カル・クラッチローとは、イギリス・コヴェントリー出身のオートバイレーサーである。
1985年10月29日生まれ。
2009年にスーパースポーツ世界選手権でチャンピオン獲得。
2010年はスーパーバイク世界選手権でルーキーながら3勝、ランキング5位。
2011年からMotoGPに参戦開始、最大排気量クラスでルーキーオブザイヤーを獲得した。
2015年からチームLCR(ホンダ系サテライト)に移籍して最大排気量クラスへの参戦を続けている。
ゼッケン、ヘルメット、名前
ゼッケンは35番を使用している。黄色い蛍光色を使用している。
もともとは5番を使用していたが、他の先輩ライダーが使っているという事情でそれをあきらめ35番に変更した。2007年の頃には35番になっている。「自分は5番が好きで、ルーシーは3番が好きだから、35番になってちょうどよかったよ」とこの記事で語っている。
ヘルメットは2007年の頃から2018年12月までAraiと契約していた。
2019年1月からはHJCのヘルメットを被ることになった。
ヘルメットの定番デザインは黄色い炎である。2009年の動画を見ると、そのとき既に黄色い炎がある。
2008年から支援してくれているモンスターエナジーの色が黄色なので、それに合わせている。
カルという名前の由来
名前のCalは、父親デレクが米国の伝説的2輪レーサーのCal Raybornにあやかり名付けた。
カル・レイボーンは1968年と1969年、あまり速くないハーレーダビッドソンで見事にデイトナ200(アメリカ版鈴鹿8耐。200マイル、つまり320kmをぶっ続けで走る。サーキットを57周ほど周回する)を連覇した。1969年がハーレー最後の勝利になり、レイボーンの名前がより輝いて見えた。
1970年にはハーレーのマシンでボンネヴィル・ソルトフラッツで世界新記録の時速427kmを計測した。
※ボンネヴィル・ソルトフラッツとは、ユタ州の塩湖が乾いてできた大平原である。そこら中塩だらけなので金属がすぐ錆びて居住に適さず、自動車レースしか使い道が無い。スピード狂が集まり世界最速記録を叩き出す。宮城光さんもここの魅力にとりつかれている。ニコニコ大百科にも記事あり →ボンネヴィル・スピードウェイ
カル・レイボーンは1973年に早世したがアメリカ人ライダーにとって特別な存在である。
デレクはデイトナ200でのレイボーンの雄姿を現地で見ていて大きく感銘を受けたという。
クラッチローという名前の意味
Crutchlowという名前には、「低いところにある『木の股』」という意味がある。
Crutchは松葉杖という意味だが、もともとは『木の股』という意味だった。
『木の股』とは、樹木の中でこういう感じに木の幹や枝が分かれて、股の形をしている部分のこと。
経歴
サッカーに興味があった少年時代
1985年10月29日生まれ。
少年時代はサッカーに興味があり、最初はバイクレースには見向きもしなかった。
自宅がコヴェントリーにあるので、地元のサッカークラブであるコヴェントリー・シティの育成試験を受けていた。また、コヴェントリーから26km離れた隣町の大都市バーミンガムにあるアストン・ヴィラの育成試験を受けたりしている。
サッカー少年だったが、父親がバイクレース好きなので、少しずつそれに傾倒していく。
「2年ほどサッカーとバイクレースを同時にやっていた。腕を脱臼してサッカーの監督に叱られたため、サッカーをやめることにした」とライディングスポーツ2017年1月号で語っている。
こちらの記事では「膝を怪我したのでサッカーを辞めた」と書かれている。
サッカーをバイクレースを掛け持ちしていたのは13~14歳の2年間だろうと思われる。
そのとき乗ったバイクはヤマハのPW50という子供向けのバイクだったとこの記事で語っている。
サッカー・バイク掛け持ち時代に通ったサーキットは、自宅のあるコヴェントリーから北へ67km離れたこの場所にあるダーレイ・ムーア(Darley Moor)というサーキットだった。ちなみにmoorとは農耕に向かない荒れ地という意味。
スポンサー巡りをして良いマシンを手に入れる。ケーシー・ストーナーと戦う
本格的にレースを始めたのは14歳だから、かなりの遅咲きと言える。
14歳頃(1999年頃)は色んなところを回って「すみません、タイヤ代やガソリン代を支援していただきたいのですが」とお願いして回っていた。マメにスポンサー募集をしたので、レースを本格的に始めた数年後はスポンサーが上手く集まり、わりと良いマシンに乗れるようになったとこの記事で語っている。
現在のカルはライバルやよそのチームのことについて言いたい放題のことを率直に言うことで知られており、そういう姿を見ている人には少し意外な感じがするが、スポンサーに対して礼儀正しい少年だった。
1999年(14歳)は英国ジュニアチャレンジに参戦。9勝、2位6回、3位3回で初年度にしてチャンピオン獲得。
2000年(15歳)と2001年(16歳)はアプリリアRS125チャレンジという若者向け選手権に参加した。これはアプリリアの2スト125ccマシンでのワンメイクレースである。
このころ、イギリスに移住してきたケーシー・ストーナーと対戦し、負かされている。
ケーシーは1985年10月16日生まれで、カルと誕生日が僅か13日しか離れていない。
「自宅から北東に25km離れただけのこの場所にあるマロリー・パークで、ケーシーは僕を負かしたんだ。あのことはあんまり話したくないね」とこの記事で語っている。
当時の写真はこちら。ゼッケン15番を付けている。
アプリリアチャレンジはまだ現在も続いているらしく、こちらが公式サイト。「ケーシー・ストーナーやカル・クラッチローやブラッドリー・スミス、ダニー・ケントがこのレース出身」と書いてある。
市販車レースを続ける
2002年から2010年までのカルはひたすら市販車レースに参戦していた。
市販車レースとは、メーカーがある程度の規模で販売している市販車を使ってレースするものであり、英語では「プロダクションレース(production race)」と言われる。
市販車の対義語はプロトタイプ(prototype)で、レース専用に作られたマシンという意味。
MotoGPライダーはCEV(旧称 スペイン選手権)やレッドブル・ルーキーズカップやアジアタレントカップといったプロトタイプのマシンのレースで育つことが多いので、カル・クラッチローは異色の経歴を持っていると表現されることが多い。
2002年(17歳)はBritish championshipのthe Junior Superstockに参戦。
2003年(18歳)はヤマハYZF-R6(4スト600ccマシン)のワンメイクレース選手権に参戦。
2004年(19歳)から2006年(21歳)はイギリスのスーパースポーツに参戦。4スト600ccに乗った。
2007年(22歳)はイギリスのスーパーバイク選手権(BSBという名前で有名。スーパーバイク世界選手権で活躍する選手を数々輩出している)に参戦。チームはリズラスズキで、乗ったのはスズキの4スト1000ccマシンのGSX-R1000。この年の姿は画像検索に多く引っかかる。
ちなみに2007年は清成龍一の全盛期で、BSBで2度目のチャンピオンに輝いている。
カルも清成のことを知っていて、「キヨナリは飲み会で泥酔して全裸になっていたね」と語ってる。
2008年(23歳)はBSBに継続参戦したが、チームはホンダ系のHMプラントに移った。HMプラントは日立建機のことである。マシンのカラーリングはオレンジ色だが、日立建機のオレンジ色を使っている。
また、この年はモリワキから鈴鹿8耐に出場、6位に入っている。
2009年(24歳)はスーパースポーツ世界選手権に参戦。ついに世界選手権にデビューした。乗るマシンはヤマハのYZF-R6で、4スト600ccのマシンである。デビューイヤーでチャンピオンを獲得した。
このときのチーム監督はウィルコ・ズィーレンベルグで、ウィルコは翌年の2010年からMotoGPのヤマハワークスへ移籍し、ホルヘ・ロレンソチームのチーム監督を務めている。
2010年(25歳)はスーパーバイク世界選手権に転じ、ヤマハYZF-R1(4スト1000ccマシン)に乗った。ルーキーながら3勝・ランキング5位の好成績を収める。
MotoGPに参戦 Tech3~ドゥカティワークス~チームLCRと渡り歩く
2011年(26歳)からMotoGPに参戦するようになった。
2011年から2013年まではTech3(ヤマハサテライト)に所属していた。
それまでずっと市販車レースで、2011年からいきなりプロトタイプのレースの最高峰に転身したので、カル自身も戸惑うことが多かった。精神的にも荒れていたらしく、Tech3のチームオーナーであるエルヴェ・ポンシャラルにたびたび「f**k off!」と言っていたとこの記事でエルヴェが言っている。
ちなみに「f**k off!」とは、「離れていてください、あちらに行ってください」という内容の言葉だが、4文字語の「f**k」が入っているので、当然、もっとどぎつい意味合いになる。自分が所属するチームオーナーに言うような言葉ではないはずなのだが、カルは言っていたらしい。
カルは「エルヴェは自分と対立することを恐れなかった唯一の監督で、凄い人だ」と賛辞を送っている。
2014年(29歳)はドゥカティワークスに移籍したが、マシンの乗り換えに苦しんだ。
2015年(30歳)から現在に至るまで、チームLCR(ホンダサテライト)に在籍している。
2016年にはチェコGPとオーストラリアGPで2勝を挙げる大躍進を見せ、その年のオフに、英国王立自動車クラブから表彰された。
2018年(33歳)もアルゼンチンGPで優勝。
電子制御の人員が少なく、戦力が少し劣るサテライトチームで3勝を挙げるのは偉業と言うほかない。
2019年(34歳)と2020年(35歳)もチームLCRで走ることが既に決まっている。
ライディングスタイル
マックス・ビアッジは2010年にスーパーバイクのチャンピオンを獲得したとき、こう言っている。
「私がチャンピオンを獲るまでどうしてイタリア人のチャンピオンが出なかったのか不思議でした。
しかし今になってその原因がよく分かりました。スーパーバイクというのは、MotoGPに比べて乱暴で荒っぽいんです。コースはよく滑るし、バイクは市販車で完成度がやや低く、危ないんです。
スーパーバイクを制してきたのはイギリス人、アメリカ人、オーストラリア人といった英語圏のアングロサクソン系国家出身者ばかりでした。(2009年まで21人中20人が英語圏出身者)
彼らは無茶を平気でやる乱暴者で、それだからスーパーバイクで平気な顔で走れるんです。
イギリスのサーキットなんて酷いもので安全性がどうのこうのとか関係無しにレースをするんです。
(マックスの言うとおり、マン島TTなど恐怖としか言いようのないレースである)
アメリカのサーキットもラグナセカやインディアナポリスなど、路面が滑るのに平気です。
ああいうところで育ってきた乱暴者がスーパーバイクに合うんですよ」
マックスはイギリス人などの英語圏ライダーは乱暴者で粗野で蛮勇で無鉄砲でガサツであると言う。
これはわりと一般的な見解であるらしく、メディアもそのように表現することが多い。
この、乱暴者で粗野で蛮勇で無鉄砲でガサツな英語圏ライダーの典型がカル・クラッチローである。
カルが勝ったレースは2016年チェコGPと2016年オーストラリアGPと2018年アルゼンチンGPだった。
いずれも悪条件のレースで、誰もがビビる条件の中、カルがアクセルを緩めずに勝ったのである。
2016年チェコGPの最大排気量クラスで雨が降ったが、実は1987年の初開催から2015年まで、チェコGPの最大排気量クラスで雨が降ったことがなかった。ゆえに各チームが雨のデータを持っていなかった。
走行データがないので誰もが慎重になったが、カルは持ち前の度胸で快勝した。
2016年オーストラリアGPは気温12度、風速21kmで風が強い。
風が強くて煽られるし路面が急に冷える。しかも16時スタートで日照量が少ない。
先頭を独走していたマルク・マルケスが10コーナーでいきなり転倒してしまったほどで、誰もがビビる悪条件であった。そんな中、頭のネジが外れたような走りでカルが独走優勝した。
2017年アルゼンチンGPもボッコボコの凹凸路面で誰もが苦しむところを無茶苦茶な走りで3位獲得。
2018年アルゼンチンGPは雨が降った後のハーフウェット路面で、所々でマシンが滑って危ない。
皆が苦労したが、カルは鬼神のような走りでヨハン・ザルコに競り勝ち優勝した。
ヤマハ時代はロレンソを手本、ドゥカティ・ホンダ時代はブレーキングがハード
2011~2013年のTech3時代はホルヘ・ロレンソの走行データを常に参考にして、ひたすらロレンソの走りを真似ていた。つまり、コーナーリング速度を高めていく乗り方だった。この記事でそう語っている。
2014年はドゥカティ、2015年以降はホンダに乗ることになった。この時期はブレーキングをハードにして小さくクルッと周り、立ち上がりを力強く加速するという乗り方になった。
この動画では、青いマシンがコーナーリング重視の乗り方、オレンジ色のマシンがブレーキングをハードにする乗り方を示している。
ブレーキングの強さではMotoGP最大排気量クラスの中でもトップクラスとされる。
家庭的な雰囲気が恋しい
MotoGPルーキーイヤーの2011年のころは、Tech3チームオーナーのエルヴェ・ポンシャラルに「スーパーバイクに戻りたい」といつも言っていた。
スーパーバイク出身のライダーがMotoGPにやってきて「スーパーバイクに戻りたい」というのは珍しいことではない。それはなぜかというと、スーパーバイクは家庭的な雰囲気があるからである。
先述の通りスーパーバイクは完成度の低いバイクで危ないサーキットをかっ飛ばす危ない競技である。
そのためパドック全体が「危険に共に立ち向かおう」という連帯感で包まれ、家庭的な雰囲気がある。
このことは多くのライダーが指摘しており、マルコ・メランドリも「色んなチームに挨拶に行ったら『よく来たな、ようこそ』とみんなに言われた。ライバルチームの人が暖かく迎え入れてくれた。これはMotoGPでは考えられなかった。スーパーバイクはバイク大好き人間の集まりだ」と言っている。
MotoGPだけを観る者にとっては信じがたいことに、スーパーバイクではチーム監督同士が
「ウチのライダーはフロント周りのセッティングが出せないって言ってるんだ、君のところは?」
「奇遇だね、ウチのライダーも同じこと言ってるんだよ」といった具合にレース前に会話するのである。
ライダー同士も同じように会話して情報交換し、交流を深める。
やっぱり危険な環境に置かれると連帯感が生じてライバル同士仲良くなるのだった。
さらに信じがたいことに、スーパーバイクのチームは、パーツの貸し借りをするという。
レース前に「ああ、このパーツが無くなってしまった」となると、他のチームへ行ってパーツを借りる。
パーツが余っていれば「しょうがねえな」と言いつつも親切に貸してあげる。
このことは2013年にドゥカティワークスのボスに就任したベルンハルト・ゴブマイヤーが言っていたし、2014年にもヤマハワークスのシルヴァーノ・ガルブゼラがこの記事で語っている。
ところがMotoGPはそういう家庭的な雰囲気がない。
チーム監督同士がレース前に会話するなんてほぼ考えられず、ライダー同士の情報交換も希薄である。
パーツを貸して親切にしてあげるなどもってのほかであり、借りに来たら門前払いする。
ヴァレンティーノ・ロッシは「速く走るコツを教えるつもりはない。そういうのを聞きに来る奴が速くなるわけがない」と言っているのだが、これこそがMotoGP育ちのライダーの標準的な姿である。
アンドレア・ドヴィツィオーゾが「MotoGPパドックは生き馬の目を抜くような競争社会で、ライバルに情報を与えてライバルに塩を送るなんて考えられない」というがまさにそうなのである。
マルコ・メランドリも「MotoGPは自分以外のライダーを必要以上に憎む風潮がある。これはMotoGPの慣習だ。非常にビジネス優先の世界だ」と語っている。
どうしてそうなるかというとやはりスーパーバイクに比べて安全度が高いからだろう。
サーキットは近代的で安全度が高く、マシンの完成度も高い。そうなると「危険に立ち向かう一体感」が薄れて、ライダー同士の親切心がどんどん消滅するのである。
岡田忠之は「全日本で戦っていたとき、先輩ライダーにアドバイスを貰いに行った。後にそのアドバイスが全て嘘であったことに気付いた」とG+の座談会で述懐している。
日本のサーキットは英国のサーキットに比べて安全度が格段に高い。
ここでも「サーキットの安全度が高くなるとライダーの親切心が薄れていく」の現象が生じるのである。
カルもスーパーバイクの時のように他のチームに行って情報交換しようとしたら冷たくあしらわれたことが多かったらしく、コメントから窺われる。
「MotoGPの連中はなんて冷たいんだ。俺はこんなとこにいるのは嫌だ。もうスーパーバイクに帰る」と思ったのだろう、それでエルヴェ・ポンシャラルに「スーパーバイクに帰りたい」と言ったようだ。
今のカルはチームLCRに所属していて、ここでは居心地がよさそうである。
このチームはMotoGPの中では例外的に家庭的な雰囲気があり、カルが求めている環境がある。
この画像は、チームLCRに所属するカルが、ズカズカとドゥカティワークスにピットに入りこみ、メカニックと親しく会話している様子を示している。これこそがスーパーバイクのノリなのである。
やはりスーパーバイク出身者らしく、チームメイトには優しいし親切である。
2017年11月のバレンシアテストでも中上貴晶にアドバイスを送っていたし、その前はジャック・ミラーにも熱心にアドバイスをしていた。2018年12月の記事で中上貴晶は「カルに質問すると何でも親切に教えてくれる」と語っている。MotoGPの嫌な雰囲気には染まっていないのであった。
チームLCRに所属
チームLCRはルーチョ・チェッキネロがオーナー兼監督を務めるプライベートチームである。
ルーチョの性格もあって非常に家庭的な雰囲気のあるチームである。
ルーチョはイケメンで爽やかであり、誰からも好かれる性格でスポンサーをかき集めるのが上手い。
また商売上手で、2009年頃からチームのメインスポンサーをシーズン中にコロコロ変え始めた。
そのためレースごとにマシンのカラーリングを変えることもやっている。
チームLCRのTwitterを検索してみると、コロコロとカラーリングが変わっていて面白い。
より多くのスポンサーをかわりばんこに一番目立つ位置へ位置させて、より多くのスポンサーから好評を得るのである。まさにルーチョならではの経営手腕である。
そんなルーチョだが、彼の元には磁石で吸い寄せられるかのように転倒の多いライダーが集まってくる。
ケーシー・ストーナー、カルロス・チェカ、ランディ・ドプニエ、トニ・エリアス、ジャック・ミラー
しょっちゅう転倒し、高額の最大排気量クラスのマシンを軽々と破壊、ルーチョを半泣きにさせてきた。
カル・クラッチローも転倒常習犯で、攻めまくってはよく転ぶ。ルーチョの財布は薄いままであった。
こちらの表を見ると2016年のカルは転倒回数26回で総合首位。2017年は転倒回数24回。
チーム監督というと貫禄ある人が多い。MarcVDSのミハエル・バルトレミー監督はピットの中で座り、厳しい表情を崩さない。まぁだいたい、チーム監督といえばそういうイメージを持つだろう。
ところがルーチョは落ち着きがない。
こんな具合に喜怒哀楽が激しい。また、こんな具合にピットウォールをウロウロする。
こんな風にピットウォールから身を乗り出して心配そうにする監督は珍しい。
2016年チェコGPのときもこんな風に身を乗り出していて、カルに
「走っている最中にルーチョがぶら下がっているのが見えて正直気が散りましたね。
ピットに戻ってコーヒーでも飲んでろと思いました」と記者会見で言われている。
MotoGP界ご意見番、レース前は愉快、レース中はナーバス
英語圏の人たちの共通点というと言葉がキツいことが挙げられる。
MotoGP界隈でキッツい皮肉、揶揄、当てこすり、こういうことを言うのは大抵英語圏出身者である。
それもみんなが見ている中でみんなに聞こえるようにキッツいことを言う習性がある。
ケーシー・ストーナー「君の野心が才能を上回ったようだね」
ジェレミー・バージェス「ドゥカティのマシンなど80秒で直すことができる」
ケヴィン・シュワンツ「2輪で全力を出せないのならカートにでも乗っていろ」
ジャック・ミラー「意見なんてのは○○の穴と同じ」
スコット・レディング「自分と仕事をしたくない奴と仕事するのは嫌な気分ですね」
カル・クラッチローも典型的な英語圏の人で、ズバズバと言いたいように直言してくれる。
最近はヤマハワークスやアプリリアワークスのことを平気で発言し、MotoGPのご意見番になっている。
ヤマハワークスには「ロッシの代役がファンデルマークってのは気に入らないね」
アプリリアワークスには「サム・ローズ解雇はおかしいな。もっと彼に時間を与えてやれよ」
と、ここまで言ってのけるライダーは珍しい。
そのためメディアの記者にとって良い具合に飯の種になっており、彼へのインタビュー記事は多い。
レース前の木曜記者会見ではジョークを交えてとても愉快なコメントして記者達を笑わせてくれる。
レース中やレース後になると、さすがに時速300kmの危険な状況に置かれナーバスになるのか、発言の内容が変わってくる。やや愚痴っぽくなり、「あいつがこんな酷いことをしてきた!」とか「邪魔された!」「ラインを塞がれた!」などと被害者意識のつよいコメントが増えてくる。
2017年日本GPの金曜日練習走行で、ブレーキングをミスしてホルヘ・ロレンソに追突した。
このときも当初は「ホルヘが遅く走っていたから悪いんだ!」と激しく主張、
それに対してホルヘは「あの人いつもそうなんだよ・・・いい人なんだけどね」と呆れながら辛抱強く待っていた。
結局カルが非を認めて謝罪、一件落着となった。
やっぱりレース中のカルはすこしナーバスなのである。
HRCに重用される
2015年シーズンからホンダ陣営に加入したカル・クラッチロー。
この2015年はホンダの開発が迷走していて、良質な開発ライダーが求められていた。
そこで白羽の矢が立ったのがカル・クラッチローで、2016年からHRC(ホンダの2輪レース部門)から送られてきた部品の開発テストを務めることになった。
マルク・マルケス、ダニ・ペドロサのほかに開発に参加したのはカル・クラッチローだけであった。
マルク・マルケスは開発能力が極めて高いというわけではない。
ダニ・ペドロサは開発能力がかなり高いが、体格が小柄すぎて開発には向かない。
カルはヤマハ、ドゥカティと乗り継いできて経験豊富であり、それになかなか開発能力も高い。
さらには体格が170cm・68kgと標準的であることも幸いし、次第にカルが開発の中心になっていった。
2017年6月21日、HRCはカル・クラッチローとの直接契約を結んだ。
HRCとの直接契約というのは開発に重きを為すワークスライダーになったことを意味する。
ホンダ陣営の中枢に出世したと言っていい。
2015年の1年契約や2016~2017年の2年契約はカルとチームLCRが契約を結んだという形であり、これはまだ平ライダーという感じであった。
このときのカルの顔はやたらと明るく、コメントも「HRCは素晴らしい契約をしてくれました」であり、相当な好待遇だったことを窺わせる。
2ストローク500cc時代はレプソルホンダが3台体制で、3人目のライダーは開発担当の日本人ライダー、そんな体制であった。HRCの技術者は人数も多く士気も高く情熱的でやる気の塊であり、洪水のように新しい部品をよこしてくる。それを検査して可否を判断する重要な役目を果たした。
その3人目の開発ライダーの位置にカル・クラッチローが就任したと見てよい。
2017年11月のヘレステストも1人で大量のテストをこなしており、重要な存在になっている。
HRCからの評価は相変わらず高く、2018年8月23日には2020年の契約を結んでいる。
カルはHRCからの高評価に満足していて、こちらの記事で「自分はワークスライダー並みの給料を貰っている」と語っている。
ちなみにMotoGPライダーのお給料の相場を報じる記事はこちら。ワークスライダー並みの給料というと、まぁ、200万ユーロぐらいと考えておけばいい。
2018年10月オーストラリアGPでの大転倒と粉砕骨折
2018年10月21日の日本GPで2位を獲得。「今はとても上手く走れている」と語り、絶好調だった。
ところがなんと5日後のオーストラリアGP練習走行中に大転倒を喫し、右足首を骨折してしまう。
メルボルンのアルフレッド病院にドクターヘリで担ぎ込まれ、多くの人が見舞いに訪れた。画像1、画像2、画像3
この骨折は粉砕骨折で、カルは引退を覚悟したと語っている。
「自分の症状をネットで検索したら全治12ヶ月と出てきてビックリしたよ」とこの記事で語っている。
優秀な外科医に恵まれ、外科手術を上手に施されたので、自転車に乗ってトレーニング再開できるまで回復したが、2019年2月の段階では歩行することが難しい。
家族
カルの嫁。旧姓はHeronで、北アイルランド出身。ちなみにHeronは鷺という意味。
誕生日は3月22日である。
母方の叔父がアイルランドでバイクレースをしていて、従兄弟たちがモトクロスをしていた。ルーシー自身はバイクレースに対してそんなに興味は無かったが、レース活動のお手伝いをしていた。
2017年10月の時点で従兄弟たちはまだレースを続けていて、2人はBSB、1人はグレアム(Graham)といい世界モトクロス選手権を走っている。
元水泳選手で、体育系の大学に5年通ってスポーツ科学の学位を取り、そのあと体育教師になるつもりで教職課程を1年履修したがそのころカルと知り合い、交際を始めた。これが2008年頃のことである。
ルーシーは2016年8月のチェコGPを欠席したのだが、これについてカルが「ルーシーが僕のレースに来ないのは9年間で2回目」とこの記事で語っている。ならば交際が始まったのは2008年なのだろう。
2014年1月5日に結婚した。米国カリフォルニア州サンディエゴのラホヤで挙式。
結婚式の画像はこちら。画像1、画像2、画像3、画像4
結婚式の直後にメキシコへ旅行し、慈善事業として夫婦で家を建設している。画像1、画像2
この画像に年配の夫妻が写っている。ルーシーの御両親かもしれない。
ジャック・ミラーは夫婦ともども舎弟として可愛がっている。
旅行中に何か映像作品を見るならドキュメンタリーを見る。映画は好きではない。
音楽はジャンルにこだわらず何でも聞く。
カルの娘。2016年8月2日生まれ。その直後のチェコGPでカルが優勝した。
2016年チェコGPのカルはライダースーツの尻にウィローのイラストを入れた。
また、いつもは黄色い炎のヘルメットも、このときはピンク色の炎になった。
Willowとは柳という意味で、優美でしなやかという意味合いがある。
カルのInstagramは子育て日記帳みたいになっていて、ちょくちょくウィローの画像が出てくる。
この不敵な表情の画像はカルに似ていて、この画像はルーシーに似ている。
カルの父親で元2輪レーサー。1946年頃生まれ。
口ひげが目印。画像1、画像2、画像3、画像4、画像5
カルが活躍をするとパルクフェルメにやってくる。白い口ひげですぐに分かる。
2012年4月7日に行われたカタールGPの予選で、カルが見事に3番手に入りフロントローを獲得した。
このとき、ヤマハワークスのウィルコ・ズィーレンベルグ(カルが2009年スーパースポーツ世界選手権でチャンピオンになったときのチーム監督)との賭けに敗れ、40年間生やし続けていた口ひげを剃ることになった。この記事で語られている。
2014年頃まで、チームに入ってレース中にサインボードを出していた。この記事でカルが「親父のやることはサインボードを出すことぐらい」と語っている。
この動画には、金網につかまってカルに声援を送っている姿がちらっと映っている。
藤原らんかに、サインボードを出す姿を描かれている。
Tech3やドゥカティワークスの作業服に身を包む姿がある。画像1、画像2、画像3、画像4
カルには姉がいる。幼いときはカルとともにデレクのお供としてサーキットへ通っていた。
デレクのTwitterに、結婚式の画像が上がっている。
友人、アシスタント、マネージャー
カルのSNSにたびたび登場する人。画像1、画像2、画像3、画像4、画像5
Twitterアカウントや、Instagramアカウントがある。ジェイクのInstagramを見てみると、色んなMotoGP関係者が続々と出てきて面白い。ホルヘ・ロレンソやブラッドリー・スミス、サム・ローズ、ポル・エスパルガロ、エルヴェ・ポンシャラルなど。ジェイクはやたらと社交的で、「いったい何者なんだ・・・」と感じるほどである。
ライディングスポーツ2018年1月号でルーシーが語るところによると、ジェイクはモンスターエナジーの一員であるとのこと。上記のMotoGP関係者は全員モンスターエナジーの支援を受けている。
ランディ・マモラ(MotoGP最大排気量クラスのランキング2位が4回、3位が3回。ついにチャンピオンになれなかった無冠の帝王。アメリカ人。日本語版Wikipediaあり)の息子さん。1994年生まれ、母親がベルギー人で、ダコタはベルギー国籍を取得している。スペインのバルセロナに20年間住んでいたのでスペイン語が得意。2014年にMoto2クラスに1回だけ代役出場した。
Twitterアカウントや、Instagramアカウントがある。
カルに誘われて、2015年からカルのアシスタントになった。カルの身の回りの世話を一手に引き受け、ライダースーツやヘルメットの準備などをする。ライダースーツを抱えスクーターで移動する姿や、ライダースーツに水を注入する姿が見られた。
カルがパルクフェルメにやってくると記念撮影に映り込んでいる。画像1、画像2
この画像で「きったないダコタが俺の尻を触っていやがる」とカルがコメントしている。
2017年をもってカルのアシスタント職を離れ、現在は別の仕事をしている。
2018年からカルのアシスタントになった人。
元・自転車競技の選手で、イギリスのマン島のラムジーに住んでいる。カルの家とは200m程度しか離れておらず、まさしく隣人である。カルとは自転車トレーニングを通じて親しくなった。「アンドリュー・ロシェは自転車トレーニングのコーチみたいなもんですよ」とカルはこの記事で話している。
「通常は友人をパドックに呼ばないんだが、アンドリュー・ロシェだけは例外だ」とカルは語っている。
2016年12月までのマネージャーで、カルに関する商業契約の窓口だった。
ワッサーマンはアメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスに本社を持つ企業で、映画会社の社長で映画業界の重鎮であるルー・ワッサーマンの孫が設立した会社である。命名権の売買だのタレントを管理して売り出すだの、いかにも映画業界らしい会社だった。2006年頃からスポーツ選手の管理をすることに力を入れ始め、イギリスのスポーツ選手管理専門の大手企業を買収した。日本人のスポーツ選手にもワッサーマンと契約している人がおり、ダルビッシュ有や岩隈久志などが有名である。こちらが日本語版Wikipedia。
カル・クラッチローもワッサーマンと契約して、派遣されてきたボブ・ムーアにマネージャー業務を任せていた。ちなみに、ブラッドリー・スミスやブラッド・ビンダーもワッサーマンと契約している。
ボブ・ムーアはワッサーマンのモータースポーツ部門で一番実力がある人。ワッサーマンのトップページの下の方に、顔写真が出てくる。
2017年1月から現在までのマネージャー。
米国人女性で、F1のメルセデスAMGの広告・イベント計画担当だった辣腕の人。
カル・クラッチローの話によると「F1のチームで12年務めた、とても聡明な人」となる。
本人のものと思われるSNSはこちら。カリフォルニア州で農業にも投資している。
チームLCRのメカニック
チーフメカ。詳しい経歴はこちらの記事に書いてあり、1969年頃生まれであること、モトクロスの選手権やMotoGPの各チームに出入りするサスペンション技術者だったこと、カヤバ(日本のサスペンション企業)やオーリンズ(スウェーデンのサスペンション企業)に在籍していたこと、元カワサキワークスのチーフメカでランディ・ド・プニエの担当だったこと、ランディと一緒にチームLCRへ移籍してきたことが書かれている。
喋っている動画はこちら。
ブルギニョンとは「ブルゴーニュ地方(フランス東部。ワイン製造で有名)」という意味である。
ところが彼自身はベルギー人。
かなりの巨漢で、この画像を見るかぎり190cm以上はありそう。カルより頭1つ分大きい。
あだ名はBeefyで、ヨーロッパのニュースサイトでそう呼ばれている。この記事とかこの記事で、Beefyの文字が見える。いいんだろうかそんなあだ名を付けて・・・ ちなみにbeefyとは、こういう意味である。
2016年カタルーニャGPの際、ルーシーがサーキットに来ていた。そのとき彼女は妊娠8ヶ月で、だいぶお腹が大きくなっていた。それを見たカルが一言「ウチのチーフメカみたいだな!」
2018年アルゼンチンGPではフクロウのお面を付けて遊んでいた。画像1、画像2(テルマスデリオオンドではアナホリフクロウが出現する)
- キクチ・ユージ
カルの車両を組み立てるメカニック。詳しい経歴はこちらやこちらに書いてある。神奈川県横浜市生まれで8歳の時家族そろってカナダのトロントへ引っ越した。2005年からMotoGPの世界に入り、2011年までエンジンやトランスミッションの専門家だった。ホンダはMotoGPで一番早くシームレスミッションを導入したが、それを支えた人物である。2012年からチームLCRに入団した。身分上はHRC所属のままで、チームLCRに派遣されている。現在の住所はアメリカ・テキサス州ダラス近郊のマッキニー。
日系カナダ人である。名前は漢字が付いているはずだが、どういう漢字を当てるのかは不明。
G+の解説でおなじみの宮城光さんが海を渡ってAMA(アメリカ国内の市販車レースの選手権。ウェイン・レイニーやケヴィン・シュワンツといった実力者を輩出している)に参戦することが決まったとき、一緒について行ったメカニック。このため、キクチさんがG+で映るとだいたいこんな風に宮城さんが喋る。
「え~今映ったのがキクチさんで、僕はキクちゃんというんですけども、AMAに行ったとき一緒に来てくれました。もう二十年来の友人ですね」
ピットの中の画像がいくつかある。画像1、画像2
カルがパルクフェルメ入りするときにはパルクフェルメの内側に入り、カルのマシンを真っ先に受け止めている。
住んでいるところ
マン島のラムジー
1年の中で最も長く生活しているのがマン島のラムジーであり、この場所にある。
ここは英国の中にあるが英国領ではなく、英国王室の直轄領である。
マン島TTという公道レースで有名。そのレースはこのコースで行われ、ラムジー(Ramsey)がコースの最北端であり、最東端になる。カルもマン島TTを毎年観戦するという。
マン島といえば三脚旗で、カルも三脚旗を気に入っており、ライダースーツのコブのところに三脚旗を入れている。画像1、画像2 また、自転車トレーニングの時のシャツの背中にも三脚旗が入っている。
のどかな田舎で、カルのSNSに出てくるマン島の光景は海・草原ばかりと言っていい。画像1、画像2、画像3、画像4
マン島は土地が少し痩せているので、主要産業は畜産となる。牧場の写真がある。画像1、画像2
なかなか寒い気候で、秋・冬は関東北部と同じぐらいの冷え込みとなる。カルも寒さを予報する天気予報を見て「嘘だと言ってくれよ、頼む!」「いや~・・・帰るには良い天気だな・・・」と呟いている。
マン島からプライベートジェットを借りて、サーキット最寄りの空港へ行くのが定番であるらしい。こんな感じの飛行機に乗る。アラゴン州からマン島まで1時間43分なので、なかなか快適な旅となる。
イタリア・トスカナ州
2013年シーズンの中頃にドゥカティワークス移籍が決まったので、カルとルーシーはイタリアに別荘を持つことにした。この記事の一番後ろで、別荘を探していると報じられている。
カルは2014年シーズンを限りにドゥカティワークスを離れることになったのだが、イタリアの別荘はそのままにしていて、シーズン中にしばしば寄って滞在している。
場所はトスカナ州である。トスカナ州は農業と観光が主要な産業で、イタリアの中でも田舎とされる。
北アペニン山脈よりも北を「北イタリア」と言い、工業化が進んで所得水準も高いのだが、トスカナ州はその中に入っていない。
トスカナ州の中にも都会はあるのだが、カルが住んでいるのはおそらくピストイアである。2017年サンマリノGPの直前にカルはチーズを包丁で切ろうとして手を切ってしまったのだが、そのときに駆け込んだのがピストイアの病院だった。この記事で報じられている。
ピストイアというのもまた田舎であり、カルは田舎が好きだと言うことが感じられる。
トスカナ州の別荘はこんな感じで、こういう車を買って住んでいた。
2016年4月、なんと窃盗の被害に遭ってしまい、車やモノを盗まれてしまった。
このツイートからは悲痛さが伝わってくる。この車を見つけたら通報してくれ、ともツィート。
幸い、車だけは戻ってきた、と報告している。
アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ
カリフォルニア州サンディエゴのランチョ・サンタフェにも別荘がある。
サンディエゴはかなり温暖で、沖縄県那覇市と同じぐらいの気候であり、冬のシーズンオフに滞在するには最適の場所となっている。冬になるとカルのSNSにサンディエゴの画像が増える。カルに釣られて、カルの友人の自転車競技選手たちも続々とサンディエゴに集結して、一緒に自転車トレーニングする。
サンディエゴはアメリカ海軍の主力軍港で、海軍関係者が多い。海軍はいったん出港したら数ヶ月は船の中で暮らさねばならず、なかなか精神的にキツい職場である。そのためサンディエゴには軍人の苦労を癒すため様々な娯楽施設があり、住んでいて楽しい都市になっている。
特にルーシーはサンディエゴを気に入っている。ルーシーは元・水泳選手で、海辺の砂浜が大好き。泳いでもいいし、砂浜をただ歩くだけでも十分に楽しめると語っている。一方、カルは砂浜がそんなに好きではないらしいが、ルーシーの意向が当然のように勝った。カルがルーシーに結婚をプロポーズしたのも、サンディエゴの砂浜である。結婚式を挙げたのも、サンディエゴ北部のラホヤ。
サンディエゴには世界最大級の動物園がある(サンディエゴ動物園)
ウィローを伴って家族で動物園に行っている。画像1、画像2
トレーニング
カルはトレーニングに関して持論を持っている。
この記事やこの記事で語っていることを要約すると、とにかく自転車トレーニング一本槍となる。
シーズンオフにはほとんどバイクに乗らず、モトクロスやダートトラックのトレーニングをしない。モトクロスやダートトラックで使われるバイクに乗ってトレーニングしても、最大排気量クラスのマシン操縦で必要とされる体力を鍛えることができないのだから、乗るのは無駄。
筋肉が十分にあり(画像1、画像2、画像3)、これ以上筋肉が増えると体重が増えすぎて走行に悪影響を及ぼすので筋トレしない。
自転車トレーニングの相手 マーク・カヴェンディッシュ
カルは自転車トレーニングばかりするのだが、その練習相手がマーク・カヴェンディッシュという人で、これがまた凄い選手である。
1985年にマン島で生まれて現在もマン島に住んでいる。2005年頃から一流選手の仲間入りを果たし、数々の大会で優勝。華麗な戦歴は日本語版Wikipediaに詳しく記述されている。あまりの速さにマン島超特急 (Manx Express) やキャノンボール (Cannonball) と呼ばれている。Twitter、Instagram、Facebookのアカウントあり。ニコニコ大百科にも詳しい記事がある(→マーク・カヴェンディッシュ)
この大選手と一緒にマン島での自転車トレーニングを繰り返している。こちらの記事で、マークと同じようなトレーニングを積んでいると語っている。ブラッドリー・スミスから「カルは自転車の選手になれるでしょう」と言われるほど。
マークのSNSにはカルがしばしば出てくる。画像1、画像2、画像3
スラムのコンポーネントが好み
自転車の根幹となるコンポーネント(ギアやペダルなどの部品)は、日本のシマノ(shimano)、イタリアのカンパニョーロ(Campagnolo)、アメリカのスラム(SRAM)などが製造している。
カルが好んでいるのはスラム。画像1、画像2
スペシャライズドのフレームが好み
自転車のフレームメーカーは数多いが、カルはスペシャライズド(Specialized)の製品を好んでいる。
同社はアメリカのカリフォルニア州に本社がある。日本語版Wikipediaあり。
同社の主力製品がS-WORKSで、カルが乗る自転車はS-WORKSばかり。
画像1、画像2、画像3、画像4、画像5
その他の雑記
2017年スペインGPで予選が終了した直後、ライダースーツの中に蜂が入り、刺されてしまった。動画1、動画2 こちらの記事によると、5ヶ所刺されたらしい。
MotoGPライダーはレースの前にコースの下見をする。その下見の方法は人によって様々で、歩いて勾配をじっくり体験する人もいるし、スクーターで回る人もいるし、自転車で回る人もいる。カルは、自転車でぐるぐるとコースを回って下見するタイプ。
アレイシ・エスパルガロとポル・エスパルガロが仲良くしているところの真後ろにやってきて、手でハートマークを作って兄弟愛をからかったことがある。動画1
テレビ画面のテロップに指を合わせようとするカル。
バナナが好物で、週に10~12本ほど食べる。酒はあまり飲まない。
魚とナッツのアレルギーがあり、それらは食べることができない。鶏肉が好みで、ルーシーが作るチキンパイやチキンカレーが好物である。
こちらの記事やライディングスポーツ2017年1月号で、「ヒーローだとかアイドルだと思う人はいない」と語っている。
音楽はジャンルにこだわらず、そこそこ聴く。
昔はマンチェスターユナイテッド(英国の名門サッカークラブ)に夢中になっていて試合をよく見ていたが今はそうでもない、と語っている。カルのSNSにはサッカークラブの画像が出てこない。
「日本にはまだあまり旅行してないんだよ、もし旅行するなら日本の山や自然を見てみたいね」と語っている。やっぱり自然が好きなのだろう。
藤原らんかに絵を描かれている。画像1、画像2、画像3、画像4、画像5、画像6、画像7
ルーシーはカルの服を洗ってくれないので、カルは自分で自分の服を洗濯している。
「娘さんがボーイフレンドを連れてきたらどうしますか(ライディングスポーツ2017年1月号)」「どのMotoGPライダーが娘さんのお婿さんとしてふさわしいと思いますか(この記事)」と、まるで精神攻撃のような質問を浴びせられており、そのたびに悶絶している。
2010年スーパーバイク最終戦マニクールの表彰式でマックス・ビアッジに不意打ちで思いっきりスパークリングワインをぶっかけて、怒ったビアッジに飛びかかられている動画はこちら。
ダニ・ペドロサの記事のこの項目を見てもわかるように、体重が重い部類に入る。そのため体重増加を気にしていて、たまに体重計の画像がSNSに上がる。画像1、画像2
BT Sport(イギリスのテレビ局)のCMにちょっと出演している。この動画の0分40秒あたり。メイキングの画像はこちら。
優勝したときの動画
- MotoGP Rewind: A recap of the #CzechGP
- Action from the #CzechGP
- After The Flag #11: It's all about the rubber
- パルクフェルメでルーシーに電話
- パルクフェルメでのインタビュー(「俺以外の皆は弱虫(wimp)だ!」と機嫌良く喋っている)
- MotoGP Rewind: A recap of the #AustralianGP
- Action from the #AustralianGP
- After The Flag #16: A typical Phillip Island battle
- パルクフェルメでのインタビュー
- 表彰式
- Rewind and relive the Argentina GP
- #ArgentinaGP: All of the Best Action
- Cructhlow masters the madness at the #ArgentinaGP
- Argentina GP - Missing the apex
- パルクフェルメでのインタビュー
- ラスト1周(最後にルーチョが歓呼している)
関連商品
関連リンク
- カル・クラッチロー公式Instagram(プライベートな画像が最も多く投稿される)
- カル・クラッチロー公式Twitter(Instagramへの誘導ツィートが多い)
- カル・クラッチロー公式Facebook
- カル・クラッチロー公式サイト
関連項目
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