基礎データ | |
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名称 | カタルーニャ州 |
州旗 | サニェーラ |
州歌 | 収穫人たち(Els Segadors) |
公用語 | カタルーニャ語、スペイン語 |
人口 | 約752万人 |
カタルーニャ州とは、スペイン北東部の州である。
バルセロナを州都としている。
英語での呼び方は「カタロニア」。
位置と気候
スペイン北東部に位置し、ピレネー山脈を挟んでフランスと隣同士である。
バルセロナをはじめとする沿岸部は地中海に面していて、少し湿度が高く、滅多に雪が降らない。
ピレネー山脈付近はしっかり雪が降り、ウィンタースポーツを楽しめる。
ピレネー山脈の山中にあるミニ国家・アンドラ公国とは隣同士で、住民の行き来がある。
アンドラ公国は税金が安いタックスヘイブンであり、経済的に成功したカタルーニャ州在住者がアンドラ公国に移住して節税する例が多々見られる。
経済
カタルーニャ地方は紀元前の古代から海上交通や陸上交通の要衝で、商業的に栄えてきた。
しかし地中海貿易の主導権をオスマン帝国が握り、大西洋岸から船を出して交易をする大航海時代が始まると、カタルーニャ地方の商業的地位は低下してしまった。
19世紀になって産業革命がスペイン国内で一番最初に起こり、軽工業や重工業が発展し、それに伴って金融業も栄えていった。
現在でもカタルーニャ州の経済的繁栄は続いており、スペイン国内のGDPの20%を稼ぎ出している。
そのせいかカタルーニャ人(カタランとも呼ぶ)は「真面目で勤勉、働き者」というイメージがある。
実際に、朝はちゃんと早起きしてみんな一斉に職場に向かうので通勤ラッシュが発生する。
スペインの中でも上から2番目に住宅価格の高い州で、都会化が進んでいる。
言語
公用語の1つであるカタルーニャ語はニコニコ大百科にも記事がある。
(→カタルーニャ語)
言語としてはスペイン語との共通点も多いがフランス語との共通点も多く、スペインとフランスの中間地点で育まれてきた言語であることが分かる。
カタルーニャをカタルーニャ語表記するとCatalunya、スペイン語語表記するとCataluñaとなる。
文化・スポーツ
カステイ(人間の塔)
カタルーニャ州ではカステイ(人間の塔)という組体操が名物となっている。
カステイとはカタルーニャ語で城という意味。人で城を創り上げていく。
カタルーニャ州の各地で何か記念行事があるとカステイを行う。
特にカタルーニャ記念日の9月11日にはバルセロナの広場でカステイを行うのが風物詩である。
白いズボン・チームカラーに彩られたシャツといったユニフォームを着た数十人で1つのチームを作る。
腹巻きみたいな太い腰巻きをするのも特徴で、人が上部に登るときに腰巻きを足がかりにする。
土台となるのはゴツい男と決まっているが、上部に登るのは体重の軽い人に限られる。
このため、小柄な男や女性や子どももカステイにおいて重要視される。
クライヴ・バーカーの短編『丘に、町が』のモデルと目されており、異国を旅するゲイのカップルが「町ぐるみで組体操の要領で巨大な人間を作り、他の町の住民と対決する」奇祭と、それに伴う血みどろの惨劇に遭遇することとなる。
二輪レースの聖地
日本ではあまり報道されないが、カタルーニャ州は二輪レースが大変に盛んで、実力あるライダーを次々に輩出している。
二輪レースの最高峰であるMotoGPにはカタルーニャ州出身者が多い。列記すると
マルク・マルケス、アレックス・マルケス、ダニ・ペドロサ、アレックス・リンス、
マーヴェリック・ヴィニャーレス、イサック・ヴィニャーレス、ティト・ラバト、
アレイシ・エスパルガロ、ポル・エスパルガロ、トニ・エリアス、セテ・ジベルナウ、
カルロス・チェカ、エミリオ・アルサモラ、アレックス・クリビーレ、
シト・ポンス、アルベルト・プーチ
と、そうそうたる顔ぶれとなる。(太字はニコニコ大百科に記事があるライダー)
「カタルーニャサーキット」という立派なサーキットがある、モータースポーツへの理解があって「騒音が酷いからレースをするな」という声が少ない、スペインの中で最も経済的に繁栄した地域で所得水準が高くモータースポーツの出費に耐えうる……
そうした条件が重なり合い、カタルーニャ人たちはMotoGPにおいて躍進している。
スパーリングワイン『カヴァ』
カタルーニャ州はブドウ栽培に適した温暖な地方であり、太古の昔からワインが盛んに作られてきた。
特にカタルーニャ州南部のペネデス地域で「カヴァ」と呼ばれるスパークリングワインを作っている。
カヴァはcavaと書きカタルーニャ語で洞窟の意味で英語のcaveと同じ語源。昔は洞窟で酒を造っていたことに由来する。
初めはシャンパンという名で販売していたがフランス・シャンパーニュ地方の人たちに抗議され撤回、カヴァという名前で売り出すことになった。
カヴァを作る有力企業としてはコドルニウ(Codorniu)、フレシネ(Freixenet)が挙がる。
フレシネ(Freixenet)は二輪レース最高峰のMotoGPのファンならおなじみ。
同社はMotoGPの公式スポンサーで、表彰台に上がるライダーに渡されるのは同社の商品である。
コルドン・ネグロ(Cordon Negro)という真っ黒い瓶のカヴァが渡され、表彰式でこんな具合のぶっかけ合いになる。
こういうのをシャンパンファイトと表現されるが、本来ならカヴァファイトと呼びたいところ。
ちなみにコルドン・ネグロは辛口の白スパークリングワインで、アルコール度数は12%とすこし高め。
近年は日本のスーパーでも売られるようになった。廉価な価格のわりには非常に美味しいと評判がある。
FCバルセロナ
カタルーニャ州を代表するサッカークラブというとFCバルセロナの名が挙がる。
カタルーニャ州はバルセロナ一極集中の州で、そのバルセロナを代表するのがFCバルセロナ。
カタルーニャ州の誇りを胸に秘め、FCバルセロナはリーガ・エスパニョーラを戦っている。
レアル・マドリーとの戦いは熾烈になり、この両者の決戦をエル・クラシコと呼ぶ。
レアル・マドリーはスペイン中央部のカスティーリャ地方の強豪チームで、
カタルーニャ人にとっては歴史的因縁もありまさしく「倒すべき最大のライバル」となっている。
カタルーニャ州出身の著名な人物
- アントニ・ガウディ
建築家。サグラダ・ファミリアを始めとした著名な建造物を多く手掛けた。 - サルバドール・ダリ
シュルレアリスムの代表的作家。ぴんと尖った髭でおなじみ。 - パブロ・カザルス
20世紀を代表するチェリスト。平和活動家としても知られる。
歴史
紀元前~イスラム教国との戦い
カタルーニャ地方は紀元前の古代から海上交通や陸上交通の要衝で、商業的に重要な拠点だった。
このためギリシア人やローマ人に目を付けられ、植民市が作られている。
711年に北アフリカから上陸してきたイスラム教勢力が瞬く間にイベリア半島を征服し、カタルーニャ地方もあっさり占領されてしまった。
とはいえキリスト教徒たちも黙っておらず、反撃に転じた。
785年にカタルーニャ地方北東のジローナをフランク王国(現在のフランス)のカール大帝が奪還。801年にルイ1世がバルセロナを奪還し、カタルーニャ地方はキリスト教圏に戻った。
このころからカタルーニャはイスラム圏と対峙する防波堤の役割を果たすことになる。
カタルーニャの有力豪族たちはフランク王国に伯爵位を授けられ、後世の史家に「スペイン辺境伯領」と名付けられるような存在になる。
この「スペイン辺境伯領」こそがカタルーニャ地方の原型と言ってよい。
カタルーニャ地方は奮戦し、イスラム教徒から領土を奪還するレコンキスタの先頭に立った。
985年から988年までイスラム圏の再侵入を許しバルセロナが略奪されたが不屈の闘志で復活、再びイスラム圏と対峙した。
1229年にマヨルカ島を奪還、1238年にはバレンシア地方を奪還。
このころからイスラム教圏の国はお家騒動等で弱体化し、南へと後退していく。最終的に1492年にアンダルシア地方のグラナダが陥落、スペイン全域がキリスト教圏に戻った。
カタルーニャ人が「我々はスペインの他の州とは違う」という意識を持つのはこのためで、他の地方がイスラム圏に服していたときもカタルーニャ地方はキリスト教圏の先頭で戦っていた、そういう意識が強いからである。
カタルーニャ地方がイスラム教圏に入っていたのはわずか90年ほどで、スペインの中で一番短い。そのためカタルーニャ州にはイスラム風の遺構があまりない。
カスティーリャ地方と2度戦う
レコンキスタが終了すると同時に大航海時代が始まり、経済の中心が大西洋岸に移っていった。これにより、地中海側のカタルーニャ地方は勢力を衰えさせてしまう。
そんな中で2度ほどカスティーリャ地方(スペイン中央のマドリッドを含む地方)と戦う機会があった。
1640年~1659年までの収穫人戦争、1701年~1714年のスペイン継承戦争である。
前者はフランス軍がカタルーニャ地方の後ろ盾となったが、後者はオーストリア軍がカタルーニャ地方の後ろ盾となり、フランス軍が敵に回った。
後者においてカタルーニャ地方は派手な完敗を喫した。
一時はカスティーリャ地方の本拠地マドリッドを陥落させたが、地力に勝るフランス・カスティーリャ地方連合軍が押し返し、後ろ盾のオーストリア軍も本国に帰還。1714年8月30日にバルセロナの城壁が突破され、同年9月11日に降伏した。
このときの屈辱体験を忘れないために、降伏記念の9月11日をカタルーニャの祝日にしている。
フランコ将軍
18世紀のカタルーニャは農業や商業を発展させ、19世紀のカタルーニャは産業革命で工業が発展した。
1914年から始まった第一次世界大戦では戦争特需の好景気になり、重工業が発展する。
こうした経済的発展があったが、1930年代の内戦でまたもカスティーリャ地方からやってきた軍隊にやられてしまうのである。
1936年から始まったスペイン内戦でフランコ将軍が軍部の半分を把握して反乱を起こした。
フランコ将軍側は最初ガリシア州を掌握していただけだったが、次第に占領地域を広げた。共和国政府側はマドリッドを放棄してバレンシア州に移り、さらにカタルーニャ州へ逃げ込んだ。これに対しフランコ将軍側は情け容赦なく攻撃を加え、1939年1月にバルセロナは陥落。
その後、フランコ将軍側は世界各国から正式なスペイン政府であると承認され、内戦は終結した。
フランコ将軍は最後まで敵に回ったカタルーニャ州に対して厳しい措置をとり、カタルーニャ語の看板や地名を廃止したり、カタルーニャの旗を立てさせない、自治権を剥奪する、政府による経済振興策を行わない、といった数々の嫌がらせを続けた。
この措置はフランコ政権が終わる1975年まで続いた。
国王即位から現代まで
1975年にフランコ将軍が死去すると、遺言通りにファン・カルロス1世がスペイン国王に即位した。
ファン・カルロス1世はフランス・ブルボン朝の末裔で、フランスの大貴族だがスペイン国王になった。
(ヨーロッパでは他国の貴族を招いて国王になってもらうことは珍しくない)
ファン・カルロス1世はフランコ政権風の強権政治をすぐにやめ、議会制立憲民主主義を導入、穏健な政治にするように努めた。
カタルーニャ州に対する厳しい措置も終了し、カタルーニャ州は自治権を回復。カタルーニャ語の看板を表に掲げることも許されるようになった。
2014年6月に国王の代替わりが行われ、フェリペ6世が新国王に即位。
カタルーニャ人もスペイン国王にはさほどの批判をしない。
歴史的にも言語的にもフランスに親近感を覚えるカタルーニャ人が、フランス出身の王族に敵意を抱くことは少ない。
2010年以降のカタルーニャ独立運動
2008年にリーマンショックが勃発、世界中が同時不況に突入。
スペインも例外でなく、長期にわたる不況に苦しむことになった。
そんな中、カタルーニャ州では「我々は多額の税金を中央政府に支払っているのに、その分の政策投資がカタルーニャ州に為されていない!これはおかしい!」という議論が沸騰した。
この税制の不公平感が大きく作用し、2010年以降は毎年のように大規模デモが起こるようになった。
カタルーニャ州旗は黄色い字に4本の赤線を引く「サニェーラ」というものだが、独立支持者たちが掲げる旗はさらに1つ星を加えた「アスタラーダ」というものである。
アスタラーダを手に取ってデモに参加する人の数が2010年以降急に増えた。
独立運動が1つの頂点に達したのは2017年10月で、1日にスペイン政府の反対を押し切って独立の賛否を問う住民投票を強行、10日に一方的に独立宣言をした。
……独立宣言をしたはいいが、諸外国は全く反応せず、スペイン政府には全てが無効と扱われている。
ただ独立派の勢いはまだ衰えておらず、今後どうなるか注目される。
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