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キリルコンドラシン
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リル・ペトローヴィチ・コンドラシン (Кирилл Петрович Кондрашин 1914~1981)とは、20世紀に活躍したソヴィエト連邦揮者である。
40年以上にわたって揮者としてキャリアを積み、ソ連内外で幅広く活躍したロシア音楽家ショスタコーヴィチの初の交響曲全集やソ連マーラー交響曲集の録音を残したことで知られる。

※コンドラシンはロシアでは割とメジャーな姓であり、著名な軍人やスポーツ選手がいるが、日本では大抵コンドラシンと言えばこの揮者をすので、ここではキリル・コンドラシンについて述べる。

経歴

1914年にモスクワで生まれる。1931~1936年モスクワ音楽院でボリスハイキンに師事した。
音楽院卒業後レニングラードで活動しはじめ、マール劇場(現在ミハイロフスキー劇場)でハイキンの助手として活動。

1938年9月モスクワで開催された揮者コンクールに参加。第2予選で敗退し入賞を逃す。

1943年にボリショイ劇場揮者に就任。この頃からモスクワに拠点を構えて活動する。活動の軸はオペラが占めていたが、オペラの合間にはオーケストラ揮者としてたびたび登場したりした。

1948年にボリショイ劇場アレクサンドル・セローフのオペラ「敵の」の上演の成果に対して1度ソヴィエト連邦国家賞(スターリン国家賞)授賞。
1949年にボリショイ劇場スメタナののオペラ「売られた」の上演の成果に対して2度ソヴィエト連邦国家賞授賞。

1949年8月モスクワユー交響楽団の前身となるオーケストラを編成してブダペストで行われた世界青年学生祭典に参加。オーケストラは祭典の賞を受賞。

1950~1953年モスクワ音楽院の教員を務める。

1956年にボリショイ劇場揮者を辞任し、1960年までの間フリーオーケストラ揮者として内の地方オーケストラを振る。1956年10月にはノヴォシビルス交響楽団の設立に関わった他1958年には同オケの演奏旅行を率いる。1957年には半年ほどと短期間ながらもモスクワ郊外ゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)・フィルハーモニー交響楽団の常任揮者に就任し同オケの演奏旅行を率いる。1957年には平壌に赴き1か半の間現地のオーケストラを振っている。

1958年4月に開かれたチャイコフスキーコンクール優勝したヴァンクライバーンの凱旋演とスタジオ録音の伴奏者としてアメリカイギリスへ行く。10月に再度アメリカへ単身で訪れ、シカゴプッチーニオペラ蝶々夫人」を揮した(生涯最後のオペラ揮)。 1960年1~2月コンスタンチン・イヴァノフと共にソヴィエト国立交響楽団アメリカツアーに同行。

1960/61年シーズンからモスクワ国立フィルハーモニー交響楽団(以降「モスクワフィル」)の首席揮者に就任。1975/76年シーズンまでの16年間率い、この期間にオーケストラレベルアップや給料の引き上げ等様々な革や善を施し、内最高のオーケストラの1つに讃えらるようになる。
1966/67年と1967/68年の2シーズン演奏会の成果に対してグリンカ記念ロシアソヴィエト連邦社会主義共和国家賞を受賞。

19721978年モスクワ音楽院の教員を務める。

1975年1968年から客演を重ねていたコンセルトヘボウ管弦楽団の常任客演揮者に就任。

1976年からはモスクワフィルと決別する形で常任揮者を辞任。再びフリー揮者として活動するが、演奏活動と外への渡航は役人との関係悪化や健康問題(難聴心臓病)で制限される。

1978年12月にコンセルトヘボウ管弦楽団への客演後に同行していた妻のニーナと決別しロシアにいる息子らを残して自由めてオランダに長期滞在を申請(一般的に亡命と言われることが多いが、コンドラシン自身「政治的な亡命ではない」としている)。同時にコンセルトヘボウ管弦楽団の副常任揮者に就任。

1980年2月バイエルン放送交響楽団への客演での成果が認められ、空白だった首席揮者にコンドラシンが名され1982/83年シーズンに就任の内定が決まる。

1981年3月7日ツアーでアムステルダムに来ていた北ドイツ放送交響楽団演の一部の曲の代役を引き受ける。リハーサルは1時間足らずの状態で本番に臨むことになったが事に成功を収めるも、その後ホテルにて急死。

演奏・レパートリー

1960年に首席揮者になったモスクワフィルは当時のソ連要なオーケストラの中では創設されてから10年ほどしかたっていない歴史が浅いオーケストラであったが、コンドラシンは教師リハーサル名人としての才を発揮してオーケストラを鍛え上げていった。日々の練習と入念なリハーサル管楽器サウンドは弦楽器自然サウンドに限りなく近く、較的いた音とディミヌエンドの傾向を伴う明瞭なアタックの音によって演奏される作品のスタイルに応じてポリフォニー構造の線の明瞭さを追求し、コンドラシンの理想とするオーケストラへと変えた。
モスクワフィルとはショスタコーヴィチ交響曲第4番の25年越しの初演、騒動に巻き込まれながらも実行した13番の初演をはじめ、ヴァインベルク交響曲(1番、4番、5番、6番、8番)、ボリス・チャイコフスキーの交作品(交響曲第1番、2番、協奏曲等)、スヴィリドフのカンタータ等、当時の現代ロシア作曲要作品の初演を多々取り上げ、内外での演奏及び普及、スタジオ録音を行った。プロコフィエフ十月革命20周年記念カンタータは演奏許可が下りるようコンドラシンが直々に編集を施したり、ポスターり出されずにいたユーリ・ブツコの狂人日記の初演を役人に直に猛抗議したりする等、積極的に現代音楽を擁護し演奏する姿勢を崩さなかった。
オーケストラを率いて演も積極的に行い、1963年の初海外演を皮切りに1965年1966年1967年1968年1970年1971年1973年1975年と1~2年毎に東欧北欧ヨーロッパ、北南米を巡っている。特にラトビアにはモスクワフィルや他のオケ、単身も含め1960年以降ほぼ毎年のように訪れており、には1か近く連日のように演を行ったりした。
モスクワフィルはコンドラシンの揮の下でソヴィエト作曲の多くの作品を初演するだけでなく、諸外の作品の演奏も積極的に行い、ロシアに多くの外の作品を紹介した。オーケストラは優れた技に対して1973年に「アカデミー」の称号を受けた。

コンドラシンの重要なレパートリーとして特筆すべきはマーラーであり、当時のソ連では滅多に取り上げられることがなかったマーラーの8番を除く番号付きの交響曲1961年から積極的に取り上げるようになる(ソ連では1920~30年代外国人揮者が時々取り上げ、1950年代は1番、4番、大地の歌がたまに演奏される程度だった)。1961年交響曲第3番を初めて演奏と録音を実行し(取り止めにはなったが1946-47年シーズンに3番を取り上げようとした記録がある)、それからは1960年代末までには8番を除くすべての交響曲ソ連演奏された。コンドラシンはマーラー交響曲レパートリー軸の1つとした最初のソ連揮者であった。徐々にレパートリーを拡大し、1968/69年と1969/70年の2シーズンでは8番を除くほぼすべての交的作品のツィクルスを他の揮者らと共に実行し、ロシアにおけるマーラーの普及に多大な貢献を果たした。
スタジオ録音も1961~1978年の18年もかけて2番と8番を除く番号付きの交響曲計7曲を残した。ソ連内だけでなく既にマーラーの作品がよく取り上げられるようになっていた西側諸国でも取り上げ、1974年には優れた解釈者としてマーラー協会からゴールデンマーラーメダルを授与されている。
コンドラシンはマーラー音楽について「マーラーは優れた革新者であるが、作品には形式的な革新的要素はほとんどない。しかし、音楽ドラマツルギー本質革新的であり、々に近しいものである。」と述べている。

ショスタコーヴィチの作品も重要なレパートリーを占めており、1961~1975年の15年もの年をかけて世界初の交響曲全15曲のスタジオ録音を果たす。中でも4番、6番、8番、9番は1960年からするまで内外でかなり頻繁に取り上げるほどの得意曲であった。13番は当局から圧をかけられながらも、時には歌詞を変えて演奏せざるを得なかったが、原典版の歌詞演奏するよう尽している。交響曲の他にもステパンラージンの処刑やユダヤ民族より等の歌曲、6つの協奏曲、組曲ボルト」もたびたび取り上げた。

モイセイ・ヴァインベルクボリス・チャイコフスキーはコンドラシンが得意とし積極的な紹介に努めた作曲であり、コンドラシンは彼らの作品の擁護者でもあった。ヴァインベルク交響曲第5番とボリス・チャイコフスキー交響曲第2番はコンドラシンに献呈された楽曲である。

ロシア揮者全般に言えることだろうが、ピョートル・チャイコフスキーの作品のレパートリーは幅広く、多くの作品の演奏記録が残っている。その一方協奏曲の伴奏系以外のオーケストラ作品のスタジオ録音は意外と残っておらず数えるほど位しかない。だがピョートル・チャイコフスキーの作品についての造形は深く、6つの交響曲についての著書「О дирижерком прочтении симфоний П. И. Чайковского (チャイコフスキー交響曲芸術的読解について)」を執筆している。

コンドラシンはダヴィッド・オイストラフと内外の多数のヴァイオリン協奏曲のツィクルス、ギレリスベートーヴェンピアノ協奏曲全集、レオニードコーガンとヴァイオリン協奏曲のツィクルス、ロストロポーヴィチとチェロ協奏曲のツィクルスを行う他、様々な多数の著名なソリストと共演をしている。残されたコンドラシンのスタジオ録音のうち協奏曲はかなり多くあり、伴奏揮者として非常に優れ、演奏者からも厚く信頼されていた左と言えるだろう。幾度となく共演を重ねているダヴィッド・オイストラフはコンドラシンの伴奏を高く評価していた他、ギレリスはコンドラシンをお気に入りのパートナーとみなしていた。クライバーンイギリスでの凱旋演でイギリスまでコンドラシンが来れるようフルシチョフに手紙を出して依頼するほどコンドラシンの伴奏を信頼していた。

コンセルトヘボウ管弦楽団

コンセルトヘボウ管とは1968年1月に初共演。コンドラシンは可な限り小さく、柔らかい音を追求する独特のスタイル揮者であり、あまりにもピアニッシモやディミヌエンドを要するためにオーケストラにとって悪名高い揮者であった。しかし、1971年から1980年まで毎年客演し続け、1975年には常任客演揮者に着き、定期的に年に2回2週間にわたって揮するようになる。1978年12月に副常任揮者に着き、海外演に同行するなど密接な関係を築く。
ハイティンクとともにショスタコーヴィチの作品を中心にロシア音楽をコンセルトヘボウ管のレパートリーに定着させるに至る。同オケとの放送録音も多数残され、発売されたライヴ録音集にはソ連では残さなかったレパートリーが多数含まれている。
死後にオランダでの功績を称え、1984年にコンドラシンの名を冠した揮者コンクールが開催されている。
オランダへの移住後は音楽院の教員になることはなかったが、個人的に揮を導することはしていた。ハーグ王立音楽院に揮者学校を設立する予定があったが死去により実現しなかった。

バイエルン放送交響楽団

バイエルン放送とは1980年2月7日と8日の定期演奏会にて初共演。この時のマルタアルゲリッチとのチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番の録音が有名である。この演奏会の成功に対し、ミュンヘンの聴衆や評論家だけでなくオーケストラもコンドラシンに対して熱狂的な支持を寄せていた。この当時のバイエルン放送クーリックが任期を終え空白となっていた首席揮者を探していたため、コンドラシンを首席揮者にするための契約交渉がすぐに行われ、1980年7月には契約が成立し、1982年2月に就任予定で、1983年日本演まで予定されていた。
就任が決まったことにコンドラシンは「優れた揮者であるクーリックが率いていた素らしくオーケストラでなので、ミュンヘンには多くのことを期待しています。オーケストラに自分のスタイルを刻み込み、自分の好きなレパートリーの録音ができればと思います。」と述べている。
しかし1981年3月7日に急死したために全ての予定は実現することはなかった。

その他

コンドラシンの著書は「Мир дирижера (揮者の世界)」と「О дирижерском искусстве (揮の芸術について)」の職業に関する考察の本と、ヴラディーミル・ラジュニコフ著の対談本「Кирилл Кондрашин рассказывает (キリル・コンドラシンはる)」がある。

コンドラシンは上記の国家賞の他にもロシアソヴィエト連邦社会主義共和功労芸術家(1951年)、ロシアソヴィエト連邦社会主義共和人民芸術家(1965年)、ソヴィエト連邦人民芸術家(1972年)等の称号を与えられている。

息子の1人ピョートル・キリーロヴィチ・コンドラシン (Петр Кириллович Кондрашин 1945-2010)はロシアレコード会社メロディヤ社の全連邦スタジオレコーディング要なサウンドエンジニアの1人であり、リルの晩年のソ連でのいくつかのスタジオ録音(マーラーの5番やショスタコーヴィチ交響曲全集の一部等)を担当した。1987年にニジニ・ノヴゴロド国立音楽院の音楽音響工学科を創設し、同学科の初代教授になる。1991年に私的なスタジオKonClaRec (Kondrashin Classical Recordings)」を設立。2001~2010年にグネーシン記念ロシア音楽アカデミーサウンドエンジニア部門の責任者を務めた。

ピョートルの息子ピョートル・ペトローヴィチ・コンドラシン (Петр Петрович Кондрашин 1979-)はチェロ奏者としてボリショイ劇場オーケストラのソリスト及びチェロリストとして現在活動している。

出典・参考サイト

Кондрашин Кирилл Петровичexit 簡易なバイオグラフィー
Кондрашин Кирилл Петрович. К 100-летию со дня рождения выдающегося дирижераexit 簡易なバイオグラフィー
К 100-летию со дня рождения Кирилла Кондрашинаexit 簡易なバイオグラフィー
ПЕРСОНЫ Кирилл Кондрашинexit インタビュー手紙の一部
キリール・コンドラーシン 演奏会記録exit 膨大な記録
Густав Малер и Россия (ISBN: 978-5-89598-249-5) ロシアにおけるマーラー演奏

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