エルヴェ・ポンシャラル単語

エルヴェポンシャラル
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エルヴェ・ポンシャラルexitとは、フランス出身のMotoGP関係者である。


MotoGPの有チームTech3exitオーナー監督であり、同時にIRTA会長を務めている。
 

経歴その1 (Tech3設立以前)

長髪のミュージシャンやバリー・シーンに憧れる

1957年フランスパリ南郊のサン=ミシェル=シュル=オルジュexitに生まれる。両と4人兄弟の、6人家族だった。

ロック音楽が大好きで、ジェネシスexitピーター・ガブリエルexitデヴィッド・ボウイが好きだった。
当時のロックミュージシャンバイクとともに写真に写ることが多く、バイクといえば若者の憧れだった。

ミュージシャンも好きだったが、長をなびかせて疾走し美女をはべらせ格好よくテレビに映るバリー・シーンexit(1976~77年MotoGP最大排気量クラスチャンピオン)も大好きだった。

エルヴェが育った時代は「危機」「赤字」「債務」「解雇」といった言葉が出てくることが少なく、わりと恵まれた時代だったとっている。
 

バイクに熱中する

一番最初に接したバイクは、ポンシャラに通う政婦のモペッド(ペダル付きオートバイ)だった。
すぐにバイクするようになったという。

生まれ育ったのが
サン=ミシェル=シュル=オルジュexitで、そのすぐ近くのモンテリexitバイクレースが行われていたので、バイクに乗って見に行っていた。

免許を取る前はSolexexitというフランスメーカーの50ccモペッドや、RocvaleexitGitane Testiexit、に乗った。

バイク免許を取ってからカワサキバイクの狂信者となり、緑色ステッカーを貼りまくっていた。当時のカワサキの有名ライダーというとイヴォン・デュアメルexitで、彼のゼッケンが17だったので、エルヴェも17番のステッカーを付けていた。


四輪免許を取ったのは23歳の時で、仕事のために取得した。当時は「四輪免許を取るバイク乗りじゃない」という潮があり、バイク中だった間は四輪免許を取る気が起こらなかった。

ちなみに現在バイク大好きで、休暇中に旅行するときはいつもバイクに乗る。
ヤマハTMAX4スト500ccの大スクーター)をコルシカ島exitシチリア島exitサルディーニャ島exitで乗り回すのが、いつもの休暇の過ごし方らしい。
 

バイクのレースをする

当然のようにバイクレースをするようになった。当時、ホンダ・チャレンジという大会があったらしく、そのためホンダの400ccバイクを買った。
400ccというが、どうやら2ストの400ccバイクであるらしい。となると結構大きいバイクとなる。

もともとエルヴェはスポーツ好き、競争して勝つのが好き、というタイプだった。ペタンクexitというフランスの球技や、水泳とかで1位をいつも争っていた。バイクレースに傾倒するのは不可避だったと言える。

エルヴェの自宅の近所のこの場所exitに、リナ・モンテリという立サーキットがある。そこに出かけてレースをする。

近所にマルク・フォンタンexitという友人が住んでいて、一緒にリナ・モンテリでレースをしていた。マルク・フォンタンは陸軍に所属して軍事訓練の一環としてレースをしていた。フランス陸軍バイクレースが好きだったらしく、バイクレースの後援をしていた。

ちなみにマルク・フォンタンは1980年ル・マン24時間耐久レース(バイク版)exit優勝し、MotoGPにも出場して最大排気量クラスで何度もシングルフィニッシュしているライダーである。

そんな調子友人レースをしていたが、「バイクレース=死」と考える母親は全く賛成してくれず、いつも母親と衝突していた。

母親の言いつけで英国に留学させられる

母親からは「バイクレーサーにはならないでほしい。レーサー以外の仕事ジャーナリストなど)をやって欲しい。そういう仕事をするに当たって、英語が絶対に必要になるから、英語を勉強しなさい」と言われた。

エルヴェもしぶしぶながらその言いつけに従い、英国ロンドンへ留学した。大学へ1年半通い、まずまず英語を上達させ、試験に合格してフランスに帰した。

英国に留学していたときもカワサキの400ccバイクを乗り回し、ロンドン周辺のサーキットに出かけてレースを観ていた。また、音楽コンサートに行くのも大好きだった。ピンク・フロイドカンサスexitを観た。

貧乏学生だったのでホテルで働いたり、レストランウェイターをしてを稼いでいた。そのことは、この動画でもチラリと語られているexit

レストランウェイターをしているときに、マイク・ヘイルウッドexit(1962~1965MotoGP最大排気量クラスチャンピオン1970年代F1に転向した)が客としてやってきたことがある。
なんとか強引に彼のところに行き、「サインしてください」というと、「君はチャズ・モーティマーexitに似てるね、ビックリしたよ」と言われた。その当時、チャズ・モーティマーはそれほど有名じゃなかったので、「(チャズ・モーティマーって誰だろう・・・)」と思ったという。

ちなみに、後年、チャズ・モーティマーのさんがIRTAで働くようになったので、IRTA会長エルヴェはチャズ・モーティマーに話しかけるきっかけができ、仲良くなっていったという。年に1度程度だが会って喋り、昔の思い出話をする。

1年半の英国留学中はバイクレースをすることができず、カラダがうずうずしていたという。
友人マルク・フォンタンexitMotoGP250ccクラスに出るようになり、そのことをバイクレース雑誌で知ったエルヴェは、さらに欲求不満が高まった。

この英国留学の時期は1977~1978年のことで、エルヴェが20~21歳の頃である。
 

バイクのレースを再開。1982年頃まで続ける

あれだけ母親に反対されたのに、やっぱりレースをするようになった。
友人マルク・フォンタンに電話を掛けてレースを始め、ホンダバイクに乗ってレースをした。

1年はあまり速く走れなかった。2年になって長距離耐久レースに転向して、わりと速く走ることができ、いくつかレースを勝って、ACOというライダースクールに入団できた。

ACOとはフランスル・マン市ル・マンブガッティサーキットにあり、当時はフランスでもっともレベルの高いライダースクールだった。現在も存続していて、ACOのロゴもあるexit

ACOにはジャン=ルイ・ギユーJean-Louis Guillou)という人がいて、その人が良き理解者だった。
ACOのお偉いさんでもあり、ホンダフランスの代表者も兼任していた。

エルヴェ自身は速く走ることが好きなので短距離プリント戦を走りたがっていたが、ACOに長距離耐久レースを続けてくれと言われ、ル・マン24時間耐久レースバイク版)を走るなどしていた。
1982年ル・マン24時間耐久レースにもでている。

お偉いさんに要請され、ホンダ・フランスの幹部になる

1983年頃、ジャン=ルイ・ギユーに呼ばれて、話をすることになった。
ホンダフランスはV4気筒のエンジン開発している。会社はその新エンジンに賭けている。(当時、V4気筒のエンジンは存在していなかったエンジンらしい)ダカールラリーにも手を広げたいし、他にも色んな事業に手を出そうとしている。・・・だからエルヴェ、私の手伝いをしてくれないか」と言われた。

これを言われた間、エルヴェは「ちくしょう、なんてこった」と思ったという。
ジャン=ルイ・ギユーの手伝いをするということは、レースを辞めるということである。
エルヴェはまだ26歳で、「に最高のバイクがあれば、世界チャンピオンになれるのに!」と考えるような、イケイケの若者であった。

エルヴェは「なんでまた私なんですか。他にもホンダフランスの幹部になりたがっている人はいっぱいいるでしょう」と問いかけたが、ジャン=ルイ・ギユーは「君には素質があるからだ」と答えた。

悩んだエルヴェだったが、自分にはスポンサーバイク何もないことを知っていた。フラストレーションを感じつつも、ジャン=ルイ・ギユーの要請を受け入れ、ホンダフランスの幹部になった。

ホンダフランスの幹部になった後もバイクに乗りたがっていて、「ギユーさん、レースの後にテストがあります。私がテストしても良いですか」と言っていて、ギユーに「エルェ・・・々はライダーとは反対側の存在なんだ。ライダーピットの両方を掛け持ちしてはいけないんだ」と返答されていた。

エルヴェも若かったので心の中でギユーを罵倒していたが、後年になって、ギユーの言うことが正しいと思うようになったという。

1983~1988年 ホンダ・フランスの幹部として働く

1983年からホンダフランスで働き始めた。ジャン=ルイ・ギユーに従い、色んなことを教わった。

ドミニク・サロンexitフランスMotoGPライダー鈴鹿8耐で2度優勝した)の耐久レース出場や、MotoGP250ccクラス参戦の支援をした。ドミニクサロンとは同じレースを走った仲で、年も近く、息が合った。

カールラリーアフリカ大陸を横断するラリー)やル・マン24時間耐久レースにも参加した。

ジャン=ルイ・ギユーお偉いさんなのでテストの場に足を運んでいられない。テストとなるといつもエルヴェが送り込まれていて、エルヴェが実質的にホンダフランスボスになっていた。

このホンダフランス時代に、ギー・クーロンexitという金髪の名物メカニックと出会った。
ギー・クーロンはダカールラリー耐久レースで活躍したメカニックで、80年代鈴鹿8耐で神業のごとき修復作業をした伝説メカニックとして知られている。

経歴その2 (Tech3設立~2000年250ccクラスチャンピオン獲得まで)

1989年にTech3を設立。1993年にジョン・コシンスキー事件発生

1988年シーズンをもってホンダフランスを退職し、1989年にTech3を設立した。

ホンダフランスの一員として鈴鹿8耐にやってきたエルヴェは、平忠彦80年代鈴鹿8耐で大活躍)のライダースーツについているTech21という言葉を見て、その感を気に入った。そこでTech21を真似て、Tech3という名を付けた。

ちなみにTech21は、資生堂の男性向け化粧品であるexit

Tech3の創設時は、エルヴェ・ポンシャラル、ギー・クーロン、ベルナールマルティニャックのたった3人だけが構成員だった。3人だけなのでTech3という名前になった。

1989年チームを設立しただけで、レース活動しなかった。エルヴェもギー・クーロンも長年ホンダフランスで働いてきたので、貯蓄があったのだろう。

1990年が記念すべき初参戦の年である。ライダーエルヴェとしいドミニク・サロンexit
ドミニクは前年の1989年に最大排気量クラスで参戦したが、鳴かず飛ばずの成績に終わっていた。
1990年ロスマンズexitタバコ企業)というスポンサーを引き連れて250ccに舞い戻り、エルヴェの率いるTech3から参戦することになった。マシンホンダ。結果は、またしても怪に悩まされランキング10位に終わった。

1991年ドミニクサロンヤマハチームに移っていき、スポンサーロスマンズもホンダ系の他のチーム(カネモト・ホンダ)に移っていった。ライダースポンサー逃げられたTech3ジャンピエールジャンダという若手ライダーホンダマシンを使い250ccクラスに参戦したがランキング12位に終わる。

1991年の途中で、スズキを掛けてきた。ケヴィン・シュワンツの後継者を育てたいと考えたスズキが、250ccクラスワークス参戦しようと考えていて、そのチーム運営を委託する相手を探していた。
エルヴェはそれに応じ、翌年はスズキワークスとして活動することになった。
このとき、「スズキのような会社がワークス待遇してくれるとは信じられない、自信がかった」とっている。参戦2年しか経ってない新生チーム大企業を掛けるのはとてもしい。

1992年ラッキーストライクスズキというチーム名で、ウィルコ・ズィーレンベルグexitヘリ・トーレンテギーexitを走らせた。どちらも期待通りの走りができず、ウィルコはランキング11位ヘリランキング15位に終わった。


1993年ラッキーストライクスズキというチーム名で、ジョン・コシンスキーexitを走らせた。
ジョン1990年ヤマハ250ccクラスチャンピオンを獲得しており、1991~1992年における最大排気量クラスでの走りも2年で2勝・2位4回・3位4回と素らしく、関係者の期待は大きかった。

ジョンは開幕戦で2位に入るも、その後は5戦連続で表台を逃してしまい、不満を溜めていく。
開幕戦の2位というのも、ヤマハに乗るルーキー原田哲也exitラストラップで負かされていて、ジョンにとっては気分の良いものではなかった。

そして迎えた第7戦のオランダGP、ジョンはまたしてもラストラップ原田哲也に抜かれ、3位に終わる。

かねてからスズキマシンに不満を抱いていたジョンは、レース終了後のクールダウンラップマシンコースに止め、バーンナウトブレーキを掛けながらアクセルを回してエンジンに負担を掛ける行為)してエンジンを破壊、動かなくなったマシンを放置してそのままピットに帰り、表台に立つことや記者会見の出席をサボった。

ちょうどこのオランダGPの冠スポンサーラッキーストライクだった。
顔に泥を塗られたラッキーストライク激怒し、ジョン・コシンスキー解雇した。

この有名なジョン・コシンスキー事件の当事者として、Tech3は名を残すことになった。


ジョン・コシンスキーの代わりとして、第8戦からサイモン・クラファーexitを迎えて参戦を続けたが、サイモンの大柄な体格とスズキの小さなマシンが全く合わず、好成績を残せなかった。

1994年1月10日スズキは突如250ccクラスからの撤退を表明し、エルヴェは苦い思いをした。
スズキ支援セミトレーラーこんな感じexitの荷台車)を購入できるなど、チーム運営も楽になっていたので、Tech3にとって大きな打撃となった。
 

ホンダ陣営に戻る。オリヴィエ・ジャックと出会う

1994年ホンダフランスのツテを頼り、Motulexitフランスエンジンオイル製造企業)の少額の支援を得て、ホンダマシンを使って、フレデリック・プロタットexitノエル・フェローという2人のフランスライダーを起用して250ccに参戦したが、結果は全くダメだった。2人ともシーズン通してポイント獲得できずに終わった。この1994年がTech3のどん底時代であり、エルヴェは「Tech3はもう終わりだ」と思ったという。

ところが、1994年シーズン中頃に、エルヴェとしいジャン=フィリップ・ルジアexitを掛けてきた。
「自分は今アプリリア営にいるが、アプリリア営を離れたいんだ。君がホンダの最新鋭マシンを用意してくれるのなら、君のチームに行くよ」と言ってきたのでエルヴェはり切ってホンダと交渉し、ホンダから1995年の最新鋭マシン供給の約束を取り付け、ジャンフィリップ・ルジアの移籍を実現させた。

ジャンフィリップ・ルジアは1993年アプリリアで2勝ランキング6位、1994年アプリリアで1勝ランキング6位と、好成績を残してきたのだが、アプリリアから最高待遇を受けられずに不満を抱いていた。

ジャンフィリップ・ルジアはelfフランス石油企業トタルexitエンジンオイルブランド)とチェスターフィールドexit世界最大のタバコ企業フィリップモリス社のタバコ銘柄)というスポンサーを引き連れてTech3にやってきて、チームの財政事情を一気に好転させた。困ったときに持ちの友人助けてくれたというわけで、エルヴェの運の良さを徴する出来事である。

1995年ジャンフィリップ・ルジアを走らせ、5位前後の好走をずっと続けてランキング5位を獲得。プライベートチームとしてはまずまず良好な成績となった。

1995年の重要な出来事は、オリヴィエ・ジャックexitを起用した事である。1994年ヨーロッパ選手権を走っていた若いオリヴィエを見てエルヴェは絶対に自分のチームで走らせたいと思い、「ホンダの最新鋭マシンじゃなくて落ちの古いマシンだが、ウチに来ないか」と懸命に勧誘して成功、オリヴィエデビューさせた。1995年オリヴィエルーキーながら4位を2度獲得して才を見せた。


1996年は引き続きジャンフィリップ・ルジアとオリヴィエジャックの2人体制となった。ホンダを説きせて2人とも最新鋭マシンを供給することに成功した。ジャンフィリップ・ルジアは少し成績を落としたがランキング9位になり、そしてオリヴィエジャック一気に成長して1位1回、2位4回、3位2回と大爆発を遂げる。オリヴィエは押しも押されもせぬチャンピオン補にのしあがった。
 

ホンダ陣営から離脱。ヤマハワークスとなる

1997年1998年オリヴィエジャックを擁し、ホンダの最新鋭マシンを使い、チャンピオン補の一として参戦した。1997年は2勝・2位3回・3位3回でランキング4位、1998年は3位4回ランキング5位と、チャンピオン争いには絡めずに終わる。

1998年ホンダバイク完成度がアプリリアべて今ひとつだったらしく、ランキングの上位3人(カピロッシ、ロッシ、原田哲也)が全員アプリリアで、ホンダ勢はって苦戦した。「ホンダから乗り換えるべきじゃないか」という考えがエルヴェの頭の中で沸き上がるようになった。



特に1998年オリヴィエイタリアGPで負傷して欠場してしまい、その間はチーム全体が休業状態になってしまった。やっぱりチームライダー2人体制が望ましい。そう思ってホンダの首に「宇川徹exitという優れたライダーがいますよね。彼をウチのチームで走らせませんか」と熱心に誘ったが、断られてしまった。

オリヴィエの他にもう1人、優れたライダーが欲しい」と思うエルヴェの裏に思い浮かんだのは、中野真矢exitという日本人若者だった。中野1998年の開幕戦日本GP(鈴鹿サーキット)で、スポット参戦のデビューレースでいきなり2位台を獲得しており、エルヴェに強い衝撃を与えていた。そのときのTech3中野チームピットが隣同士で、中野の様子がしっかりに入ったのである。

1998年エルヴェは、毎週のようにヤマハファックスを送り、ヤマハワークスMotoGP250ccクラス復帰の受け皿になることを熱心にアピールしていた。そして中野真矢の受け入れもヤマハに提案していた。全日本の結果をこまめにチェックし、中野優勝すると「中野くんが勝ったそうですね、おめでとうございます。来年はぜひとも彼をウチのチームに」とファックスを送っていた。

こうした熱心なアピールが功を奏し、1999年から250ccクラスヤマハワークス級のチームとなり、そして中野真矢を受け入れることが決まった。

2000年 最終戦で250ccクラスチャンピオンを獲得

19992000年250ccクラスにおけるヤマハワークスとして活動した。

1999年の第3戦スペインGPでオリヴィエは負傷して6戦連続で欠場するが、復帰後は好調になり、最終戦アルゼンチンGPで見事に優勝

1999年中野真矢はルーキーながら絶好調で、優勝1回・2位2回・3位2回、4位5回、5位4回と素晴らしい成績を収める。

2000年チーム成績はまさに完璧といえるもので、こちらのページexit250ccクラスの成績表を見ればそのことがすぐにわかる。チームオーナーエルヴェにとっては感ものの結果となった。


こちらの動画exit2000年オーストラリアGPのドキュメントで、Techの250ccクラス挑戦の集大成となっている。
 

経歴その3 ヤマハのサテライト~KTMのサテライト

2001年以降は250ccクラスの参戦をやめ、ヤマハサテライトとして最大排気量クラスに参戦を開始した。

2017年シーズンにTech3所属のヨハン・ザルコが快進撃を続けた。
エルヴェはヤマハに「ヨハンへ最新ワークスマシンを供給して欲しい」と何度も懇願したが、それが受け入れられることがなかった、とこの記事exitっている。

また2017年の頃には、ヴァレンティーノ・ロッシオーナーを務めるVR46exitというチームチームを上げてきており、Moto2クラスMoto3クラスで好結果を残すようになってきた。ヤマハは伝統的にヤマハ出身のスーパースター運営するチームを優遇する傾向がある。将来、間違いなくVR46が最大排気量クラスに参戦し、Tech3ヤマハから放り出される運命にあるだろう、とエルヴェは考え始めた。この記事exitで、そのようにっている。

2018年2月に、20年続いたヤマハとの提携関係を終わらせることを発表した。
こちらの記事exit写真は、後ろ姿がもの悲しい。

2018年3月に、KTMサテライトになることが発表された。



また、2010年以降はMoto2クラスにも参戦している。

2010年から2018年までTech3オリジナルシャーシを使っていて、KALEXの優秀なシャーシに敵わず、成績が上がっていなかった。チーム会計士からは「なんでMoto2に参戦するんですか」と言われ、家族からは「Moto2なんてやめてしまえ」と言われる始末だった。(※この記事exitでそう言っている)

ところがエルヴェは「Moto2で自分たちのバイクを作ることは良い経験になるからやるんだ」と言い、2018年までTech3オリジナルシャーシの参戦を続けていた。

2019年からは渋々ながらKTMのシャーシを使うことが決まっている。


日本語版Wikipediaexit英語版Wikipediaexitでは、Tech3の歴代成績がずらりと表示されている。
様々なライダーが関わっており、歴史を感じさせる。

家族

マティルド・ポンシャラルexitがTech3で働いている。マティルドのTwitterこちらexit
1996年7月11日生まれexit

広報担当で、メディア記者ライダーインタビューをするときは、マティルドが同席する。

「はい、時間ですので、ここまでです」とか「ちょっと待ってください、その質問はあまりに政治的すぎるのでしにしてもらってもよいですか」などとちゃんと管理するのが彼女仕事となっている。レースがある週末は各種ジャーナリストが殺到するので、マティルドもかなり忙しくなる。

ライダーが好成績を挙げてパルクフェルメで写真を撮るとき、彼女も映っている。画像1exit画像2exit画像3exit

性格

とても面倒見の良い性格である。いままで数々の日本人ライダーの世話をしてきた。自分のチームとは直接関係がなくても、身元引受人と言った感じで日本人ライダーを引き受けて自宅の近くに住まわせていた。斎藤明、若井伸之、坂田和人、辻村猛、上田昇はエルヴェの世話になった人たちである。

中野真矢は「エルヴェ・ポンシャラル監督にはまさに父親のように接してもらった」とっている。

また、エルヴェはライダーが自分のチームから他のチームへ巣立っていくことを大いに喜ぶタイプで、「よくやった、頑れ」と快く送り出してくれる。中野真矢が移籍していくときもそういう態度だったという。

2006年3月から2019年現在に至るまで、IRTA(国際レーシングチーム協会)会長を務めている。
チーム監督にとっては仕事が増えるだけでもやりたがらない役職なのだが、エルヴェは嫌な顔をせずに会長職を笑顔で引き受けている。面倒見の良い性格だからこそ引き受けてくれているのだろう。

経歴その1で述べたように、彼が生まれ育った時代は「危機」「赤字」「債務」「解雇」といった言葉が出てくることが少なく、わりと恵まれた時代だった。このため幸福感のある性格になっている。

レース中はいつもピットウォールスタンド掛けていて、国際中継のカメラが向けられるとお茶目なポーズをするのがお決まりとなっているexit

ファンに話しかけられると気さくに応じてくれるexit
 

先述のように、1990年代の前半は、日本人ライダーを世話していた。

当時からTech3の本拠地は、南フランスボルム=レ=ミモザexitだった。地中海に面していて、が近い。

5月6月になると、決まってエルヴェは「だ!へ行くぞ!」と言いだしていた。

フランスは温暖というイメージがあるが、熱帯ではない。だいたい東京と同じぐらいの気である。
マルセイユの気候データexit東京の気候データexitを見べても、ほとんど同じであることが分かるだろう。
つまり、5月6月は寒くて、どこをどう考えても海水浴に向かない。

それなのにエルヴェは毎年5月になると「だ!へ行こう!」とうるさく騒ぎ出していたので、
坂田さんたちも仕方なく付き合っていたという。




時が流れたある日、坂田さんはふと気付いて、中野真矢さんに「真矢に連れてかれたの?」と尋ねた。

中野さんからの答えは「はい」であったという。

中野さんも寒中水泳に付き合わされていたのだろうか・・・
 

資料

経歴その1の資料 記事1exit記事2exit記事3exit

経歴その2の資料 記事1exit記事2exit記事3exit記事4exit記事5exit

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