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ガウスの学問的遺産を調査するという決定は後世を待って初めて可能になり、あらゆる予想をはるかに凌駕する宝物が発見された。ガウスの遺稿に精通すればするほど、この大天才に対する我々の驚異はいや増すばかりで、どのような困難、どのような限界もついにはこの人に一歩を譲らなければならなかったと考えざるを得ないのである。
カール・フリードリヒ・ガウスは1777年から1855年にかけてのドイツの数学、天文学、物理学者。恐らくは人類史上最強の数学者であり、誰が呼んだか「数学王」の異名をとる。対抗できるのは多分オイラーぐらいしかいない。
概要
言葉を覚えるより前に計算を始め、5,6歳で父親を凌駕。15歳にして素数定理を予想し、18歳の時には既に当代最強になっていた。その後はヨーロッパ数学界のドンとして君臨し、ほぼ無敵のまま生涯を終える。
主要業績は……当時の数学のほぼ全分野。他の数学者全員が得た大半の事実は、ガウス一人が独自に、しかも数年から数十年早く発見している。まさしくチート中のチート数学者である。
もっとも、生前はそれらをほとんど公にせず、手紙で知人に伝えたり、日記に発見を書き残したものが多くを占める。言わば数学は趣味。何か新発見を聞く度に「それなら私が昔やった(キリッ」としか言わなかった為、まじめなルジャンドルなどは「ガウスは天才を笠に着て全部自分の手柄みたいにいうヤツだ」と思ってたようである。
またあるときは、ゼーバーという学者がある数学の問題を証明しようと発表した248ページから成る論文(がんばったのだろうが途中までしか証明できず結局未完成のまま発表した)を書評で取り上げ「頑張りは認めるけど、論文の内容は数語にまとめられる(なげーよw)」「それらの重要な部分は30年前に私がやった(キリッ 」「この書評のなかで彼の説を完成させることに貢献する(俺が本気出せばこんなもんヨユー)」と知らない人が読めば、中二病患者か名人様かと思うようなことを書いた後、たった1ページ半 40行ほどの計算をしただけできれいに証明を完成させてしてしまった。
ガウスからすれば、頑張って長い論文を書いた無名の学者に助け舟をだしてやった(キリッ、ぐらいの気持ちだったのかもしれない。しかしゼーバーからすると、いきなり出現した巨大戦艦から完璧な精度で大砲を撃ち込まれ、一撃で粉微塵になって死んだような気分になったのではないだろうか。皮肉なことに彼は自身の業績ではなく、この出来事のせいで”天才ガウスのかませ犬”として有名になってしまった。
ガウスの死後40年ほどして遺稿が整理されると……まあ出るわ出るわ。生前からガウスは「何か隠してる」とウワサになっていたのだが、予想を遙かに凌駕する内容に数学者達は度肝を抜かれたのであった。ガウスは絶対にハッタリを言わぬ人であったッッ。
ある調査によれば、ガウスがもしコンスタントに業績を発表していた場合、大体50年数学を進めていたとされている。まさに事実は小説よりも奇なり。こんなキャラをフィクションに出してもリアリティ0です。
能力
全パラメータがカンストで何でもできた。
以上である。
超絶レベルの計算能力、精緻極まる論理性、自由で豊かな発想力を全て兼備。歩く数学百科で知らないことは何もなく、純粋数学、応用数学を問わず全域で超性能を発揮した。『整数論』によって数学そのものの革命も起こしている。ほとんど「ぼくの かんがえた さいきょう すうがくしゃ」状態だが、実際にそういう人だったので仕方ない。
加えて、物理学や天文学でもその才を発揮している。その業績は他の研究者と並べても、全く見劣りするものではない。
従って「ガウス最強説」の論拠は簡単である。これ以上は物理的に無理。
全盛期のガウス伝説
- 「整数論」の最初の方はフェルマー、オイラー、ルジャンドルらの数論史まとめ。ただしガウスに言わせると「ほとんどの定理は少年時代に自力で見つけた(キリッ 」。
- リアル中二時代のガウスは素数で一山当てようと頑張るも成果が上がらない。面倒になったので「素数の分布を確率的に統計処理して大体の傾向をつかめばいんじゃね?」と考えて素数定理を発見。計算は一日十五分。俺そんな暇じゃないし(キリッ
- 高校生ぐらいの歳に初めてオイラーを読んで、自分の発見をほとんど先取りされていたことに大ショック。しかしオイラーがやっていない定理もあったことに自信を持つ。
- 自身が数学の道を進んでいいのか悩んでいた19歳のとある日の朝に目覚めた瞬間、正十七角形の作図法を思いつく。これをきっかけに、数学への道を決定。定規とコンパスのみで、作図可能な正多角形が増えたのは古代ギリシャ以来、二千年ぶり。
- ガウスが大学生時代、ガウスの母が、息子は優秀なのかと、ガウスの友人に聞いてたところ、欧州一の数学者になるだろうとの返答。実際は、欧州どころか数学史一の数学者となったわけだが。
- 楕円関数では三十年後に後輩のアーベル、ヤコビに追い抜かれた。何故なら楕円関数を見つけた一月後にモジュラー関数まで進んで放ったらかしにしたから。モジュラー関数が世に出てくるのはアーベル達からさらに二十年後。
- ある時、数値計算で約4.81048という極限値を得る。
これを見たガウス:「自然対数を取ると1.5708...=π/2?」と即座に予想。 - 非ユークリッド幾何学を提唱したヤノーシュ・ボヤイは、父がガウスの親友だった事からガウスに論文の批評を依頼。帰ってきた返事は「良くできてるけど褒めると自画自賛になっちゃうんだよね。二十年以上前に同じ結果出てたから。周りがうるさいから発表しなかったけど(キリッ 」。ヤノーシュはヤケになって以後人生を投げてしまう。
- 実は上記のゼーバーをフルボッコにした書評の投稿者は匿名だったのだが(当時はそれが普通だった)、その圧倒的な数学力と(キリッとした文体が指し示す人物は世界に一人しかいなかったのでバレバレだった。
- コンピュータ時代に発展する高速フーリエ変換アルゴリズムを何故か知ってた。
- ガウスの時代、職業としての数学者は成立しておらず、ガウス自身も数学が世の中の役に立つとはそこまで思っていなかった。そこで彼は、天文学者を希望し実際になるのだが、要するに彼にとって数学はあくまで趣味。
- なお数論の第一人者であるにも関わらず、同時代の数学者としては珍しくフェルマーの最終定理に全く興味を持っていなかった。ガウスの弁によると「こんな孤立してて証明できるかどうかも分からない問題なんて自分ならいくらでも簡単に作れる(キリッ」。フェルマーの最終定理は後に数学の深い真理と結びついていくのだが、それはガウスの死から100年程後に谷山–志村予想が提出されてからのことであり、実際のところ最終定理自体がその中で重要な役目を果たしたわけでもない(物凄く高度な問題を解くと、その一部がフェルマーの最終定理の証明になっているというだけ)。最終定理が直接役に立った事例と言ったら、クンマーが証明のために理想数を構築して後のイデアルを準備したことぐらいである。
余裕ぶっこいたコーシーが大やけどした件などを考慮すると「この問題に関わるのは不毛」と断じてさっさと無視を決め込んだのは如何にも理論体系の美しさにこだわったガウスらしい見方と言える。 - ある時「どうやったらあなたみたいになれるんですか?」という質問を受けたガウスの答えは「いつも数学のことを考えてたらできるよ」であった。他の数学者は努力が足りないから仕方ないね。空前絶後の才能に加えて、他人の十倍は数学やってんじゃないかという程数学が好きで好きでたまらなかった事により生まれたモンスター、それがガウス。
- ちなみに、ガウスはごく普通の煉瓦職人の息子であり、両親の家系を追っても学術的才能を示した人物など全くいない。天才数学者は数おれど、ここまで極端な突然変異はガウスぐらいのものである。
ガウスにちなんで名づけられたもの
- ガウス平面
複素平面とも呼ばれ、複素数を図形的に表現するために必要となる。複素関数の積分はこの平面上で考えることがほとんどであり、1811年にガウスが導入した。複素関数解析の基盤となるものであり、数学・物理学・化学など分野を問わず使われている。 - ガウスの発散定理
「なめらかなベクトル場の発散のある領域での体積積分は、同じベクトル場のその領域を囲むような閉曲面での面積分に等しい」という文章で書くとなんだかよくわからない定理。電磁気学の方面ではマクスウェル方程式にこれと同じ形式のものが現れ、そちらは電磁場に関するガウスの法則と呼ばれている。 - ガウス記号
実数値xに対して、xを超えない最大の整数を[x]で表し、これをガウス記号と呼ぶ。もともとは「平方剰余の相互法則」という法則を証明するために1808年にガウスが導入したものである。別名床関数とも呼ばれ、天井関数とともに整数論の分野でよく用いられるようである。 - ガウシアン・ガウス積分
e^(-ax^2)の形の関数をガウシアン、この関数のxに関する積分をガウス積分と呼ぶ。ガウシアンは平均値のまわりに集積するタイプの分布関数であり、統計学の方面でよく出てくる。その積分値は統計学のみならず物理学でも頻出である。
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