コンクラーベ(Conclave)とは、ローマにて行われる根比べである。キリスト教のカトリック教会の最高権威にしてヴァチカン市国の国家元首であるローマ教皇を選出する会議(つまりは教皇の選挙)を指す。
あの民明書房の本にもこれについて触れた記述があり、それについてはコンクラーヴェを参照。
2024年公開の同名映画については教皇選挙を参照。
概要
選挙人の枢機卿たちはシスティーナ礼拝堂に閉じ込められ、新しい教皇が決まるまで外界との連絡は一切絶たれる[1]というルールがあり、新しい教皇が決まらなければそれが何日でも続くという過酷な会議であることから、日本語で「忍耐力の強さを競い合うこと」という意味の「根比べ」に由来する名前が付いた……というのは流石に嘘で、ラテン語で「鍵のかかった」を意味するcum claveに由来する。
枢機卿はラジオやテレビ、携帯の使用を禁止され、これに触れると即破門となる。選挙の結果新たな教皇が選出された場合、礼拝堂の煙突から白い煙が出るほか、鐘が高らかに鳴らされる。決まらなければ黒い煙が出る。これはもともと決まらなかったときに投票用紙を燃やす習慣のために煙が出るという伝統に由来し、現在では化学物質を混ぜることで色を分けているという。
枢機卿であれば原則出席が義務であり、日本人も参加したことがある。日本人として初めての枢機卿であるペトロ土井辰雄が1963年のコンクラーベに参加したほか、2005年のコンクラーベでは2人が参加している[2]。1978年8月、1978年10月、2013年のコンクラーベ時には日本人枢機卿が不在だったため参加していないが、2025年のコンクラーベには、2人の日本人枢機卿が参加した[3]。
歴史
前任の死亡ないし退任によって新たに教皇を置かなければならないが、その方法はキリスト教初期はだいぶいい加減であり、前任者が推薦したからとか、聖ペテロがお告げによって指名したからとか、果ては鳩が頭に止まったからみたいな理由で選出されたことさえあった。前任者の指名ではなく遺された者たちによって選ぶことが習慣化した後も、投票ではなく合意だったり拍手だったり、あるいは貴族や神聖ローマ皇帝による強い「推薦」だったりと手続きが不明確だったために、「自分こそが真のローマ教皇だ!」と言い出す者が現れたり、ローマ市民に拒否られたり、キリスト教が迫害されていた時代には教皇が就任しては邪教のリーダーとして捕まって殺されるを繰り返した結果誰もやりたくなくなって1年以上空位に…というケースもあった。
1059年になって、時の教皇ニコラウス2世によりローマ周辺の7人の司教(司教枢機卿)が会議で選ぶというルールが明確になり、神聖ローマ皇帝、貴族、一般市民に決定権がないことがはじめて明確になった。選挙権のある枢機卿は7人からすぐに拡大され、2025年現在では120人が上限とされている[4]が、それでもこのニコラウス2世の方針が約1000年にわたりルールとして、少しずつ姿を変えながらも伝わっている。
1268年に教皇クレメンス4世が没すると、19人の枢機卿選挙人たちは政治的な理由で分裂し、1日1回ヴィテルボの街の大聖堂に集まっては何も決まらない会議を過ごす…というまま1年半が経ち、とうとう怒った民衆によって大聖堂から出られないように隔離された。
それでも決まらないので届けられる食事が水とパンだけになり、
それでも決まらないのでとうとう大聖堂の屋根を取っ払われ[5]、
それでも決まらず、すったもんだの末にフランス国王の逆鱗に触れ、1271年9月になってようやく、枢機卿のうちの6人がそれ以外の枢機卿に選挙権を放棄・移譲してもらう形で新たな委員会として選ばれ、グレゴリウス10世が選出されたのは最初の会議から2年9か月経った後だった。
このグレゴリウス10世は十字軍に従軍中でイタリア不在、そもそも本人にとっては寝耳に水であった。彼はその後、「教皇が決まるまで枢機卿は鍵のかかった聖堂に閉じ込められる」という現在まで続くルールを制定した。
なお、グダグダの末に自分に白羽の矢が立ったこの展開をよほど恨んでいたのか、「食事は3日後から1日1回」「8日後からはパンと水(と少量のワイン)だけ」「会議中は無給」とかなり厳しいルールにしたのだが、後に緩和された。
それでも期間中修道女によって提供される食事は質素なもので、味の是非はマz……もとい、個々の判断に委ねられるそうな。更には密談や情報漏洩の媒体とならないよう、パイや鳥の丸焼きのように「何か」を隠せる料理は一切禁止となっている。
ルール
現行のルールは1975年に制定されたルールをもとに数度の軽微な修正を挟んだものとなっており、いくつかかいつまむと以下のようになる。
- 教皇が死亡した場合、秘書役の枢機卿が教皇の象徴である「漁師の指輪」と印章を預かり、破壊する。
- 教皇が空位になると世界中から枢機卿が集められ、15日以上20日以内にコンクラーベが開催される。
- 枢機卿のうち、教皇空位前に80歳になったものは選挙人を務めることができない。
- 投票はコンクラーベ初日の午後に1回行われ、決まらなければ翌日からは午前と午後2回ずつ行う。
- 投票は投票総数の3分の2以上の得票を得た者が現れた段階で終了、選出される。
選出されたものは拒否もできるが、選出されそうな候補者で教皇になりたくない者はたいてい事前にその旨を表明する。
過去には「いっせーのせで名前を叫び、全員一致したら『聖霊の御業である』として新教皇が決定される」なんてのもあったが、全く機能しておらず形骸的だとしてヨハネ・パウロ2世によって廃止されている。
過去のコンクラーベ
20世紀以降、125年で12回のコンクラーベが行われている。最新の2025年を除けば、最も紛糾したのは1922年のコンクラーベで、5日間14回の投票の末ピウス11世が選出された。1978年10月のコンクラーベ(先代のヨハネ・パウロ1世が同年8月の就位後わずか1ヶ月強で急逝したことによるもの)も3日間8回にわたりイタリア人枢機卿2人が争った結果、選出されたのはポーランド人のヨハネ・パウロ2世だった。450年ぶりの非イタリア人教皇だった。
ベネディクト16世を選出した2005年のコンクラーベ、フランシスコを選出した2013年のコンクラーベはいずれも2日目の午後で終了している。
2025年のコンクラーベ
2013年以降教皇の位にあったフランシスコが2025年4月21日に帰天し、使徒座空位となった。
これを受けて、現地時間5月7日から12年ぶりのコンクラーベが開催された。
マスコミの事前予想では、前教皇最側近でバチカン国務長官(首相)のパロリン枢機卿を筆頭に、エルサレム大司教のピッツァバラ枢機卿、史上初のアジア出身教皇を狙うフィリピンのタグレ枢機卿、こちらも史上初の黒人教皇を狙うガーナのタークソン枢機卿などの名が挙がっていたが、「有力候補は選ばれにくい」とされる近年の教皇選挙の潮流通り、選ばれたのはアメリカ出身で司教省長官のプレボスト枢機卿。1903年まで教皇を務め、カトリックと近代社会の和解に尽力したレオ13世の名を引き継ぐレオ14世として教皇位につくことになった。また、前回・前々回に引き続き2日目午後での選出となっている。
関連動画
コンクラーベをもとにしたフィクション作品はいくつかある。
コンクラーベの最中に発生した、次期教皇候補者の誘拐事件を取り上げたダン・ブラウンの小説「天使と悪魔」(2000年)は2009年に映画化されている。
本作は大ヒットした「ダ・ヴィンチ・コード」のロバート・ラングドンを主人公としたシリーズの第1作だが、映画自体は「ダ・ヴィンチ~」より後に製作された。
2012年には映画「ローマ法王の休日」が公開。
コンクラーベで選ばれた新教皇が土壇場で着座を拒否し、周囲を巻き込んで大騒動。とうとう警備の目を盗んで逃げ出してしまうが、市井の人々との交流によって少しずつ変化が生じ……というコメディになっている。
2016年のイギリスの小説「Conclave」を原作とした映画「教皇選挙」が2025年3月に日本で公開。
徹底的な取材によって再現された美術は圧巻の一言で、枢機卿それぞれの思惑が渦巻く中、進行役を務める首席枢機卿の目を通じて物語は描かれる。2025年(第95回)アカデミー賞では8部門にノミネートされ、脚色賞を受賞した。
奇しくも教皇フランシスコの帰天によるコンクラーベ開催もあり、コンクラーベ前に視聴した枢機卿もいると報道された。その中の一人が新教皇となったレオ14世だったりする。
関連リンク
関連項目
脚注
- *1996年以降は宿泊のみ数百m離れた建物で行う。宿泊所から礼拝堂まではまとまってバスで移動し、軟禁こそされないものの行動範囲は制限されるため、外界との接触ができないことには変わりない。
- *ペトロ白柳誠一(東京大司教)、ステファノ濱尾文郎(教皇庁移住・移動者司牧評議会議長)。役職はいずれもコンクラーベ時点。
- *トマス・アクィナス前田万葉(大阪高松大司教)、タルチシオ菊地功(東京大司教)。同上。
- *ただし、2025年のコンクラーベでは参加する枢機卿は定員を超える133人となったが、特に問題視されているということはない。
- *「もう聖霊に来て決めてもらおう。でも聖霊は屋根を通り抜けられないから」という理由
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