ココ・シャネルは、フランスの伝説的なファッションデザイナーであり、ファッションブランド「シャネル」の創業者である。
概要
ココ・シャネルは愛称で、本名はガブリエル・ボヌール・シャネルと言う。
1883年、ロワールワインの産地として有名なフランス西部のソミュールで生まれた。
12歳に母親を病気で亡くしその後父親に捨てられ、18歳までは田舎町の孤児院に過ごすという壮絶な子供時代を過ごす。その頃は歌手を志して、孤児院でお針子(衣服を仕立てる仕事)をする傍らキャバレーで歌を歌っていた。この時に歌っていた「コケコッコウ」と「トロカデロでココを見たのはだれ」という歌の題名にちなんで「ココ」という愛称がついたと言われている。
孤児院を抜けた後、本格的に歌手を目指し幾つもオーディションを受けるも落選、結局歌手は諦め、郊外の牧場で時間を過ごす。その間、退屈しのぎで作った帽子のデザインが友人達などに認められ、パリの20区(東京だと23区にあたる?)内に帽子のアトリエを構えた。これには将校で当時交際していたエティエンヌ・バルサンの援助があった。
その後、1910年にはパリの中心街、セーヌ川沿いパリ1区のカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という帽子専門店を開店。ここからブランドとしての「シャネル」が始まった。
略歴
1910年:パリ1区カンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店
1913年:ドーヴィルに「シャネル・モード」二号店を開店
1915年:ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。
1916年:ジャージー素材を使用したドレスが話題となったコレクションを発表。パリで注目を集める。
1921年:「シャネル・モード」を拡張するのに合わせ、シャネル初の香水「No.5」「No.22」を発表
1924年:ヴェルテメール兄弟と契約を結び、社団法人 「パルファム・シャネル」を設立。
この時に収入を保証される代わりにシャネルは「シャネルNo.5」の全経営から手を引いた。
1939年:労働者がストライキを敢行。シャネルは一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。
1940年:フランスがアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に占領。
1944年:フランス開放。シャネルはドイツ軍に協力したため逮捕。
「対独協力者」「売国奴」としてフランス中からの非難を浴びる。
その後イギリスのチャーチル首相の協力を得て釈放、スイスに亡命。
1954年:スイスでの亡命生活を終えパリに戻る。ファッション業界に復帰。
1955年:シャネルスーツ(ブレードの縁取りがある、ウールのスーツ)を発表。アメリカで「過去50年間で最も大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード・オスカー賞受賞。
1971年:87歳で死去
その他
1921年に発表された香水のうち「シャネルNo.5」は特に人気が高く、今でもシャネルを代表する香水として有名である。1940年代には「シャネルNo.5」だけで年900万ドル、現在の価格に換算すると2億ドルの売り上げがあったという。
1924年にはヴェルテメール兄弟との契約でシャネルは「シャネルNo.5」の生産権や資産を売り渡すことになるが、その売り上げの拡大と大きさなどから、幾度となくシャネルはヴェルテメール兄弟に対して「シャネルNo.5」の資産を手に入れようと画策することになった。
シャネルは、フランスがドイツに占領されている間に、ヴァルテメール兄弟がユダヤ人であったことをいいことに「ユダヤ人の金融資産に対する処置」として「パルファム・シャネル」の資産の没収と、自分への移転を願う手紙をドイツ軍の行政官に向けて書いた。(尚ヴァルテメール兄弟の手回しで非ユダヤ人に資産が移されており、却下された模様)
ドイツ占領が終わった後も訴訟などで激しいバトルを繰り広げ、利益分配として900万ドルを貰うことや、将来における「No.5」の世界売り上げの2パーセントを得るということで最終的に決着がついた。ちなみにこの2パーセント、年2500万ドルである。日本円で年28億円程度。この収入でシャネルは世界で最も裕福な女性になった。
シャネルは執念があったために勝ち取ることが出来たが、そうでなければヴァルテメール兄弟にやり込められていたのかもしれない。安易に権利を渡してはいけない、そういう教訓がそこにはある気がします。
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関連項目
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