キミ・ライコネン(Kimi Räikkönen,1979-)とは、フィンランドのレーシングドライバー兼酒飲みである。
2007年のF1ワールドチャンピオンで、2010年・2011年は世界ラリー選手権(WRC)にも参戦していた。
酒飲みとしての概要
彼がシャンパンファイトの前に、シャンパンを一口飲む映像は度々全世界に配信されている。
2008年ハンガリーGPでは同時に表彰台に登ったヘイキ・コバライネンと共にまず一口飲んでおり、これがフィンランド人の作法なのかもしれない。
有名なシーン
- 2006年モナコGPではリタイアを喫した後ピットには戻らず、数分後に自身の所有するクルーザーからグラス片手に観戦している姿が捉えられた。
さらにインターネット上には「その後」として、酔って足を滑らせデッキから転落するライコネンの姿が動画共有サイトにアップロードされ話題になった。 - チャンピオンを決めた2007年ブラジルGPでは、国歌が演奏される前にシャンパンを飲んでいた。
ドライバーとしての概要
フィンランド出身で、若い頃のクールな振る舞いと涼しげな風貌から「アイスマン」と呼ばれる。
本人は当初この様に呼ばれることに戸惑っていたがそのうち気に入ったらしく、ヘルメットにも「ICEMAN」の文字を入れている。
2007年のワールドチャンピオンであり、現代のF1におけるトップドライバーの一人。一発の速さには定評があり、ファステストラップの獲得回数は歴代3位(46回:2021年9月時点)。
ただし運の無さには定評があり、マクラーレン時代は2004年前半戦のMP4-19、2005年のMP4-20を筆頭に常にマシンの信頼性に悩まされ、フェラーリに移籍してからも度々マシントラブルを理由にリタイアやグリッド降格ペナルティを喫している。
若い頃は前述の様にキレのある速さでライバルを圧倒するレーススタイルだったが、2年間のWRC参戦から復帰した後は非常に安定感のあるドライビングへと変貌、粘り強いレース運びで上位入賞をもぎ取ることが増えている。
2012年はF1復帰初年度にも関わらず全戦完走、それも20戦中19戦で同一周回フィニッシュを達成し、堂々ドライバーズランキング3位となった。
略歴
- 2001年
- ザウバーからF1デビュー。
- ジュニア・フォーミュラ参戦数が僅か23戦だったことや、F3000はおろかF3も経験せずにF1に参戦したため当初は開幕から4戦限定の仮免許デビューであったが、開幕戦オーストラリアGPでデビュー戦ながら6位入賞を果たした。
- その後正式にスーパーライセンスが発行され、全17戦中4戦で入賞する活躍を見せドライバーズランキング9位を獲得した。
- 2002年
- 同郷のミカ・ハッキネンの推薦によりマクラーレンに移籍。
- 開幕戦オーストラリアGPではスタート直後の大クラッシュに巻き込まれたものの無傷で生還し、初のファステストラップと3位表彰台を獲得。しかし翌戦以降はリタイアが相次ぎ、第4戦サンマノGPから第7戦モナコGPの4戦連続リタイアの他、シーズン終盤にも3戦連続リタイアを喫するなどマシンの信頼性に悩まされ計10回のリタイアを記録してしまう。特にエンジントラブルは6回におよび、ライコネン自身のミスでリタイアしたのは第12戦ドイツGPのみであった。
- 第11戦フランスGPでは初優勝目前でオイルに乗ってしまい、その隙にミハエル・シューマッハに交わされ優勝を逃す。速さは見せたが、24ポイントでランキング6位に終わった。
- 2003年
- 第2戦マレーシアGPにて初優勝、第9戦ヨーロッパGPにて初ポールポジションを記録。
ミハエル・シューマッハと最終戦までタイトルを争ったが、惜しくもシューマッハと2ポイント差のランキング2位となった。 - 2004年
- このシーズン投入されたマクラーレンMP4-19は信頼性に乏しく戦闘力も低い失敗作であり、前半戦は完走すらままならない有様であった。
- 後半戦には改良型のMP4-19Bが投入され信頼性・戦闘力ともに大きく改善したが、フェラーリの独走態勢を崩すには至ず、ベルギーGPでの1勝に留まった。
- 2005年
- この年投入されたマクラーレンMP4-20はヨーロッパラウンド以降圧倒的なパフォーマンスを見せ、7勝を挙げた(さらにチームメイトのモントーヤも3勝を挙げている)。
- しかし、エンジン交換による3度の10グリッド降格、2度のエンジントラブル、サンマリノGPとヨーロッパGP(後述)ではトップ走行中にマシントラブルに見舞われるなど信頼性に悩まされ、着実にポイントを重ねたフェルナンド・アロンソにチャンピオンを譲った。
- 2006年
- 3度のPP獲得も前年のような速さはすっかり影を潜めてしまった。マシンの信頼性や戦闘力の低さにも悩まされ、シーズン未勝利に終わってしまう。
- 2007年
- ミハエル・シューマッハの後任としてフェラーリに移籍。開幕戦こそ勝利したものの前半戦は低調で、第7戦アメリカGP終了時点で首位のルイス・ハミルトンに26ポイント差をつけられてしまう。
- しかしフランスGP、イギリスGPでの連勝をきっかけに中盤戦以降は盛り返し、また中国GPで17ポイント差の首位を走っていたハミルトンがリタイア、そして最終戦ブラジルGPでハミルトンが7位、フェルナンド・アロンソが3位に終わったことで、両ドライバーを僅か1ポイント上回り逆転でドライバーズチャンピオンに輝いた。
- 2008年
- 2連覇の期待が持たれたが前年ほどの速さは見られず、また様々な不運も重なり3戦を残してチャンピオン防衛の可能性が断たれる苦しいシーズンとなってしまった。
- 2009年
- この年から空力レギュレーションが大幅に変更されたが、フェラーリF60の競争力は低く、またライコネン自身も精彩を欠くシーンが多く見られ、得意のスパ・フランコルシャンで1勝を挙げたのみでランキング5位に終わってしまった。
- なお7月末には母国フィンランドで開催されたWRCラリー・フィンランドにスポット参戦している。
- 2010年・2011年
- F1からWRCに転向。
- また2011年にはNASCARのキャンピング・トラックシリーズにもスポット参戦している。
- 2012年
- ロータスF1チーム(旧ロータス・ルノーGP)よりF1復帰。
- 当初は2年のブランクが懸念されたが、ロータスE20のパフォーマンスにも支えられ安定した走りを見せ、第18戦アブダビGPで復帰後初優勝を果たした。
- 最終的にはニック・ハイドフェルド以来史上8人目の全戦完走を達成し、優勝1回、表彰台7回で207ポイントを獲得、ランキング3位という好成績を残した。
- 2013年
- 開幕戦のオーストラリアGPを巧みなレース運びで快勝。通算20勝目を達成し、幸先良いスタートとなった。
- 第2戦マレーシアGPではフリー2〜予選でのウエットコンディションにマシンが合わず予選7位、ドライコンディションの決勝でも順位を上げれず7位。第3戦の中国GPではペースは良かったもののマクラーレンのセルジオ・ペレスと接触、フロントウィングにダメージを負いながらも2位を確保する走りを見せた。
- 第4戦バーレーンGP、第5戦スペインGPと連続で2位表彰台を獲得、続くモナコGPではポイント圏内を走っていたが、終盤でまたセルジオ・ペレスとの接触、リアタイヤに突っ込まれてパンクしたため緊急ピットイン。一旦はポイント圏外に落ちるもそこから猛追して最後はギリギリ10位で入賞、なんとか入賞記録を伸ばした。
- しかし得意のベルギーGPで復帰後初のリタイアを喫し前年の中国GP以来のノーポイントに終わり、連続入賞記録は27で止まった。
- イタリアGP後に2014年からフェラーリと2年契約したことを発表した。5年ぶりの古巣復帰となる。
- 2014年
- この年から固定ナンバー制が導入され、ライコネンはナンバー“7”を選択する。しかし、この年はPU(パワーユニット)の導入に伴うレギュレーションの大改訂が行われ、フェラーリはその対応に失敗してしまう。それでもチームメイトのアロンソが2度の表彰台を初めとして入賞を重ね、奮闘したのに対してライコネンは表彰台にも登れず、デビュー年以来のワーストシーズンとなってしまった。
- 2015年
- アロンソはマクラーレン・ホンダへ移籍。代わってセバスチャン・ベッテルがチームメイトとなった。
- ベッテルが勝利を上げるなどして実力を示す一方、ライコネンは表彰台に登るのがやっとで大きく水を開けられることになる。シートを喪失するのではという噂まで立ったが、なんとか翌年2016年も継続することが決定した。
- 2016年
- 2位表彰台を2度、3位を1度獲得。その中でも、第5戦スペイングランプリではマックス・フェルスタッペンをギリギリまで追い詰めたが逃げ切られ、彼の史上最年少初優勝に華を添える結果となった。なお、彼の父であるヨス・フェルスタッペンとはデビュー間もない頃一緒にレースを走っていた。時代の移り変わりを感じさせる出来事であった。
- 1年契約だったため、またシート喪失の噂が流れたものの、2017年も残留することができた。
- 2017年
- マシンの完成度はここ数年ではよくなり、表彰台や入賞を順調に重ねる。ロータス時代の2012年以来となる200ポイントを超える成績を上げた。ただ、最終的にトップ3のチームのドライバーの中では唯一優勝ができなかった。
- 2018年
- 昨年型の改良型であるSF71Hは好調で、ライコネン自身も優勝はなくともチームメイトのベッテルと五角以上の戦績を見せ続ける。
- だが、フェラーリ上層部の意向でモナコ出身の若手ドライバー、シャルル・ルクレールをザウバーから移籍させ、ライコネンを下ろす動きが表面化する。周辺から「引退勧告」すら取り沙汰される中、結局秋にいたりフェラーリはルクレールとの契約を発表。シートを失うことになったライコネンはザウバーチームと交渉、移籍が決定し、結果的にはフェラーリとザウバーの間でドライバーをトレードしたような形になった。
- ライコネンは最後の意地とばかりに、第19戦アメリカGPで2013年以来の優勝を果たした。
- 2019年
- ザウバー(アルファロメオに改名)に移籍しての初年度、ついに彼は40代に達した。一度もレーサーとしての現役引退時期なしに、継続して40代となったF1ドライバーはファン・マヌエル・ファンジオ以来史上2人目。
しかしマシンの戦闘力はフェラーリと比べると遥かに低く、第11戦ドイツGPで予選Q3に進出し、5位を取ってみせたのが唯一の見せ場だった。 - 2020年
- アルファロメオから継続参戦。第11戦アイフェルGPで323戦目の出走を記録、ルーベンス・バリチェロが保持していた最多出走記録を更新することになった。
- 2021年
- アルファロメオから継続参戦。同年シーズン限りでF1を引退した。通算の出走回数記録は349戦。
F1引退後(2022年~)
特筆すべきGP
2002年フランスGP
2003年ヨーロッパGP
初のポールポジションを獲得したが、決勝ではトップ独走中にエンジンブローしリタイア。
奇遇なことに同郷の先輩ハッキネンも1997年ニュルで初ポールからエンジンブローを喫している。
2005年ヨーロッパGP
この年はレギュレーションで原則としてレース中のタイヤ交換が禁止されていたが、トップ走行中のレース中盤ブレーキング時に右フロントタイヤを激しくロックさせてフラットスポットを作ってしまった。
次第に症状が悪化しオンボードカメラでもわかるほどの激しいバイブレーションに見舞われながら走行を続けていたが、ファイナルラップの1コーナーでついに振動の負荷に耐えきれず右フロントサスペンションが大破しコースアウト。チャンピオンを争っていたアロンソに優勝を明け渡してしまう。
2005年日本GP
各ドライバーが順に1周ずつアタックする方式の予選で、雨に見舞われたセッション中特にコンディションが悪い中のアタックを余儀なくされたため17位に沈んだ。
しかし決勝ではマクラーレン・MP4-20の圧倒的な速さを活かして怒涛の追い上げを見せ、45周目のピットストップを終えた時点で2位まで浮上。さらにそこから前を走るルノーのフィジケラに対し1周当たり約2秒ずつ接近し、ついにファイナルラップの1コーナーでフィジケラをオーバーテイクし逆転優勝。
ライコネン本人も「自身のベストレースのひとつ」と語っている。
2007年ブラジルGP
前戦の中国GPで自身のミスからリタイアを喫したとはいえ、この年デビューの超大型新人ルイス・ハミルトンが107ポイントで首位、アロンソが103ポイントで続き、ライコネンは100ポイントと非常にチャンピオンの可能性が低い中で迎えた2007年の最終戦。
チームメイトのマッサ、ハミルトンに次ぐ3番グリッドからスタートしたが、ハミルトンはギアボックストラブルトラブルが発生しほぼ最後尾まで後退。1回目のピットストップを終えた時点でマッサと順位を入れ替えトップに立つとそのまま磐石なレース運びで優勝した。
一方ハミルトンは前述のトラブルが響き7位に沈み、4番グリッドからスタートしたアロンソは終盤まで懸命に追い上げたもののライコネンとマッサを捉えることはできず3位に終わった。
結果、ライコネンが110ポイント、ハミルトンとアロンソが109ポイントで並び、一時26ポイントもの大差が付いた状況から大逆転でワールドチャンピオンに輝いた。
表彰台でライコネンはチャンピオン獲得の喜びを噛み締めるとともに、地元開催のレースにも関わらず自身の優勝を犠牲にしてまでフォアザチームに徹しチャンピオンへ導いてくれた同僚、マッサを讃えた。
2008年カナダGP
レース序盤にコース上でストップしたフォース・インディアのスーティルマシンを撤去するためセーフティカーが導入されピットインしたが、当時のレギュレーションではコース上を隊列が通過するまでピット出口が閉鎖されることになっていた。
いち早くピット作業を終えたBMWザウバーのロバート・クビサが最初にピットを出て、これにライコネンが並ぶ形で出口へ向かったが、ピットレーン出口の信号は赤なので2人横並びに停車した。
…が、ハミルトンはルールを理解していなかったのか、突然前の2台が止まったことに驚き左にステアリングを切りながらフルブレーキしたものの避けきれず、ライコネンのマシンに追突し両者ともリタイア。
いつもはリタイアに追い込まれてもクールに振る舞っている事が多いライコネンだが、この時ばかりはハミルトンに対してピットレーン出口の信号を指差しながら「赤信号だっただろ?見えてなかったのか?」というジェスチャーを見せ怒りを露わにした。
2009年マレーシアGP
レース中にスコールが直撃し赤旗中断となったレースで、中断前のピットストップでタイヤ選択を誤り勝負権を失っていたため戦意を喪失したのか、さっさとレーシングスーツを脱ぎポロシャツに着替えアイスクリームを食べていた姿が国際映像に捉えられた。「"アイス"マン」などと呼ばれた。
2012年オーストラリアGP
F1復帰初戦で自分に青旗を振られていると勘違いしたライコネンがチームラジオで「なんで俺にブルーフラッグが振られているんだ!」と普段のクールなイメージからは想像もつかない声で叫んだ様子が世界中に流れた。
ちなみに青旗は「後ろから速い車が迫っている」という意味なので、同一周回のマシンに対しても提示される事がある。
2012年アブダビGP
F1復帰初年度で初優勝を飾ったレースだが、ここでもチームラジオで感情を顕にした様子が話題になった。
トップ走行中、エンジニアからアロンソとのギャップを告げられて、
Leave me alone! I know what I'm doing!
(訳:ほっといてくれ!、やるべきことは分かってる)
と返答。
Yes, yes, yes, I'm doing all the time! you don't have to remind every second.
(訳:はい、はい、はい、ずっとやってるよ!いちいち言わなくていいから)
と一蹴し、全世界にこのやりとりが放送され笑いに包まれた。
おまけにレース後のインタビューでは、「S***」という放送禁止用語を世界中に生放送で垂れ流し、共に表彰台に立った友人のベッテルまでもライコネンに釣られてかFワードを使ったため、インタビューを担当したクルサードは二人の不適切発言について謝罪するハメになった。
2012年ブラジルGP
ウェットコンディションの中ターン12でコースアウトし、グラベルを避けエスケープゾーンの舗装路(旧コース)からコースに復帰しようとしたのだが、コースに繋がる部分のゲートが開いておらず、Uターンして結局グラベルを通過して復帰。ライコネン曰く「2001年に同じ事をした時は(ゲートが)開いていた」とのこと。
世界中の解説者は笑いを堪えきれず、川井一仁氏からは「コースの下見ちゃんとしないから~」と突っ込まれた。
なおこの時のタイムロスが響き周回遅れになってしまったが、これが原因で「2012年の規定周回数全周回完走」という偉業を逃してしまっている。
エピソード
アイスマン
- アイスマン(英:ICEMAN)というニックネームは、2002年に移籍したマクラーレンのチーム代表だったロン・デニスが命名したもの。
自分の感情に素直で、非常にクールな振る舞いを見せる事が多いのが理由。 - 関心の無いことにはストレートに「興味ないね」と答える、翌日以降の展望や新しいレギュレーションに対する意見を聞かれても「どうなるか見てみよう」(英:Let’s see how it goes.)と答えて切り上げてしまうのが常で記者泣かせである。
- しかし実際には中身は熱いタイプで、実は意外とお茶目な面もある。
- 予選後に「タイヤの様子はどうでしたか?」と聞かれ「ああ、回ってたよ」と答えた。
- 2006年にシューマッハがF1を引退する際、パレードに参加しなかった理由を尋ねられて「クソしてた」(英:"I was having a s***.")と答えた。
- 「F1ドライバーにとってヘルメットには特別な意味が込められています。貴方のヘルメットはどのような重要性がありますか?」(注:文脈からは明らかにペイントのデザインに込められた意味を問うている)という質問に、ライコネンは「私の頭部を保護する」(英:It protects my head.)と答えた。
- さらに「あなたのヘルメットには何か独自の工夫が施されてたりしますか?例えばバイザー等に」と聞かれ「ワイパーが付いていたらもっと良く見えるだろうね」と答えている。
- 前述の様に2009年マレーシアGPのレース中断時にアイスクリームを食べている様子が国際映像に捉えられていたが、2012年の復帰後第2戦マレーシアGPで、報道陣にアイスクリームの形をしたUSBメモリをプレゼントするサプライズがあった。
この心遣いとユーモアセンスは非常に好評だったようで「"ナイス"マン」と讃える人もいた。 - 2012年にF1に復帰したライコネンはドライバーズランキング3位と大健闘を見せているが、「FIA表彰式に行きたくないから、2位や3位にはなりたくない」と述べている。勝利以外に興味がないらしい。
- 2012年アブダビGP優勝記念に「Leave me alone!(ほっといてくれ)Tシャツ」をスタッフにプレゼント。ファンの間では売って欲しいと要望が相次いだ。
- イギリスの人気自動車番組「TopGear」の有名人レースに出演した際には意気込みを聞かれて「10位以内を狙いたい」と発言したが、そもそもタイムを計測したF1ドライバーは彼を含めて9人だけである。
- 特に英語を話す際にアクセントをつけずにボソボソっと話すが、これはフィンランド人は大体そういう話し方でライコネン特有のものではないらしい。
しかし非常に特徴的であるためしばしばネタにされ、2011年にセバスチャン・ベッテルがAUTOSPORTアワードで表彰された際のスピーチではライコネンの喋り方のモノマネを披露して会場の笑いを誘った。
さらには本人とは全く接点が無さそうなアメリカのレーシングドライバー、ジェームズ・ヒンチクリフがなぜかライコネンのモノマネを十八番にしている。
ミハエルの呪い
フェラーリ移籍以降、ミハエル・シューマッハがサーキットに来ると勝てないというジンクスが囁かれている。実際、2007年はシューマッハが来たレースでは一度も勝っていない。
2008年はスペインGPで優勝し、呪いから解きはなたれたかに思われたが、その後もシューマッハの来たレースはスーティルに追突したモナコGP、エンジンブローしたヨーロッパGPなど散々である。
ドイツの呪い
そのミハエル・シューマッハの母国であるドイツで行われるレースでは極端に完走率が低い。
2008年時点で、ホッケンハイムでは7戦中5回リタイア。ニュルブルクリンクでも7戦中5回リタイアしている(5回には完走扱いの2005年も含む、詳細は上記)。
その他
- イケメン。
- 日本でも非常に人気が高い。
- ベルギーGPの勝率がやたら高い「スパ・マイスター」である。日本では「スパ王」とも。
- ワールドチャンピオンに輝いたドライバーの中では運の無い方で、中立を謳うWikipediaにすら2008年の項目に「『速いが運が無いライコネン』は今年も健在である」と書かれていた時期があった(現在は削除されている)。
- PUとDRSが導入されるまでの間、長らくF1での直線最速記録を持っていた。
(370.1km/h:2005年イタリアGP)。 - ハッキネン、コバライネンと共にネンネンクラブに入っているらしい。
- たまに呑み過ぎて下半身を露出し、ゴシップ紙を賑わす。
- 二輪車も好きで、ハーレー・ダビッドソンのカスタムバイクを所有している。
- 彼の所有するクルーザーはしばしば座礁・沈没の憂き目に遭っている。
- 2002年シーズンは休養するハッキネンの代わって「メルセデスの秘蔵っ子」ニック・ハイドフェルドを起用するはずだったが、ハッキネンの強い推薦によりクルサードとライコネンのラインナップとなった。
- セバスチャン・ベッテルと仲良しでよくバドミントンをするという。
- ゴリラの着ぐるみに変装してボートレースに参加した。
- 母国のスノーモービルレースに参加して優勝した。そのときの偽名が「ジェームス・ハント」(プレイボーイとして知られる1976年のワールドチャンピオン)また、2012年モナコGPで突然ハントデザインのヘルメットを持ち出して話題になった。
- 2012年ドイツGP後、パドック駐車場のフェンスを乗り越えようとして、コケる。Bild誌によれば、「急いでいたので駐車場へ近道しようとしてああなった」ということらしい。なお本人は、起き上がったあと「F**k!」と一声叫んだあと、足早にその場を立ち去っていったとか。
- フィンランドを代表するアスリートのはずなのだがフィンランド国内の人気投票においてMotoGPライダーに負けたりやり投げ選手やスキー選手に負けたりと、実は母国での人気が無いのではないかと疑われる面がある。
- 2021年第3戦ポルトガルGPのオープニングラップにて脇見運転が原因で(ステアリングホイールのボタンを操作していたらしい)あろうことかチームメイトのジョビナッツィに追突という大ポカをしてしまった。幸いにもジョビナッツィのマシンにはダメージはなかったものの自身はリタイアしたうえ、後日息子に『父さん、ゴーカートをやってるときは僕に“前を見ろ”って言ってたよね』とイジられたらしい。
チームメイトになったことのある人物
- ニック・ハイドフェルド(2001年)
- デビッド・クルサード(2002年~2004年)
- ファン・パブロ・モントーヤ(2005年~2006年アメリカGP)
- ペドロ・デ・ラ・ロサ(2005年バーレーンGP、2006年フランスGP~同年ブラジルGP)※モントーヤの代役
- アレクサンダー・ヴルツ(2005年サンマリノGP)※モントーヤの代役
- フェリペ・マッサ(2007年~2009年ハンガリーGP)
- ルカ・バドエル(2009年ヨーロッパGP~同年ベルギーGP)※マッサの代役
- ジャンカルロ・フィジケラ(2009年イタリアGP~同年ブラジルGP)※マッサの代役、バドエルの後任
- ロマン・グロージャン(2012年~2013年)
- ジェームズ・ダンブロジオ(2012年イタリアGP)※グロージャンの代役
- フェルナンド・アロンソ(2014年)
- セバスチャン・ベッテル(2015年~2018年)
- アントニオ・ジョビナッツィ(2019年~)
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関連項目
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