー船を主力としていた。さらにスペイン王フェリペ2世はメディナ・シドニアに細かく作戦を授けていたが、戦場においてこれが彼から臨機応変な動きを奪うこととなった。一方でエリザベスはドレイクたちに自由な指揮権を与えていた。
1588年、スペイン艦隊はネーデルラントの自軍と合流を目指して英仏海峡を北上し始めた。ついに両雄が視覚できるまで近づいたときスペイン艦隊は守備重視の三日月型の陣をとった。イングランド軍はこの堅陣にうかつに手が出せないまま一週間ほど追跡を続けたが、このままでは敵の作戦通りネーデルラントのスペイン兵と合流されてしまうと考えた。ここでイングランドは5隻の味方船に火を放ち相手にぶつけるという奇策を成功させる。混乱に陥るスペイン艦隊にイングランド艦隊の砲撃が襲いかかる。戦の趨勢はほぼ決まりスペイン艦隊はそのまま北に逃亡するしかなかった。本国に帰還するためにブリテン島を一周する過酷な航路の中で嵐と座礁によって大勢のスペイン兵が命を失った。
このアルマダの敗戦によって欧州の勢力図は大きく変わっていった。その後、スペインは体勢を立て直しイングランドに勝利することも多かったが、結局完全な優位を得ることはできなかった。ネーデルラントではユトレヒト同盟がスペインの支配する街を次々と解放していき、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)は独立国家として独り立ちを果たす。スペインは戦費支出の負債がつもり重なり、もはやヨーロッパの一流国に名を連ねることはできなくなった。
女王の晩年
17世紀に入るまでにダッドリ、ドレイク、セシルなどエリザベスを支えていた能臣達は女王を置いて次々と遠行していった。代わりに台頭してきたのは次世代のロバート・セシル(ウィリアムの次男)やエセックス伯ロバート・デヴァルーやサー・ウォルター・ローリーなどである。女王は彼らに平等に寵愛(パトロネジ)を与えて宮廷内の派閥を操縦していた。しかしそのうちのエセックス伯は美丈夫で人気が高かったが高慢であり、アイルランド反乱鎮圧に名乗りを上げるも失敗し、最後にはセシルを除く名目で反乱を起こしたがあっけなく敗死してしまった。愛する若者を失ったことはエリザベスの晩年に暗い影を投げかけた。
エリザベス治世は黄金時代と呼ばれるが、それは後世に美化されているところが多かった。実際のイングランドではアイルランドでの反乱。独占特許状を乱発したことによるインフレ。疫病や自然災害。長引く戦争とその費用を賄うための重税によって国内は不安を多く抱えていた。1601年に開かれた議会では政策への不満が爆発し大いに荒れた。ここでエリザベスは後に「黄金の演説」を呼ばれる一世一代の名演説をして議員たちを感激させたとされる。
1603年、エリザベスは一度も結婚しないまま55年にわたる治世と70年の生涯を終えた。後継者にはスコットランド国王のジェームズ6世(イングランド王としてはジェームズ1世)が指名された。彼はメアリ・スチュアートの息子であった。ここでエリザベスの祖父ヘンリ7世以来続いていたテューダー朝は終わり、スチュアート朝が始まった。エリザベスの振興した産業は彼女の生前には成果を見なかったが、彼女の死後徐々に萌芽を始め市民革命を経てヴィクトリア朝時代に世界にまたがる大英帝国を築くに至る。
あれこれ
- 彼女の名言として「私は国家と結婚した」というものがあるが、これは戴冠式における決まり文句であって他の男王も使っている。
- ジョジョの奇妙な冒険第一部でエリザベスがメアリ・スチュアートを謀殺したというエピソードがある。仮にメアリの亡命がエリザベスの陰謀だとしてもそれからメアリの死までは20年近くかかっている。エリザベスはメアリを殺すチャンスを何度も見過ごし、逆に彼女にかなり高い自由と待遇を与え、最後の処刑にも渋りに渋ったことを考えてもフィクションはフィクションと考えておくべきだろう。
- なぜエリザベスが自らの命を狙い続けたメアリ・スチュアートをなかなか殺さなかったのかはいくつか理由が考察されるが結局のところは分からない。エリザベスの義姉メアリ1世も対抗馬のジェーン・グレイを殺し即位しているし、オスマン帝国ではスルタンになる者以外の兄弟は皆殺しにしていたえげつない時代である。彼女なりの理由があったのか今となって知る由もない。
- エリザベスの義姉メアリもエリザベスのことは常々嫌悪しており政治的にも排除すべき存在であった。エリザベスが反乱の陰謀に関わった疑惑もあり義妹を処刑台に送るチャンスはあったものの、エリザベスを政治利用しようという思惑からきた夫のフェリペ2世の助命もあってついぞ処刑には至らなかった。後にフェリペはエリザベスに煮え湯を飲まされることを考えると皮肉な話である。それぞれ母親が違い、またそれぞれの母親を亡くしたメアリ、エリザベス、エドワードの三姉弟は一時期一つ屋根の下で暮らしていたこともあった。エリザベスはエドワードにプレゼントを贈ったりと優しくし、メアリともそれなりに仲良くしていたこともあったという。
- それに比べて父親のヘンリ8世はなかなかの人でなしである。1番目の妻キャサリンは追放、2番目のアン・ブーリンは反逆罪、近親相姦、魔術行為の濡れ衣を着せて処刑。3番目の妻ジェーンは出産時に死亡しただけだが4番目の妻アンはブサイクだったため半年で離婚、これを紹介した家臣を拷問にかけ処刑している。5番目のキャサリンも姦通罪で処刑(これは事実だったらしい)と酷い有様である。
関連動画
関連項目
先代 | イギリス女王 | 次代 |
メアリ1世 1553~1558 |
エリザベス1世 1558~1603 |
ジェームズ1世 1603〜1625 |
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