ケリー・ジョンソン(Kelly Johnson, 1910年2月27日 - 1990年12月20日)とは、アメリカ合衆国の著名な航空機設計者である。
概要
本名はクラレンス・レナード・ジョンソン(Clarence Leonard Johnson)。
1910年にミシガン州在住のスウェーデン移民の子供として生まれる。小学生時代にクララと言うあだ名をつけたクラスメイトをフルボッコにし、この事件後、名前を本名のクラレンスではなく当時流行していた曲の『エメラルド島から来たケリー』から取ったケリーを自称するようになった。
その後ミシガン大学を出てロッキード(現ロッキード・マーティン)に入り、航空機の開発を手掛けた。
1990年、80歳で逝去。
活動
エレクトラ
ケリー・ジョンソンがミシガン大学に在籍中、当時再建中だったロッキード(現:ロッキード・マーティン)が起死回生を狙い開発していた双発旅客機エレクトラの試験において、ロッキード社はミシガン大学が保有する風洞実験設備をレンタル。ケリーは助手としてこの実験に立ち会った。
実験に立ち会った人々がモックアップの試験結果を賞賛する中、ケリーはエンジン停止時に気流の乱れから機体の方向安定が不安定になる事を発見し、設計変更をロッキード社に進言した。この改良が認められるとともに、ロッキード社は彼をエンジニアとして採用した。
エレクトラはその後1930年代の旅客機市場における画期的な航空機となり、改良型のスーパーエレクトラも開発されている。またエレクトラに次ぐ主力商用機としてハワード・ヒューズの肝いりで製造された傑作旅客機コンステレーションの設計にも関わった。
ヨーロッパの先行きが怪しくなって来た1930年代の終わり頃、英国空軍の要求にしたがってスーパーエレクトラに小改修を施したハドソン爆撃機を開発。英国海軍はこの即席爆撃機を沿岸哨戒用として300機も買いつけ、そこそこの性能からアメリカ陸海軍も爆撃機や沿岸哨戒・爆撃機として採用している。
P-38
ケリーの初期の会心作となったのは1939年に配備の始まった陸軍向け戦闘機P-38「ライトニング」戦闘機であった。双発双胴、排気タービンを備えた高高度・高速戦闘機で、最高時速400マイルを越えた最初の実用戦闘機となっている。鈍重なため日本軍機が得意とした低高度での格闘戦では散々カモにされたが、速力や高高度性能を活かした一撃離脱戦法を採ることで徐々に優位を掴んでゆき、遂には米陸軍航空隊1位と2位のエースを輩出した。山本五十六聯合艦隊長官機を撃墜したことでも有名である。
P-80
次に設計した戦闘機P-80「シューティングスター」はアメリカ陸軍初の本格的な量産型ジェット戦闘機となったものの、ドイツからの技術流入による航空技術の進歩により数年も立たず陳腐化し、初の実戦となった朝鮮戦争ではF-86やF-84などの後輩に追いやられ、2線級戦力として扱われていた。
だが、ジェット機としては割とマイルドな操縦性の機体であったことに目をつけられ、練習機型のT-33が開発される。そしてこれが大当たりし、6,500機以上が生産され、アメリカ空軍だけでなく海軍や西側の多くの国々で長年にわたって使用されたのであった。日本でも川崎重工業がライセンス生産を行った機体などが航空自衛隊に納入されている。
F-104
朝鮮戦争中に、前線で軽快なMig-15相手に切った張ったの殺し合いをやった戦闘機パイロットたちが希望する次世代の戦闘機への要望に対する、回答として作られたのが高速力と高い機動性を持った超音速戦闘機版の隼とも言えるF-104スターファイターだった。
が、SAGEシステムへの不適合や、ベトナム戦争以前の戦闘爆撃機偏重思想にもベトナム戦争介入後の戦術思想の急速な転換にも適合しなかったため、アメリカ空軍での調達数は少なく、むしろNATO諸国の空軍や航空自衛隊を始めとする海外ユーザーによる調達のほうがが多かった。
アメリカ国外でのF-104はケリー・ジョンソン自身の想像の斜め上を行く活躍をしばしば行われていた。例えば西ドイツ空軍では対艦攻撃機として北海やバルト海を低空かつ超高速で飛行するという無茶な戦術運用が行われ事故が多発、無数の未亡人を生んだ(因みにWW2最高の戦闘機エースで知られるエーリヒ・ハルトマン空軍少将(当時)はこの運用を当初から危険視しており、警告を行っていた)。航空自衛隊では独自の戦闘法が編み出され、空自在籍時代のロック岩崎がF-15をドッグファイトで蹴散らしたとか。そして主要な仮想敵のいなかったイタリア空軍では、後継のユーロファイター2000の開発遅れが原因でF-104を限界まで魔改造近代化し、21世紀まで使い倒したとか……もうやだこの枢軸国共。
このF-104の発展型としてCL-1200試作機も計画されたが、こちらは実機が無いペーパープランであった為、NATO諸国や航空自衛隊への売り込みも成果を上げられず、降って湧いたF-5A後継の海外供与専用機としては高価過ぎた。
その後ケリーは各界に根回しを行って無理やり軍のXナンバーを取得。さらなる根回しの末に無理矢理作ったCL-1200の最後の売り込みのチャンスとも言えるLWF(軽量戦闘機)選定にこぎつけたが、ペンタゴンの提示した要求提案の内容に不満が有ったためケリーは『ハノイ上空でMiGと空戦したらガス欠になるような軽戦なんざ意味ねーだろバーカ!(要約)』と勝手な主張を行って要求を無視。当然のごとくCL-1200は採用されなかった。
その後ジェネラル・ダイナミクスが提案したモデル401(後のYF-16)とノースロップのP600(後のYF-17)が熾烈なコンペを行う中、LWF選定を行うきっかけとなったケリー本人はやけ酒をあおっていたとかいなかったとか。
U-2
また1950年代に空軍内部で始まっていた高高度偵察機開発計画を嗅ぎ付けるや否や、F-104を基礎に開発した高高度偵察機(U-2)を提案した上で、この機体の図面上での性能を要求提案として航空機メーカーに配布させると言う、自社の高高度偵察機を採用させた。
ちなみに、他社の提出案は、ケリーが書いて米軍が配布した要求提案を全ての面でクリアした設計案は存在しなかったとか。
U-2は当初の予想以上の成果を上げていたが、運用開始前の時点で1年以内でソビエト側が迎撃手段を整え、この機体が撃墜される事が予想されていた。その為次世代の高高度偵察機として、水素を燃料とする航空機の開発を開始したが、水素その物の取り扱いの難しさや要求された性能を達成する見通しが立たない事から計画は中止された。しかし実際の後継機として開発されたSR-71とその派生型は、U-2よりも高い高度をマッハ3で巡航しうる驚異的な機体に仕上がった。
F-117
1975年にケリーはスカンク・ワークスから退いたが、その後もロッキードに取締役兼顧問として在籍した。
ケリー・ジョンソンは「美しいものだけが空を飛ぶことができる」という信条を持っていたので、「絶望のダイヤモンド」の図面(後にF-117になる、軍に提案する段階での設計)を見るなり、当時スカンク・ワークスのリーダーになっていたベン・リッチのオフィスに飛び込み、図面に見入っていたベン・リッチの尻を蹴飛ばして「こんなものが飛ぶわけないだろう」と言ったそうだ。[1]
関連項目
脚注
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