エルヴィン・シュレーディンガー(Erwin Schrödinger)はオーストリア生まれの物理学者である。量子力学の成立に大きく貢献した。
概要
量子力学の基礎となるシュレーディンガー方程式の発見、「シュレーディンガーの猫」と呼ばれる思考実験などで有名な物理学者である。
シュレーディンガー方程式は、1926年にシュレーディンガーが発表した方程式。電子のようなミクロな対象を扱うにはニュートンの運動方程式では駄目で、このシュレーディンガー方程式を解かなくてはいけない。20世紀の物理学や化学の発展を支える、極めて重要な方程式である。
量子力学の定式化は前年にヴェルナー・ハイゼンベルクらによってなされていたが、抽象的で、使われている数学的手法も多くの物理学者にとって馴染みのない物だった。片やシュレーディンガーの定式化は直感的で、物理学者のよく知る数学が使われていたので、幅広く応用されることとなった。
シュレーディンガーの猫は、1935年の論文に現れる思考実験である。波動関数が現実の状態の記述として不完全であることを指摘したものである。詳しくは当該項目参照。
私生活では、恋多き人生で、妻以外の女性との間に三人の子供(全て別の母親)をもうけた。ロリコンで、50才すぎてから12才の少女にのぼせたりもした。友人の数学者ヘルマン・ワイルによれば、シュレーディンガーが大発見をした30代後半は「遅れてきたエロスの噴出の時期」であったという。ちなみにワイルはシュレーディンガーの妻アニーの不倫相手。
若い頃からインド哲学に傾倒し、晩年には哲学的な著作も残している。
生涯
生い立ち
1887年8月12日、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれる。フルネームはエルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー(Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger)。家族はリノリウム工場の経営者の父ルードルフ・シュレーディンガーと母ゲオルギーネで、兄弟なし。叔母のミニーが遊び相手だった。家が裕福だったので、小学校に通わず週二回の家庭教師に教わった。1898年秋、11才でギムナジウムに入学。卒業まで常に主席だった。
ウィーン大学
1906年秋、19才でウィーン大学に入学。シュレーディンガーが入学する直前の夏、理論物理学教授ルートヴィッヒ・ボルツマンが自殺したので、理論物理学の講義は休講だった。二年のときにその後任としてフリッツ・ハーゼノールが赴任した。就任講演は前任者ボルツマンの業績を称える内容で、シュレーディンガーは感動し、理論物理学を生涯の仕事に選ぶ決意をした。
1910年5月、博士号(現在の修士相当)を取得。1913年に教授資格を得て翌年にウィーン大学の私講師となる。
第一次世界大戦
1914年6月、第一次世界大戦の発端となるサラエボ事件が起こる。翌月シュレーディンガーは招集を受けた。砲兵指揮官代行として軍功をあげる。1916年5月、陸軍中尉に昇進。1917年春、軍務で気象学を教えるためにウィーンに呼び返された。研究も再開し、前年に発表されたアインシュタインの一般相対性理論に興味を持ち、それについて2編の論文を発表している。1918年11月休戦協定が結ばれ戦争は終わった。
戦時中の物資不足で家業の工場は倒産し、一家は経済的困窮に陥った。エルヴィンが私講師として得ていた給与は一人分の生活費にも満たなかった。1919年のクリスマスイブに父ルードルフ死去。母ゲオルギーネも1921年9月に他界した。経済的困窮の中で父母を亡くしたことは、老後に対する不安としてエルヴィンにのしかかり、後年、勤め先を決めるときにも寡婦年金に拘った。
1920年、アンネマリー・バーテル(アニー)と結婚。アニー23才、エルヴィン32才だった。
波動力学の建設
1921年10月から6年間の任期でチューリッヒ大学の教授になった。シュレーディンガーの講義は学生に評判が良かった。近くにあるスイス連邦工科大学には物理学者ピーター・デバイ、数学者ヘルマン・ワイルがいて、合同でコロキウムが行われた。その頃のシュレーディンガーの研究分野は色彩論、気体論、比熱、統計力学などであった。特に色彩論は、物理学の主流から外れた分野ではあるが、その道の権威と見なされるまでになってた。
1925年のアインシュタインの気体論にまつわる論文の中でルイ・ド・ブロイの物質波の説が紹介され、シュレーディンガーの興味を引いた。1925年11月、デバイに頼まれて、ド・ブロイの説についてコロキウムで紹介した。シュレーディンガーが話を終えるとデバイは「子供っぽい話だな」と感想を洩らした。波を扱うなら波動方程式を立てなくてはならないというのがデバイの主張である。数週間してシュレーディンガーはその波動方程式を発見した。
シュレーディンガーは1926年1月から6月の一連の論文において、波動方程式に基づいた量子力学、すなわち波動力学の理論を展開した。詳しい内容は後で述べるとして、論文を読んだ物理学者たちの反応を紹介する。
マックス・プランク「貴兄の論文を、私は、好奇心いっぱいの子供が永らく解きあぐねていた謎の明かしに聞き入るときのように緊張して読み、眼前に展開してくる美の世界に有頂天になっております」
アルバート・アインシュタイン「あなたの論文のアイデアは真の天才を証明しています!」
波動力学が大きな前進であることは明らかだったが、そこで導入された波動関数の解釈を巡って新たな論争が巻き起こることとなった。1926年9月、シュレーディンガーはニールス・ボーアに招かれて量子力学研究の中心地コペンハーゲンを訪問した。ボーアとの討論はコペンハーゲンの駅から始まった。宿泊先がボーアの自宅だったために、連日、早朝から深夜まで討論は続けられたが、一致点は見いだされなかった。数日後、シュレーディンガーは極度の緊張から風邪で寝込んでしまったが、ボーアはその枕元に座って尚も話しかけ続けたという。
1927年10月、プランクの後任としてベルリン大学の物理学教授に就任。1929年2月にはプロイセン科学アカデミーに会員に選出され、最年少会員となる。ベルリン時代のシュレーディンガーの関心は量子力学の解釈問題とディラック方程式に向いていた。後者については電子の震え運動(Zitterbewegung)という解釈を提唱したことが有名。
1933年1月、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相になった。シュレーディンガーはアーリア人であったが、ナチスに対する嫌悪感を隠さず、その年の夏、ベルリンを離れることを決意した。オックスフォード大学に任期二年の職が提供されることになったので、ベルリン大学には研究休暇と届けを出してドイツから去った。
オックスフォード
1933年11月、オックスフォード到着。着いてすぐ、その年のノーベル賞がシュレーディンガーとポール・ディラックに与えられることが知らされた。持ち越しになっていた前年度のノーベル賞はハイゼンベルクに決まったので、授賞式には量子力学創設の立役者三人が揃った。
オックスフォードではシュレーディンガーの女性関係が問題視された。エルヴィンはドイツから物理学者アルトゥール・マルヒとその妻ヒルデを連れてきていて、助手としてアルトゥールの職も用意されていた。ところがエルヴィンはヒルデと不倫関係で、そのことを隠そうともせず第二夫人として扱った。つまり不倫相手を連れてくるために夫を助手として雇わせたのだった。1934年5月エルヴィンとヒルデの間に女の子が生まれた。アニーとの間には子はなかったので、エルヴィンは46才で初めて父となった。ヒルデは育児放棄気味で、アニーが我が子のように育てた。
シュレーディンガーのほうも、男社会のオックスフォードの雰囲気を嫌っていて、「ここの同僚は同性愛のアカデミー集団だ。なんと変態じみた種類の人々を生み出していることか」とマックス・ボルンに不満をぶちまけている。1936年10月、イギリスを去り、故郷オーストリアのグラーツ大学の教授となった。
グラーツ
1938年3月ドイツ軍がオーストリアに侵攻。グラーツ大学の総長もナチス派の人物で、彼のすすめによってシュレーディンガーは、来る国民投票で併合に賛成するよう呼びかける文を書き、それがドイツとオーストリアの全新聞に掲載された。
しかし、ナチスはベルリン大学を勝手に辞めたシュレーディンガーを許すつもりはなかった。その夏、休暇を終えてグラーツに帰ると、大学から免職を通知された。シュレーディンガー夫妻は、荷物を3つのスーツケースにつめ、現金10マルクだけ持ってオーストリアから脱出した。
ダブリン
シュレーディンガーの亡命の手助けをしたのがアイルランドの政治家で数学愛好家のエイモン・デ・ヴァレラである。彼はダブリンにケルト語と理論物理学の研究所を建てる構想を持っていて、シュレーディンガーを招聘したいと考えていた。1939年10月、シュレーディンガーはダブリンに到着。翌年ダブリン高等研究所が立ち上げられ、所長に就任した。
この時期には、宇宙論や統一場理論の研究をしている。また、生物学にも関心を向け、1943年には一般向けの公開講義「生命とは何か」を行った。講演はたいへん好評で、その内容が翌年に出版されている。
私生活では、1944年に人妻との間に第二子となる女の子が誕生。さらに翌年には26才未婚女性との間に女の子が生まれる。この女性はカトリックの厳格な家庭で育ったため性知識に乏しく、自分がどうして妊娠したのかさえ分からなかったという。
晩年
故郷オーストリアに帰りたいと思いつつ、終戦後も10年間ダブリンで過ごした。オーストリア国家条約が締結された翌年の1956年にようやく帰郷を果たす。ウィーン大学は彼のために理論物理学特別教授職を設置して迎えた。1957年定年退官、一年間は名誉教授として大学に残った。晩年は哲学的著作を出版している。
1961年1月4日ウィーンで死去、結核に冒されていた。享年73。枕元の妻に向けて「アニーちゃん、僕のそばにいておくれ、僕が下へ墜落しないようにね」と言ったのが最期の言葉となった。アルプスの山村、アルプバッハに埋葬された。
業績
先に述べたようにシュレーディンガーがド・ブロイの理論を知ったのは、1925年のアインシュタインの論文「単原子理想気体の量子論(第二論文)」がきっかけである。これはボース統計を気体に応用したもので、いわゆるボース=アインシュタイン凝縮を理論的に予言した第一論文の続きである。シュレーディンガーは初め、なぜ気体分子を互いに区別しない数え方をするのか理解できなかったが、物質も波であるとするならば自然な数え方であるとして納得し、ド・ブロイの説を支持するようになる。
ド・ブロイの理論が相対論的だったため、シュレーディンガーが最初に書き下した波動方程式もまた相対論的方程式(現在クライン=ゴルドン方程式と呼ばれているものに相当する)であった。ワイルに協力してもらい、水素原子の場合について解いたところ、スペクトルの微細構造についての結果が、実験から得られていた公式と食い違った。これは電子のスピンが1/2であることを考慮にいれなかったためで、スピンの概念が発展途上にあった当時としてはやむを得ないことである。ともかくバルマー項は導出できたので、非相対論的に扱うことに方針を変え、論文を書き直した。
1926年の前半に発表された論文は、シュレーディンガーの考えが如何に発展していったかを伝えている。
- 固有値問題としての量子化 第一論文
今でいうところの、水素原子に対する「時間に依存しないシュレーディンガー方程式」を解いてバルマー項を導出している。今までの理論が量子化条件という形で整数が現れることを要請していたのに対して、ここでは整数が「振動する弦の節の数のように、自然な形で現れる」ことが強調されている。論文の後半では光の放出が異なる振動数の波が重ね合わされたときのうなりとして解釈できるのではないかという見通しを述べている。 - 固有値問題としての量子化 第二論文
第一論文での波動方程式の導出はそっけなく謎めいたものだった。第二論文ではハミルトンの解析力学における古典力学と幾何光学の対応関係から出発し、波動光学に対応するものとして波動力学を位置づける。このときハミルトンの主関数が波の位相に比例することとなり、比例係数を2π/hとすることで改めてド・ブロイの関係式を導く。解析力学を拠り所としたことで、相対論と関係なくド・ブロイの関係式が得られたことと、配位空間の波として定式化されたことが重要である。具体例として調和振動子、軸が固定された回転子、軸が自由な回転子、非剛体的な回転子(二原子分子)の波動方程式を解いている。 - ミクロの力学からマクロの力学への連続的移行
調和振動子の波動関数の時間発展を考え、量子力学的な波束は時間とともに広がらないと主張した論文である。しかしローレンツやハイゼンベルクによって、波束が広がらないのは調和振動子の特殊事情によるもので、一般には成り立たないと反論された。いわゆるコヒーレント状態を考えたことになる。 - ハイゼンベルク=ボルン=ヨルダンの量子力学と私の力学との関係について
行列力学と波動力学の数学的同等性を示した論文である。行列力学の正準交換関係は、波動力学では作用素の交換関係に対応すること、波動関数から行列要素が計算できることなどを示している。 - 固有値問題としての量子化 第三論文
量子力学的摂動論を展開し、シュタルク効果を論じている。 - 固有値問題としての量子化 第四論文
ここで初めて「時間に依存するシュレーディンガー方程式」が登場する。理論の出発点とすべきはこちらであり、時間に依存しないものは波動方程式ではなく振動方程式と呼ぶべきであるといっている。波動関数が複素数となることに抵抗を感じたようで、実数の波動関数にするために四階微分方程式も考えている。また、ψψ*を電荷密度とする解釈を提示し、保存則が成り立つことを証明している。非保存系の場合、四階方程式では電荷の保存則が成り立たないという難点があることも指摘している。
第四論文とほぼ時を同じくしてボルンによる確率解釈が提出された。シュレーディンガーは波動関数を実在の波動を表すものととらえていたので、この考えに反発した。1927年の第5回ソルヴェイ会議ではハイゼンベルクらとの間に激しい論争を繰り広げられた。
ベルリン時代になると波動関数の確率解釈を受け入れているようである。1930年にミュンヘンにおける講演で次のように語っている。
異なる波動形式、すなわち新しいいわゆる物質波も、昔からよく知られている電磁波も現実の純粋に客観的な記述であるとは考え難い……波動関数は自然そのものを記述するのではなく、実際に観測がなされたある任意の時刻にわれわれが所有している知識を記述するのである。波動関数は確実かつ正確に将来の観測結果を予測するのではなく、実際に対象に対して行った観測が許す予測の範囲内である程度の不正確さと確率をもって観測結果を予測するだけである。
このように波動関数の確率解釈を受け入れた上で、それは現実の状態の客観的記述ではないと主張する。この点は猫の思考実験で有名な1935年の論文「量子力学の現状」でも同じである。この論文はアインシュタイン、ローゼン、ポドルスキーの論文に刺激されて書かれたもので、EPR状態を表すのにentanglement(独:Verschränkung)という語を用いたのはシュレーディンガーが最初である。
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市場にあるものの他に、以下の書籍も参考にした。1の論文集には1926年の一連の論文の邦訳が収められている。引用したミュンヘンでの講演は2の著作中の部分訳による。
外部リンク
- Erwin Schrödinger 論文リストや写真がある。
- The Preset Situation in Quantum Mecanics 猫の思考実験の論文の英訳
関連項目
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