カール・マルクス単語

カールマルクス
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カール・マルクス(Karl Marx、1818〜1883)とは、ドイツ出身の思想経済学者である。

概要

主な理論
 ・階級闘争
 ヘーゲルの弁証法・アウフヘーベン
 ・唯物史観(史的唯物論)
 ・価値論
 ・剰余価値
 ・疎外論
著作
 ・デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異
 ・ヘーゲル国法論批判
 ・ヘーゲル法哲学批判序説
 ・ユダヤ人問題に寄せて
 ・経済学・哲学草稿
 ・聖家族
 ・フォイエルバッハのテーゼ
 ・ドイツ・イデオロギー
 ・哲学の貧困
 ・共産党宣言(共産主義者宣言)
 ・賃労働と資本
 ・ルイ・ボナパルトのブリュメール18日
 ・資本論
 ・フランスの内乱
 ・ゴータ綱領批判
マルクス思想の源泉
 ・イギリス経済学
 ・フランス社会主義
 ・ドイツ哲学
その生涯と人間像
 ・マルクスの生涯
 ・その人柄
 ・マルクスの人間関係
マルクス経済学
主なマルクス学者、思想家
 ・日本
 ・ソ連、ロシア
 ・ドイツ
 ・フランス
 ・イタリア
 ・イギリス
 ・非西欧
日本のマルクス主義
 ・日本のマルクス主義の歴史
 ・日本はマルクス主義国家?
 ・日本共産党とマルクス
 ・ニコニコにおけるマルクス
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 ・マルクスの著作
 ・マルクス入門書(初心者向け)
 ・マルクス入門書(自信のある人向け)
 ・マルクス経済学
 ・マルクス政治学
 ・プロレタリア文学
 ・まるくすタン
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  関連項目

フルネーム

カールハインリヒ・マルクス
Karl Heinrich Marx

生誕

1818年5月5日
プロイセン王国・トリーア

1883年3月14日(満64歳
イギリスロンドン

研究分野

自然哲学歴史学政治学、経済学社会

を受けた人物

エンゲルス(友達)、ヘーゲル哲学者)、フォイエルバッハ(哲学者)、スピノザ哲学者)、アダム・スミス経済学者)、リカード経済学者)、シェイクスピア(劇作家)、プルードン社会主義者)、フーリエ社会主義者)、オーウェン(社会主義者)、その他多数

を与えた人物

レーニン独裁者)、スターリン独裁者)、毛沢東独裁者)、その他、極めて多数。一時期、世界の半分を支配した思想である。

20世紀に最もを与えた思想の一人。科学社会主義共産主義の祖とされている。

一般的には革命的、革新的人物と思われているが実際は古今東西の文献を研究批判した上での統合(まとめ)的研究であった。

マルクスからを受けた人物は非常に多岐に渡り、世界中の歴史を大きく動かした。その現在でもなお大きい。当然日本も例外ではない。

詳しいことはWikipediaへ→カール・マルクスexitへ……と言いたい所だけど、人物面はともかく理論面では初心者Wikipediaを見ても恐らくほとんど分からないと思う。なので、マルクスについて疑問があったら下の掲示板に書き込んでみよう。きっとアカども優しいお兄さんたちが答えてくれるだろう。

主な理論

マルクス理論はよく「間違いだらけ」と批判される。しかしこれはある意味当然のことだ。マルクス研究したのは彼の生きた19世紀の社会であって、それを21世紀の社会に当てはめても理があるに決まっている[1]。ただし、間違いは修正することが出来る。

19世紀にマルクスが生み出したこれらの理論は以降150年の間に世界中の優れた学者達によって研究され、発展させられた。その為、19世紀のマルクスの著作だけ読んでそれを批判するのはナンセンスである。私たちはマルクスの知らなかった20世紀の歴史を知っている。マルクスの正しい理解、あるいは批判の為には21世紀の今現在研究書を学ぶことが重要である。


  1. マルクス理論マルクスの生前から散々に批判されており、特にマルクス理論の根幹を為す『労働価値説』に関しては底的に検証が加えられた。現在では当時のマルクス理論には論理的矛盾が多数存在することが摘されている。

階級闘争

階級闘争とは、資本主義においては「本家ブルジョワジー)と労働者プロレタリアート)の闘争」のことである

詳しくはこちら→『階級闘争

弁証法・アウフヘーベン(止揚、揚棄)

弁証法というと、相対するテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)がアウフヘーベン止揚)してジンテーゼ(合)になるというリアーデの弁証法が有名であるが、実はこのタイプ弁証法はヘーゲルマルクスも用いていない。

ヘーゲル弁証法は多義的で簡単に解説するのは難しいが「全て物事はその本質の中に矛盾んでおり、その矛盾によって本質が自らを反省し、より自覚を深化させていくという無限の営み」と言える。ここではとりあえず単純に「対立、矛盾する二つのものAとBが両者を保存しつつ、より高次のCになる螺旋的発展運動」と理解しておこう。

詳しくはこちら→『弁証法

唯物史観(史的唯物論)

唯物史観とは「歴史とは経済をきっかけに動いていく」という歴史観である。

詳しくはこちら→『唯物史観

価値論・労働価値説         

労働価値説とは「物の価値は労働量によって決まる」という考え方である。

労働価値説は別名「価値論」とも言い「物の価値は何で決まるか?」という単純ながらも現在まで結論の出ない深淵なテーマである。今日経済学では物の価値は需要と供給によって決まると教えてもらえるが、マルクスはそこからもう一歩踏み込んで思考した。

詳しくはこちら→『労働価値説

剰余価値

剰余価値というのは「持ち(ブルジョワ、資本家)が貧乏人(プロレタリアート労働者)から搾取している労働(の価値)」の事であり、これはすなわち搾取のメカニズムを説明している点で肝要となる。

詳しくはこちら→『剰余価値

疎外論

疎外とは初期マルクスの重要な概念である。一般的な哲学における疎外は、「本来、自分のものであるはずのものが、自分から離れてよそよそしくなる」という現のことである。この哲学マルクス独自のもとではなく、元々は独哲学者ヘーゲルがよく用いている言葉であった。

ヘーゲル哲学において、「本質から離れたものが一度外に出て、再び戻ってくる」という現外化、あるいはといった。しかし戻ってくるはずのものが外に出たまま戻らず、むしろ本質と対立しはじめる。ヘーゲルは、これを特に疎外と呼んだ。

ヘーゲル疎外論は、その後、独哲学者フォイエルバッハによって唯物論的にアレンジされ、さらにそのフォイエルバッハの著作を読んだマルクスによって継承・発展させられ、彼独自の労働疎外論が誕生した。

詳しくはこちら→『疎外論』、『経済学・哲学草稿

著作

代表的な著作(刊行年順)

著作と刊行年の一覧exit

1841年

1842年

1843年

1844年

1845年

1846年

1847年

1848年

1849年

1850

1852年

1853年

1954年

1855年

1856年

1857年

1858年

1859年

1860年

1961年

1862年

1863年

1864年

1865年

1866年

1867年

1869年

1870年

1871年

1872年

1873年

1874年

1875年

1880年

1881年

1883年、マルクス死去

1885年

1894年

その他書簡(手紙)とか稿(メモ)とかが多数[1]。これらはエンゲルスとの共著を多く含んでいる。沢山あってどれを読んでよいか移りするが、とりあえず資本論は抑えておこう。正直、資本論さえ読んどけばなんとかなるみたいな空気はある。

有名な著作であれば前の大書店に行けば売っているのだが、マイナーなものは専門的すぎてあんまり本屋には売っていない。なので神保町で古書巡りをするか大きな図書館に行ってマルクス・エンゲルス全集(Marx/Engels historisch-krirische Gesamtausgabe、MEGAと呼ばれる)か、新マルクス・エンゲルス全集Zweite Marx-Engels-Gesamtausgabe、MEGA。またはMarx-Engels-WerkeMEWと呼ばれる)を探してみよう。旧MEGAはリャザーノフというソ連社会主義者がマルクス思想の普及のために編集したものであるが、後にスターリンと対立して未完成のまま終わったものである。二次戦後、新MEGAの出版が始まったが、こちらも未だ完成していない。

マルクスは日頃から猛に文献を読みあさって常に新しい知識を蓄えていたので書籍によっては言ってることが違っていることがある。しかしこれは思想のブレではなく過去の自分の思考に縛られないマルクスの思想の進歩なのである。

マルクスの著書は深淵な文章で書かれているので、人や解説書によっては解釈が異なってくることがある。以下の説明も必ずしも正しいとは限らない。なので是非とも本編(過度にめるならマルクスの手によって書かれた無編集の原稿[2])を読み、自分の頭でマルクスの思考を自分なりに解釈をしてほしい。

集や、高校(当時のドイツではギムナジウムと言う)時代のテストや論文、父親への手紙など、学生時代のマルクスの文章も残っているが、それらには学術的な内容は含まれていない。余談だがマルクス集の内容が「人生をうたい,妖精騎士王女王子が登場する」というものらしいのだが、マルクスもまさか若い時に書いたポエム150年後に地球の裏側で読まれているとは思っても見なかったに違いない。


  1. マルクスとエンゲルスがやり取りした書簡が1544通。他の人への書簡2318通、補遺が16通で合計3787通。マルクスエンゲルス全集のいくつかは書簡だけの巻である。研究者はこれを全部読んでるのだから大した物である。
  2. マルクスの思想はイデオロギーや政治に極めて深く関わっているため、マルクスの著作には歴史的に編集、翻訳、出版の過程において恣意的な改竄や誘導的な表現が用いられてきた(スターリンとかのソ連の正当の手によって)。なので出来る限り人の手が加わっていないものを読むことはマルクスの著作のの理解のためにはどうしても必要なことなのである。しかしその為には難解なマルクスを読めるほどにドイツ語マスターしてドイツに留学し、向こうの図書館に蔵書してある著作を読まなければならない。流石理があるね。

デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異

デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』とはマルクスの西洋哲学総括した哲学論文である。記念すべきマルクス処女論文。本論文は、マルクス22歳のときにイエナ大学に提出した学位論文、要するに博士論文。

詳しくはこちら→『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異

ヘーゲル国法論批判

ヘーゲル国法論批判』とはマルクス1844年に新婚旅行先のクロイツナッハで書いたヘーゲルの『法哲学』に関する批判の書である。

詳しくはこちら→『ヘーゲル国法論批判

ヘーゲル法哲学批判序説

ヘーゲル法哲学批判序説とはドイツ哲学者カール・マルクスが若き日に著した人間解放の書である。青年マルクスはヘーゲルの『法哲学』、ひいては当時の観念論的ドイツ哲学批判を通じて独自の哲学体系を見つけ出していった。

詳しくはこちら→『ヘーゲル法哲学批判序説

ユダヤ人問題に寄せて

ユダヤ人問題に寄せて』は、かつてのマルクス師匠であり、またヘーゲルの代表的哲学者であるブルーノバウアーのユダヤ人論への批判論文である。

詳しくはこちら→『ユダヤ人問題に寄せて

経済学・哲学草稿

経済学・哲学草稿とはマルクスが初めて資本論へと繋がる経済学的な問題意識を明確な形に稿集である。

詳しくはこちら→『経済学・哲学草稿

聖家族

ジャーナリストとしてのマルクスが書いた、極めて時事的な作品。この家族とは慈善的社会主義するバウアー兄弟のことをしている。当時パリで流行ったウジューヌ。シューの小説パリ秘密』を使いながら批判している。

フォイエルバッハのテーゼ

フォイエルバッハのテーゼとは11項に渡ってフォイエルバッハを批判しているマルクスのメモ書きのことである。メモ書きなのですごい短い。

詳しくはこちら→『フォイエルバッハのテーゼ

ドイツ・イデオロギー

ドイツ・イデオロギー』はカール・マルクスが自らの「歴史観」、「経済観」そして「ヘーゲルに対する批判」ををまとめた膨大なメモ集である。

詳しくはこちら→『ドイツ・イデオロギー

哲学の貧困

哲学貧困は、プルードンの著した「貧困哲学」に対する批判書として書かれたフランス語の本である(マルクスドイツ人)。これ以前のマルクスは「家族」などでプルードンを高く評価していたにも関わらず、この書では当時傑出していた高名な社会主義者であるプルードン批判したことによってマルクスが新しい時代の社会主義を模索し始めていることが分かる。

本書は二部構成になっており、一部はプルードン経済学批判になっている……のだが、結局のところマルクスが述べたかったのは「リカードプルードンより優れた経済学者である」ということだけだった。リカードは当時の経済学会のトップスターであり、経済学が本業ではないプルードンがそれより劣るのはある意味当然である。

共産党宣言(共産主義者宣言)

共産党宣言共産主義者宣言)とはマルクスとエンゲルスが「社会主義とは何か?」をヨーロッパに広める為に著した「共産主義的信条表明」である。本著はあらゆる言翻訳され世界中の読者に読まれることとなる。

ここ→(共産党宣言exit)でただで読める。短いので多少本を読むのに慣れていれば2時間くらいで読めるはずだ。この機会にご一読。

詳しくはこちら→『共産党宣言

賃労働と資本

賃労働と資本はマルクス経済活動と政治活動の関係性を世間に普及するために書かれたマルクス経済学入門書である。

『賃労働と資本』は元々は1847年にブリュッセルドイツ労働者協会でマルクスが行った講演であるのだが、彼は1848年の革命失敗後、革命運動経済活動の不可分の結びつきを重要視し、『新ライン新聞』に1849年に5号に渡って二年前の講演をめた『賃労働と資本』を掲載した。

本書が書かれた1849年はマルクス自身が経済学完成させていないので、理論的な完成度では後に出版される『経済学批判』や『資本論』にべると見劣りはするものの、逆にいえば簡易な文章でマルクス経済学概要を掴めるので、『賃、価格および利潤』と共にマルクス最初の一冊としてオススメされる本である。

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日

当時のフランス皇帝ナポレオン三世をマルクスジャーナリストとして風刺的に描いたマルクス政治学の名著である。

詳しくはこちら→『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日

資本論

資本論とはマルクス哲学政治学、経済学の集大成であり、歴史的大著である。

詳しくはこちら→『資本論』、『労働価値説

フランスの内乱

フランスの内乱とは、マルクス率いる共産主義を標榜する団体『インターナショナル』が1970年勃発した普戦争とそれに続くフランス臨時政府パリコミューンの内乱に関して出した三つの宣言である。その三番の宣言が『フランスの内乱』にあたる。本作と『フランスにおける階級闘争』、『ルイボナパルトブリメール18日』と合わせてマルクスフランス三部作と称される。マルクス政治学が凝縮されている重要な作品である。

詳しくはこちら→『フランスの内乱

ゴータ綱領批判

私はった。そして私のを救った

(ゴータ綱領批判結びの文、批判したからにはもう後は知らん、という意味)

ゴータ綱領批難はマルクスの生きている間では最後の重要著作であり、よって最も熟したマルクスの思想が覗けるという点で短いながらも数ある著作の中でも重要度が高いとされる。ただし本書はタイトルの通りゴータ綱領なるものを批判したものであり、ゴータ綱領と本書の成立過程の歴史的知識がないと正しい理解は難しい(単純に内容も容易ではないが)。

ゴータ綱領批判1875年にドイツ中部都市ゴータで開かれた社会主義者大会で、長年争ってきた二つの有社会主義政党「全ドイツ労働者協会(ラッサール)」と「社会民主労働者党(アイゼナハ)」が合併し「ドイツ社会主義労働者党」となるにあたって新聞に発表された綱領(活動針)に対するマルクス批判の文章である。マルクスは、間違いだらけのゴータ綱領が自分たちが関わったものであると誤解されるのを恐れたのと、この綱領が共産主義の進歩に邪魔になることを考えて厳しくこれを批判した。

共産主義は、初期は『各人がに応じて働き、労働に応じて受け取る(等の権利)』、やがて『各人がに応じて働き、必要に応じて受け取る』社会になる」という二段階発展法が出てきたのも本書。

マルクス思想の源泉

マルクス義が生み出された背景には、三つのがあるとレーニン摘する。すなわち、

  1. イギリス経済学
  2. フランス社会主義政治学)」
  3. ドイツ哲学

の三つである。マルクス批判する人はマルクス義をまるで妄想であって宗教に近いと言う。しかしレーニンに言わせればそれは逆で、むしろマルクス思想は西欧学問の最先端を結集させたものなのだ。実際当時の欧州では経済学イギリスで、社会主義フランスで、哲学ドイツで最も進んでいた。

マルクスはこの三つを見事に組み合わせることが出来たが、逆に言えば他の社会主義者は組み合わせに失敗していたのである。フランス社会主義プルードンやバクーニンは、ドイツ哲学のヘーゲル弁証法社会主義に応用しようと試みたが、彼らは体系的にドイツ哲学を修学していなかったので不全なものに終わっている。一方でドイツ社会主義者たちはイギリス経済学フランス社会主義を輸入した際、それをドイツ哲学の「物事を観念的に考える」という色に染めてしまい、思考遊戯に終始し、世界を変革する動きには繋がらなかった。

イギリス経済学

イギリス経済学とは、重商義と、それを批判する古典経済学者スミスリカードの流れである。労働価値説など、マルクス経済学はほぼこの二人のものを受け継いでいると言ってよい。マルクスは彼らの経済学批判的に継承し、発展させてマルクス経済学という独自の学問体系を生み出した。もちろんこの二人だけでなく、人口論を著したマルサスや、功利義を掲げたベンサムJ・S・ミルなど広く古典派経済学マルクスは学んで批判的に研究に取り入れている。

古典派経済学者については詳しくはこちら→『アダム・スミス』、『デイヴィッド・リカード』、『トマス・ロバート・マルサス』、『ベンサム』、『J・S・ミル

フランス社会主義

当時のフランス社会主義には大きく分けて二つある。

マルクスは基本的には後者のアソシエーションビジョンを引き継いでいたが、革命時の過渡期の手段として前者の有化の考えを取り入れていた。すなわち、働く者自身が自治する事業体を身近な所で作れる社会を理想とするが(アソシエーション)、部分的にそれを成し遂げようとしても失敗するので一時的に労働者革命で政権を握り産業を有化する手法(営化)を提案する。このような革命過渡期の政権のことをプロレタリア独裁政権と呼ぶ。

そして革命政権が資本主義経済協同組合的な経済に作り替えていくにつれて、国家の経営もだんだんと現場の自治や当事者同士の調整に委ねられていく。そうなればやがて国家政府ともども不要になっていき消え去る。そこに残るのは人間が搾取されることなく生きることのできるアソシエーションのみである。

ドイツ哲学

ドイツは伝統的に観念的思想が発達していた。その中でも特にマルクスを与えたのは、

のヘーゲル思想の潮流である。『疎外論』や『弁証法』など、マルクス思想の哲学的基礎は、この2人の思想を批判的に継承することによって生み出された。

観念論のヘーゲル唯物論のフォイエルバッハ、そしてマルクスは最初観念論のちに唯物論と続いているのがポイント。流れとしては、ヘーゲルの観念論的思想をフォイエルバッハが唯物論的に継承し、その後マルクスがフォイエルバッハの残していた観念論的部分を消し去り唯物論底することにより、マルクス独自の史的唯物論唯物論弁証法)が誕生した。ヘーゲルの観念論をマルクス唯物論として継承したことを、『逆立ち』と呼ぶ。

疎外論に関してもマルクスはヘーゲルとフォイエルバッハから用を用いている。ヘーゲル哲学は到底ここで説明できないほど複雑な哲学大系であるが、簡単に言えば「人間理性」というものを重視した思想である。ヘーゲル哲学が「観念論」とも呼ばれるのは、このようにヘーゲル人間の精理性。この観念論はマルクス唯物論とは対極の思想になる。ヘーゲル哲学において、人類が皆持っている理性が徐々に普遍的になっていく。この普遍的理性は身分や民族、時代すらえてみんなに当てはまり発展していくもののことだが、その精的存在である理性が物質として現実に生み出される時に色々と現実界の物質的な制約を受けて、理性通りには実現できなくて矛盾した姿に曲される。これをヘーゲルは「疎外」と呼んだ。しかしヘーゲルは同時に、長期的には疎外を理性が貫かれるとする。

これをっ向から批判したのがフォイエルバッハである。彼は理性ではなく一人一人の生身の人間、つまり個人の「感性」が本当に大事なものだとした。この「感性」というのも私たちが普段使ってる感性とは少し意味が異なる哲学であるが、本欲求、身体、暮らしの事情のようなニュアンスのものと考えてよい。

更にフォイエルバッハはヘーゲルの用いた「疎外」を全く別の意味で用いた。「理性」というのは、本来はそれぞれの人間の「感性」を満たすための手段に過ぎない。にも関わらず理性」は生身の人間を離れて一人歩きを始め、それ自体が的みたいになって、人間の「感性」を殺してしまう。

マルクス理論ではこの二人の「理性」の箇所が「お金」や「資本主義」、「労働」というもので置き換えられて述べられている[1]。本来人間にとって有益なシステムであるはずの「お金」や「資本主義」や「労働」が実際に施行してみると、恐慌や失業などのマイナスの要素も生み出してしまう。(ヘーゲル的疎外)

そしてやがてそれらは人間の手を離れ一人歩きを始める。その結果、労働者は搾取され、機械の導入により伝統技や職人文化が破壊されていくのだ。(フォイエルバッハ的疎外)

ヘーゲルついて詳しくはこちら→『精神現象学』、『歴史哲学講義

フォイエルバッハについて詳しくはこちら→『キリスト教の本質』、『哲学改革のための暫定的提題』、『将来哲学の根本命題


  1. その後20世紀後半に、フランス哲学アルチュセールによって「本当にマルクスはヘーゲルの手法を経済に当てはめただけかどうか?」という問題提起がなされ、以後大きな論争が生まれている

その他

レーニンが述べたのはこの3カテゴリだけだったので一般的にはマルクス思想のはこの三種類だけとされているが、もちろんマルクスはそれ以外にも多くの思想、学者や文筆からを受けている。例えば、古代ギリシャ哲学者のアリストテレスエピクロスマルクスアリストテレス政治学から商品の使用価値と交換価値の発想を取り入れた。エピクロスマルクス卒論研究であり、ヘーゲル、フォイエルバッハと共にマルクス哲学の根幹を担っているとする研究者(フランシーヌ・マルコヴィッツ)もいる。

更に近世哲学スピノザ、ルソー、ヴォルテールなどもマルクスに強いを与えている。

ルソーの思想について詳しくはこちら→『社会契約論』、『人間不平等起源論

他にイギリス経済学ではないが、スミスより更に以前の経済学者のペティケネーマルクスに強いを与えた。ウィリアム・ペティスミス以前に算術的経済学子を形成したことから『経済学の始祖』と呼ばれた。ペティの考案した労働価値説マルクス経済学の背になる理論である。

ケネーに関しての詳細は記事を参照して頂くとして、マルクスケネーの代表作『経済表』からヒントを得て再生産表式を完成させた。再生産表式は後にアメリカ経済学者ワシリー・レオンチェフによって産業連関表となり近代経済学に合流することとなる。産業連関表とは産業ごとの生産・販売額を表にしたものであり、日本でも総務省が毎年発表しているくらい実際的な経済分析である。経済学部生や公務員試験経済学を学んだ人なら見たことがあるだろう。

更に文筆シェイクスピアにゲーテ、ダンテマルクスは多くの文学に触れていたがその中でも取り分けシェイクスピアを好み、資本論の中でもシェイクスピアの『夏の夜の夢』や『ハムレット』、『ヴェニスの商人』などの戯曲を多く引用している。

自然科学者では化学者のリービッヒに、進化論ダーウィン。リービッヒは当時最も進んだイギリス農業を分析し、人口密度の高くなった工業地帯の食料を賄うため生産を高めた結果、土壌から農業生産物に必要な化学物質が失われ、自然破壊が起きていると摘。土壌から有益な化学物質が失われることをリービッヒはlift、すなわち盗みと表現した。マルクスはこのリービッヒの分析を、農から工業地帯への人口の移動。階級間の搾取の分析へと発展させた。

また、生物環境に適応して進化するという進化論を唱えたダーウィンに対して、マルルクスは自らの弁証法自然科学の中に実された(自然弁証法)と感してダーウィン資本論の一巻を献本している。

マルクスは他にもライプニッツとかマキャベリとか本当に色々読んでいたようである。。

その生涯と人間像

マルクスの生涯

活動・生活 要著作 歴史
1818 0歳 プロイセン王国リーアにて誕生
1830 12歳 フリードリヒヴィルヘルム・ギムナジウムに入学 フランス7月革命
1835 17歳 ボン大学法学部入学
1836 18歳 ベルリン大学法学部に移る
1840 22歳 フリードリヒヴィルヘルム四世即位(独)
1841 23歳 ベルリン大学卒業、イェーナ大学より博士号取得 学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異
1842 24歳 ライン新聞』の編集者になる
1843 25歳 イェニーと結婚パリへ移住 ヘーゲル国法論批判ユダヤ人問題について、ヘーゲル法哲学批判序説
1844 26歳 『独年誌』刊行。エンゲルスと意気投合し共同作業開始 経済学・哲学草稿
1845 27歳 パリを追放され、ブリュッセル フォイエルバッハのテーゼの執筆、ドイツイデオロギー執筆開始
1847 29歳 ロンドン義人同盟にエンゲルスと共に加盟。後に共産主義者同盟となる 哲学貧困
1848 30歳 ベルギーから追放。パリへ。それからケルンへ。ケルンで『新ライン新聞』発行 共産党宣言 2月革命、独で3月革命
1849 31歳 パリに追放された後、ロンドン亡命 賃労働と資本
1850 32歳 『新ライン新聞政治経済評論』を発行
1851 33歳 大英博物館に通い詰め、経済学研究頭。『ニューヨーク・トリビューン』に寄稿開始 ルイ・ナポレオンクーデター、太天国の乱
1852 34歳 共産主義者同盟解散 ルイ・ボナパルトブリメール十八日 ナポレオン三世による第二
1857 39歳 経済学批判要綱 世界恐慌
1859 41歳 経済学批判 イタリア統一戦争
1861 43歳 南北戦争イタリア成立
1864 46歳 第一次インターナショナル労働者協会)がロンドンで創設され、宣言と規約を執筆
1865 47歳 、価格および利潤
1866 48歳 ドイツ連邦解体
1867 49歳 資本論一巻
1870 52歳 戦争勃発、第三共和制成立
1871 53歳 フランスの内乱 ドイツ帝国成立、パリコミューン
1872 54歳 第一次インターナショナルハーグ大会に出席。バクーニンを除名。本部をニューヨークに移す。
1875 57歳 ゴータ綱領批判を執筆 ドイツ社会主義労働者党』結成
1876 58歳 第一次インターナショナル解散
1883 3月14日64歳で逝去
1885 資本論二巻を刊行
1889 第二インターナショナル創立
1894 資本論三巻を刊行 日清戦争勃発

マルクスの誕生と青年期(1818~1841)

カール・マルクスは1818年5月5日に、ドイツ西部ライン地方ラインラント)の歴史都市リーアで誕生した。トリーア(Trier)はローマ帝国時代以来の都市で、大司教座が置かれており、現在ドイツ連邦共和国ラインラント=プファルツ州に属している場所である。カールが生まれた当時のドイツは、土がバラバラの状態であり、現在のような統一国家は成立していなかった。彼の出生地トリーアに至っては、彼の生まれる数年前までナポレオンが支配するフランス領であったほどである。

カール父親ハインリッヒ・マルクス母親ヘンリエット・マルクスは共にユダヤ人であったが、カールが6歳の時に一家ってプロテスタント宗する。父親ラビユダヤ人祭)の血統を継いでおり、トリーアの上級裁判所弁護士してとして働いていたので、マルクス較的裕福な生活を送っていた。父親からカールへの手紙は今でも残っていて、そこから見るにカール少年は両から過保護と言えるほどにされていたようであった。

マルクスというと貧しい労働者の味方であり、本人も極貧というイメージがあるが、このように彼の生まれは世襲貴族ではなかったものの、かなり上位の貴族に近かった。しかしユダヤであるので全に上位階級であると言う訳でもない。少年期マルクスは堅苦しく皮屋であり、ものごとを小難しくに考える子どもであったのだが、後のイェニー夫人との恋愛では、ユダヤ息子プロイセンの高官のというを乗り越えるためにイェニーに情たっぷりのポエムを送ったり、相手のに直談判したりと情熱的な行動もとっている。

12歳の時に少年マルクスはトリーアギムナジウム(ドイツエリート養成のための中高一貫校)に入学し5年間在学した。成績は抜群!とまでは行かなかったけれども有能生徒ではあった。今でも残っている彼の卒業書によると「彼は良好な才を有し、古代ドイツ語および歴史において非常に良い、数学においては良い、そしてフランス語においてはまぁまぁの成績を示した。(中略)彼の将来が期待できる」と評価されている。

残っているカールの論文の中で一番評価が高かったものは『ヨハネ伝第十五章第一から第十四節によるキリスト信仰者の同盟について。その起および本質その無条件的必然性およびその結果の叙述』という小難しいタイトルのものであった。その他にも卒業論文である『職業選択論』で高い評価を得ているが、先生からは、やや表現が大手すぎるというダメ出しも食らっている。ちなみにこの頃の日本は徳十二代将慶の時代であり、まだすら来ていない。

その後マルクス少年1835年10月ボン大学に法学研究のために進学するが、当時のボン大学には政府の介入が始まっており、マルクスはより自由な学めてベルリン大学へ転学した。同時に友人であるイェニーと婚約をする。在学中のマルクス法学の各教科に加えて、文学論理学地理学、学の勉強に励み、更に当時のベルリン大学で流行っていた青年ヘーゲル(ヘーゲルとも。当時流行っていたヘーゲル批判的に発展させた一)から大きなを受けた。1838年にはの死という悲劇に会うが、それでもめげず1841年にイェーナ大学学位論文を提出してマルクス哲学博士となった。当時の大学現在日本のようにでも入れる訳ではなく、マルクスは知的エリートだったと言える。

夢破れてジャーナリズムへ(1941~1943)

大学卒業後、マルクスボン大学の講師への就職を希望し、当時ヘーゲルとして『共観福音書の歴史批判』という書籍を著し脚を浴びていた旧友ブルーノバウアー教授の下へ向かった。マルクスは彼と共に学を研究し、さらに『新聞』という新聞を刊行して実績を得ようとした。活動の一環としてマルクスバウアーは『ヘーゲルに対する最後の審判の切り札』というパンレット検閲の緩いライプツィヒで出版する。このパンレットは一見キリスト正当を擁護するもののように見えるが、その実はキリスト教批判する無神論者のヘーゲル批判するものであった。

しかし、以前から当局に睨まれていたバウアーはこの論文の出版により、いよいよもって不を買ってしまい、出版数ヶ後にして、このパンレットプロイセン警察から販売を禁止されて、バウアーは教授大学をクビになってしまった。これによってバウアーのコネによって大学教授の地位を得ようとしていたマルクス論みは、その見込みがほとんどなくなってしまったので、やがて彼は教授になるを諦めた。

その後マルクス重いを背負ったが、兵役を不合格になったため、当時彼が興味を覚えていたジャーナリズムを職業とするべく、ベルリン大学時代にマルクスが参加していた『博士クラブ』というサークル仲間だったルーテンベルク筆に、マルクスと同様にラインラントユダヤ人であったモーゼス・ヘスを助手にして、青年ヘーゲル政治を訴える『ライン新聞』を創刊した。編集者のほとんどは23歳のマルクスより年上であったが、彼らのほとんどはマルクスの偏屈な性格に辟易しながらもその才を高く評価していた。

ライン新聞』は1842年1月1日に第一報が出版された。しかしこの時、マルクス母親とのトラブルや婚約者イェニーの父親フォン・ウェストファーレン男爵の逝去などで、トリーアに引き止められていたので第一号には参加できなかった。5月の初めになってようやくマルクスは落ち着いて原稿を書き始め、すぐに編集部で一番熱心な執筆者となった。その原稿のほとんどはプロイセン政府に対する遠慮のない攻撃であった。

その頃の時事問題について書かれたマルクスの原稿は今となっては読む意味の薄いものになっているが、当時としては検閲にビクビクした軟弱なジャーナリズムに慣れきっていた読者たちに新鮮な印を与えたのである。マルクスの名は高まり、ライン新聞ドイツの全土で最も有な反政府新聞となった。1842年10月にはマルクスの功績が認められてルーテンベルクに代わってライン新聞の編集長に就任することとなる。

6ヶに渡るマルクスジャーナリズムの仕事は彼から大学時代にあれほどのめり込んだ哲学への興味を失わせることとなった。さらにマルクスはこの時期に、後に一生の友人となるエンゲルスとの初対面を果たしている。

マルクスジャーナリストとして全方面にケンカを売って売って売りまくった。プロイセン検閲当局にケンカを売り、玉のプロイセン政府ケンカを売った。マルクス政府の出版法を批判し、婚姻法を批判し、また、州所有ので貧しい農民が枯れ木を集める事を禁止した法律批判した。マルクスでなく自分の知人にもケンカを売りまくった。まず被害者になったのはマルクスの前にライン新聞の編集長をしていたルーテンベルクである。彼はマルクス友人であったのに、マルクスの記事にこき下ろされてしまった。マルクスはそれに飽き足らず、かつて自分の師であったブルーノバウアーをインチキ野郎!と批判したのである。

かを批判することばっかりやっていたマルクス、当然色々な人から嫌われてしまう。そしてとうとう1843年1月プロイセンからライン新聞を発禁にされてしまった。新聞筆を追放(記念すべきマルクスの初追放!)されたマルクスは、自分に相応しい仕事はないかと新しい活躍の舞台を探し始める。補に上がっていたのは当時急進として名をあげていた著述アーノルド・ルーゲが編集を勤める『学問および芸術のためのドイツ年誌』という長ったらしい名前新聞であったが、この新聞ライン新聞が発禁になる3ヶ前に既に発禁になっていた。

しかし、この『ドイツ年誌』をフランス復活させようという運動があったので、マルクスはそれに乗ることに決めた。これにより定収入を得るがついたマルクスは、学生時代に婚約していたイェニー(4歳年上)との結婚を決心する。

彼は、が亡くなってからイェニーが移り住んでいたクロイツナッハ(現バート・クロイツナッハ)へと赴き、1843年の6月12日イェニー、本名『ヨハンナ・ベルタユーリア・イェニー・フォン・ウェストファーレン』と結婚した。彼がイェニーに婚をしてから7年の出来事であった。マルクス11月の末までクロイツナッハに留まり、政治・社会に関する書物を読みあさって読書ノート(通称『クロイツナッハ・ノート』)を作った。その中にはモンテスキューの『法の精』、ルソーの『社会契約論』、マキャベリの『君論』などの研究が含まれていた。

1843年11月の終わりにマルクス夫妻はパリへと移住する。永遠の亡命マルクスの始まりであった。

パリでの日々(1843~1845)

したマルクスアーノルド・ルーゲに加え、助太刀として若くして成功した詩人ゲオルク・ヘルヴェークと、名だが志のあるモイレルを迎えいれた。しかし発起人であるルーゲはこの『独年誌』の刊行に際して、余り無計画であった。彼らはこの新聞際的なものにしたかったため、彼らドイツ人だけでなく当時著名だったフランス人に原稿の執筆を頼み込んだのだが、それらは全て断られてしまった。

彼らには確かに実績があり、ある程度有名ではあったもののそれは全てドイツに限るものであり、フランスでの彼らは何者でもなかったのである。結局『独年誌』の第一号1844年に発行されたが、執筆者のほとんどはドイツ人ばかりになったしまった。

マルクス創刊号に有名な『ユダヤ人問題によせて』と『ヘーゲル哲学序説批判』を掲載したけれども、執筆者の中で詩人であるハイネヘルヴェークを除き、ドイツえて際的に人気のある人物はいなかった。『独年誌』はわずか1号廃刊となってしまう。

この失敗は期待が大きかっただけに本人達には非常に残念なものに映ったのである。元々の気があったルーゲは気を病み、楽観的でけんかっマルクスと溝を深めてしまった。マルクスは第三者への手紙の中でルーゲのことを『山師(詐欺師の意)』だとか『老いぼれロバ』だとかバカにしたことが原因でルーゲと全に決別する。以後、お互い30年以上ロンドンに在住したにも関わらず二度と会うことはなかった。

その後、マルクスは、プルードン、バクーニンを初めとしたフランス人やロシア人の知識人と交流を深めたりしつつパリ発行の雑誌に寄稿をして収入を得始めた。マルクスの記事はパリの『進歩的文化人』には好意的に迎えられたが、時の政府や伝統的文化人にはで見られ、結局プロイセン首相であった地理学者のアレキサンダー・フォン・フンボルトフランス内閣に働きかけ再びパリを追放される(2年ぶり2度)。マルクスはエンゲルスの援助を受けてベルギーへお引っ越し。

そして共産主義へ・・・(1845~1848)

マルクスブリュッセルに来てから6ヶが経つころ、彼はパリにいた時のような労働者に対する頓着な態度を捨てて、いよいよ共産主義へと傾倒していくこととなる。

そのきっかけは1845年にエンゲルスと共にロンドンに6週間の旅行をしたことであった。エンゲルスはロンドンで彼と交のあった『労働者教育同盟』のメンバーマルクス紹介することになったのだが、マルクスはこれにいたく好感を持ったのである。ベルギーに戻ってきたマルクスはすぐにこれを真似て『ドイツ労働者教育協会』を設立した。彼のな協者にはプロイセンの元将校ヨーゼフ・ヴァイデマイアー、後にマルクス資本論げたシュレージエン出身の学校教師ヴィルヘルム・ヴォルフ、そしてマルクスの義エドガー・フォン・ウェストファーレンであった。

マルクスが再び政治活動を始めたということはまたかにケンカを売るということに他ならない。今回のターゲットになったのはドイツ社会主義ヴィルヘルム・ヴァイトリングであった。彼は熱意ある社会主義者であったが、この熱意が、情熱よりも理性を重視するマルクスには到底受け入れるものではなかったのだ。ヴァイトリングは感情論共産主義る、いわゆる社会主義者であった。マルクスヴァイトリングに堪え難い嫌悪を吐露し、ありとあらゆる共産主義運動から全ての社会主義者を追放することをした。

更にマルクスブリュッセル共産主義際的喧伝運動の中心に据えるべく1846年のに『共産主義通信委員会』なるものを設け、諸共産主義者の協機構を打ち立てた。マルクスはこの機構を広めるためにエンゲルスをパリへと派遣する。エンゲルスのパリでの任務はマルクス導の下にある際組織を設立することであったが、数年前マルクスパリ失敗したように今回もその仕事は中々上手くいかなかった。マルクスの知名度は相変わらずパリではゼロに等しく、エンゲルスはフランスの有社会主義者であるカベーやルイ=ブランを尋ねて協を仰いだが体よく断られてしまっていた。

パリでのエンゲルスの活動が滞る一方で、ロンドンでは幾分かマルクス論みに適う素養があった。ロンドンには既に『ドイツ労働者教育同盟[1]』という組織が活発に活動していたし、何よりイギリスには労働者達が政治革をすチャーチスト運動が広がっていたからである。1845年には『ドイツ労働者教育同盟』とチャーチストが中心となって、「万人は兄弟である」をモットーにした『友愛民主主義者』という組織が結成されていた。

1847年に機は熟し、ロンドンに各組織の代表者が集まり、際的な『共産主義者連盟』を結成することが決まった。しかしマルクスがなくてロンドンに行けなかったため欠席を余儀なくされる。ブリュッセルからはヴィルヘルム・ヴォルフが、パリからはエンゲルスが出席していた。その次の会議にはマルクスも一念発起してを絞り出し、を渡って参加をきめる。

その会議の参加者は名だたる社会主義者が参加していたのだが、高等教育を受けていたのはマルクスとエンゲルスのみであり他は全て学な労働者であったので、組織はこの二人が導で運営されることになる。そこでマルクスとエンゲルスは『共産主義者連盟』を代表し「共産主義とは何か?」を示すパンレットを執筆することに決める。これがかの有名な『共産党宣言』である。共産党宣言は後にマルクスブリュッセルに帰ってきてから完成され、ロンドンに送られた。

しかし共産党宣言が印刷され発売される直前にヨーロッパで大事件がおきた。それが世に言う2月革命である。1848年2月24日労働者と資本家の対立が最高潮に高まったパリ革命が発生し、フランス王ルイ・フィリップイギリス亡命したのである。

この革命は後にヨーロッパ全土に広がっていくのであるが、マルクスの渇望していたこの労働者による革命は逆に『共産主義連盟』に大きな負担となってのしかかった。混乱によって9月ブリュッセルで開催されることになっていた第一回の『民主主義大会』は中止になり、共産党宣言も実際起こってしまった革命の前では味気を失ってしまったのである。

さらに革命の火が自に及ぶことを恐れたベルギー政府は自にある怪しい組織の弾圧を始めたのである。ヴィルヘルム・ヴォルフは警官に逮捕され拷問を受け、マルクスもその直後に外追放を命じられた。お金のなかったマルクスはそれでもベルギーウダウダやっていたので一家って逮捕され、もう一晩たりともブリュッセルにいてはならないと最終告知を受ける。こうしてマルクスベルギーを追放され(三年ぶり三回パリへと亡命するのであった。


  1. ドイツ労働者教育同盟。ヴァイトリングを中心としたドイツ共産主義活動を担いパリで活動していた『正義者同盟』が1839年に内部分裂を起こした後に1840年にロンドンで発生した分である。発起人は植字工のカール・シャッペル、靴職人ハインリッヒ・バウエル時計職人のヨーゼフ・モール。この組織は正義者同盟と違って秘密結社でない然たる組織であり、アカデミックな共産主義を宣伝した。

革命の年(1848~1849)

ベルギーを追放されたマルクスだが、捨てる神あれば拾う神ありパリからの追放命が取り消されていたので今度はパリへと向かった。パリに到着したマルクスとその仲間たちは速活動を再開する。『ドイツ民主主義委員会』という組織を結成し、合議の結果ヘルヴェークを会長が選出された。マルクスは重要なポストに自分がつけなかったことに激怒し、ヘルヴェークをこきおろした上で『共産主義者連盟』の活動にのめり込んでいった。この時、マルクスヘルヴェークの熱な支持者である元新聞記者のボルンシュテットを嫌がらせのために連盟から追放している。ヘルヴェーク自身は連盟には参加していなかったので難を逃れることができた。

一方フランスで発生した革命ドイツにも飛び火し、三月革命を発生させていた。そこでマルクス革命に乗じて共産主義を宣伝するためにドイツケルンへと移動して、革命王制を倒してくれることを期待した自由義的ブルジョワジーたちの援助を得て1848年6月1日に『新ライン新聞』を創刊しその筆となった。しかしブルジョワであることはマルクス新聞経営を難儀なものにした。彼らスポンサー絶対王政を嫌っていたが、それ以上に共産主義を嫌っていたからである。そして、そのブルジョワたちは革命の火が下火になるにつれて、絶対義の次に出てきたプロレタリアートによる共産主義という怪物を警し始めていく。

このころマルクスは30回誕生日を迎えており、政治的活動の絶頂の時期を楽しんでいた。革命は彼の予想通りに動き、近いうちに全ヨーロッパを自らの意思の下に支配できると考えていた。そこでマルクスブルジョワ達と手を切り、プロレタリアートの支持によってのみ活動を続けることを試みた。しかし当時の労働者といえばほとんどが共産主義のことをまるで分かっていない者ばかりで、一部共産主義を知る人も社会主義者たちによってめられていた。更に、田舎に行ったことのなかったマルクス理論の中には、人口のけして少なからずを占めていた農民の介在する場所がなかった。マルクスにとって農民は洞窟で暮らす土人と一緒であり、マルクスは、覚めていない(科学共産主義について分かっていない)労働者や農民、さらに自治をちらつかされてオーストリアハンガリー帝国に協するに至った帝国周辺の異民族労働者についてはこれを「ルンペンプロレタリアート人間のクズ)」や「半革命」として辛辣に罵倒している。

『新ライン新聞』はそれから三ヶ以上穏に続いていたが、やはりと言うべきかの末には官との衝突が起こった。1848年9月17日に巨大な野外デモケルンに近いラインで開催され、そこにエンゲルスを初めとした『新ライン新聞』のメンバーが参加していたため新聞は発行停止をくらい、デモの参加者たちはこれ以上ドイツに留まっていることは危険と判断し外逃亡を図った。エンゲルスもスイス亡命する。

マルクスデモに参加していないので追放を免れたが、三週間にわたる新聞の発行停止はマルクスにとって痛手であったが、その頃にはマルクスは編集部の更なる独裁者と成り果てていた。暴君マルクス欧州革命の失敗を薄々感じ初めていたが、自らの自信が失われることは一切なかったのである。

調子に乗ったマルクスは、仲間二人と共に『ラインラント地方民委員会』の名において税金の支払いの拒否と民兵(ミリシア)の集結を呼びかけた。当然プロイセン当局はこれに怒り、『新ライン新聞』ではなく、マルクスとその二人の仲間治安の罪で告訴した。しかし裁判は1849年に開かれたが、マルクスは得意の弁舌を用いて陪審員を論破してしまい、三人って無罪の判決を獲得する。これにより『新ライン新聞』の名は世に知れ渡ることとなったが、当局から睨まれたマルクスは、結局革命全に終結した後にプロイセン籍の剥奪とプロイセンからの追放を命じられる。(1年ぶり4度

プロイセン亡命パリへと戻ったマルクスは偽名を使って警官のを逃れていたが、7月になって結局取っ捕まる。警察ブルターニュ地方のモルビアンというド田舎に行くならフランスに留まっていていいよとマルクスに通告した。マルクスは物価の安いスイスでエンゲルスと一緒になることを思いつくも、最終的に彼は革命的精は乏しいものの個人的自由較的保されていて、何より彼の研究必要不可欠な大英博物館のあるロンドンに移住することを決定する。マルクス1849年の8月9月ロンドンへと移動し(数ヶぶり5度の追放)、数週間後家族もやってきた。この後、マルクスは生涯の残り半分、30年以上をロンドンで過ごすことになる。

ロンドンでの極貧生活(1849~1856)

1849年のロンドンにやってきたマルクス一家はキャンバーウェルの名士の集う郊外で、具付きのを借りてそこに住み始めた。マルクスにはその頃、三人の子どもがいた。母親と同じ名前のイェニー5歳、ラウラ4歳、そしてエトガー2歳である。それに加え、ロンドン到着後にはもう一人の息子ギードーが生まれていた。妻イェニーと四人の子、そしてメイドを含めた6人がマルクス家族であった。マルクスイギリスでは政治的な友人はいたのだけれど、普通友達は相も変わらずゼロであった。楽観的なマルクスロンドンでの生活は揚々としたものであると考えていたが、その一方で生活手段や収入を得る方法は全く考えていなかったので、後年ロンドンでの一家の極貧は凄まじいものになるのであった。

その年の終わりにエンゲルスがスイスから帰ってくると、マルクスは『新ライン新聞評論』というドイツ語で書かれた新聞を創刊した。これはハンブルクで発行されたのだが、寄稿者はほとんどマルクスとエンゲルスだけであった。『新ライン新聞評論』にはエンゲルスは革命歴史マルクス革命哲学の原稿を投稿していたのだが、マルクスがそんな甘い原稿しか書かないはずがなく、当時ロンドンにいたドイツ亡命者たちを毎度のこと批判しまくってケンカを売りまくった。しかし皮なことにこの新聞の購読者はそのロンドンドイツ亡命者だけであったのだ。その後『新ライン新聞評論』は資繰りに行き詰まり、1850年の最初4ヶにはに一回出せていたものが次に11月号を出して、それっきり休刊になってしまった。マルクスの手元には既に一銭のもなく、イェニーが病気の子にを与えんと必死になっていたにも関わらずでは差し押さえが行われてしまった。

仕方がないのでマルクスレスター・スクエアのドイツホテル一週間ばかり身を寄せた後に、ロンドンで一番貧しい外国人亡命者の住むソーホーのディーン二十八番地の下層室2室に住むことになった。彼らは今後6年間をここで過ごす。

マルクスは食べるものも着るものもほとんどなく、部屋にはいつも借取りがやってきてドアいていた。それでもマルクスは原稿を買うために虎の子の妻の食器や自分のオーバーを売ったりしていたのである。そんな生活のさなか、マルクス夫妻に二人のフランチェスカとエレアノールが誕生した。しかし一家の住むソーホーは不衛生極まりない場所であり、食べるものにも事欠くマルクス一家子ども達は次々に死んでいった。ギードーとフランチェスカは幼いうちに死んだ。1853年にフランチェスカが死んだ時にはマルクスには葬式をするどころか、埋葬をするすらなかった。1855年にはエトガーが亡くなり、マルクス子どもは丁度半分になってしまった。

その後マルクスは妻イェニーの実家遺産が入り込み、やっとこさ貧民街ソーホーを脱出しヘイヴァスト丘のグラフトン高台にある具を買って移り住んだ。しかし相変わらずマルクスの手元にはなかった。ロンドンドイツ亡命者に良い仕事はまわって来るはずもなく、その頃のマルクスの収入はたった二つしかなかった。アメリカ新聞ニューヨーク・トリビューン』の不安定な原稿料と、そしてなによりエンゲルスの援助である。私たちは、マルクスがエンゲルスを存分に搾取することによって自らの研究を続けることができたという歴史の皮をここに見ることができる。

ちなみにこの頃、1853年に日本ではようやくが来航し開芽が見えている。

政争(1849~1853)

マルクス革命の火から遠く離れたロンドンでも政治活動を止めることはなかった。マルクスは、そのうちヨーロッパで小ブルジョワ的革命が起きた後プロレタリア革命が起きると考えており(これは永続革命論と呼ばれ、後にトロキーによって取り上げられた)、周りにその予言を吹聴していた。

1849年にドイツフランスで活動停止となった『共産主義者連盟』であるが、連盟自体はいまだ健在であった。組織の幹部であったモール戦争で既に亡くなっていたが、植字工のシャッペルと靴職人ハインリッヒ・バウエル1849年のロンドンにやってきて、マルクスと合流した。エンゲルスの旧友であるアウグスト・ヴァヒッリ、そしてプロイセンヴィルヘルム・リープクネヒトコンラートシュラムを加えて1850年3月に彼らは再び活動を再開した。彼らは少人数ではあったけれどもいずれヨーロッパプロレタリア革命は起こるという希望があり、志があった。

しかしマルクスの予想は大はずれする。マルクス革命が進むと予言したフランスではナポレオン3世の下で反動化、つまり古い政治体制に戻ってしまったのである。マルクスはこのことに激怒し、著作『ブリメール18日のクーデタ』でナポレオン3世政権を痛批判したが、予言を外したマルクスには冷ややかな線が注がれてしまった。

特にマルクスと反したのはヴァリッヒであった。マルクスの独裁的な性格を快く思っていなかったヴァリッヒはシャッペルと共にマルクスに反抗明を出した。マルクスは一応はそれを多数決で押さえ込んだものの、このままではいけないと考えて『ドイツ共産主義者連盟』の本拠地を自分の独裁に都合のいいドイツケルンに移動することに決めた。これによりマルクスとヴァリッヒとは全に決別し、ヴァリッヒは連盟を脱退し新しい組織『際委員会』を創立した。これによりマルクス率いる旧連盟は著しくを失うこととなったが、ヴァリッヒの組織もルイ・ブランなど他の非共産主義的組織と合併したりして勢いはしょぼかった。

さらに連盟がケルンに移動したことによってもう一つの問題が発生した。それはドイツではロンドンと違って政治活動に対する規制が強かったことである。マルクスが内部分裂を起こしている一方でプロイセン政府ロンドンのいるドイツ亡命者達への警を一切緩めていなかったのだ。

そのプロイセン政府が最も警していたのが、マルクスの『共産主義者連盟』であった。プロイセン政府は連盟の実を飛び抜けて過大評価していたのである。プロイセン政府に残る報告書によると「共産主義者連盟はヨーロッパ350社会主義組織を揮し、全構成員は5万人をえる」と書かれている。当然これは現実から大きく離れたものであった。

プロイセン政府はどうにかして連盟のメンバー逮捕したかったのだが、一応プロイセン近代国家であり表現の自由と出版の自由が保されていたので、中々マルクス一味を拘束することはできなかった。政府はどうにかして連盟が政府転覆の計画や暴力煽動を企画しているという拠を手に入れたかったが見つからないので最終的に拠は偽造して連盟のメンバー逮捕するに至った。このでっち上げられた拠をもとに連盟のメンバー11名が18ヶ監禁の後に1852年10月の末に裁判にかけられることになる。マルクスは裁判での勝利めて被告人に有利な拠を集めようとしたのだけれど、マルクスのいるロンドンから検閲をくぐり抜けてプロイセン拠の品を送るのは困難であった。

最終的に裁判では雑な偽造の拠を裁判官に却下させることには成功したのだが11名中7名が他のところで有罪判決をくらい、これによってプロイセンでの『共産主義者連盟』の命運は尽きた。判決後数週間の後に連盟もヴァリッヒの組織も解散。これからマルクスは10年以上際的革命組織に属することはなかった。

種々のジャーナリズム(1851~1862)

フランスでは反動化、ドイツでは裁判に負け、マルクスヨーロッパでの共産主義運動は最イギリスでしか遂行することはできないと思われた。マルクスイギリス労働者たちによるチャーチスト運動に期待をかけた。マルクスが頼ったのは彼の旧友のハーニィとアーネストジョーンズであったが、ハーニィはマルクスと仲の悪かった団体とも密にしていたのでやがて疎遠に、というかお約束マルクスの罵倒→ケンカ別れになった。もう一方のアーネストジョーンズイギリス生まれドイツ育ちの傑物であった。ジョーンズは『人民新聞』なる週刊誌を創刊し、1852~1854年の間マルクスはこれに頻繁に原稿を送っていた。

マルクスは『人民新聞』に先んじて1851年から経済困難のためにアメリカ新聞ニューヨーク・トリビューン』にも寄稿しており、これはマルクス一の定期的な収入であった。この『ニューヨーク・トリビューン』という新聞1841年にホレースグリーリという理想義的な印刷業者によって創刊された後に、アメリカブームだったフランス社会主義フーリエを受けたものになっていた。1848年時点でトリビューントマス・マッケルロースチャールズアンダーソン・デーナによって経営されていた。

彼らは1848年の欧州の諸革命に強く興味を抱き、デーナは欧州に視察旅行に出るのだがそこで彼は『新ライン新聞』の編集者として活躍をしていたマルクスと出会う。その会見がきっかけとなって1851年にトリビューンマルクスに対して週二回の寄稿を依頼した。マルクス貧乏から脱出するために喜んでこの申し出に飛びついた。しかしマルクスはこの新聞が自分の政治針と別の針を示していることに気付き、更にマルクス英語が書けなかったので、エンゲルスに「の代わりに原稿書いといて。あ、原稿料はの物だからね?」と頼み込んだ。こうして一年マルクスの原稿はマルクス名義ではあったものの全てエンゲルスによるものであった。1852年のになってマルクスは原稿を自分で書き始めるがドイツ語で書いたものをエンゲルスへ送って英訳してもらうという方式をとっていた。しかしエンゲルスの英語が酷いものであると評判を聞いたので、1853年1月から自分で英語で書くようになった。性格悪すぎである。

マルクスが最初に送った原稿は、当時変化を続けていたイギリス政治に関するものであった。当時のイギリスではダービー首相とディズレーリ蔵相を中心とした保守党が躍進していた。マルクスアメリカ読者イギリス要な政党に関する鋭い分析を提供した。マルクス保守党と、それに対抗する急進を厳しく批判した。

1853年にはマルクスは当時のヨーロッパで最も注されていたトピックの一つである東方問題(欧州トルコロシア外交)に関して興味を持ち始めた。マルクスは当時の東方問題についての知識人デヴィット・アーカートの著述を研究し始めてアーカートを信奉するようになり、民衆から支持を受けていたロシアイギリス政治家パーマーストン卿を二人で批判していたが、毎度のことすぐにケンカを始めた。しかしマルクスはアーカート経済支援無視できなかったし、アーカートの方も欧州に関する知識豊富なマルクス重であったので二人の関係はしばらく続いていた。アーカートはその後、イギリス女王政府外交政策を研究批判するための『外交委員会』なる組織し、組織発行新聞の『フリー・プレス』に原稿を書いてくれるようマルクス依頼したが、原稿料の支払いは不安定であったし、途中ケンカして中断を挟みながら1857年の全に寄稿は止まった。

この頃マルクスが原稿を送っていた新聞には他に、ジョーンズの『人民新聞』とデーナの『ニューヨーク・トリビューン』があったが、その二つの方も継続が怪しくなっていた。『人民新聞』はイギリスと同盟であったフランス批判することを止めなかったため、非国民的だとかれて売り上げを減させた。結局『人民新聞』は1858年に急進の『モーニング・スターに身売りして独立の存在を失った。『ニューヨーク・トリビューン』でもマルクスは多くのトラブルを起こしていた。マルクスは自分の記事が編纂されて面に載ることに抗議して、結局1855年以降マルクスの記事は署名で掲載されるようになった。マルクスは『ニューヨーク・トリビューン』に対する不信感を強めながらも経済的理由の為、嫌々原稿を書き続けたが、それも50年代にヨーロッパを襲った大不況によって彼の仕事減していた。1855年にはラッサールの紹介で働いていた『新オーデル新聞』も廃刊になった。

それから数年の後にマルクスは再び収入のほとんどをエンゲルスに頼ることとなる。デーナは必死マルクス仕事を回していたが、マルクスは編集の「売れるために風刺的な文章」という要に嫌悪感を抱いていた。それも南北戦争によって読者の関心が欧州からアメリカに移ったことにより1862年のマルクスへの原稿の依頼は0になりマルクスジャーナリストとしての仕事全に終わりを迎えた。

第一次インターナショナル(1862~1864)

1864年資本論一巻の刊行(1867年)に先立つ形で、マルクスは『労働者同盟』、いわゆる『第一次インターナショナル』の創立に参加し、すぐにそこでの導者となった。

元々マルクスインターナショナルの発起人ではなく招聘される側であった。インターナショナル誕生のきっかけは1862年のイギリス万国博覧会である。この々しい場所にかのナポレオン3世の支援により渡英したフランス労働者200人がやってきて、イギリス労働者代表とグレートクイーンフリー・メーソン会館で会談したのである。会談は成功に終わり「フランス及びイギリス労働者の同盟のための万歳三唱」をもって議事は終了した。これが一連の事件の全ての出発点となった。

歴史的に海外の動きもあった。1863年にはアメリカリンカーン奴隷解放が宣言されイギリス労働者団体はこれを喜んで迎え入れた。また同年、ポーランドロシア分割支配地域で反ロシア叛乱が発生。ポーランド革命政府(臨時政府)はポーランド独立、全民の等を宣言し、封建制を打破する政治的、社会革命を推進しようと試みたが、これが帝政ロシアの圧を受けることは火を見るより明らかであった。そこで、当時イギリスで有労働者団体の導者であった夫人靴工のジェイムズ・オッジャーは集会を開き、イギリス政府ポーランド支援すべきであるとした。オッジャーイギリス政府を動かすためにはフランス労働者支援が必要であると考えた。イギリス世論をポーランド支持に向けたかったナポレオン三世は再びフランス労働者団体を支援し、英労働者団体の会談は再び行われ『労働者同盟』の創立が検討された。その後ポーランド叛乱は欧州の同情があったにも関わらずロシアの圧倒的武によってすぐに鎮圧されてしまったが際的な労働運動の炎は消えなかった。こうして会談は続き、ついに1864年、様々な団体を巻き込みつつ『第一次インターナショナル』は誕生したのである。

ここに至ってマルクスは一切の運動に関わっていない。マルクスはこの団体が誕生した時に、議事をフランス語翻訳する係として呼ばれただけである。しかしこの招聘はこの団体の未来を大きく変えることとなった。『労働者同盟』の集会にはイギリスフランスドイツイタリアスイスそしてポーランドの六カが集まり、労働者の諸問題についてってはいたものの、共産主義的な要素はほとんどなかった。いつも通りマルクス会議の参加者をバカにして少し批評をしてみると、労働者たちはまるでマルクスについていけなかった。参加者たちはインテリではあったものの、労働運動についてはまるで素人であったからだ。マルクスは団体の規約を決める仕事を経て、すぐにインターナショナル導者的立場へと躍り出た。

しかし、インターナショナルにおいてマルクスが実質的導権を握ってはいたのだが、組織には三つのマルクスに対抗する閥があった。

当初最も勢いがあったのはイギリス労働者組合閥である。彼らは組織設立の原動になり、インターナショナルの本部は最初から最期までずっとロンドンにあったし、なにより運営の多くの部分を彼らが捻出していたからだ。インターナショナル会議ロンドンで開かれた時、マルクスイギリス人に彼の経済唯物論革命理論をハツラツと演説したが、イギリス人の反応は薄かった。彼らにとって労働者階級の利哲学経済学関係のものだったのだ。

1866年にジュネーブで開かれた第一回年次大会ではマルクスプルードン義者たちと労働運動政治運動の関連性について諍いを起こした。ついでマルクスはバクーニンとも意見を一致させることが出来ず、結局インターナショナルは組織が出来て間もないにも関わらず分裂の兆しが既に見え隠れし始めていた。

1867年資本論」の第一編を刊行。

晩年の活動

オットー・フォン・ビスマルク
彼は1878年に社会主義者鎮圧法をだしマルクスを苦しめた。

内部分裂の兆と財政難を抱えながらも第一次インターナショナルは、いくつかの大会を成功に収めていた。1867年には第一回ジュネーブ大会、67年に第二回ローザンヌ、68年と69年にはそれぞれブリュッセルバーゼルで大会が開催されている。わけても第一回大会は(閥争いはあったものの)大きな盛り上がりを見せて、そこでインターナショナル行動針が決定された。労働運動があるところにインターナショナルの活動があり、マルクス貧困健康問題に苦しみながらも資本論の執筆と行してインターの運動に参加していた。

しかしやはりというべきか、徐々にインター内の内部分裂がしくなってくる。プルードン現在社会制度を良していくをし(義)、政治闘争やストライキには反対していた。かたやバクーニンは極左に走り、国家政治そのものを否定する無政府主義者であった。マルクスとエンゲルスは彼らとは逆に政治闘争やストライキを重視し、革命によって政治労働者の手に収めようとするプロレタリア独裁をした。

第4回大会ではマルクスとバクーニンがするどく対立する。ついにはそれまで病欠していたマルクスが初めて参加した72年の第5回ハーグ大会でマルクスはバクーニンの除名を可決してしまった。更にマルクスインターナショナルの総務委員会をニューヨークに移すことを決議した。こうしてマルクスの初めての大会参加はインターの分裂と移転を決める大会となってしまった。

マルクスがこうした判断をした背景にはパリコミューンの敗北があった。1871年に普戦争プロイセン勝利で終わると、パリ世界で初めて労働者政治を握ったパリコミューンが成立した。マルクスコミューンを高く評価し、3つの明をだしてこれを援助した。それは今日では『フランスの内乱』というタイトルで彼の要著作の一つとなっている。

しかしパリコミューンは内乱の果てに僅かな期間で崩壊してしまった。パリコミューンがある間はインターナショナルもこれを支援するために一致団結する必要があった。それがコミューンの瓦解によってインター内の意見対立が一気に吹き出すことになってしまったのだ。1876年、アメリカフィラルフィアで第一次インターナショナルは正式に解散してしまう。インターナショナルが失敗に終わるとマルクスは気落ちして、彼の体は一気に老衰に向かってしまった。エンゲルスはマンチスター工場を売り払い、ロンドンに移住までしてマルクスを援助した。

だがマルクスが落ち込んでいる間も世界の動きは止まることを知らない。鉄血宰相ビスマルク導の下で普戦争勝利したプロイセンドイツ統一へと導いた。これにより英から遅れていたドイツでも資本主義が発展し、同時に労働運動も躍進していく。その右を担ったのがラッサールの「ドイツ労働総同盟」であり、左にはマルクスリープクネヒトやベーベルらの「ドイツ社会民主労働党(アイゼナハ)」があった。右と左1875年にゴータの大会で合併し、名を「ドイツ社会主義労働党」とめた。この時に表されたゴータ綱領をマルクスは気に入らず、これを鋭く批判する。この批判書『ゴータ綱領批判』はマルクスの最期の要著作となった。

巨星墜つ

あっちに行け、出て行け!臨終の言葉なんてものは十分に言い足りなかった馬鹿者達のためにあるんだ!マルクス最後の言葉政婦が「臨終の言葉を言ってください」と頼んだことに対して)

人類は頭一つだけ低くなった。(エンゲルス、マルクスの死に際して)

1870年代になるとマルクス肝臓を病み始める。これはストレスが原因とされているが詳細は分からない。温泉治療などを繰り返すようになり、これによりマルクスは一時的に健康回復するが、今度は妻イェニーが肝臓にかかり、長い闘病生活の果てに1881年にす。マルクスはこの長年の貧困生活を共に過ごした夫人の葬儀ドクターストップによって参列できなかったので墓前で弔辞を読んだのはエンゲルスであった。そして妻の死後、カールに追い打ちをかけるように彼の最の長女ジェニーまで折してしまう。

妻の死後マルクスはほとんど廃人のようになり、衰弱していく。彼の体には既にありとあらゆる病魔が取り付いていた。そして1883年3月14日、肘掛け椅子に座ったままで天国?への路につく。享年65歳であった。彼の墓はイギリスロンドンハイゲイ墓地にあり、現在でも彼の墓前にを添える人は絶えないという。ちなみに墓地観光は有料。立像が墓標に立てられておりかなり立っている。ちなみにこの墓標は結構デカい。

さらに余談ではあるが、彼の死から三ヶ6月5日に次世代の経済学巨人ジョン・メイナード・ケインズが誕生している。

その人柄

ニートマルクス

ドイツが生んだ偉大なニート世界に最もを与えたニートとも。

成人しても定職につかず遺産を食い潰しながら生活し、それが尽きた後は資本家友人にたかり続けるというニートの鑑。後に記者の職を得たり、著書が売れたりもしたが、収入に見合わないアッパードル生活を続けたために常に計は火のからは「資本の研究ばっかしてないで資本を稼いでこい」と言われる始末。

そのくせ、たまに講演を引き受けたりしても見栄をって報酬をめなったとか。結局のところ、足らない分は労働者から搾取して財を成した友人に出し続けてもらうということに。友人お金をたかる文句もひどいもので、「たとえば子供たちを退学させ、まったくのプロレタリアート的住宅に移り、メイドに暇をやり、じゃがいもで暮らすようなことは、育ち盛りのたちにとってほとんどふわさしいことではないだろう」などと、自分のたちをだしにした挙句、労働者生活馬鹿にしたような事まで書く外道である。そこまでたかられても支援を続ける友人の寛大さにはに恐れ入るが、その友人も、身内の葬儀を伝えた手紙の返信で心された時にはさすがにぶちきれたとか何とか。もし、労働者天国と地獄があるのなら、間違いなく地獄送りであったろう。

マルクスがこのようにニートだったことから、たまに「マルクスの考えた共産主義社会は、働かなくても大丈夫ニート天国」と誤解している人もいるが、当然そんなことはない。

メイド萌えマルクス

こんな銭感覚破綻者がどうにか生活を続けられたのはしっかりもののメイドさんのおかげ。マルクス夫人イェニーさん父親は枢密顧問官という高級官僚であり上流貴族に属していためイェニーさんは一人でマルクスいだ訳ではなく、子供の頃から一緒に行動してきた自分の姉妹同然の専属メイドさんを伴っていた。それがヘレーネ・デムート、レンシェンさんである。

このレンシェンさんというメイドさんは給料も貰えないことも多いのにマルクスに数十年務め、マルクスの死後エンゲルスの下で暮らし、死後はマルクスの墓に埋葬されるほどなのに、女の悪いマルクスときたら、レンシェンさんに手を出して妊娠させてしまい、さらには生まれた子供の処遇もやはり友人丸投げした(友人の子として里子に出した)というどうしようもないダメ人間っぷり。

だけど、伝統的なマルクス研究者の間では、これはマルクス批判者による根も葉もない誹謗中傷だとしてしていることが多い。レンシェンさんの息子フレデリックが「自分の父親マルクスである」と書いた手紙マルクス、エリノアがフレデリック腹違いと記した手紙が現存しているが、手紙そのものの信憑性も疑わしいという意見もある。果たして相はどうなのか?

ちなみにマルクス正妻のイェニーさんの間には7人の子供が生まれたがほとんどは栄養失調で亡くなってしまい、生き残ったのは3人のだけだった。

悪筆マルクス

マルクスは極端な悪筆でも知られ、その文章は本人かエンゲルスしか読めなかったとの事で、エンゲルスは著書の刊行などにあたって必死で彼の文章を読み解こうとしたためにを悪くしたというくらいである。

マルクスの死後、全世界社会主義者の望みは、マルクス書斎に残されている、まだ世に出ていない膨大な稿が出版されることであった。しかしマルクスの書いた文字読み解けるのはこの世でエンゲルスだけであったので、極めて大量の編集作業はエンゲルスに一任されることになってしまった。しかもエンゲルスも容易にマルクス書体読み解ける訳ではなく、エンゲルスはマルクス書体を『象形文字書体』と読んで必死読み解かなければならなかった。その作業がエンゲルスの寿命を縮めたのかは分からないが、エンゲルスは資本論三巻の出版から8ヶ後にこの世を去る。エンゲルスは、自分の死後、自分がめきれなかった稿を出版させるために、生前、子のカウキーマルクス書体解読法を伝授していた。

マルクスの悪筆の頂は「nienur論争」である。「nienur論争」とはマルクス手書き稿であんまりに字が下手すぎて「nie」と書いてあるか「nur」と書いてあるか分からない場所があるのだが、ドイツ語では「nie」は「決して〜ではない」という意味であって、nur」は「〜でしかあり得ない」という意味になる。つまり受け取り方によって文章の意味が逆になってしまうのだ。マルクスは果たして「nie」と書いたのか「nur」と書いたのか。それを知るのは天国マルクスだけなんだろう。

他にもロンドン時代に鉄道局の書記になろうとしたが字が下手なことを理由に断られたりしている。

マルクスの性格

30年にわたって大英図書館に通い詰め、研究および著述活動に専念した生の学者であり、はともかく、その学識の高さは多くの人の認めるところだった。ただし、その性格は自信傲慢不遜、異論や妥協を認めない頑固さに非常に高い攻撃性を持っており、非常に付き合いにくい人物とされていた。

マルクスはけっして弱きを助け強きをくじく正義の味方などではなく、自分のと才を発揮することにしか興味がなかった。マルクスは自分の理論に一切に過ちがないと信じていた。自らの理論批判する者はみなバカクズだと考え、矛盾論破せずにおくことは知的配信を推進することだと周りに漏らしていた。マルクスの辛らつな舌鋒は、資本家のみならず他の社会主義活動家想的社会主義者)にも向けられ、むしろ一度彼に賛同しつつもその後離反した者に対して最も彼の敵意は向けられた。

そのマルクスの姿勢こそが(日本の新左翼にも見られたような)粛清や分乱立の元となっているともされる。この性格は生まれつきであり、大学在学中は父親息子カール余りに高すぎるプライドをどうにかするために何通も手紙を書いているがほとんど効果はなかった。

一方で自分の支持者に対しては大人物として振る舞い、そのため労働者にはよく慕われていたという。現在、一般に考えられているマルクス後者イメージによるところが大きいのだが、学者や革命べて労働者の数の方がかに多いことを考えれば、自然なりゆきであったと言えるだろう。

シェイクスピア読するなどの芸術的感性もあり、芸術に関する論文も発表している。

長女ジェニーからカールパパへのアンケート

ロンドン在住、長女ジェニーは当時流行っていたアンケート遊びに中になっていた。カールをはじめ、さまざまな人の回答を聞いて『告白帳』なるノートにまとめていたらしい。

質問 マルクスの回答
すべき徳とは? 男なら。女なら弱さ
あなたの長所は? 頑固に努すること
あなたが幸福だと感じること 闘争すること
あなたが不幸だと感じること すること
あなたが最も後悔している悪しき行い 簡単にだまされること
あなたが最も嫌悪する行為 おべっかをつかうこと
あなたが拒否するもの マーティンタッパー[1]
何をしてるのが好きか 本を漁っているとき
好きな詩人 シェイクスピアアイスキュロス[2]、ゲーテ
好きな散文作家 ディドロ[3]
あなたの英雄 スパルタクス[4]、ケプラー[5]
あなたのヒロイン グレートフェン[6]
好きな
好きな色
好きな名前 ラウラ、ジェニー[7]
好きな食べ物
好きな格言 人間的なことで嫌いなものはない 
モットー 全てを疑ってかかれ
  1. マーティンタッパー1810~1889):イギリス詩人
  2. アイスキュロス(BC525~BC456):ギリシャ三大悲劇詩人の一人
  3. ディドロ(1713~1784):フランス哲学
  4. スパルタクス:ローマ帝国時代に奴隷叛乱を組織した人物
  5. ケプラー(1571~1630):ドイツ天文学
  6. グレートフェン:ゲーテの著作『ファウスト』の登場人物
  7. ラウラ、ジェニーマルクスの長女と次女の名前

マルクスの人間関係

イェニー(ジェニー)

マルクスの妻イェニー・マルクス1814~1881)。マルクスを生涯に渡って支えた伴侶である。

詳しくはこちら→『イェニー・マルクス

エンゲルス

マルクスるにおいてエンゲルス(1820〜1895)を外すことはあり得ない。

マルクスにとってエンゲルスとは、友であり、同僚であり、パトロン経済支援者)であり、戦友であり、そして何よりマルクスの一番の理解者であった。マルクスにとってのエンゲルスは、サトシにおけるピカチュウハッピーセットにおけるしょぼいおもちゃのように切っても切れない存在である。

詳しくはこちら→『フリードリヒ・エンゲルス

ハイネ

大学時代のマルクスは、人付き合いが苦手で、暇さえあれば婚約者のイェニーに「が心の甘美なるイェニー」とかいう民謡集や自分で書いた愛の詩を送っているような文学少年であった。このため、パリ時代のマルクスは「愛の詩人」として当時既に名を博していたハインリッヒ・ハイネ(1797〜1856)と交を交わすようになった。

ハイネも元ユダヤ人でありキリスト教宗した遇であった。パリ時代のハイネを作ると21も年下のマルクスとその妻イェニーに感想を聞いたという。マルクス名言宗教はアヘンである」という節も実はハイネ集の言葉であったそうな。

ハイネ1848年に病にし、1856年に病マルクスの書く文章は哲学書や経済学書にしては全体的に文学的、宗教的な修飾が非常に多い。このような感情的な装飾過多はマルクスが若い頃、じてしたことが原因なのかもしれない。

ヴァイトリング

ヴィルヘルム・ヴァイトリング1808~1871)はドイツ革命である。19世紀前半ドイツの手工業労働者運動揮し、後にニューヨーク移民労働者社会設立に尽した。

詳しくはこちら→『ヴィルヘルム・ヴァイトリング

リープクネヒト

ウィリアムリープクネヒト1826~1900)はドイツ政治家共産主義者。ロンドンマルクスとエンゲルスと仲良くなり、後にドイツ社会民主党を設立する。

リープクネヒト1850年にロンドン亡命してきて、オールド・コンプトンに住み着いた。リープクネヒトマルクス毎日遊びにきて、時には場で秘密結社相手に大立ち回りをしていた。

ラッサール

フェルディナント・ラッサール(1825〜1864)はドイツにおいてマルクス、エンゲルスに並んで高い評価を得ていた社会主義者。マルクスと出会った当初はマルクス、エンゲルスと意気投合し、「経済学批判」の出版の手助けや共産主義者同盟のメンバーとして活躍。マルクスに資援助も行っていた。しかし徐々にマルクスはラッサールを疎み始め関係性は悪化していった。その理由はラッサールがマルクスの思想をまるで自分が考えたかのように、その上めて世に出し始めたからである。マルクスは間違った社会主義人間に広まることを非常に恐れ、これを批判する書簡を多数書いた。

1859年のある日、ラッサールは「ジッキンゲ[1]」というタイトルの戯曲を出版した。ラッサールはこの戯曲をマルクスとエンゲルスに送り感想めたのだが、この二人は相当にうざかったらしく婉曲的に嫌みをふんだんに盛り込んだ批評を返した。ラッサールはこれを不満に思い膨大な反論をマルクスとエンゲルスに再び送るが、二人は「暇があったら返事するとだけ返し」これをガン無視する。これがジッキンゲン論争と呼ばれるものであるが、ここにおいてマルクスとエンゲルスの芸術に関する考え方が見て取れる点で重要視される。

1864年ラッサールは人を巡って他の男と決闘を行い、負けて死んだ。


  1. ジッキンゲンとは16世紀のドイツ農民戦争の騎士である。exitラッサールはこれを世に広めることによって自らの社会運動に意義を持たせようとしたのである。

バクーニン

ミハエル・バクーニン(1814~1876)はロシアの思想哲学者、無政府主義者、革命である。

クーニンはドイツから警察に追われ、スイスを経て1844年の7日に『ヘーゲル革命』の御旗を掲げながらパリに襲来し、マルクスと初邂逅を果たす。

プルードン

ピエールジョゼフプルードン1809~1865)はフランス社会主義者、無政府主義者。

プルードンは独学の労働者で、長年印刷屋として働いていた異端の思想である。彼は実践よりも理論を重視する社会主義者であり、ドイツ語の出来ないフランス人であるにも関わらず熱心にヘーゲルを勉強していた。バクーニンともよしみがあり、彼からドイツ哲学について学んでいたこともあった。しかし所詮は又聞きであり、マルクスからはヘーゲル哲学を間違って社会主義に応用しているとして批判された。

マルクスは出会った当初はプルードンを賞賛し、プルードンの著作である『財産とは何か?』を近代経済学におけるフランス革命のシェイイエスの『第三身分とは何か?』に匹敵するほどであると評価した。

しかしやはりというべきか、マルクスプルードンへの賛美は長続きしなかった。やがてプルードンマルクスは決別し、プルードンの『貧困哲学』を皮ってマルクスは『哲学貧困』と題した論文を後に出版している。

プルードンは多くの子を惹きつけ、彼の死後プルードンマルクスと対立した。特に共産主義運動における経済政治の分離の問題において両議論を重ねた。

マルクス経済学

マルクス経済学とはアダムスミスリカード経済学をもとにマルクスが発展させ「資本論」において集大成を持たせたマルクスを始祖とする経済学の学問体系である。その特徴はスミスリカード労働価値説理論的基礎として、剰余価値理論を踏まえて資本主義を分析している点にある。

詳しくはこちら→『マルクス経済学

主なマルクス学者、思想家、批判者、フォロワー

マルクス義は世界を席巻した思想であり、20世紀にわたって強いを持った。そのため、マルクスからを受けた思想も極めて多い。彼らがマルクスを通じて研究した対は、哲学政治学、経済学の他に歴史学ジェンダー論、際関係論と多岐にわたり、レーニン義、西欧マルクス義など多種多様に流が存在している。

日本

日本マルクス研究が盛んなの一つである。例えば宇野蔵、伊藤誠渉の3名の名前が挙げられよう。宇野蔵は今でこそ余り知られていないが、マルクス学を政治的イデオロギーから引き離し学問として確立した業績によってマルクス経済学世界では有名人である。しかし、逆にあくまで社会主義す正当マルクス学者と宇野理論対立を起こした。その議論90年代(つい最近)になってようやく収束し、宇野子、伊藤誠(もちろん宇野)はその徴として、宇野在命中は考えられなかった正当との共同研究に取り組むなどしている。あと9条の会にも入ってたりexitニコニコではshooldays主人公名前が同じなので風評被害を受けている。渉は純哲学としてマルクス研究した学者。物理論研究し、マルクス研究要トピックに押し上げた。更に、それまでは定番とされていたドイツイデオロギーのアドラキー版をめ、新しい編集を行ったことでも有名(→ドイツ・イデオロギーの編集問題を参照)。

また不破哲三的場上野千鶴子も著作の数、メディアへの露出の多さから知名度は高いと言える。不破哲三日本共産党の大幹部。140以上の著作を出版しており日本の伝統的マルクス義者の中では抜群の知名度を持ち信奉者も多い。的場は新マルクス・エンゲルス全集の編纂に関わる神奈川大学教授。著書多数。マルクスゆかりの地を片っ端から巡るなど、マルクスの人物面のマニアである。上野千鶴子はマルクス主義的フェミニズムの先鋭。みんな大好きアグネス・チャンが職場に子どもを連れて来た時に「職場に子どもを連れて来て良いかどうか」論争で有名になった。有名なフェミニスト田嶋陽子リベラルフェミニストなので上野とは別の流である。

詳しくはこちら→『マルクス主義フェミニズム

ニコニコで一番有名なマルクス義者は恐らく外山恒一だろう。現在ファシストに転向して反体制右翼になっている。MAD素材ネタとして。最近は色んな所で政治活動や路上音楽活動をしているようなので近所に来たら会いに行ってみてはいかがだろうか? 佐藤優は元外務省所属の外交官。官僚時代は『外務省ラスプーチン』と呼ばれるほどの手腕を持っていたが、鈴木宗男に絡んで逮捕されてしまい、釈放後はマルクス義とキリスト教バックボーンにしたコメンテーターとして活躍している。マルクス経済理論を用いた視点からの経済分析は高い評価を得ており、ビジネス雑誌などでよくコラムを書いているので、そういうのを読む人の間では知名度は高い。若手マルクス学者としては、斎藤は『人新世の「資本論」』において晩期マルクスエコロジー思想と気変動問題の関連を論じ、2021年新書大賞を受賞している。

ソ連、ロシア

ソ連マルクス義者といえばまずは説明不要のウラジーミル・レーニンヨシフ・スターリンの二人だ。説明不要なので説明は簡単に。とりあえずマルクス研究レーニンが深めたマルクスレーニン義は「正当」と呼ばれ全世界マルクス義では圧倒的権威を持っていたことは押さえておこう。スターリンソ連支配の正当性を明するためにマルクス理論のいくつかを意図的に竄して世界に広めた。

詳しくはこちら→『帝国主義論』、『国家と革命

またクロポトキン、カレツキ、プレハーノフの3名も外せない。クロポトキンは当時権威を持っていたマルクス共産主義批判し、相互扶助を中心としたプルードン、バクーニンと並ぶ近代アナーキズム無政府主義)の大家。カレツキはマルクス経済学の立場としてあの有効需要の理論を発見。しかも、なんとカレツキはケインズよりもく発見していた。しかしケインズのほうが有名 になってしまったためカレツキは一般理論を読んだとき三日寝込んだらしい。詳しくは該当記事へ。プレハーノフはロシアマルクス義のと呼ばれる存在。 ヨーロッパでは最初のマルクス義の解説者となった。

ドイツ

西欧マルクス主義

ドイツマルクス義者を紹介する前に、西欧マルクス義というドイツフランスイギリスイタリア等で発展した西欧独自のマルクス義を紹介したい。

第二次世界大戦後の冷戦体制の中で、いわゆる西側諸国ではマルクス義をどのように評価するということが喫緊の課題であった。当時から既にソ連全体主義人権軽視は西欧の知識人の間では知られていたが、その一方で彼らは他のどんな哲学思想よりもマルクス義に魅せられたというジレンマがあった。そこで彼らはソ連マルクスレーニン義とは異なる西欧独自のマルクス義を模索しはじる。それが西欧マルクス義のスタートであった。

このような思想の流はロシア革命にまで遡ることが出来る。ロシアで共産革命が発生したことにより、マルクス義は未来革命すだけの思想から、実現された現実革命の欠点を摘し、その欠点を批判的に載り得る思想へと脱皮し始めたのである。

レーニンソ連唯物論マルクス義を科学として標榜し、歴史法則通りに進むと考えていた。しかし一方でソ連人間軽視の歴史を生み出していた。ソ連のいきすぎた客観義の反動として、西欧マルクス義は法則に縛られない人間体性を中心に置いた所が特徴の一つである。

フランクフルト学派

ドイツにおけるマルクス義の展開は一筋縄ではいかないほど複雑であるが、とりあえず名前をあげるとすればフランクフルト学派である。

詳しくはこちら→『フランクフルト学派

フランクフルト学派第一世代ではフリードリヒ・ポロックフランツ・レオポルトノイマンオットーキルハイマー、レオ・レェーベンタールなどが経済政治、法、文学など多方面に渡って才を発揮した。

他にも有名なのは、『自由からの逃走』を書いたエリヒ・フロム中国社会論で名を馳せたカール・ウィットフォーゲル。さらにフランクフルト学派の代名詞となった「批判理論」を提唱したマックスホルクハイマーと、彼と共同で『啓蒙の弁証法』を著した、テオドール・W・アドルノを紹介しておかなければならない。

ホルクハイマーが提唱した批判理論とはマルクスが著作『経済学批判』での資本主義社会と、当時支配的であった近代経済学への批判を受け継いで、時代への危機意識の高めた社会批判的な理論の総称ことである。彼らはマルクス批判した経済だけでなく、文化、心理、国家家族などを包括的に理論に取り入れた。この理論にはドイツマルクス学者であるジェルジ・ルカーチ(この人はフランクフルト学派でない)のが幾分か見られる。

詳しくはこちら→『伝統理論と批判理論

マルクス義的芸術評論家テオドール・W・アドルノは社会における芸術の特殊性に注し、哲学芸術を結びつけた社会批判を展開した。ホルクハイマーとアドルノは2人で西洋マルクス義の代表的な論文となる『啓蒙の弁証法』を書き上げ近代文明を批判する。

詳しくはこちら→『啓蒙の弁証法

他の有名どころでは、ルカーチは英哲学者マックス・ウェーバー理論を取り入れつつ疎外論研究したマルクス・ヘーゲル学者の先駆者である。代表作は物化を世に広めた『歴史と階級意識』。ルカーチはプロレタリアート人間解放の期待をよせていた一方で、後発のフランクフルト学派は時代の違いもあって権威に盲従しがちな労働者には救いをめなかった。

他にもフランクフルト学派(第一世代)のヴァルターベンヤミンはユダヤ秘的歴史、救済概念マルクスの史的唯物論の立場から記した。代表作は『複製技術時代の芸術作品』。マルクス義的学者エルンスト・ブロッホはフランクフルト学派ではないがルカーチと交を持ちユートピア思想を世に広めた。代表作は『ユートピアの精』。マルクーゼ(第一世代)はマルクスの著作『経済学・哲学草稿』を、独哲学ハイデガーの著作『存在と時間』のを受けつつ解釈した。フランクフルト学派(第二世代)のユルゲン・ハーバーマスは第一世代に強いを与えた独哲学ニーチェに反抗し、反ニーチェの立場からマルクスの労働概念を用いて『コミュニケーション理論』をした。

フランス

フランスにおいてもマルクスは大きい。例えば『マルクスフロイトからの漂流』を書いたジャン=フランソワ・リオタール、『マルクスの偉大さ』を刊行予定したジル・ドゥルーズなどにマルクスが見られる。

フランスにおけるマルクスの普及は較的遅かった。その理由の一つとしてフランスでは共和義の歴史からフランス独自の社会主義める傾向が強く、特にアナキズム無政府主義)を背景にした労働組合義(サンディリズムが大きく、社会主義政党の結成が遅かったことがある。さらにフランス共産党が1920年以後「クレムリンの長女(クレムリンとはソ連政治の中心地、東側のホワイトハウスと言われる)」と呼ばれるほどソ連に接近していて、これに反感を持った学者が多かったことも理由の一つである。そのためフランスマルクス研究開くのは第二次大戦後となる。

戦前マルクス義で有名なのはルフェーブルを形成したアンリルフェーブル。そして、戦後フランスマルクス義の第一人者と言えば、まずはサルトルである。

詳しくはこちら→『ジャン=ポール・サルトル』、『弁証法的理性批判

実存義者であったサルトルのしたのはソ連の非人間マルクス義からの脱却である。それはサルトルだけでなく、サルトル以前から続く西欧マルクス義全体の潮流である、疎外論を中心とした人間マルクス義であった。このヒューマニズムマルキシズムは世界中の運動の間で流行することになるが、1960年代に入り、このサルトルの実存義を論敵としたレヴィ=ストロースと、マルクスのヒューマニズムを批判したアルチュセールを代表とする構造主義の登場によってまたマルクス義の歴史は動いていく。

詳しくはこちら→『構造主義

構造主義の思想自体は1950年代後半には生まれていたが、構造主義が本格的に盛り上がるのは1962年レヴィ=ストロースの登場を待つことになる。クロード・レヴィ=ストロースは20世紀最高の文化人類学者である。彼は初め哲学を学び、後に文化人類学へと興味を移したという経歴を持つ。彼の功績の一つにそれまで経験的にしか分からなかった近親相姦禁止の理由を理論化したというものがある。代表作は未開社会研究した『野生の思考』、『族の基本構造』、『構造人類学』。

レヴィ=ストロースの著した『野生の思考』は、その中でサルトルを手厳しく批判したのである。サルトルの歴史観は『人間自由体性が弁証法的に社会を発展させていく』というものであった。一方でレヴィ=ストロースは未開社会研究を基に『人間にはいかんともし難い、歴史の中でも変わらない構造』を見いだした。ここにサルトルの実存義と、レヴィ=ストロース構造主義の、思想史に残る大論争が巻き起こったのである。結果的に、世界の潮流におけるサルトルの実存義は勢いを落とすことになる。

レヴィ=ストロース自身の専門は文化人類学だが、その思想の根底には地質学マルクス義、精分析という一見関係のなさそうな3分野が潜在していた。その共通点は表面には見えない深層に物事を決定するがあるという所にある。地質学は、地表から見ることの出来ない土地の深層を読む学問であるし、マルクス義は社会の表層には見えない社会の物質的基盤を読む学問である。精分析は深層心理という意識を学問する。レヴィ=ストロースは『個人の意志ではどうにもならない深層の決定が人間を動かしている』ということを強調する。

そして、構造主義マルクス義といえば欠かすことの出来ないのはルイ・アルチュセールである。アルチュセールはストロースと違い生マルクス義者であった。

詳しくはこちら→『ルイ・アルチュセール』、『構造主義的マルクス主義

アルチュセールはマルクス研究だけでなく哲学政治学、人類学、社会学、経済学など広域に渡ってを及ぼしフォロワーによるアルチュセールを形成した。アルチュセールに陶を受けたのがミッシェルフーコーである。フーコー学生時代マルクス義は絶対であり(教条義)、そこから外れる社会運動は倦厭される傾向にあった。しかしフランス五月革命の結果伝統的マルクス義と一致しない運動が生まれたことによってマルクスを再読し現代にもう一度らせる必要が生まれた。フーコーアルチュセールのスターリニズム批判ポルシェヴィズム批判ヒントにしてマルクス研究していた。

1980年代以降マルクスブームも去ってきて、論壇でもがなくなってきた頃に出てきたのが同じくアルチュセールの子エティンヌ・バリバールである。バリバールはかつて師匠アルチュセールと共に、名著『資本論を読む』を著した哲学者である。彼は生産、生産関係、生産様式、再生産、イデオロギー等といったマルクスの基本概念を洗い直したが、上手くいかず共産党から離党する(ちなみにアルチュセールとフーコーガチガチ共産党員)。そしてその後の著作『マルクス哲学』の中でマルクス哲学がもはやあり得ない哲学であることを認めつつ、マルクスにとって必要なのは出発的に立ち返ることではなく、自らの歴史を学び、それを通じて自己革することだと述べている。

最近ではデリダが著作『マルクスの亡霊たち』でマルクス哲学社会主義国の解体と自由義(資本主義)による新世界の秩序の下で「新たなインターナショナル」が生まれていると述べた。

イタリア

イタリアマルクス義が広まったのは19世紀末から20世紀にかけての転換期であった。当初バクーニンアナキズム運動導権を握っていた労働運動に対して、社会主義運動が次第にを持ち始める。19世紀末に誕生したイタリア社会党運動に対してラブリオーラクローチェ(共に共産党の結成には参加しなかった)の手によるマルクス義の紹介イタリア社会運動にさまざまなを与えることとなった。

クローチェの言「全ての歴史近代史である」という言葉は歴史を学ぶ人にとって覚えておいて損はない。現在社会問題の原因は全て近代史の中にある。そしてその近代史の原因はそれ以前の歴史の中にあり、その歴史も更にその昔の歴史の出来事が原因となっている。そう考えれば全ての歴史近代史と密接に関わっているということだ。

イタリア社会運動に関するエピソード興味深いものは第一次世界大戦の勃発に際して西ヨーロッパにおける第二次インターナショナル系の社会民主主義運動の中で一反戦を貫いたにが、このイタリア社会党だったということである。

イタリアにおけるマルクス義はファシズムの体験をあいまって独特な発展を生み出した。中でもイタリア共産党の誕生に携わり、書記長としてムッソリーニ対決したアントニオ・グラムシの存在は大きな意味を持っている。

詳しくはこちら→『アントニオ・グラムシ

ラムシとともにイタリアマルクス義にとって重要な人物をあげるとすれば、それはトリアティになる。トリアティは「科学的」マルクス義よりも社会変革の過程において「実践」重視の「現実的」マルクス義者であった。トリアティのこうした傾向はイタリア共産主義の動向を左右ベルリンの壁崩壊後の共産党解党→左翼民主党形成へと受け継がれる。

最近だとアントニオ・ネグリマイケルハートとの共著作『<帝国>』が世界的にベストセラーになり注を集めた。今世界で一番左翼に読まれている本と言っても過言ではないとされる。

イギリス

マルクスと同じく19世紀のイギリスに生きたモダンデザインウィリアム・モリスも実はマルクス義者である。

詳しくはこちら→『ウィリアム・モリス

時代は飛ぶが、次にイギリスマルクス義者はニューレフト(新左翼運動から紹介していきたい。イギリスニューレフト運動特定の組織を中心としていたわけではないが『ユニバーティズ・アンド・レフト・ビュー』誌と『ニューリーズナー』誌が合併して1960年に創刊された『ニューレフト・ビュー』誌は中心の一つと位置づけることができる。60年代から70年代ニューレフト運動が最もの時代のな寄稿者はレイモンドウィリアムズエドワードパルマー・トムソンラルフミリバンドスチュアート・ホールチャールズテイラーエリック・ホブズボームペリーアンダーソンなどがいる。

フランスイタリアなどの々と異なり、イギリスでは共産党が大きな政治を握ることはなく、大学の知識人を中心として労働組合運営されていた。しかし50年代になってスターリン批判ハンガリー共産主義からの離反事件を経て、ソ連共産主義に対する滅が広がると、伝統的マルクス義への疑問視が生まれていった。その後51年以降のチャーチルやイーデンなどのイギリス政権下で左翼全体が政治に対する倦怠感や敗北感が出てきた。60年代70年代ニューレフトが活躍したのはこのような背景があった。若者を中心とした文化運動学生運動、そしてとりわけ幅広い組織が連帯した反核平和運動ニューレフト、新しい左翼としてそれまでのマルクス運動えて誕生したのである。

ニューレフト運動の特徴の一つとして挙げられるのは、それまでの伝統的マルクス義が持っていた経済決定論に対する批判である。この批判は同時にそれまで経済の二番手の位置におかれていた「文化」に再び関心のスポットが当てられることになる。レイモンドウィリアムズの『長い革命』、リチャード・ホガートの『読み書きの効用』、エドワードパルマー・トムソンの『イギリス労働者階級の成立』といった著作はニューレフト文化義を示す代表作である。

彼らが問題にしたのはイギリス労働者階級という独特の階級編成である。この場合のイギリス労働者階級は伝統的マルクス義が言う労働者階級とはいくぶんか異なった意味で用いられている。後者が資本や所有といった「経済」的関係性によって決定されるのに対して、前者はイギリス労働者階級が歴史の中で生まれた「文化」と位置づけたのである。特にトムソンの著作は労働者階級というカテゴリを、単に生産関係(経済的関係)で受動的に決定されるものではなく、自らの存在を積極的に規定し動的に組織化するものと見なしていた。

これらの経済決定論への批判70年代以降欧州大陸構造主義的マルクス主義との対決を不可避にした。最大の敵はフランスの一流マルクス義者ルイ・アルチュセールである。1976~1979年にかけてイギリス文化義とフランス構造主義は『ヒステリー・ワークショップ』誌の中でしい議論を戦わせている。イギリスニューレフトアルチュセールの決定論的、反人間義に対して反発し、特にトムソンはこの論争の中心にあり、79年には『理論貧困』という本を著し、アルチュセール義を底的に批判した。

しかしその後ニューレフト運動70年代の終わりとともに終焉した。80年代に入ると左が持っていた男性中心義やイングランド中心義に対する批判フェミニズムや、イギリスった文化研究の潮流(カルチュラルスタディーズ)から発生し新左翼運動は落ちついてしまったのである。カルチュラルスタディーズの流れ以外にも例えばエルネスト・ラクラウシャンタル・ムフは85年に発表された『ポストマルクス義と政治:根民主主義のために』において、それまでの新しい社会運動の成果を踏まえつつ、伝統的マルクス義の経済決定論を否定して、節合(articulation)という概念を中心にして新しい政治モデルを提案した。『ポストマルクス義』といわれる最近の動向も21世紀の重要なマルクス義の一である。

90年代世界的なカルチュラルスタディーズの広がりの中で、それまで学会立っていたフランス構造主義に隠れていたイギリスマルクス義が再評価される時代であった。それじゃ上述のウィリアムズトムソンホールなどの再読が進んだこともあるが、もう一つイギリスに再びスポットがあたった理由としてフランスマルクス社会主義がどこか冷笑的で悲観的であったのに対して、イギリスマルクス義は一貫して独特の楽観義を保っていたことがある。

最近日本ではデイビッド・ハーヴェイの著作もよく見る。デイビッド・ハーヴェイ地政学の分野では論文引用世界一を誇り、現役のマルクス系学者では世界で一番人気があるとされる学者の一人。彼の授業をネット配信したところ世界中で大反があり2005年マルクスブームの立役者になった。ハーヴェイは資本の地理的不均衡に注し、それなくして社会変革は失敗するとした。

非西欧(オリエントやアジア諸国)

西欧世界マルクス義の初期は、西欧への接近をす動きと、独自の理論を模索する動きが入り交じった状態にあった。20世紀の初め、非西欧のほとんどが植民地として帝国義諸の非支配下にあり、彼らの位置づけは西欧での革命サポートするサブ的、従属的な活動にあった。その後マルクス義の中心は、1919年の第一次世界大戦の講和条約ヴェルサイユ条約を経て、西欧から革命ソ連に移り、非西欧共産党際支部としてソ連共産主義インターナショナル、通称コミンテルンに従属することを強制される。しかし非西欧マルクス義者は既にそれらの圧批判し始めていた。例えば、1919年に『東方問題に関する決議』の案を書いたタタール人の革命ミールサド・スルタンガリエフ。更に1920年1月に『炎培演講広州政』の論文を著した中国。彼は陳独秀と共に中国共産党の設立を担い、毛沢東の師となった。また1920年にコミンテルン第二回大会でノ『民族植民地問題に関する補足テーゼ』を発表したインド革命マナベーンドラ・ナート・ローイなどの名が挙げられる。

彼らは非西欧を軽視する世界の潮流に対して「西欧の資本家が非西欧労働者は搾取することによって西欧労働者を潤し、革命の到来を遅らせている。非西欧労働者世界的な意味でのプロレタリアートになっている。よって西欧の支配を打ち破ることが西欧労働者を追いつめ世界革命の原動となるのである」というをした。彼らは西欧と非西欧の間に強いられた支配-従属関係を断ち切る世界革命の可性を見いだしていたのである。もちろん彼らの当面の標は脱植民地である。

しかし彼らのマルクス理論はしょせん西欧マルクス理論の上である。『階級』や『生産諸』や『生産様式』といったカテゴリーを非西欧にもそのまま適当できるのか。西欧の支配を受けていた々が西欧と同じ筋を辿ることができるのか。西欧とは異なる歴史発展の可性の模索。こうした試みを進めた思想としては1920年代ペルーマルクス義者、ホセカルロスマリアテギの名前を挙げることが出来る。

マリアテギはスペイン植民地支配を生き延びた先住民族の生産義的共同体を基盤に、西欧とは異なる社会主義への、つまり非資本主義的な発展を構想した。人口の大部分を占めながら欧州からの植民地義と、欧州人の入植者を先祖に持つ人々による人種主義によって民からつねに排除されてきた貧しい先住姻族たちをマリアテギは体ととらえたのである。彼は西欧資本主義近代化という常識を打ち破り、『異なる近代』を追求したのである。

だが、こうして芽吹いた非西欧マルクス義は1930年のはじめまでにモスクワ一の中心とするソ連の『革命政治』によって、批難され追放され圧殺された。それでなくとも無視されるか抜きにされるかという敗北を喫するのである。

西欧マルクス義が再びるのは二次戦後である。二次戦後の非西欧マルクス義においても、最も重要な課題は西欧義から離れた『異なる近代』の可性、自立と自への筋である。

1960年代初頭、アルジェリア独立革命の過程で斃れたマルチニック出身の思想フランツ・ファノンはその著作、『地に呪われたる者』で、植民地と被植民地、すなわり支配と被支配の関係をすることで新たに生み出される『民族文化』を重視し、そのもとでの発展の可性を唱えた。

ちょっと前に映画になって日本でも知名度の高いゲバラもファノンと同じくその流れに乗る一人である。フェデル・カストロと共に1959年キューバ革命を成功させ、南米ボリビア1967年ゲリラ兵士として討ち死にした、アルゼンチン生まれの革命エルネストチェ・ゲバラ。彼は、まず生産を向上させ資本主義化を推進してから社会主義へ向かうべきだとする西欧を尺度とする『段階論』をしく批判し、『社会主義の下での新しい人間』の可性をした。

更にもう一人の有名人毛沢東も同じ式に西欧近代へのアンチテーゼを実践に移した。それは資本主義市場経済底して排除し、都市と農、頭労働と肉体労働、工業と農業の間の差別を撤することをしながら、西欧科学義=『洋法』にのみ依存する態度を批判して中国人民の土着の技術=『土法』を基礎に置くなどの政策に表れている。毛沢東思想は、中国古来の思想文化マルクス義の融合により独自のものとなり毛(マオ義、毛沢東義と呼ばれる。

関連項目→『毛沢東語録

こうした非西欧での異なる近代に向けた試みは、中国に限らずその実行過程に起こった民衆抑圧や、結果としての失敗や挫折によって、現在では厳しい批判にさらされている。スターリンと並ぶ、共産主義の悪しき面の第一人者がカンボジアポルポト。彼は自らが支配していた『民主カンプチア(カンボジア)』において、西欧資本主義社会システムが必然的に生み出す際的な不等からの自由めて、彼らは真剣に『理論的分析』をすすめ、『鎖国』を行い、民衆を強制的に『集団農業化』することによって『原始共産制』国家した。結果は人類の歴史でも特筆すべき悲惨な結末に終わった。常規を逸した大虐殺と大飢餓によりカンボジアの人口は減することになる。

こうした残酷な歴史背景に、現在西欧マルクス義は聞く人にアレルギー反応が出るレベルに全否定されている。しかし、西欧からの脱却をした彼らが、なぜ無惨な失敗や挫折を繰り返したのか、という問いは変わらず残っている。21世紀になり現在マルクスは『』ではなくなった。しかし、だからこそ新たなマルクス義が世界各地で生まれているのである。

日本のマルクス主義

日本のマルクス主義の歴史

日本共産党の誕生(1920〜45)

マルクスロンドンで創立を宣言したインターナショナル(第一次インターナショナル)はバクーニンら無政府主義者たちとの抗争がしくなり10年ほどの活動の後に解散。しかしそれから第二次、第三次インターナショナル(コミンテルン)が誕生し、ついにロシアのおいてソビエト導でマルクスの念願であった社会主義革命を達成した。そしてその後ソビエトがめざしたのは世界労働者革命である。

しかし実際のその的は社会革命を成し遂げること自体よりも内の不満を解消し社会主義モチベーションを高めることにあった。というのも、ロシアでは革命のその過程において皇帝暗殺を始めとして、各地で虐殺や略奪などの社会混乱を招いていた。そのため、民を精的に団結させるために社会主義の輸出はソビエトにとって急務だったのである。そこでコミンテルンが導し各地にその共産党を設立。その一つとして1922年に日本にできたのが日本共産党であった。右の画像はクレムリンと呼ばれる共産党の本拠地であり、冷戦時代はホワイトハウスと対照されるものであった。

戦後(1945〜60)

日本共産党は非合法組織であったため地下活動を中心として活動していたのだが、治安維持法が設立されてからは拷問を含めた厳しい言論弾圧を受ける。まぁ、日本共産党ソビエトの下位組織であったのだから、戦争の機運の高まる当時では仕方なかったのかもしれない。しかし、日本太平洋戦争敗北アメリカの統治のもと基本的人権を柱とする日本国憲法布され、日本共産党にも表現の自由が与えられた。そこで共産党の内部では「今まで通りゲリラ的に活動していこう」と「合法になったんだから普通選挙で勝つことをそうぜ」の二つにわかれるが、その後色々あって1955年後者の「選挙ろうぜ」の路線でいくことになった。

しかし共産党が穏やかな組織になってしまうと困るのは、ゲリラ的活動に熱中していた若者たちである。彼らは日本共産党絶望共産主義者同盟という別組織を結成、全日学生自治会総連合(全学連)の学生の支持を受け勢を伸ばす。その活動内容は穏健共産党とは対照的に過でエキサイティングなものになっていった。要するに若者にとってはこれ以上ない娯楽だったのである。この全学連の活動がピークになるのは60年代の安保闘争であった。

安保闘争(1960〜69)

戦国としてアメリカの統治を受けていた日本1952年権を回復独立国家として認められるようになったのだが、そこには日安保条約と米軍の進駐が条件としてあった。その結果、期間限定だと思われていた兵の在留がそのまま存続することになる。今の私たちはすっかり慣れてしまっているけれども、独立国家の内部に外の軍隊が常駐するなんてのは実はとんでもないことである。しかし条約締結当時、朝鮮戦争(1950~1953)が勃発しており極東は未だ不安定であったので民もこれを慢して飲んだのである。だが1960年安保条約が再締結されることが分かると民はぶち切れ。「朝鮮戦争が終わったのにいつまで米軍はいるんだよ。このままじゃあ一生日本米軍がいることになってしまう。日本アメリカ植民地じゃねえぞ!」ということで起こったのが安保闘争である。

当時の大学生は(今もそうかもしれないが)、退屈と体力を持て余しており日々刺めていた。なおかつ当時は団塊の世代で個が群衆の中に埋する時代であり、特に地方から東京に出てきた学生は寂しさもあり団結し何か一つの大きな標に向かって活動する社会主義運動は非常に魅的であったのだ。こうして全の、とりわけ高学歴学生の間に社会主義活動が広まり、徐々に組織化もなされていった。活動の中で大学生に死人が出たりもしたがなる殉職者の美旗となり、ベトナム反戦運動もあり活動はさらに大きくなっていく。今でこそマルクスを学ぶなんてのは一部の者だけであるのだけれど、当時はマルクスについて学ぶことがインテリの条件であり、東大京大を筆頭に優秀な大学生たちはこぞってマルクス読み漁ったのである。

社会主義運動の衰退期(1970〜79)

しかし60年代後半からその社会主義運動も緩やかになってくる。学生もそのうち社会主義運動に飽きてきたのである。もちろん理由はそれだけではなく、運動の中で厳格に命系統を定めた共産主義的組織が徐々に過度を増してきて、普通学生が付いていけなくなったというのもある。例えば一般の学生でも、ゲバ棒もってデモをやったり警官隊と衝突することはできる。しかし、組織的なテロ、例えば裏切り者の拷問ハイジャックなどになってくるとやれる者は少ない。若者たちは段々と運動を捨てごく普通社会人としてサラリーマンとなっていった。これが日本共産主義終焉の第一期と言える。しかしこの当時はまだ彼らの中にも共産主義の精は残っており、いまだ活動を続ける同胞たちに近感があった。

だが、70年代に、働きもせずせっせと活動をしていた過激派がどんどんとおかしくなっていくのを見てそれらの精も失われていく。その決定打となるのがあさま山荘事件である。あさま山荘事件とは連合赤軍リンチにより仲間12人を虐殺したのちあさま山荘人質をとって立てこもり警官と銃撃戦を繰り広げた昭和の大事件である。資本主義側の敵を殺すのならば、あるいは理にでも擁護はできたのかもしれない。しかしあさま山荘事件では連合赤軍はほぼ私により抵抗の身内を十数人もリンチして殺しており、イデオロギーに関係なくそれはの眼から見ても明らかに人にもとるものであった。これが第二段階である。

共産主義の終わりと復興(1980〜現在)

その後、この世の楽園と思われていた北朝鮮ソ連の実際が報道され、実は共産主義国家は自分たちよりも格段に貧しい生活をしていることが判明。民の中にマルクス共産主義への不審が確実に広まっていく。そうして1991年ソ連の崩壊。その他の社会主義国の瓦解がはっきりしたことによって、世界の中で一つの時代が終わった。共産主義全に終わりを迎えたのである。

共産主義の趨勢が弱まるにつれて各の資本たちはそれに合わせて労働者の搾取を強化していった。新自由主義世界を席巻し、マルクスの予言通り融は暴走し、世界中の文化コミュニティを破壊してまわった。それまではあんまり労働者いじめると共産革命を起こされてしまうのである程度資本にも自重があったのだが、ソ連が崩れた結果、労働者の搾取を止める理由はなく資本は好き放題を始めたのだ。ここでのポイントは共産革命を起こした結果、豊かになれるかどうかは全く関係ないところである。共産革命が起きるかもしれない。それだけで資本は労働者を過度に追いつめることができなかったのだ。

リーマンショック派遣労働者、格差の極大化。敵を失った"正義"は暴走を始めるのは歴史の常である。資本主義矛盾は日ごと大きくなり世界中に資本主義への懐疑が広まっていく。その中でマルクス共産主義現在、再評価されつつある。

日本はマルクス共産主義国家?

日本世界一成功した共産主義である」と言われることがある。これは一部正しい。

戦前日本は財閥が政治経済っていたのであるが、戦後GHQによって財閥が解体されたことによって日本人が皆等に貧しくなった。これは結果的にはプロレタリア革命と同じ効果を日本にもたらしたのである。そうして財閥の代わりに日本の再建を図ったのは戦犯を免れた中堅公務員。すなわち官僚たちである。これにより日本国社会主義と同じシステム戦後すことになったのだ。

官僚たちの標はインフラの復により、日本人戦前と同じ生活準を取り戻すことであった。先述したとおり当時の日本は物資が困窮しており許可がなければなにもできない状態にあったのだが、日本人は酷い生活にも耐える根性があった。それは敗戦による諦観と、また穏な暮らしがしたいという強い欲求と具体的標があったことによるものであった。

共産主義の特徴は、個人崇拝、計画経済、一党独裁であるが、戦後日本はこれらの特徴を全て兼ね備えているのである。個人崇拝は昭和天皇日本は独裁ではないが自民党の55年体制のもと護衛団方式という規制の多い計画経済を図った。こうして日本朝鮮戦争の特需などの幸運もあって経済として復を果たしたのである。

しかしそれらの要素は平成に至って時代遅れになっているにも関わらず、いまだ官僚導の硬直化した計画経済を進めることによって経済の非効率を生み多大な財政赤字を残してしまったという負の側面も持つ。

日本共産党とマルクス

上述の通り日本共産党は、ロシア社会主義革命導者レーニンによって作られたコミンテルン(共産主義インターナショナル)の日本支部として生まれた。その為、創立初期は党綱領に「レーニンのテーゼは絶対に正しい」や「マルクスレーニン義」という文章が入っているなどマルクスは強かった。

しかし戦後共産党政治活動が合法になるときに日本共産党マルクスの想定した暴力革命棄し、選挙によって政権獲得をめざし他政党と連立政府を設立する。そしてしかる後に共産主義していくという二段階革命スタンスを取る。その後もマルクスレーニン(エンゲルス)義のは徐々に弱まっていき、綱領にあった「マルクスレーニン義」という句が「科学社会主義」にされるなどマルクスが差し替えられたり、資本論レーニンの書籍が入った党の独習定文献(オススメ本)のリストからも時代に合わないとしてが撤されるなどされた。旗を見てもマルクス、エンゲルス、レーニンという言葉はあんまり見られない。(一応時々マルクス思想のコラムがあったりする)

しかし日本共産党共産党を標榜する限りマルクスは不可避であることに加えて、現在日本共産党で強いを持つ不破哲三氏や志位和夫氏が大学時代に学生運動マルクスにどっぷり浸かっているのでしばらくはマルクス義から全に脱却することはないだろう。

独習指定文献

独習定文献とは日本共産党共産党員たるものこれくらいは読めなければということで推薦された文献の一覧である。マルクス・エンゲルス・レーニンのものが中心であるが、日本共産党の重要人物である宮本顕治と不破哲三の書籍も入っている。このリスト2004年に常に変動する政治情勢に対応するために、固定的なこのオススメ文献制度は時代に合わないとしてされた。流石に21世紀にもなって日本暴力革命はできないと考えたのだ。しかし、昔の日本共産党マルクス学の教育方針を知るためにここに引用する。ただで読めるものはリンクを貼っておく。

初級
  1. 日本共産党第22回大会決定exitパンレット
  2. 日本共産党綱領exitパンレット
  3. 日本共産党規約exitパンレット
  4. 自由と民主主義の宣言exit』(パンレット
  5. レーニンマルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分exit』(パンレット
  6. マルクス賃金、価格および利潤exit
  7. エンゲルス『空想から科学への社会主義の発展exit
  8. 日本共産党第20回大会での党綱領の一部改定についての提案、報告、結語exitパンレット
  9. その時々の中央委員会決定
  10. 宮沢顕治『党建設の基本方針』
  11. 不破哲三『綱領路線の今日的発展』
中、上級
  1. レーニン『カール・マルクス』
  2. エンゲルス『ルードウィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の集結』
  3. マルクス『ゴータ綱領批判
  4. エンゲルス『反デューリング論』
  5. レーニン唯物論と経験批判論』(上級)
  6. マルクス資本論』(一巻は中級、二、三巻は上級)
  7. レーニン資本主義の最高の段階としての帝国義』
  8. 日本共産党の70年』
  9. 宮沢顕治『党史論』
  10. 不破哲三スターリン大国主義』
  11. 日本共産党宗教問題』

ニコニコ動画におけるマルクス

ニコニコ動画では赤いニコニコ動画というジャンルがあり、共産趣味の連中がメジャーではないがらも一定のコミュニティを築いているが、彼らが好むのはレーニンスターリン毛沢東、チェゲバラなどの言わば20世紀の共産主義であり、マルクスが活躍した19世紀の社会主義はほとんどネタにされていない。マルクスが登場する動画立つのは歴史経済系の学習系動画が多く、哲学系に至っては全くと言っていいほど存在しない。静画でもマルクスオンリーの絵は一枚も存在しないなど、スターリンヒトラーのようなネタ要因とべてニコニコでのマルクス存在感は薄い。

関連動画

関連商品

マルクス世界を席巻した学問分野であるため関連書籍が非常に多い。古いものから最新の世界情勢に乗っ取ったもの、難易度アカデミックな哲学書から高校生でも理解できるものまで幅広く取りえられている。せっかくなので大きな本屋やAmazonで自分にあったものをじっくり選んで読んでみよう。もちろん原著をじっくりを据えて読むのが一番なのは言うまでもない。学力に自信のある人は英語版や、あるいはドイツ語版で本当の意味での原著にもチャレンジだ。

マルクスの著作(エンゲルスとの共著を含む)

再三述べている通り、資本論を初めとしたマルクスの著作は読破にが折れる。しかしタイトルによってはページ数の少ないものもあり、人によっては較的楽に読み進めることができるかもしれない。(もちろんそれでも内容を理解するのは大変)ただし相当に自信がある人以外はやっぱり解説書から導入するのがオススメである。

マルクス入門書(初心者向け)

入門書に初心者編があること自体なかなかクレイジーなのだが、それだけマルクスの著作が難しいのだから仕方ない。対としては、高校生や、本を読むことに慣れていない人を想定している。いずれにせよ世界史の知識があると読む時に楽になるだろう。

どうでもいいが、「資本論(まんがで読破)」は全2500ページ以上ある資本論マンガ170ページ、新を合わせても400弱に収めているがどういうトリックを使っているのだろうか?

マルクス入門書(自信のある人向け)

文系の知識に自信があったり普段から読書をよくする人の導入書はこっち。だけどこれらの書籍の中の一部は入門とか書いてあるくせに全く初心者に優しくなかったりするから要注意。大学以上の学術書にありがちな入門詐欺に気をつけろ!

マルクス経済学

マルクス経済学は「マルクス経済学」という名前ではなくて「経済原論」や「社会経済学」などの別の名前で書店に置いてある。数理マルクス経済学の書籍は数学の予備知識が必須なのでそこも要注意。

数理マルクス経済学

マルクス政治学

マルクス経済学だけじゃなくて政治学も豊かな示唆を与えてくれる。現在日本政治家の中にも学生時代にはマルクス読みあさって討論に耽ったり安田講堂を占拠したり、ゲバ棒持って警官隊と突したり、火炎瓶作ったりしていたのだ。例えば仙谷由人氏や菅直人氏や千葉景子氏などは学生時代熱心なマルクスだったそうだ。

プロレタリア文学

プロレタリア文学とはプロレタリア労働者)活動の中で文化面の代表運動である。簡単に言えばプロレタリア労働者)のための文学であるが、ロシアにおいてプロレタリア文学革命の推進者となる労働者の姿をリアルかつ肯定的に描いたものとして推奨された。五年くらい前にも日本ブームになったので読んだ人も多いかもしれない。

こんなのもある

マルクスと愉快な仲間たちを女体化したエロ小説普通に性的描写が出てくるので18禁子供は見てはいけない。作者く「言っときますが、ネタですよ」らしいのだが内容はそこまでバカにできるものではなく、それなりに史実に基づいてマルクスの半生が描かれているので堅苦しい文章が苦手な初心者にはそこそこオススメできる。

登場人物

第一章
第二章
  • しのぶ
    通称れーにんタン。PN、尼港。既に伝説となったまるくすたんに心酔している男装美少女可愛い女の子がなく、まるくすタンとえんげるすタンの怪しい同人誌をつくるために企画会議と称して、日その実践(女の子とのH)に励んでいる。

  • すたーりんタン
    れーにんタンと過な思想を共にする一人。口数は少なく考えていることが分かりにくい。彼女のポケットは四次元に繋がっている。

  • とろつきータン
    れーにんタンと共に過な思想を共にする一人。れーにんタンを「野蛮人」と罵ることもあるが、とろつきーたん自身もが強く武闘

関連コミュニティ

関連チャンネル

マルクスの想定していた共産主義と随分違ってる気がしないでもないけど、仕方ないね

カール・マルクス

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カール・マルクス

675 ななしのよっしん
2023/12/18(月) 19:12:31 ID: P91NSmTUe/
マル クスにおける政治否定のロジック
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpt2000/4/0/4_141/_pdf/-char/jaexit

近代社会以前の市民公共性と個人性を持っていた
近代社会において、かつて市民が持っていた公共性は政治国家に独占され、結果として人間生活市民社会政治国家と私に分裂することになった
マルクスは、市民政治国家に奪われた公共性、共同性を得ることで人間になるとしたのだ
こう思ってから、マルクスの思想により共感し、支持するようになった
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676 削除しました
削除しました ID: UoK+elTJyE
削除しました
677 ななしのよっしん
2024/01/25(木) 22:17:26 ID: thr8MiJN3w
数億人の人間を殺戮しそれ以上の人間の人生を狂わせた悪名高き共産圏の導者ですら
マルクスによって思想汚染された哀しき犠牲者という一面もある

たった一人で世界を狂わせるなんて悪魔か何か?
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678 ななしのよっしん
2024/01/28(日) 15:42:59 ID: rBmXNrcHn7
最近マルクスについて勉強したけど、偏見とか曲解でだいぶ勘違いされてて可哀想な人だなと思った
良い摘もいっぱいしてるのに
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679 ななしのよっしん
2024/01/28(日) 19:19:49 ID: yCg394Zo/P
>>678
悪いのはマルクス二次創作を作った連中ですから。
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680 ななしのよっしん
2024/02/02(金) 14:58:54 ID: VcDV3IaCHZ
その二次創作悪過ぎひん?
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681 ななしのよっしん
2024/02/02(金) 15:06:17 ID: q017rshlUp
いやーマルクス自身も褒めるべき点はないよ
思想界の原子爆弾
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682 ななしのよっしん
2024/02/02(金) 15:11:40 ID: MFveuzlVf6
第一資本論ガバだらけですし
道徳を先に出して実を軽視する今日批判理論の先駆け
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683 ななしのよっしん
2024/02/02(金) 18:39:27 ID: VOuc2igjxZ
お前絶対資本論読んでないだろ
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684 ななしのよっしん
2024/03/18(月) 11:23:13 ID: cD5OeJZn4y
>そうして財閥の代わりに日本の再建を図ったのは戦犯を免れた中堅公務員。すなわち官僚たちである。これにより日本国社会主義と同じシステム戦後すことになったのだ。

池田勇人など自由化を推し進めた面もある
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