オールブラックスとは、
- ラグビーニュージーランド代表の愛称である。
- 2019年の読売ジャイアンツの日本シリーズでの惨状。詳しくは「23-10」を参照のこと。
- 2020年の読売ジャイアンツの日本シリーズでの惨状。詳しくは「26-4」を参照のこと。
概要
ラグビーの世界的な強豪チームの1つであり、2013年現在世界の全ての国別代表チームに勝ち越している。ラグビーはニュージーランドの国技であり、試合の前にニュージーランドの先住民族マオリ族の伝統的な出陣の踊り、ハカ(カマテ、カパオパンゴ)を行うことでも知られている。
「オールブラックス」という愛称の起源は、1905年から1906年にかけてイギリス遠征を行ったニュージーランド代表チームを新聞などがそう呼んだことであり、当時のメンバーはオリジナルズ(The Originals)と呼ばれる。その一人、ビリー・ウォーラスは、愛称はロンドンの新聞が代表チームの戦いぶりを評して、全員バックスのように戦うと書きたてたことからオールバックスと呼ばれるようになり、それが変わってオールブラックスになったと主張している。別の説によると、チームのユニフォームの色は当時から黒が多く使われており、ブラックスは新聞の記事になる以前から使われていた愛称の一つだとしている。
1925年の遠征以後、代表のユニフォームは黒一色になり、唯一のアクセントとしてニュージーランド固有種のシルバー・ファーン(銀羊歯)の枝があしらわれることとなった。
ニュージーランドのスポーツ界では、ギンシダをあしらったユニフォームを着ることやオールブラックスの一員に選ばれることが名誉とされているため、様々なスポーツの代表チームがそれにあやかった愛称で呼ばれている。
歴史
ラグビー王国の誕生
ニュージーランドへのラグビー伝来は医学者で政治家のデビッド・モンロ(出身はスコットランド・エジンバラ)の息子であるC.J.モンロにより伝えられた説が有力である。C.J.モンロは留学先のロンドンでラグビーと出会い1860年代後半にニュージーランドへ伝えたとされている。1870年5月にネルソン・カレッジとネルソン・クラブとの間でラグビーの試合が開催された。1882年にサザンラグビー協会(現オーストラリア・ニューサウスウェールズラグビー協会)がニュージーランド遠征を行い、1888年にイギリスチームがニュージーランド遠征を行った。1892年にニュージーランド・ラグビーフットボール協会(NZRFU、現在のニュージーランド・ラグビー協会(NZRU))が設立され、1894年にニューサウスウェールズ州へ遠征。翌年にはニューサウスウェールズを招き初のホーム試合を開催。公式なテストマッチは1904年にシドニーで開催されたオーストラリアとの試合になる。
1905年から1906年にかけ初の北半球遠征(ブリテン諸島、フランス、アメリカ合衆国)を行った際、ボールを持つと縦横無尽に走り回るニュージーランドチームに感銘を受けたイギリスの新聞紙が“オール・バックス(All Backs)”と表記したことや、単なる印字ミス、または全身黒尽くめのユニフォーム姿から“All Blacks”と呼ばれるようになったなど諸説あり、これらの説が今日ラグビーニュージーランド代表を“オール・ブラックス”と呼ぶ由縁とされている。この北半球遠征に帯同した正規メンバー25名と追加メンバー2名の計27名は“オリジナル・オールブラックス”と呼ばれ、伝説のチームとして今日でもその栄光は賞賛されている。この遠征成績は35戦34勝1負、うちテストマッチ5戦4勝1負。
1921年にラグビー南アフリカ代表がニュージーランド遠征を行い、1928年にはオールブラックスが南アフリカへ遠征。この遠征試合はともに引き分けとなった。1976年に当時人種隔離政策(アパルトヘイト)により国際社会から強い批判を受けていた南アフリカへニュージーランドチームを派遣したことからアフリカ諸国の国々がモントリオールオリンピックをボイコットするなど国際問題へ発展。1978年の北半球遠征ではイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドと対戦し全勝、グランドスラムを達成。
1987年ワールドカップ優勝。ジョン・カーワンとクレイグ・グリーンが6トライを上げトライ王に輝く。1991年ワールドカップでは準決勝でオーストラリアに敗れ3位に終わる。
低迷期
1992年以降チーム成績は低迷し、1995年ワールドカップでは優勝候補から外れる。ラウリー・メインズヘッドコーチ(当時)はベテランのグラハム・バショップ、ジンザン・ブルックを復帰させる一方、新戦力のジョナ・ロムー、アンドリュー・マーティンズ、ジョシュ・クロンフェルドらを起用するなどチームの立て直しを図り、下馬評を覆し決勝戦まで進める。決勝戦は地元南アフリカと大会史上初となる延長戦に突入するも3点差で2位(準優勝)に終わる。メインズは辞任しヘッドコーチにジョン・ハートが就任。
1996年からはオーストラリアと南アフリカと共に南半球3か国対抗戦のトライネイションズを開始し、2012年からはこれにアルゼンチンも加え、南半球4か国対抗戦のザ・ラグビーチャンピオンシップとして開催している。
ハート就任以降もブレディスローカップをオーストラリアに明け渡すなどチーム状況は変わらず、1998年から1999年の対オーストラリア戦は5戦1勝4敗と負け越す。1999年ワールドカップは優勝候補に名を連ねるも準決勝でフランスに敗れ敗退。3位決定戦でも南アフリカに敗れ4位に終わる。ハートは辞任しヘッドコーチにウェイン・スミスが就任。
スミス就任後の2000年、2001年のトライネイションズは2位に終わりブレディスローカップの奪回に失敗。スミスは更迭され当時37歳のジョン・ミッチェルがヘッドコーチに就任。ミッチェルは若手選手を中心にチーム編成を行い2002年、2003年のトライネイションズを1位(優勝)に導き、2003年には5季ぶりにブレディスローカップを奪回するなどチームは成長を見せ始めるも2003年ワールドカップ準決勝(対オーストラリア)で敗退、3位に終わる。ミッチェルは辞任しグラハム・ヘンリーがヘッドコーチに就任。
王国の復活
2004年にヘンリーがヘッドコーチに就任してから2006年までのテストマッチ成績は33勝4敗、2004年11月以降は27勝2敗と圧倒的な強さを取り戻す。2005年11月の北半球遠征ではチーム史上27年ぶり2度目のグランドスラム(全勝)を達成。その初戦ウェールズ戦と続くアイルランド戦では先発メンバーを全員入れ替えながらともに38点差で圧勝するなど、選手層の厚さも抜きん出ており、2007年ワールドカップの優勝の大本命と衆目が一致した。しかし同年10月6日に行われた準々決勝、対フランス戦(開催国)で敗退。ニュージーランド国内は深い悲しみに包まれた。
王国の君臨
2007年のワールドカップ後、ヘンリーのヘッドコーチ続投には議論が巻き起こったが、結局続投が決定し、安定した強さを発揮し続けた。2007年と同じく優勝候補の大本命とされた2011年ワールドカップでは、圧倒的な強さで決勝まで進み、決勝の対フランス戦では、接戦ではあるものの終始試合を優位に進めて、見事悲願の優勝を果たした。この大会中、オールブラックスは、同じ司令塔のポジションに実に3人もの怪我人が出たにもかかわらず優勝を果たし、その層の厚さ、圧倒的な強さを証明して見せた。2015年のイングランド大会でもそのポテンシャルをいかんなく発揮して2連覇を達成。4年後の日本大会では準々決勝で同プール戦(日本とアイルランドはプールA、ニュージーランドはプールB)で日本代表と激闘を繰り広げたアイルランド代表を寄せ付けず圧倒するラスボスムーブで3連覇を目指していたが、準決勝でイングランドに敗れ、ワールドカップ3連覇とはならなかった。この敗戦は地元ニュージーランドではとてもショックが大きく、スポーツ紙では「世界の終わり」などと表現されるほどだった。
テストマッチでオールブラックスに通算成績で勝ち越している代表チームはなく、また百年以上の対戦記録が残っているにも関わらず、一度としてオールブラックスに勝ったことがない代表チームも数多く存在し、国代表としてオールブラックスに対し勝利したことがあるのはオーストラリア、南アフリカ、フランス、イングランド、ウェールズのみである。
ワールドカップでの記録は優勝が2回、準優勝1回、3位2回、4位1回。現在はアディダス社およびAIG社、ニュージーランド航空とスポンサー契約を結んでいる。
ラグビーワールドカップでの成績
ラグビーニュージーランド代表のラグビーワールドカップでの成績は以下の通り
- 1987年(開催国:ニュージーランド&オーストラリア) - 優勝
- 1991年(開催国:イングランド) - 3位
- 1995年(開催国:南アフリカ) - 準優勝
- 1999年(開催国:ウェールズその他) - 4位
- 2003年(開催国:オーストラリア) - 3位
- 2007年(開催国:フランスその他) - ベスト8
- 2011年(開催国:ニュージーランド) - 優勝
- 2015年(開催国:イングランド)- 優勝
- 2019年(開催国:日本)- 3位
なんと、ここまでの9大会すべてでベスト8以上を記録している。
対戦成績
2013年11月2日現在の主な国代表との対戦成績は以下の通り。
チーム | 試合数 | 勝 | 負 | 分 | 勝率(%) |
---|---|---|---|---|---|
アルゼンチン | 18 | 17 | 0 | 1 | 94.44% |
オーストラリア | 149 | 102 | 41 | 6 | 68.46% |
ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ | 38 | 29 | 6 | 3 | 76.32% |
カナダ | 5 | 5 | 0 | 0 | 100.00% |
イングランド | 35 | 27 | 7 | 1 | 77.14% |
フィジー | 5 | 5 | 0 | 0 | 100.00% |
フランス | 54 | 41 | 12 | 1 | 75.93% |
アイルランド | 27 | 26 | 0 | 1 | 95.83% |
イタリア | 12 | 12 | 0 | 0 | 100.00% |
日本 | 3 | 3 | 0 | 0 | 100.00% |
パシフィック・アイランダーズ | 1 | 1 | 0 | 0 | 100.00% |
ポルトガル | 1 | 1 | 0 | 0 | 100.00% |
ルーマニア | 2 | 2 | 0 | 0 | 100.00% |
サモア | 5 | 5 | 0 | 0 | 100.00% |
スコットランド | 29 | 27 | 0 | 2 | 93.10% |
南アフリカ共和国 | 87 | 50 | 34 | 3 | 57.47% |
トンガ | 4 | 4 | 0 | 0 | 100.00% |
アメリカ合衆国 | 2 | 2 | 0 | 0 | 100.00% |
ウェールズ | 29 | 26 | 3 | 0 | 89.66% |
世界選抜(World XV) | 3 | 2 | 1 | 0 | 66.67% |
Total | 509 | 387 | 104 | 18 | 76.03% |
参考文献 “All Blacks Player Profiles, Match Details and Statistics” 2013年11月3日閲覧。
2連覇前の2013年時点でなんと勝率76%。化け物である・・・
ハカ(ウォークライ)
1905年のイギリス遠征の際にオールブラックスが戦いの踊りの要素を取り入れたものを初めて踊り、以後代表チームに受け継がれることとなる。一見、威嚇とも感じられるが、ニュージーランドチームが対戦を喜んで受け入れ、対戦を望んでくれたチームに対し敬意を表するという意味で演じられる。
2000年代に、従来のカ・マテに加えてカパ・オ・パンゴを新作。首切りジェスチャーが含まれるなど物騒に感じられるが、これも相手への威嚇ではなく、自らの命を掛けて戦うという意思表示でやっている模様。
有名選手
ニコニコ動画にアップされている選手の動画を簡単に紹介していく。
身長196cm、体重119kgという大型選手。FWの選手としても闘える体格を持ちながら100mを10秒5というとんでもないスピードで駆け抜け、相手プレイヤーを粉砕する。「暴走機関車」「空飛ぶ巨象」「ダンプカー」などと呼ばれ恐れられていた。”人間やめました”
2007年に現役を引退。ボディビルとボクシングを始めるが、2012年に移植した腎臓が機能を停止。2015年11月18日、合併症により40歳の若さで亡くなった。
“ボールのあるところマコウあり”と称されるほど、攻守すべての局面に現れるオープンサイドフランカー。運動量、状況判断、スキル、すべての能力が高い。ディフェンス能力が非常に高く、瞬時の判断によりトライを決める。2011年9月24日に行われたラグビーワールドカップ予選プール第3戦フランス戦でニュージーランド代表選手として初となる代表100キャップを記録した。ニュージーランド史上最高の選手とも言われ、黒衣軍を束ねるキャプテンとして活躍している。
「世界最高のスタンドオフ」と名高い、黒衣軍の司令塔。決して大きくはない体格であるが、非常に高いラグビーセンスとキック精度を武器に闘う。特にゴールキックの精度が非常に高い。「その軌道はおかしい」と思わず口にしてしまうほど、とんでもない曲がり方のキックをする。テストマッチにおいて世界最高の個人通算得点記録を持つ。
世界最高の”ペネトレーター”。パワー・スピード・テクニックの三拍子が揃ったCTBである。彼がボールを持つことは相手のディフェンスラインが下がることを意味する。ドレッドヘアと太い腕の刺青が特徴。見た目は怖いが茶目っ気な表情をすることが2011年には日本のトップリーグ(リコー)でプレーしていた。
関連動画
関連項目
- スポーツ
- ラグビー
- ハカ
- リアルチート
- ラスボス
- どうあがいても絶望
- サッカーニュージーランド代表(愛称はオール・ホワイツで、オールブラックスと対をなしている)
- 読売ジャイアンツ
- 23-10
- 26-4
- オールトバックス
- 3
- 0pt