オトフリート3世とは、「銀河英雄伝説」の登場人物である。
概要
ゴールデンバウム朝銀河帝国第31代皇帝。
帝国宰相を国務尚書が代行することになった由来を作った人物である。
経歴
第30代コルネリアス2世の皇太子として冊立されたオトフリート3世が著名であるのは、第一にその皇太子時代の事績によってである。英明で知られた彼は帝国の歴史上初めて帝国軍三長官、すなわち軍務尚書、統帥本部総長、宇宙艦隊司令長官の三顕職を同時兼任し、しかも帝国宰相をも兼ねて帝国の最高権力者となった。この記録は王朝末期の公爵ラインハルト・フォン・ローエングラムまでのあいだ、破られることがなかった。
このオトフリートの前例に臣下が倣う不敬を避けるため、以後帝国暦487年に公爵クラウス・フォン・リヒテンラーデが帝国宰相となるまでのあいだ帝国宰相は空席となり、国務尚書がその権限を代行することとなったのである。
そして彼を著名にした第二の点は、その皇帝時代の奇異さにある。帝位につきオトフリート3世となった彼は、皇太子時代の英明さはどこへやら、宮廷に渦巻く陰謀への恐怖から猜疑心に溺れることとなってしまったのである。皇后を廃立すること4度、帝位継承者を廃立したのは5度におよび、ついに毒殺の影に怯えて食事を摂らなくなった挙句、40代なかばにして衰弱死したのだった。
ある意味で、ゴールデンバウム朝後期を取り巻く暗い影の犠牲となった治世であった。
統治時期の謎
オトフリートの誕生時期は不明だが、先帝コルネリアスを父とした場合、コルネリアスが即位から20年後に男子を生さぬまま病に倒れていることから、それ以降に生まれたと推定できる。また、彼が帝国宰相を務めた時期が原作開始時(帝国暦487年)より「1世紀ちかくも昔」であるという記述から、オトフリートが成年に達してから宰相職に就いたと考えて、更に20年を遡る帝国暦370年ごろに誕生したものと推測することができる。
……しかし、この推測には致命的な問題がある。
第27代皇帝マンフレート2世亡命帝の統治時期が、帝国暦398年から翌年にかけてと明記されていることと矛盾するのである。そののちにはウィルヘルム1世、ウィルヘルム2世、コルネリアス2世の三人が帝位にあり、ウィルヘルム1世の統治期間は不明、この際ウィルヘルム2世の統治期間とまとめて5、6年程度(マ2世が若くして暗殺されているため、ウ1世以降は傍系である可能性が高い)としたとしても、コルネリアス2世がオトフリート誕生までに20年在位しているから、オトフリートの誕生は(「にせアルベルト大公事件」直後として)帝国暦425年ごろのこととなり、彼が宰相を務めていた時期は帝国暦445年以降でなくてはならない。これでは半世紀程度にしかならない。
しかも、第35代皇帝オトフリート5世は帝国暦456年に死んでいるが、オトフリート3世が死んだのは前述のように40代なかばであり、つまり少なくとも帝国暦470年ごろのことになるはずで
ここまできていったん編集者がさじを投げました。 つらつらと推論を重ねて来ましたが段々しっちゃかめっちゃかになってきました。 是非みなさんもいろいろと考えてみてください。 |
と、ここで、コルネリアス2世がオトフリート3世の父でなかった場合を考えてみたい。
その場合、「にせアルベルト大公」が消えた後に皇族のどこかから皇太子に冊立されたとみてよい。となれば、「にせアルベルト大公」事件以前にオトフリートはすでに誕生しており、この時点で30代に達していた可能性がある(コルネリアス2世が病に倒れたことと併せても、また宰相職に就く年齢としてもより自然になる)。また、この場合、帝国暦398年に崩御している第26代皇帝ヘルムートの数多い庶子のひとり、あるいはその系譜という可能性が生じる。
これにより、「にせアルベルト大公」事件直後からを宰相在任時期とすれば、先述の前提を引いて帝国暦425年ごろから宰相職にあり、帝国暦435年ごろには崩御したと考えることで、同456年に第35代オトフリート5世が崩御するまでの4代(エルウィン・ヨーゼフ1世、オトフリート4世、オットー・ハインツ2世、オトフリート5世。うち在位期間確定はオトフリート4世の5年間と同452年にはオトフリート5世が在位していた事実のみ)に21年ていどの猶予を与えることができるのである。
ただし、この推論の場合、帝国暦487年から「一世紀ちかくも昔」という宰相在任時期はこの際無視するか、70年程度まで拡大解釈せざるを得ないのが難点となる。
編集者としては、これ以上の推論が浮かびません。 設定をより無理なく説明することの出来る推論を募集しています。 |
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関連項目
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