ケーシー・ストーナーとは、オーストラリア東海岸・サウスポート出身のオートバイレーサーである。
2002年から2012年までMotoGPに参戦した。
ドゥカティワークスとレプソルホンダで1回ずつ最大排気量クラスチャンピオンを獲得。
70年あまりのMotoGPの歴史の中で異なる2つのメーカーでチャンピオンを獲得したのは
ジェフ・デューク、ジャコモ・アゴスチーニ、エディ・ローソン、ヴァレンティーノ・ロッシ、
そしてケーシー・ストーナー、この5人しかいない。
現在は故郷オーストラリアで悠々自適の生活を送りつつ、たまにドゥカティのテストに参加している。
略歴
1985年10月16日生まれ。
1987年4月、1歳半のころからバイクに乗り始め、ゴールドコーストの農場の裏を走り回っていた。
1989年、4歳の頃からダートトラックレースを始めた。
1991年、6歳の頃には父親コーリンをバイクで負かすようになった。
1994年、ケーシーの参戦機会を増やすため一家そろってシドニー近郊のハンターバレーへ引っ越す。
1998年、13歳の頃のダートトラックレース動画がある。最初から独走しているのがケーシー。
1999年、ケーシーの可能性に賭けた両親はレース参戦の機会を増やすためイギリスへの移住を決意した。
2000年には「challenge Aprilia 125」というスペインのレースに参戦し3勝を挙げランキング2位。
2001年にはスペイン選手権に参戦し7勝でランキング2位。
2002年からMotoGPへのレギュラー参戦を始める。この年は250ccクラスで最高が5位。
2003~2004年は125ccクラスに移り、2年で2勝・2位5回・3位3回の好成績を収める。
2005年は250ccクラスへ移り、5勝してダニ・ペドロサに次ぐランキング2位の好成績を収める。
2006年より最大排気量クラスに参戦。デビュー2戦目、20歳173日の若さで予選最速ポール獲得。
2007年にドゥカティワークスに移籍し、10勝して年間チャンピオンに輝いた。
2009年シーズン中盤に病気にかかり3戦欠場、ドゥカティ上層部に厳しい言葉を掛けられる。
2011年にレプソルホンダへ移籍し、10勝して年間チャンピオンに輝いた。
2012年5月に引退表明。このときまだ26歳の若さであった。
2013年から2015年までホンダのテストライダーを務めた。
2016年からはドゥカティのテストライダーを務める。
ゼッケン、ヘルメット、愛称
ゼッケン27番は2001年のスペイン選手権時代にアルベルト・プーチから与えられたものである。
ちなみにアルベルト・プーチは26番をダニ・ペドロサに、24番をトニ・エリアスに与えていた。
ヘルメットはイタリアのNOLANと契約している。
オーストラリア国旗をあしらった配色になっている。星やユニオンジャックがちりばめられている。
2001年、16歳の時、NOLAN社長のアルベルト・ヴェルガーニに見出され契約し、ずっと続いている。
当時貧乏だったケーシーはヘルメットの契約金をレース資金に充てており、恩義を感じたようだ。
ケーシーにとってMotoGPは居心地の悪い場所だったが、ヴェルガーニとは家族のように接していた。
こちらがヴェルガーニとの2ショット写真。
ちなみにヴェルガーニはマルコ・メランドリの個人マネージャーでもあり、記事が多くヒットする。
オーストラリア人なのでカンガルーの入ったステッカーもお好み。
KCと書かれる英字記事が散見される。
ストーナーはもちろんstone(石)から来ている。日本風に言うと「石井」「石田」あたりになる。
ケーシーは転倒が多く、グラベルに転がり込むことが多かった。
これを「Rolling Stoner」と呼ぶ記事も見られた(ロックバンドのローリング・ストーンズにちなむ)
グラベルは砂だけでなく小石も入れてあるので、なおさら上手さを感じる表現である。
ライディングスタイル
ケーシーのライディングはまさに卓越しており、彼を讃える声が絶えることがない。
マックス・ビアッジは「20年に1度の天才」と評している。
アクセルをガンガン開けて、リアタイヤをスライドさせる
アクセルをガンガン開けてスピードをどんどん乗せるタイプである。
とにかくスロットルワークが上手く、電子制御を最小限にして己の手の感覚だけでマシンを操作するのが
得意であった。子どもの頃のダートトラックレースでスロットル操作の腕を磨いたのが生きたのだろう。
リアタイヤのスライド量も尋常でなく、スライドさせてコーナーを曲がる技術は天下一品だった。
ケーシーのアクセルの開けっぷりとリアタイヤのスライド量を記録した走行データを見た他のライダーが
仰天するのはMotoGPの恒例である。
マルコ・シモンチェリは「フィリップアイランドサーキットでのケーシーの走行データを見たが、
コーナー出口のアクセルを開けるタイミングが誰よりも早い。びっくりした」と語っている。
ブレーキングを頑張るタイプでは無く、バトルに滅法強いわけでは無かった。
ケーシー自身は、自分はダートトラックレース育ちだからブレーキングが上手くないのだろうと
発言している。ダートトラックレースのマシンにはフロントブレーキが無いからである。
単独走行を苦にせず、集中力がやたらと高い
アクセルを目一杯開け、レース序盤から差をどんどん広げ、後続をぶっちぎって勝つことが多かった。
単独走行というのはライダーの間でも非常に高く評価される。
ブレーキングポイントを決めるようなお手本がないので、ブレーキングをミスしやすい。
また、前に誰もいないので刺激に乏しく、集中力を保つのが難しい。
単独走行は集中力が高くないとできない走りで、これができるライダーの方が少ないのである。
セッティングが出ていなくても最速タイムを叩き出す
2009~2010年にケーシーが乗っていたドゥカティのマシンはモノコックのマシンで、
とにかくセッティングが出にくい車両であり、レースごとに乗り心地が変わっていた。
ところがケーシーはマシンに合わせて乗る技術に卓越しており、そういうバイクも乗りこなしていた。
2011年にレプソルホンダの中本修平HRC副社長が「ケーシーはセッティングが異なっても
ぴったり同じタイムを出す」と驚嘆しつつコメントしている。
マシンが仕上がっていなくても目一杯攻めていくことができるライダーだった。
彼のチーフメカを務めたクリスチャン・ガバッリーニは「ケーシーは数コーナーでマシンを理解する」
とコメントしているし、ドゥカティのテストライダーのミケーレ・ピッロも同様のことを言っている。
とにかくマシンの限界を探るのが早く、ピットを出てから2周目で最速タイムを出していたこともある。
こういうことができるのは後にも先にもケーシーだけだとの声が多く聞かれる。
セッティングを出すのに固執しない
セッティングが出ていなくても速く走ることができたので、セッティングを出すのに固執しなかった。
他のライダーがセッティングを詰めるため必死に練習走行を続けている一方で、
ケーシーはあまり長く練習走行をせず、さっさとピットに戻っていた。
後述するように他のMotoGPライダーに比べて体力が少し劣ることもあり、
ケーシーは練習走行のロングランを好まなかった。
「ロングランなど何の意味があるんですか。やる必要が無い」と言ったこともある。
レース距離を走るロングランは一度もやったことが無かった。
このためセッティングを出す能力はダニ・ペドロサやヴァレンティーノ・ロッシあたりの達人級と比べて
少し劣ると言われている。
ウォーミングアップラップを遅く走り、スタートグリッドに必ず最後に到着する
MotoGP決勝の流れは以下の通りである。
まずはピットで待つライダーが映され、時間が来たらピットを出てサイティングラップを行う。
するとスターティンググリッドにメカニックや傘持ちグリッドガールが集まっているので、そこに行く。
スターティンググリッドでテレビカメラがやってきて、ライダーやグリッドガールを映す。
時間が来たらグリッドガールやメカニックが退散し、ライダーだけになる。
そして1周のウォーミングアップラップが行われ、全員がスターティンググリッドに付く。
このウォーミングアップラップで、ケーシーは必ず他のライダー全員を先に行かせる。
ゆっくりしたペースで走り、必ず最後にスターティンググリッドへ到着する。
他のライダーはエンジンを回しながらスターティンググリッドで待っているので、
エンジンのラジエーターの水温が少し上がっており、エンジンにとってやや厳しい状態になる。
ケーシーは少し有利になるのだった。
だからといって誰もケーシーの真似をしなかった。なぜならケーシーのように遅く走ると、
タイヤがあまり温まらず、1周目を速く走れないのである。
2010年のムジェロサーキットでヴァレンティーノ・ロッシは転倒して骨折したが、
その原因はスロー走行だった。アラビアータ2を越えたあたりでスロー走行をして、
他のライダーがいなくなるのを待ったのだが、スロー走行のせいでタイヤが冷えてしまった。
冷えたタイヤで無理に走ってしまい、ビオンデッティでの大転倒につながってしまったのだ。
ケーシーはウォーミングアップラップでゆっくり走り、それでいてタイヤも温めることができた。
これは全く理解に苦しむことであった。
ケーシーはウォーミングアップラップでどういうことをしていたのだろうか。
ケーシーはいつも1周目から速く、出遅れることもなかった。
つまりウォーミングアップラップでタイヤが十分に温まっていたのである。
転倒が多い
転倒が多いライダーであった。
ブレーキングをミスしてフロントタイヤを滑らせてスリップダウンする転倒が圧倒的に多かった。
アクセル操作を失敗してリアタイヤを滑らせるハイサイド転倒は非常に少なかった。
かなり神経質で、気負いすぎる、張り切りすぎる、焦ってしまう、無茶をする、そういう性格だった。
それゆえレース序盤の転倒が非常に多い。
レース序盤を無事に乗り切ると気負いが薄れて落ち着くらしく、レース後半の転倒は非常に少なかった。
得意なサーキット、不得意なサーキット
フィリップアイランドサーキットで恐るべき速さを発揮し、6連覇を達成している。
このサーキットは風が強く、路面温度も下がりやすい。レース中に雨が降ってきたこともある。
アクシデントが起こりやすく難しいサーキットなのが、まるで苦にせず圧勝し続けた。
ロサイル・インターナショナルサーキットでも強く、5勝を挙げている。
ここはコース幅も広くてアクセルをどーんと開けることができる。ケーシーにはピッタリである。
高難易度コースのラグナセカでも3勝。
本人が苦手だと言っていたのはヘレスサーキットである。
「コース幅が狭くてコーナーが多くて、アクセルをどーんと開けられないのが嫌だ」と言っている。
2007年から2010年はヘレスサーキットを苦にするドゥカティのマシンだったのも拍車をかけた。
体力が少し劣る、2009年の乳糖不耐症
MotoGPライダーは筋骨隆々のフィジカルお化けばっかりなのだが、ケーシーはさほどでもない。
2006年にチーフメカを務めたラモン・フォルカダは「ケーシーの肉体はギリシャ彫刻というほどでは
なかった。それほどガチガチに鍛えていなかった」とコメントしている。
実際、ライバルがトレーニングに励むシーズン中の休みに、ケーシーはスイスの湖で釣りをしていた。
食も細かったようで、モリモリ食べまくるタイプでは無かった。
他のライダーに比べると体力が少しだけ劣るので、ロングランも嫌っていた。
2009年のシーズン真っ最中に原因不明の病気にかかり、吐き気や衰弱に襲われた。
あまりの病状の酷さにレースを3つ休場する羽目になった。
多くの医者に診てもらったが誰もさっぱり分からない。ケーシーは絶望のあまり引退を考えたという。
そんな中、ある1人の医者が血液検査の数値を詳しく見て、グルコース、乳糖、塩分の不耐性、
全てを検査し、塩分と乳糖の混合が原因だ、つまり乳糖不耐症だと診断した。
この診断は正解で、ケーシーは食事を変え、乳製品を避けたらすぐに治った。
「あの名医に出会えて良かったよ」とケーシーは振り返っている。
この休場中のメディアのバッシングは酷く、さらにはドゥカティの上層部からの糾弾も激しかった。
このドゥカティの上層部の対応に不信感を抱き、ケーシーは2010年にホンダへの移籍を決意した。
もともとドゥカティの上層部にはケーシーを高く評価する声が少なく、それは給料の額に表れていた。
2007年はイタリア人のロリス・カピロッシよりもずっと少なかった。
2008年はイタリアのマルコ・メランドリの半分だった。
2009年にはやっと給料が上がったが、2009年の乳糖不耐症欠場の最中に、
ドゥカティの上層部はホルヘ・ロレンソをケーシーの倍の給料で引き抜こうとした。
このことをリヴィオ・スッポから聞かされたケーシーは不信感を募らせたのだった。
ちなみに乳糖不耐症を避けるための食事生活にはなかなか慣れず、2010年には父親のコーリンが
「ケーシーは俺の目を盗んで好物の乳製品をこっそり食べてるんだよ、困った奴だ」と発言している。
レースキャリアの前半はLCRに所属
2002年のMotoGPデビューと2003年、2005年と2006年、これらの年はチームLCRに所属していた。
チームLCRはイタリア人ルーチョ・チェッキネロがオーナー兼監督を務めるプライベートチームである。
ルーチョの性格もあって非常に家庭的な雰囲気のあるチームであり、単身でヨーロッパに乗り込む
ケーシーにとって(両親は2002年にオーストラリアに帰国していた)LCRは良いチームだった。
ところがケーシーは転倒が多く、たびたびルーチョの財布を攻撃していた。
マシンが転倒すると部品が損壊するのでそのたびに買い直さねばならない。
ルーチョはイケメンで爽やかであり、誰からも好かれる性格でスポンサーをかき集めるのが上手い。
だが無限にお金を貰えるわけではない。ケーシーが転ぶたびルーチョは預金通帳を確認するのだった。
ケーシーの転倒癖が頂点に達したのは2006年の最大排気量クラスルーキーイヤーだった。
ロッシ、加藤大治郎、ホルヘ・ロレンソ、マルク・マルケスといった天才も最大排気量クラスの初年度は
転びまくっており、ある程度の転倒はしょうがないのだが、それにしてもケーシーの攻めっぷりは凄く、
転倒に次ぐ転倒だった。
最大排気量クラスのマシンや部品は250ccクラスのものよりも高額であり、チームLCRは財政難になった。
メカニックの給料も満足に払えない状況になったという。
ルーチョは泣きながらメカニックに混じって作業したのだった。
ちなみにチーフメカとしてケーシー・ストーナーの躍進を支え続けたクリスチャン・ガバッリーニは
2003年からLCRで働き始めた人である。2007年にケーシーと共にドゥカティに移籍していった。
怒り
MotoGPライダーには激情家が多い。時速350kmで戦い危険な状況に身をさらすからしょうがない。
激情家の代表としてケーシーの名前が挙がることが多い。
コース上で走りを邪魔されると激しく怒る。手を振り、怒りを目一杯露わにする。
2010年のころのアレイシ・エスパルガロはいっつもコース上でケーシーに怒られていた。
2011年にはランディ・ドプニエに邪魔され怒り爆発、コース上で肩を殴っている。これが動画。
さすがにやり過ぎたと思ったかケーシーはすぐに謝罪した。また運営に5,000ユーロの罰金を課せられた。
ピット内でライダーと怒鳴り合いになることもあった。
2011年のイタリアGPではカレル・アブラハムとコース上で接触、怒った両者はピット内で
壮絶な口論になった。取っ組み合いにならないようにスタッフが気を揉んでいた。
ピットでメカニックに怒鳴ることも多かった。それも特にドゥカティワークス時代は多かった。
リヴィオ・スッポは「ケーシーが感情的になって荒れるのはいつものことでした」と発言している。
荒れるだけ荒れると気分がスッキリするのか、チームメイトに対しては大変なナイスガイで、
情報交換も積極的で親切そのもの、チームの雰囲気を良くする好青年だった。
ドゥカティワークス時代もニッキー・ヘイデンと熱心に情報交換していた。
2010年までのレプソルホンダはダニ・ペドロサとアンドレア・ドヴィツィオーゾで、この2人は
仲が悪く、話しかけることもせず、それどころか走行データの提供も相互に拒否していた。
そんななか2011年にやってきたケーシーは2人にもよく話しかけ、情報交換もした。
ケーシーに釣られてダニやドヴィも走行データを公開するようになっていた。
全くのチーム外であるベン・スピーズにも親切にしており、走行について情報交換し、親切にしている。
2015年の鈴鹿8耐の転倒の後もチームメイトに「申し訳ない」と何度も謝っていた。
ヴァレンティーノ・ロッシとの因縁
2006年に20歳173日の若さで最大排気量クラス2戦目にして初ポールを獲得。
2007年に21歳342日の若さで最大排気量クラスチャンピオンを獲得。当時史上2番目の若さだった。
自分より6年8ヶ月年下の若者が恐るべき速さを見せたことによりヴァレンティーノ・ロッシは焦り、
メディアを通じて数々の精神攻撃を仕掛けることになる。
ロッシはケーシーを「電子制御時代の申し子だ」「電子制御があったから勝っただけだ」と挑発、
あるいは「走りに迷いがあり、未熟だ。ブリジストンタイヤの恩恵を受けているだけだ」とも言った。
開発能力が高いロッシの言葉として各メディアは真に受け、さんざんこのネタで叩くことになる。
実際はロッシの見立ては間違っており、ケーシーは電子制御を嫌うタイプであった。
また、ブリジストンタイヤの総責任者の山田宏さんが「走行データを見るとケーシーの能力が
他のブリジストンユーザーに比べても飛び抜けていることが分かる」と発言している。
とはいえヨーロッパのメディアのケーシー叩きは加熱した。
ロッシのファンが多いのでケーシーを悪役にして叩けば売れる。そしてケーシーはヨーロッパ各国で
大量のロッシファンからブーイングを浴びることになった。
ケーシーは「ブーイングを浴びずに済んだのはオーストラリアと日本だけだ」と発言している。
ケーシーは少年時代をイギリスで過ごしており、そこでは友達も多くできて楽しい時間を過ごした。
しかしそのイギリスでロッシファンに激しくブーイングを浴びる。
「イギリスでブーイングされるのはなんて悲しいことだろう」と発言している。
ヴァレンティーノ・ロッシは自分の支持者が他のライダーにブーイングを浴びせても決して制止しない。
「ストーナーやロレンソやマルケスにブーイングするのは止めてくれ」と言うことがない。
ロッシの精神攻撃は続き、2010年には「ケーシーの練習走行は短すぎる。来年俺がそのマシンに
乗るんだから、もっと長く走ってしっかり開発しろ」と言ってみたり、
ジェレミー・バージェスと共に「ケーシーの開発能力は低い」とコメントしたり、散々だった。
こういう精神攻撃に対してケーシーはリヴィオ・スッポと共に反撃を開始、
「2008年のラグナセカのパッシングはルール違反だ。完全にコースオフしている」
「他の選手がやったならペナルティを受けているはずだが、ロッシが反則してもペナルティがない」
「ロッシはドルナに贔屓されている」とことあるごとに批判したが、なかなか勝ちきれなかった。
形勢が逆転したのは2011年以降だった。
2010年シーズン末にケーシーが6戦3勝2位1回と好成績を収めたドゥカティのマシンに乗るも勝てず
絶不調のどん底に陥ったロッシに対して、ケーシーは壮絶な報復をするのである。
「ロッシには幻滅した」
「ニッキー・ヘイデンやエクトル・バルベラにも負けて、自慢にもならない。恥ずかしいことだ」
「本人も言うとおりロッシは完璧なマシンじゃないと攻めることができない。これを手抜きと言うんだ」「ドゥカティに文句だけ言って何も勝てず、出ていった。ドゥカティのみんなが可哀想だ」
「ドゥカティでキャリアを終えたいと言っていたのに見捨てようとする。残留すべきだ」
・・・相当に鬱憤が溜まってたことがうかがえる。
引退してもロッシに関してはときおり厳しい指弾をしている。
2015年10月のマレーシアGPでロッシとマルク・マルケスの接触事件が発生した後、
すぐさまTwitterに「もし他のライダーがロッシと同じことをしたら、即座に失格になっただろう」
と書き込んでいる。ロッシはドルナに甘やかされていると批判したのである。
ちなみに、ケーシーはホルヘ・ロレンソやダニ・ペドロサ相手には一切口撃せず、正々堂々、
スポーツマンシップに則って、フェアにクリーンに戦いを挑んでいる。
ケーシーは精神攻撃してくる相手には精神攻撃し、修行僧みたいな相手には修行僧のように接する。
まさしく鏡のような人なのである。
家族
ケーシーの嫁。とても美人なのでドルナの国際中継カメラに良く映った。
体が許す限り全てのレースに帯同、ピットに詰めかける。
レース前のスターティンググリッドで必ず傘を持ち、ケーシーの隣に立っていた。
たまに、出走直前のケーシーに対し、ヘルメット越しにキスしていた。動画1
レース中はケーシー用の椅子に座って応援するのが定番だった。
3位以上でレースが終わってパルクフェルメに戻るケーシーからヘルメットとグローブを受けるのは
アドリアーナの役目だった。
1989年生まれ、オーストラリア南部のアデレード出身。旧姓はTuchyna。父は2輪レーサーだった。
ケーシーと出会ったのは2003年オーストラリアGP、彼女が14歳の頃であった。
このとき「お腹にサインして♡」とケーシーにおねだりしている。
2人は恋に落ち、2007年1月6日にアデレードで結婚式を挙げた。ケーシー21歳、アドリアーナ18歳。
結婚してから心が落ち着くようになりました、とケーシーはコメントしている。
2011年11月の最終戦バレンシアGPにも来ている。
2012年2月に出産。2012年シーズンの序盤3戦は欠場し、4戦目のフランスGPから復帰した。
2012年11月のバレンシアGPをもって惜しまれつつもMotoGPパドックを去って行った。
この画像やこの画像から、抜かりなく体を鍛えていることが窺われる。
ドゥカティやホンダでケーシーの良き理解者だったリヴィオ・スッポはこう語っている。
「ケーシーは仕事の話になるといつも必ずアドリアーナに向かって『ちょっと席を外してくれないか』と
言っていた。それを聞いてアドリアーナはすぐに他の部屋に移っていた。
女房が仕事の話に割り込むという夫婦も多いが、ストーナー夫妻はそうではなかった」
実際にこの有名なシーンで、アドリアーナはヴァレンティーノ・ロッシとケーシーの会話が
始まるや否や、すぐに他のスタッフの後ろに引っ込んでいる。
ケーシーの長女。愛称はAlly。この画像を見るとすごく母親に似ている。
2012年2月16日にスイスのローザンヌで生まれる。
ストーナー夫妻はシーズン中をスイスのローザンヌで過ごしていたので、そこの病院に入ったのだった。
誕生を祝ってBMWがベビーカーを贈っていた。
2012年5月のフランスGPからアドリアーナに連れられてサーキットに来ていた。
こんな感じの画像が国際映像に映っていた。
2015年7月に鈴鹿8耐のため両親と共に来日、観光を楽しんだ。画像1、画像2
ケーシーは「娘には釣りとバイクを必ず教える」と張り切っている。
順調にアレッサンドラも染まってきている模様 画像1、画像2、画像3、画像4、画像5
ケーシーの次女。2017年10月6日生まれ。
2017年のケーシーはろくすっぽドゥカティのテストに参加せずオーストラリアにいたままだったが、
それはこういう事情があったからである。
ケーシーの父。1999年にケーシーの可能性を確信し、農場を売り払い一家そろってイギリスに移住した。
なかなかぶっ飛んだ人と言えよう。
このときのイギリスでの生活はキャンピングカーでの放浪生活で、かなり貧しいものだったという。
イアン・ニュートン(Ian Newton)という、元2輪レーサーで当時はアプリリアの育成レースを
主催していたイギリス人が「ウチの庭に車を留めなよ」と言ってくれたらしい。
ケーシーもニュートン家に居候している。
このときの貧乏暮らしのためか、ケーシーはドゥカティワークスと契約して大金を手に入れたら、
即座にオーストラリアの農場と牛1,000頭を購入して、コーリンに恩返ししている。
2002年にケーシーがMotoGPに参戦し始めてから、ケーシー両親はオーストラリアに戻っている。
ケーシー現役時代はコーリンがマネージャーを務めていた。ケーシーと何か契約したいのなら、
コーリンを通さなければならなかった。
2012年シーズン序盤にレプソルホンダの首脳である中本修平HRC副社長とリヴィオ・スッポは
ケーシーに高額の契約金を提示したが、ケーシーの答えは「今年で引退します」だった。
このとき提示された契約金の額を知ったとき、コーリンは「俺の息子は気が狂っている」とコメント。
この契約金の額は中本修平HRC副社長も「ホンダの重役の会議で『気でも触れたか』と言われたが、
『ケーシーを引き止めないとまずい。この金額が必要』と懸命に説得して許可をもらった」と言っており
ケーシーもその額を見て自分の評価が高いことに満足したという。
ケーシーの母。2011年のオーストラリアGPでは一家揃って写真に写っている。
釣り、狩り、ゴルフ、ラジコン
ケーシーは多趣味で忙しい。特に大自然に囲まれるのが大好きで、シーズンオフはオーストラリアで
馬を乗り回し、野菜を少しだけ持っていて外出してキャンプを張ってしばらく滞在、
釣りや狩りで手にした獲物をその場で焼いて食べる、そういう遊びを好んでいた。
まさしく純朴な田舎青年だった。
シーズン中はスイス・ローザンヌ近くのジュネーヴ湖(レマン湖)のそばの一軒家。
シーズンオフはオールトラリア・メルボルンから40kmほど離れたグレンバーンの農場。
どちらもド田舎である。
2009年中盤まではモナコのモンテカルロに住んでいたが、乳糖不耐症による欠場とそれへの批判で
精神的に参ってしまい、スイスのローザンヌ近くのジュネーヴ湖が見える一軒家に引っ越したのだった。
釣り
ケーシーの趣味といえばまず釣りを挙げねばならない。
綺麗な湖を見つけたらそのほとりにキャンプを張り、1日中釣りをする。気が向いたら水に飛び込み泳ぐ。
これをシーズン中も行っていて、「レースのことを忘れられるから最高だ」と言っていた。
ものすっごく嬉しそうな笑顔の画像もある 画像1、画像2、画像3、画像4、画像5、動画1
狩り
ケーシーは狩りが好き。猟銃は使わず、昔ながらの弓矢を使うのが好み。こういうのを使う。
動物の様子を見ながらコッソリ近づくのだが、動物の移動のクセ、太陽の位置、風の向き、
こういうのを考慮しなければならない。上手く仕留めたときは楽しくてしょうがない、と言う。
ゴルフ
ケーシーはゴルフもやる。 画像1、画像2、画像3、画像4、画像5
ラジコン
ケーシーはラジコンも好きで、Twitterにその手の画像が多く上がっている。
特にヨコモが好きらしい。 画像1、画像2、画像3、画像4、画像5
ヨコモのクレカ並みの小さな車に感激するケーシー 画像1、画像2(「メール便」という字が見える)
ヨコモの経営する谷田部アリーナでレースに参加 画像1 動画1 レース結果1
フタバのコントローラーがお好み 画像1、画像2
SOREXのタイヤに感激するケーシー 画像1
特注ボディを手にしてご満悦のケーシー 画像1、画像2
ドローン(クワッドコプター、クワッドローター) 画像1
ケーシーはゴールドコーストに住んでいて、その近くのラジコン屋やラジコンサーキットに出没する。
ゴールドコーストのラジコン屋Rippitを訪れるケーシー 画像1
ゴールドコーストのサーキットGCRCを訪れるケーシー 画像1、画像2
秋葉原のラジコン店を訪れるケーシー 画像1、画像2、画像3
その他の雑記
ワークスライダーとしての宣伝活動やPR活動をあまり好まず、セレブ扱いされるのも大嫌いだった。
「俺はレースをやるためだけに来ているんだ」という気風で、根っからの職人肌という感じだった。
レース前はひたすら集中するタイプだった。
ピットの中でもカメラに気付いて反応することは非常に少なかった。まれに親指を上げるくらい。
スターティンググリッドに付いてからは集中度MAXで、カメラに愛想を振りまくことを全くしなかった。
スーパーバイクのライダーは親切でライダー同士の情報交換も盛んだが、
MotoGPライダーは世知辛い人が多くライダー同士の情報交換を行おうとしない。
2010年にMotoGPへ移ってきたベン・スピーズはスーパーバイクのノリで色んなライダーに話しかけたが
多くのライダーに冷たくあしらわれてしまっていた。
そんな中、ベンに親切に教えたのは、コーリン・エドワーズとケーシー・ストーナーだった。
コーリンはスーパーバイク出身だから親切にするのもおかしくないが、
ケーシー・ストーナーが親切にしてくれたのは意外だった。
これ以来、ベンとケーシーは非常に仲が良い。一緒に釣りや狩りをするほどである。
スピーズ夫妻に合いにアメリカへ行くストーナー夫妻 画像1、画像2、画像3
関連項目
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