コマ割りとは、漫画において枠線で区切られた紙面に絵を配置することにより、視点や時間の変化を読者に伝える技法または文法である。枠によって区切られた絵を「コマ」と呼ぶ。
概要
漫画は映像のように音や時間を表すことが難しく、文章のように言葉で設定や心情を提示することも避けられる傾向がある。こうした制約のもと、漫画では独自の表現方法が発達した。
コマ割りにおける各種表現が曖昧な表現であればあるほど、物語に対する読者の(「演奏者」としての)参与の度合いが大きくなる。これは他の意味の明確なコマとの対比によっていわば劇的な効果を生む。
コマ割りには大きく分けて絵の内容に関わるものと絵の配置に関わるものがある。前者は映像におけるモンタージュに近い。本記事ではまず絵の内容を形式的に考察する方法を述べ、その後絵の配置についてさまざまな観点から考察していく。
読者の側の制約
コマ割りの文法は事前に読者に用途を学習されていないと意味をなさない物が大半である。映像におけるライティングやオールドレンズ効果のように、コマ割りの技法は技法を使う部分とそうでない部分とが対比されることで初めて意味を持つのである。作者は技法を取捨選択しながらコマを構成することになり、その方法は漫画のジャンルによっても異なる[1]。
故に限られたジャンルの漫画にしか触れていない読者は、他のジャンルの漫画の描写を不要・非効率・過剰な、「青臭い」ものとして受け取り兼ねない。その最たるものとして漫画への感情的な参与の形態の違いがある。
漫画のコマに描かれた物が「その場にいる誰かにとってそう見えた」ということを表すために、実際の縮尺より大きく描かれたり、絵柄が変わったりする。登場人物(主体)の意識が画面全体に反映されるのである(このとき、画面に主体が映り込んでいてもよい)。
漫画に描かれる絵には、読者が「主体」として感情移入する(=なりきる)キャラクターの絵と読者が「客体」として見る人や物の絵とが存在する。「主体」は主にデフォルメや記号や内語を伴って感情が分かるように表され、多くは画面の向かって右(順位置[2])に置かれる。「客体」はより写実な絵で表され、画面の手前を向く。手前を向いている人物の感情が分かるようになっていれば、その人物にとっての今の自分がそのように感じられている、ということを表している可能性がある。
これらの関係をまとめると下表のようになる。なお、視界の主がAだからといって、描き手はAの視界を完全に再現したカメラアングルにする必要はない。
視界の主 | 被写体 | 主体 | 可能性の高い意味・意図 |
A | B | なし | AにとってBがそう見えている |
A | B | B | AとBにとってBがそう見えている |
三人称 | 任意 | なし | 客観的な視点である |
三人称 | A | A | AにとってA自身がそう見えている |
三人称 | AとB | A | AにとってBがそう見えている |
三人称 | AとB | AとB | ①いずれかの人物がAとBにとってそう見えている ②AとBが読者にそう見えるよう作者が誘導している |
描かれているもの | 向き | デフォルメ度 | 位置 |
主体 | シモテ・奥 | デフォルメ高 | カミテ |
主体でなく被写体 | カミテ・手前 | デフォルメ低 | シモテ |
主体であり被写体 | シモテ・手前 | デフォルメ中 | カミテ |
なお、普通シモテを向く者はカミテに、カミテを向く者はシモテに置かれるが、そうでない場合もある。そうした場合は過去・未来や強・弱といった構図上の目的があるか、もしくは自身を客観視するような意味合いが加えられていると思われる。またこれら以外にも、たとえばカミテ・奥向きかつデフォルメ高のキャラも描かれたりするが、受け取り方は人により異なる。
勿論これらは傾向の話であり、全ての作者や漫画がこのような演出に忠実である訳ではない。読者は「彼はこう思っているのかもしれない」という曖昧性を楽しむことも可能である。また視界の主が判別不能な場合、その意図は読者の自由な読みに任せられることになるだろう。
ジャンルによっては三人称的な読みで全く問題ないものもあれば、上記のような「主体」「客体」の弁別を要求し、主体が事あるごとに次々と変わるような漫画も存在する。後者のジャンルにほとんど触れずにいた場合、そうした意図に基づいた表現はことごとく不可解なものとして映るだろう。もしこうしたジャンルの考察を行う場合、こうしたことに注意を払う必要がある。
作者の側の制約
漫画を描く側にも、技術的なもののほかに印刷や連載の上での制約がかかる。
印刷の問題としては、ノドや断ち切り幅の関係から絵や文字を入れることのできるスペースが制限されていたり、ページ数が4の倍数になったりするといったことが挙げられる。
雑誌や印刷所によってはグレースケールが使用できないため、スクリーントーンを使う必要がある。また雑誌に載せられるページ数が決まっている場合、一つのページの中にできるだけ多くのコマを入れたり、少ない台詞数で多くの情報を伝えたりする必要が出てくる。このため目元のアップと背景だけで感情を表したり、コマの大きさやカメラアングル等の変化によって大ゴマを省略したりすることがしばしば行われる。当然ながら、ページ数の制約が無いwebのような媒体ではこうした問題は少なくなるだろう。
連載している漫画の場合、一つの話の中に(ジャンルに応じた)見せ場を作る必要があったり、台詞やコマの形状を見やすいものにする必要があったりする。
話の合間合間には読者が話の内容を忘れてしまわないように適度に今までの話のまとめになるような会話を入れることもあるし、読者が混乱するのを防ぐために場所・人・動作がわかるようなコマを挿入したり、退屈を防ぐためにアオリやフカン, 引きの構図を織り交ぜる必要がある。基本的には一つのコマで一つの情報が読者に与えられ、前後の流れを断ち切るような情報を出すことは控えられる。また吹き出しの尻尾(尖った部分)は交差することもできるが推奨されず、基本的に右側の人物が喋る場合は右側にフキダシがある。
もちろん、描き手の技量によっては手や身体が描けないために顔のアップのコマが多くなったりするといったことも往々にしてある。
ネームを切る(=漫画の下書きを行う)ことは、以下の3ステップにより行われる。
- プロットを決める
- 絵の内容を決め、順番を決める
- 絵を配置し、必要に応じて内容を修正する
それぞれのステップは別々の紙で行われる。各ステップでの絵の完成度は人によりまちまちであり、省略されたり、入れ替わったりすることもある。
絵の内容
以下では実際に漫画を描く際のテクニックは考えずに、絵の内容から漫画を分析する各種アプローチについて考える。読者はこれらのアプローチを組み合わせてコマやその纏まりを分類することで、作家性と呼ぶべきものが見ることができるかもしれない。
ここではコマの形状や配置を考慮せずに、純粋な中身とそれら同士の組み合わせについて、漫画・映像・言語の側面から考察していく。最後に補足として、図式によってこれらをまとめる。
物語は読者にヒントを与え、想像で補うことを命令するものである。それはコマ同士のつながりに関しても言える。
スコット・マクラウドはコマからコマへの繋ぎを繋がれているもの同士の関係性によって以下の6種類に分類し、それらの補完の度合いの強さとジャンルに応じた使われやすさについて論じた。
- 何かの瞬間と瞬間とを繋ぐもの
- 同じ人物の二つの動作を繋ぐもの
- 異なる人物同士または人物と人とを繋ぐもの
- 時間と場所の異なる二つの場面を繋ぐもの
- 時間と関係なく、同じ場所やムードの異なる二つの部分を繋ぐもの
- 無関係な二つのもの同士を繋ぐもの
映像に喩えるのであれば、1.や2.は同一のカットを複数のコマで表したものであり、3.や5.はカット同士にまたがってコマを繋いだものであると言える。4.はシーンを跨いでコマを繋いだものであろう。
以下、主に3.について述べる。
◆コマの属性
漫画は原則として一つのコマに一つの情報が含まれる。一つのコマに複数の情報があると読者は混乱してしまう。複雑な情報を表す場合、複数のコマにわたって行われる。たとえばそれは会話などの場合である。
漫画にはBGMがないこともあり、状況に対する読者の適切な反応を誘導する手段が限られる。このため周囲の人間の反応によってその状況が驚くべきものなのか、悲しいものなのかが分からないと、読者に曖昧なことしか与えられず、別の重要な事柄へ意識を向けられなかったりする。
また、静動性や人気(ひとけ)度によって動作と心情のどちらに集中して欲しいのかをコントロールする必要もある。例えばコマや絵が水平・鉛直線で構成されるなど安定した構図であったり、コマ枠が無かったり、コマに対して人が小さく描かれていたりする場合は精神を表現するコマであると言えるし、逆三角など不安定な構図だったり、背景が白かったり、人が大きく描かれていたりする場合は動作を表現するコマであると言えよう。
単体として
漫画が読者にとって重要と思われるような情報を一つ提示するためには三種類のコマを提示する必要があるとされる。特定の情報に読者の意識を向ける「フリ」, 情報を提示する「キメ」, その情報に対する反応を誘導する「ウケ」である。それぞれにつき最低一つのコマが必要である。[3]
ウケはフリを兼ねている場合もあり、キメはフリやウケを兼ねている場合もある。またフリ・キメ・ウケの対立が希薄な場合もある。フリのコマを左ページの最後に持ってきて、ページをめくった最初に衝撃的なキメのコマを持ってくるなどの手法はよく採られる。
なお、たとえば一つのコマが二つに分割されている場合など、一見二つのコマに見えて一つのコマである場合や、どちらなのか判別のつかない場合もある。
セットとして
フリ・キメ・ウケの一セットで、たとえば以下のような情報が与えられる。
たとえば場所を表すような場合など、フリ・キメ・ウケの区分ができないこともある。以下のような場合である。
このような描写には映像的な効果を狙ったものや、特定の情報に読者の意識を集中させることを狙ったものがある。
漫画は読者が抱いている予想から外れることをすることで読者に劇的な効果を与える。読者の予想は漫画が今まで与えてきた情報から導かれるものであるため、突拍子もない出来事が続くと読者が予想を立てられなかったり、予想の裏切りがある部分に集中できなかったりする。
作者は読者に余計な疑問を与えないために、たとえばシーンの最初には場所を表すようなコマをいくつか配置して、場所がどこなのかという疑問を与えないようにするのである。[4]
◆映像的なアプローチ
漫画のコマは記号を組み合わせて意味を表すものであり、必ずしも何らかの映像のうちの一瞬を切り出したものとは限らない。しかしそれらを組み合わせて新しい意味を生む際には、映像の場合といくつかの共通点がある。
映像において複数の絵を組み合わせて、それらの絵にない意味を発生させることを「モンタージュ」といい、モンタージュを目立たせてその意図を視聴者に主体的に考察させるような編集方法を「モンタージュ編集」という。一方でモンタージュを視聴者に意識させないように行うものを「コンティニュイティ編集」と呼び、演出家はコンティニュイティ編集の要所要所にモンタージュ編集を混ぜることによって状況の非日常さを演出したりする。[5]同様のことは漫画のあらゆる表現に援用が可能である。
構図による効果
ショットサイズやカメラアングルといった概念は漫画にも適用することができる。[6]すなわち、顔がコマに収まり切らなければ威圧感や感情の大きさを表したり、フカン構図なら説明的・窮屈な印象を与えたり、逆三角形構図なら不安定な印象、線が細ければ静かな精神性を表したり、といった具合である。(前述したとおり、こうした表現はしばしば使われる条件が一定であることによってのみ効果を発揮するその場限りの意味である。)
一つのコマが映像における一つのカット(=編集された映像を構成する最小単位の、ひとつながりの映像)に相当することもあれば、しないこともある。このため、漫画を映像の論理で考える場合には、「一つのカットを一つのコマで表したもの」と「一つのカットを複数のコマに分割したもの」とがある。
加えて、映像においてはその画面の中で大きく描かれているものほど重要であることが多い。漫画の場合、それが紙面に対してなのか、コマに対してなのか、という点で議論の余地があるだろう。
また、映像においてはカメラワークを用いて同一のカット内でも構図を変化させることができるが、漫画は視線の誘導やコマの形状, 時間経過の描写によってやや曖昧にではあるもののその変化を読者に伝えることができる。この場合のショットサイズ等は実際の映像に直すと不合理なものである場合がある。
縦や横に長いコマはそれだけで時間を表すため、自然とパンやティルトの効果がある。またオノマトペや間白を使って時間の経過を意識させると、この効果は強まるようだ。さらにコマを分割することでカメラが横方向にパンすることを表すことができる。
中韓の漫画においては、ジャンルにより同一のコマ内での視線誘導を用いてカメラの動きを表すことがある。
被写体の変化による効果
画面に映るものを変化させることにより、更に新たな意味が生じる。何かを見るコマから見られた対象を映したコマへ繋げば「見る」という行為を表すことになり、場所を表すコマと足や車を映せば「移動」を表し、質問や含みのある言葉を発するコマでシーンを切った次に場所や構図に関連性のないコマを挿入することで「疑問への答え」を暗に示し、リンゴを写したコマからバナナを写したコマ, 葡萄を写したコマ……と繋げば「果物」を抽象的に表す意味となる。あるいは単に似たような構図を連続させるだけでも二つを対比する意味合いが生まれる。
コマ同士がほとんど同じ構図であればその差異に意識が向き、読者は間に起こったものを補おうとするのである。
こうした効果は、多くはコマの形状や大きさが同一である場合にもっとも克明に現れると言える。
漫画は映像と異なり時間や音声が存在しないほか、コマの形状やキャラクターの位置, 視線誘導といった様々な要因が絡むため単純に映像理論を漫画に適用することはできない。
映像の場合では二人の向かい合う人や物・場所がある場合、二者を結んだ線(イマジナリーライン)を超えてカットを繋ぐことには特別な意味があるが、漫画の場合はこのイマジナリーライン越えが頻繁に行われる。作者がイマジナリーラインの原則を守って漫画の法則を守らないことの方に特殊性が生まれる場合もある。更に言えば、漫画は映像と違って前後を簡単に見ることができる。そのページに登場人物同士の空間的な位置関係が示されていれば、イマジナリーラインが守られていなくとも読者は誰が話しているかについてある程度混乱せずに読むことができる。[7]
また映像においては同じ構図のまま時間だけが異なるカット同士をつなぐこと(ジャンプカット)は特殊な狙いや技術を要するものだが、漫画でそのようなコマ繋ぎを用いることが映像の場合と同じ効果をもたらすとは限らない。
情報量の変化による効果
映像におけるカット(ひとつながりの映像)は前後のカットとの関係から、
①「画面外に何かが想定されるもの」
②「画面内に全てが収まっていて、(主に何かと何かとが対比されているために)意図が明確なもの」
③「画面内に全てが収まっているが、情報量が多く何に注目すればいいか分からないもの」
に分かれる。上述の「フリ」や「ウケ」は①であることが多く、「キメ」は②であることが多い。またウケとフリを兼ねたコマや場所の説明を行うコマは③であることが多い。[8]
◆言語的なアプローチ
[10]こうしたいわば表象について、我々は語用論的なアプローチが可能である。
情報の提示にはその字義通りの意味と仄めかされている部分とがあり、聞き手は一見不可解な組み合わせ(AとB)を理解するために関連性の高い前提(CならばAとBをする)を頭の中に呼び出し、理解しようとする。この前提が聞き手に明快(:=強い)であるほど曖昧性は低くなり、そうでなければ(:=弱い)曖昧性は高くなる。上述の①と③は共に周囲の状況への仄めかしが弱めである点で似ており、②は状況への仄めかしが強い(≒より抽象的な情報について弱く仄めかされている)と言える。
情報の提示
(1)読者を何かに注目させ(弱い仄めかし)、
(2)Aを提示して、あらかじめ読者に植え付けられている「Aであるから、(常識で考えて)A'となるだろう」という前提を呼び出した(強い仄めかし)たのち、
(3)A'と矛盾するBを提示することで混乱させ(弱い仄めかし)、(4)真の前提(fである)を提示することで真相(CなのでB)を理解させる、という流れをよく用いる。
(もちろん一つのコマに複数の過程が混在することもあれば、それぞれの過程が無いこともある。)
「AなのでA'になった」(動作からその結果が容易に想像でき、かつその通りになった)を表す場合、作者は、
読者は(i)と(ii)の間にあった動作を補うことで二つのコマの間の時間を推測したり、A'の具体的な詳細を理解したりする。(1)〜(4)と(i)〜(ii)は同時に行われることもある。
応用
こうした仄めかしは単に仄めかしの意味そのものに焦点が当たる場合もあれば、わざわざ婉曲的な言い回しをした理由や、使用された前提に焦点が当たる場合もある。
ギャグの場合を例にとって考えてみよう。人は主に規範から逸脱するものを可笑しいと感じる。すなわち、ボケ役やツッコミ役が常識外れな行動原理に従っている必要がある。
ボケ役がわざとおかしな喋り方をした際(グライスの協調の原理に違反した場合)などには読者はその意図を把握できなくなったり(弱い仄めかし)、おかしいことに気がついてツッコミを予想したりする(強い仄めかし)。そこでツッコミ役がその異常性を指摘することで読者の反応を誘導したり、あるいはボケ役の行動原理の解説をしたり、見当はずれな部分を批判したりする。ツッコミはキメのコマで行われることもあれば、ウケのコマで行われることもある。
なお、説明が続くなどして退屈になることが危惧される場合、こうしたギャグ的な演出のほかに、画面に裸体などを写して場を持たせることもしばしば行われる。
読者にとってある表現(A)が何らかの手法(f)であると思わせておき、A'になると想像させた後、後から別の手法(e)を使っていたことを明かし、異なる結果A''が導かれることを示すもの。
なお、読者が漫画を読み進める際の駆動力となるのは必ずしもこうした物語や演出の面白さによるものだけではなく、四コマ漫画のようにキャラクターの起こす行動への期待であることも多い点には注意すべきである。
◆図式的なアプローチ(*読み飛ばし推奨)
「Aという状態がfへ入力され、f(A)という効果を出力する」という様子を以下のように表すとする。
〈f(A)├┤f├┤A〉
たとえば読者があるコマを見たとして、読者が何らかの思考をした結果A'という予想がされた場合は下図のようになる。
〈A'├┤読者├┤A〉
ところで、2つのコマが並んでいたとして、片方をA, もう片方をφ(A)とする。作品世界内ではその間にφという何らかのプロセスが存在することが分かる。φは、Aとφ(A)との間にあった出来事や、そのようなコマ構成にした作者の意図などを含む。
ここから以下のようなことが考えられる。
- 読者の考えA’と実際のφ(A)との差が、読者への驚きに繋がる。
- A’とφ(A)との共通点・相違点にのみ読者の意識が絞られる。
- Aからf(A)が連想された場合、φ(A)からもφ(f(A))が連想される可能性がある。
文脈の生成
読者はAやそこからの予想A'と、実際にその次のコマに来たφ(A)とを比較する。ここで読者の思考にあたるプロセスを読者₂とする。このようにして新たな予想g=読者₂(A, A', φ(A))が出力される。
読者はこの過程でA, A', gという三つの情報を得ている。そのため、読者がこれに基づいて視点を改めた(読者₃)場合、読者が改変されるので
となる。このため、以後読者は同様の入力に対して異なる出力をするようになる。
〈g'├┤読者'├┤A〉
まとめれば、
〈g├┤読者┝┥A, F(A)〉
〈g'├┤読者'┝┥A, F(A)〉
となる。
なお、前述のような叙述トリックは予想gと真のプロセスg'とを比較する、いわば「プロセスのプロセス」であると言える。
絵の配置
映像と漫画との違いは、第一にコマが時間でなく空間上に配置されるところにある。読者はまず漫画の紙面全体をまとまりとして捉えたのち、個々のコマに集中していく。ページの最後のコマは次のコマが予想できない特殊なコマであると言えるし、ページをめくる瞬間は読書が一瞬中断される時間でもある。
作者はコマの形状や配置, コマ内の構図による視線誘導等を場面の緊張度や動作に合わせて構成する必要があり、読者の視点がその場に留まったりする場合は異様さ・曖昧さ・錯綜する意識などの特殊な意味合いが付与される。
◆ベクトル
読者は書字方向(右から左、上から下)に向かって視線を動かし、その方向と逆らう向きを向く物には特殊な印象を抱く。右上は「既知(定)・過去」を表し、左下は「不定・未来」を表す。
動作の多くは右上・手前から左下・奥へ向かって行われる。
この記事は左から右へ書かれているが、画面の前のあなたは以下のAAにどういう印象を抱くだろうか。
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……①
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……②
最初の台形は目が滑るように見えたかもしれないし、次の台形は止まるように見えたかもしれない。この記事は左から右へ読むので、右へ向かって奥に向かうような図形は滑らかに見ることができ、手前に向かうように見える図形は視線の動きを遮る。
漫画は右から左に読むので、この記事の場合と逆の効果が起こる。漫画は可能な限り読者の視線の動きとこうした配置とを合わせ、必要な時に逆の方向を向かせることが重要である。
コマはいわば物語世界を覗く窓あるいは写真のようなものであり、コマ枠の向こうにはコマに描かれていない範囲の世界の状況が読者にとって自然に想定されている。①の形状は視線の衝突を招きやすく(したがって「客体」としての意味合いが強く)、②の形状は自然に動作を行ったり視線を向けたりといった意識が生まれやすい(「主体」としての意味合いが強い)。
読者は右上から左下に向かって本を読み、目線は正面から段々と斜め奥へと向かうようになる。また本の下は鉛直下向きと理解されやすい。加えて(特にページをめくる瞬間では)紙面は見開きの中央に向かって傾き、この傾く方向もまた下向きと見做されることがある。読者の目線のベクトルや下向きにはたらく重力のベクトルは、コマ割りとの関係によって以下のような心理的効果がある。
- ベクトルの向きに沿う動きや形状は目が滑るように動き、そうでない動きは目を引くものとなる。
- コマの形状や人物の目線がベクトルとかち合う場合、威圧感などの心理効果が強くなる。[11]
- 絵の動作がこれらのベクトルと同じ向きに向かう場合、それはスムーズな動作として扱われる。逆らう場合、それが動作の途中であれば弱い動きとして扱われ、(効果音などを用いて)完了した動作が表されている場合は強い動きとして扱われる。
- ベクトルが正面に固定され続けるほど、動作がベクトルと順方向/逆方向であることの効果は弱まる。
- 視線ベクトルに対して順方向の動作は、コマ内にあるその先の余白が広く、また膨張色であるほど弱まって見える。
- 視線ベクトルに対して逆方向の動作は、結果まで描かれていると強い動作に見える。途中まで描かれている場合、右側の余白が多いほどスローに感じられる。
- ベクトルの向きが人物の視線の向きと同じであることが仄めかされている場合、コマの内容はその人物にとって見えたものであることを意味することがある。
- ベクトルの根元に近く、ベクトルと同じ方向を向く人物は「順位置」の人物であり、ベクトルの先にいる人物は「逆位置」の人物となる。
「順位置」の人物は多くは前述の「主体」と一致していることが多いが、主体となる人物が「逆位置」に置かれていると、自分を客観的に見ているような印象になる。また逆位置の人物は劣位に立たされていることが多いが、視覚的に強調されていると逆に強大さや圧倒感、不気味さが際立つ。
ベクトルの操作
絵の遠近感やライティングの方法によっては、特定の位置からその絵を見ることであたかも紙面の向こうに立体的な被写体が存在するように見える。鑑賞者がその位置にいない場合でも、鑑賞者はその位置に意識だけを移動するような感覚になる。
絵には読者によってその「(ここから眺められるべきという)理想的な視点の位置」が想定され、読者はあたかもその位置から漫画を見ているような錯覚を起こす。このため読者の心理的なベクトルは実際の視線の向きとは異なる場合がある。
「理想的な視点の位置」(=視線ベクトルの根元)には以下のような特性がある。
- 上段右端の視線ベクトルの向きは、下段左端に持ち越される。(「視点の位置」はそのまま平行移動する。)
- 集中線や人物の目線で視線を誘導すると、その先に視線ベクトルが向く。(視線誘導が人物の目線による場合、視点の位置も移動する。)
- 視線ベクトルの向きは、注視している面と垂直になるように変化し、視点の位置もそれに合わせて変化する。
- コマの形状が上述のAA②の場合には視線が左奥へ向かい、①の場合には受け止められ分散する。
- ダッチアングルである(カメラが画面との法線方向を軸にロールしている)場合、視線も同様にロールする。
視点の位置や視線の向きが変化する量には慣性がはたらくため、実際のカメラの位置よりも大きく移動する。
また視点の位置と視線の向きが変化したコマは強調されて見える。
時間
漫画において時間とは空間的なものである。右上は過去であり、左下は未来を表す。時間の経過や長さはコマの分割やオノマトペによって表される。
漫画の時間の長さは以下の四種類に大別される。
たとえば3.に比して2.が長ければ読者はスローモーションを見ているような感覚になる。
言葉や動作が一つのコマや場面で並置されている場合、片方の言動に対して注目している間はもう片方の言動は凍結しており、注目が終わると解凍される。結果として、二つの言動の(4.の)時間的整合性については判断が保留される。
漫画におけるコマは連続した時間のうちの一瞬を切り取り、代表させたものであると考えられがちだが、実際には幅のある時間を意味として表したものであるという側面の方が強い。そのため、時間的に同時でないものが同じコマに描かれ得ることにも注意すべきである。
コマによる時間表現
- コマに描かれた動作の線やモーションブラーなどは動作の時間を暗示する。
- コマに音が描かれると、その音だけの時間の幅を持つようになる。
- コマに色が塗られていると、時間が感じられにくい。
- コマが大きいと、2.や3.や4.が長く感じられやすい。
- 間白が広ければ広いほど2.や3.の時間が永く感じられ、狭かったり傾いていたりすると短く感じられやすい。
- 間白が線で表されていたり、コマ同士が重なっていたりすると2.や3.や4.が短く感じられやすい。
- 複数のコマにまたがって人物等が配置されていると、その人物の動作がそれらのコマと同時に起こり、継続しているように見える。
- 縦や横に長いコマが置かれていると、時間の経過や場面の転換を表す。
- 間白が黒く塗られていると、それに囲まれたコマは過去の出来事を表す。
順序
コマを読む順序が一定しない場合がある。そのような場合、基本的にはどこから読んでも構わないようなコマ構成になっている。こうしたコマは以下のような効果を狙うものである。
- 視線を停滞させ、読者をそのページに留め、1.や2.を引き延ばす効果。
- そのページに描かれた異なるコマ同士の出来事が同時に行われたものであるように見せる効果。
- 登場人物の錯綜した意識を表す効果。
- カットイン演出のようにして、出来事とそれに対して同時に起こった人物の反応とを表す効果。
- 視線を何らかの場所に誘導する効果。
コマ同士・台詞同士の前後関係や時間の長さが曖昧である場合の解釈方法は読者の解釈に委ねられる。読者は次のコマをチラ見しながら、それまでの経験からしてネタバレになりそうなコマを意識的に避けて読んでいるのであって、たとえばつなぎ方がA→B→CとA→C→Bとで二通りの解釈がある場合、読者は両方を最後まで読んでから事後的にそれらの時間関係を解釈し直す。
音による時間表現
音声(オノマトペや台詞)もまた時間を表すものだと言えるだろう。
こうしたオノマトペが多く用いられているコマではその分だけ長い時間がかかっていると言え、全く用いられていない場合は時間が止まっている(もしくは後述の通り異様な状態である)と解釈できる。
音による時間表現には以下のものがある。
- 音声が続く場合、その間そのコマの動作は継続していると見做される。
- 一つの動作を表す絵に複数のオノマトペがついている場合、その絵の動作が複数回行われたと見做される。
- 動作に対してその直前に鳴る音のオノマトペがついている場合、その動作が一瞬にして行われたことを意味する。(この効果はオノマトペが絵より右にあると効果が高い。)
◆コマの形状と位置
以下ではコマの形状や位置が与える効果について述べる。これらは一例であり、網羅性は無い。
傾き
間白が斜めになっていたり細かったりすると、間を置かずに行われる動作(あるいは誰かによって同時に思い出されたりしたような動作)であることが強調される(後述)。
- 疑似的にカメラを回転させ、異常な事態であることなどを表す。[12]
- 片方のコマがもう一方に覆いかぶさっているような印象を与える。
- 単に作画のスペースを稼ぐ。
- コマ枠と画面とを連動して傾けた場合、現実と夢との間のような異様さなどを表す。(視線誘導に使われることもある。)
大きさ
小さなコマは圧縮感を与え、大きなコマは開放感や威圧感を与える。これらは間白の広さや前後のコマの大きさと対比されることで強くなる。またコマ枠が上の①や②のAAのような形状をしている場合、読者は狭い方では視界が圧縮され、広い方では解放されていると感じる。
このようなコマにはまた、以下のような効果がある。
コマが大きいほど人物の細部を広範囲で見せることができるが、反面ページ数に縛りがある場合などでは面積を食ってしまうため、少年誌などでは避けられやすい。たとえば顔を描くときなどでは、人物の表情を描く代わりにその目元だけを映し、背景を黒く塗ることで心情表現の代わりとすることなどの表現方法が用いられる。
奥行き
映像において、画面はしばしば手前・人物・背景の三つで構成される。手前に物がなく、奥に壁がある場合、人物は奥行方向には動けないように見える。
コマ内の時間はしばしば奥→手前のように流れ、人物や台詞に覆いかぶさるものは時間的に後のものであることが示される。
漫画では色や線の太さ、ボケのような収差の表現等を使って遠近感を表すこともよく用いられる。
特に前者はコマの大きさによるものよりも強いインパクトを与え得る。
枠線
コマには枠線や絵といった種々の図像が描かれ、しばしば装飾されたり映像的な効果に利用されたりする。基本的にコマには枠線があるが、枠線がないコマもある。これはコマ枠がないというよりは、コマの範囲がどこなのかについて明示されていない(=判断が保留されている)と考えた方が自然かもしれない。[13]コマに描かれた絵もしばしば顔の輪郭などが省略されて目だけが描かれるようなこともあるが、これは顔が「コマの中にあるコマ(のようなもの)」として認識された結果である。
枠線の使い方には以下のようなものがある。
配置
コマは配置される個所によってその効果が強まったり、弱まったりする。
- 横に断ち切られているコマは、紙面の中央に置かれやすい。
- 上や下に断ち切られているコマよりも右下・右上・左下・左上に断ち切られているコマのほうが開放感が強いが、これらはその特性上、紙面の四隅にしか置けない。
- 人物が上を向いたコマは、向いている方向に別のコマがあるかどうかによって効果が変わる。
- 動作の方向にコマAがあると、コマAはその結果を表しやすい。
- コマとコマ同士が重なっていたり、コマ同士の境界が曖昧である表現は、夢やそれと似たような意識における時間感覚の喪失を意味する。
その他の演出
作品内の人物がコマ枠を壊す, コマを紙のようにめくる, コマ枠を掴む, といったメタ的な演出は古典的・ギャグ的な要素になりつつある。ただし、今日のシリアスなシーンでもこうした読者にだけ見えるような記号に登場人物の台詞等が被る等の演出が加わることは稀にある。
漫画の素材を用いた表現技法といえば、ページの裏が透けて見えることを利用したものが有名だが、これは掲載される媒体(雑誌・単行本)にも影響される。
◆視線誘導
人間は何かをまとまりとして認識する。例えば「間」という字は門と日で構成されるが、文字を読んでいる際に人がそのように考えることはあまり無い。漫画は見開き→紙面→コマ→人物→…と言ったように、大きなまとまり全体が絵として理解される場合もあれば、小さなまとまりに読者の意識が向く場合もある。[14]
以下、各まとまりごとの視線誘導について記す。
紙面全体のレベルでいえば、漫画のコマは、ページを開いた際には通常左ページ上段や右ページ中段が目立ちやすい部分と言われており、これらの部分で読者を惹きつけるようなコマを入れるのが良いとされる。また、漫画のジャンルによっては縦長のコマや横長のコマを右ページと左ページで変えてリズムをつけるなど配置にも気を遣う。
ページのレベルで言えば、前述の通り右から左への動きを意識して、動作が右から左へ行われるようにすることで滑らかな動きを表したり、フキダシなどを用いて視線を上へ誘導したり、視線の動きとカメラアングルを合わせたりする。視線誘導があらぬ方を向いたり、書字方向がごちゃ混ぜになるなどしてどこからどう読むのか分からなくなったりすると、しばしば読者は混乱する。
コマとコマ同士のつながりのレベルでは、台詞や人物の絵がコマを跨いでいるとそれらを目立たせる効果があったり、時間的に同時に起こっているというようなニュアンスが出たりする。
小説との相違
たとえばそのシーンの序盤でその人物の内語が描かれていたり、あるいはその人物がコマの右側にいたりする場合、その人物はそのシーンでの「語り手」のように機能し、コマにその人物の意識が反映されたり、読者の視線との関係によって特殊なニュアンスを生んだりするようになる。小説と異なり、漫画はこうした語り手を短期間に変更できる。
漫画とは記号の集積である。ありえないもの同士が同時に映っていたり、物の大きさが都度変わったりもする。またそうでなくとも、何らかの文隠喩(メタファー)となるものが背景に置かれることもある。これらは単に見栄えや分かりやすさの為であったり、なんらかのメッセージを間接的に伝えたりする為のものであったりもすれば、登場人物の意識を再現するものであったりもする。すなわち、誰かの視点で特別に見えたり、あるいは逆に視界に入らなかったりするものが、漫画では主に絵に反映されている。
漫画における絵は小説における語りと同様、カメラマンや演出家に相当する人物が時には登場人物のフリをして作品世界の出来事を語るものであると言える。特に漫画はその特性上、絵柄等を用いて「視点となる人物にとってその瞬間がどのように見えたのか」を説明するのが容易である(この場合、そのコマは必ずしも視点となる人物の視界を再現する必要がなく、故に視点となる人物が映り込んでいたりしても良い)。
漫画における背景・フキダシ・オノマトペ・コマ枠・絵柄・構図は主に視点となる人物の意識を反映している(ただしこれは読者の文化でクリシェとして利用されているものやそれを利用したものであるか、もしくは前後のコマとの対比において成立する表現方法であることが多い)。
コマに一人の登場人物の意識が反映されている場合のコマを、泉信行は以下の四種類に大別した。
ⓑ視点となる人物の視界に近いが、カメラアングル等が必ずしも一致しないコマ
ⓒ視点となる人物の顔などが映されながらも、その演出にその人物の意識が反映されているコマ
当然のことながら、コマには誰の意識も反映されていないこともあるし、意識が混ざり合っていたり、誰の視点なのか曖昧だったりすることもある。
竹内オサムはⓐやⓑにあたるコマを⒜視点人物の身体の一部が映り込んでいるもの⒝視点人物の身体の一部が描かれないもの⒞同じページに並置された前後のコマからそれが誰かの視界を表していると分かるものの三種類があると主張した。
視点となる人物は、複数人の映るような構図では主にコマの右側に描かれることが多い。読者の視線と同じ方向を向く人物は「語り手」として定義されると言えるし、向かい合う人物は「語られる対象」であると言えるだろう。視点と視線の向きに関しては「ベクトル」の項で後述する。
比喩
比喩は、主に異なる二つのもの同士(BとC)を繋ぎ合わせ、その共通点(AならばBとCをする)に意識を向けさせたり(直喩)、片方にもう片方のイメージを付与したり(隠喩)、それらの使用によって語り手の意識を暗に伝えたりするものである。特に漫画は背景に物を置いたりすることの他に、他のコマや間白を利用することも可能である。また線のタッチやコマ枠等の装飾によってこれらを表すことも多い。
最も身近な例で言えば、吹き出しの形によって心理状態を表すことが挙げられる(これはいわば決まりきったやり方(=「死んだ比喩」)であると言えるだろう)。
音声
音声は心理状態を表すこともある。すなわち何も音が聞こえていなければショックなどを表すのである。また吹き出しはその場面で誰かが実際に話した事であるよりも、登場人物の心の中に響いている言葉であることもある。視点となる人物にはっきり聞こえている言葉はフキダシで描かれ、雑音としか聞こえなければオノマトペや判読不能な文字で描かれることだろう。
音が聞こえることが想像される状況でオノマトペ等が描かれなかった場合、読者は浮遊感や威圧感を感じたりする。むしろ音に対して想起させるものがない分, 聴覚以外の感覚に意識が向きやすいかもしれない。
漫画は文字やその描き方によって音や声, 質感, 様相, 状態なども示す。音声の描かれ得る場所は作家により異なるが、間白に置かれてその言葉を目立たせるために用いられることもある。
参考文献
『もっと魅せる・面白くする 魂に響くコマ割り教室』(深谷陽&東京ネームタンク, 2019)
『漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで―上巻・視点』(泉信行, 2008)
同『下巻・The Book』(同上, 2009)
『漫画はいかにして映画になろうとしたかー映画的手法の研究』(橋本英治 et al., 2012)
『マンガ視覚文化論: 見る、聞く、語る』(鈴木雅雄 et al., 2017)
『「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画』(秋田孝宏, 2005)
『テヅカ・イズ・デッド : ひらかれたマンガ表現論へ』(伊藤剛, 2005)
『マンガの読み方』(夏目房之介 et al., 1995)
『マンガ学―マンガによるマンガのためのマンガ理論』(スコット・マクラウド, 1993)
『石ノ森章太郎のマンガ家入門』(石ノ森章太郎, 1998)
『アニメ研究入門【応用編】: アニメを極める11のコツ』(小山昌宏 et al., 2018)
『語用論の射程―語から談話・テクストへ』(内田聖二, 2011)
『フィクションとは何か: ごっこ遊びと芸術』(ケンダル・ウォルトン, 2016)
関連動画
関連項目
脚注
- *たとえばコマの外(間白)を黒で塗ると過去の回想を表すことが多いが、漫画を読んだことのない人がこれを見てもその意図は伝わらない。またたとえばコマ枠がページの外に出ている場合は開放感などを表すが、そのようなコマが常に存在していると開放感は得られない。
- *こうした関係は日本の漫画が通常右から左に読まれることに起因する漫画独特のものであり、なんらかの理由で視線の向きが右向きになるなどした場合、この順位置・逆位置の関係も逆転する(後述)。
- *二つ以上のコマの組で同じ情報の「フリ」を表したりといったこともある。
- *ただし、こうした場所や動作主を映す目的のコマはあまり大きくならないことが多い。多くの場合、背景よりも人物の魅力の方が読者にとって求められているからである。
- *斬新な表現手法を用いることは、視聴者にそれを思いついたことを賞賛させ、演出家を一種のキャラクターとして消費させる効果もある。この効果は一般にモンタージュ編集そのものの劇的さと区別がつきにくい。
- *ライティングや配色も同様に効果があるものとみられる。
- * またページをめくると同時にイマジナリーラインを超えると、カメラが回転したような印象を与えることができる。
- *①はクローズアップであることが多いが、①〜③はショットサイズとは必ずしも関係がある訳ではない。ショットサイズやカメラアングルは構図等の理由で選ばれることもあるため注意を要する。
- *映像においては③同士(ついで②同士)の繋ぎはあまり好まれないが、漫画の場合はそもそもフリ・キメ・ウケを必要とする関係からそうした衝突はあまり起こらないものと思われる。
- *「犬を想像せよ」と言われた人が読者はその体毛の色や匂いや血液型についてはよく考えないように、コマとコマの間を読者は各々の常識で補完し、詳細については判断を保留している。
- *このためコマが小さくても十分にインパクトを与えることができ、ページ面積の節約に一役買う。
- *映像における「ダッチアングル」はカメラを画面の法線方向(:=画面と垂直な方向)を軸に傾けるものであるが、漫画の場合、単にコマの形状を変えるだけでも似たような効果がある。
- *こうしたコマの多くはマッスや(地と図の関係における)図に相当するものがはっきりしているため、ある絵がどのコマに属するのかという混乱が怒ることはあまりない。
- *たとえばコマのまとまりと人物の絵とが並べて置かれた場合、前者はまず一つ一つのコマというよりは絵として認識される可能性が高いだろう。
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