グラツィアーノ・ロッシとは、イタリア・マルケ州ペーザロ出身の2輪・4輪レーサーである。
MotoGP中量級(2スト250ccクラス)で通算3勝を挙げた。
MotoGPで乗ったマシンはスズキ、モルビデリ、ヤマハ。
ヴァレンティーノ・ロッシの父親として知られている。
レースの戦歴
1954年3月14日にペーザロで生まれる。グラツィアーノ(Graziano)とはグラッツェ(grazie 感謝という意味のイタリア語)から来た名前。
1977年にMotoGP最大排気量クラス(2スト500cc)にスズキのマシンを駆って参戦。最高13位。
1978年も500ccクラスにスズキのマシンで参戦。最高6位。
1979年には、グラツィアーノの故郷ペーザロに本社を持つモルビデリというメーカーのバイクに乗って
MotoGP中量級(2スト250cc)と最大排気量クラス(2スト500cc)にダブル参戦。
250ccクラスでは3勝・2位1回・3位1回の好成績を収めランキング3位にまで上った。
500ccクラスでは最高9位。
1980年は500ccクラスにスズキのマシンで参戦。2位1回、3位1回、4位2回。
1981年は500ccクラスにスズキのマシンで参戦。最高11位と低迷する。
1982年は500ccクラスにヤマハのマシンで参戦。最高11位。
1982年9月19日にイモラサーキットでイモラ200マイルという耐久レースが行われた。
グラツィアーノも参戦したが大クラッシュに遭遇し、瀕死の重傷を負う。
レースに帯同していたクリニカ・モビレの医師たちの救護により一命をとりとめた。
これで2輪レースから引退し、4輪レースに転向することになった。
ヴァレンティーノ・ロッシの自著によると、1990年代中盤まで4輪のレースに参戦していたらしい。
ヴァレンティーノ・ロッシの父親
グラツィアーノはなんといってもヴァレンティーノ・ロッシの父親として有名である。
カートとバイクを与える
グラツィアーノは2輪で大事故に遭った苦い経験を持っているので、息子のヴァレンティーノには
2輪レースの道に進ませたくなかったらしく、カート(小さい4輪のレース用マシン)をやらせていた。
とはいえ、息子がせがんでくるのを拒めなかったのか、ちゃんと小さな2輪マシンも買い与えていた。
ヴァレンティーノが11歳になった1990年からはミニバイクのレースに参戦することを許している。
2輪の参戦の道を開く
1992年11月にヴァレンティーノが「俺、2輪のレースをやるよ」と言いだしたとき、
グラツィアーノはいい顔をしなかったという。
その割には、グラツィアーノの行動は積極的で素早かった。
グラツィアーノは顔が広く、彼が「息子が2輪レースをしたがっているんだ」というと、支援してくれる人がすぐに集まった。グラツィアーノの友人の友人がクラウディオ・カスティリオーニという人で、
この人はイタリアバイク業界の大物でカジバのオーナーだった。クラウディオの一声で、
ヴァレンティーノはカジバのチームからスポーツプロダクション選手権に出場できた。
出場条件は破格で、マシンと部品代はカジバが負担、ヴァレンティーノたちは旅費とメカニック数人を
用意すればいいだけだった。メカニックも、グラツィアーノの一声ですぐに集めることができた。
グラツィアーノがいなかったら、ヴァレンティーノは2輪レースの世界に入ることができただろうか。
採石場に連れて行く
グラツィアーノは「レースに帯同してひたすらアドバイスを送る」とか、そういうことをせず、
ヴァレンティーノが考えるのに任せていた。
とはいえ、グラツィアーノは自ら編み出したトレーニング方法を伝授していたことがある。
採石場へ行き、そこでオフロードバイクを走らせてスライドコントロールの腕を磨く、
これがグラツィアーノの得意のトレーニングだった。
ロッシ家が住んでいたタヴーリアの近くにはいくつか採石場があった。
もちろん採石場のオーナーにいやな顔をされることもあるので、好意的なオーナーが経営するような
採石場を探すのである。10ヶ所程度も回ったときに最適な採石場を見つけ、そこでトレーニングを
繰り返していった。オーナーには話を付け、迷惑を掛けないように平日には行かず、週末だけ行く。
この採石場のトレーニングはヴァレンティーノがMotoGPに参戦し始めた1996年以降も続けていた。
ヴァレンティーノは「採石場で得たスライドコントロールの技術は500ccクラスで役立った」と語る。
500ccクラスはケニー・ロバーツ・シニアからミック・ドゥーハンまで、米国や豪州のダートトラックで
オフロードバイクを走らせてスライドの腕を磨いたライダーが勝ち続けていたのだが、
ヴァレンティーノも採石場というダートトラックで同じようにスライド技術を磨いていたのである。
息子の名前の由来
グラツィアーノにはヴァレンティーノという名前の親友がいて、一緒にモトクロスをして遊んでいた。
1971年の夏、グラツィアーノが17歳の時の夏に、一緒にペーザロの海へ行って泳いでいたら、
その友人は海へ流されてしまい、二度と会えなくなってしまった。
7年後の1979年2月16日に息子が生まれたとき、友人の名前を受け継いでヴァレンティーノと名付けた。
その他の雑記
風貌はいかにもなイタリアの田舎親父といった感じで、いつも野暮ったい服装である。
坂田和人さんがヴァレンティーノ・ロッシから聞き出したところ、グラツィアーノは結構な変わり者で、
ニワトリに首輪を付けてヒモで引っ張りつつ散歩をしていたことがあるという。
タヴーリアの東の外れにランチというヴァレンティーノ・ロッシのトレーニング用サーキットがある。
この土地を購入したのはグラツィアーノである。
グラツィアーノもランチでモトクロスバイクを走らせて楽しんでいた。
ランチに関する動画ではグラツィアーノが出てくる。動画1、動画2、動画3
ヴァレンティーノ・ロッシの誕生日は2月16日だがこのことをグラツィアーノはしっかり憶えていない。
2月14日のバレンタインデーになるとヴァレンティーノに「ああそうだ、誕生日おめでとう」と言い、
そのたびにヴァレンティーノは「俺の親父は息子の誕生日を憶えてないんだよね」と言う。
関連動画
関連項目
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