- コンスタンチン・ロコソフスキーとは、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の軍人である。東部戦線でジューコフとともにソ連を勝利に導いた将軍であり、その戦いぶりからWW2最高の前線指揮官として評価されている。特にソ連軍の将軍は数だけの雑魚、ナチス・ドイツは世界一!なんて妄言が吐けなくなるぶっちゃけWW2東部戦線の正統派主人公である
概要
本名はコンスタンチン・コンスタンチノヴィッチ・ロコソフスキー
1896年12月、ポーランドのワルシャワで鉄道技師の父と教師の母の間に生まれたポーランド人であり、その家系にはポーランド騎兵の血が流れていた。
両親はまだ幼いロコソフスキーを残して他界し、自身は数多くの職を転々しながら、生計を立てていた。
転機が訪れたのは1914年に起こった第一次世界大戦で、このとき彼はロシア帝国軍に入隊し第5竜騎兵連隊の騎兵として軍人としての道を歩み始める。このときの活躍が認められ聖ゲオルギー勲章が授与されたのを見る限り後々の活躍の片鱗が見えていたことがうかがえる。
ロシア内戦ではいち早くボリシェヴィキを支持し、1917年に赤軍に入隊。この戦いのなかで下士官から一気に連隊長まで昇進、白軍の名将コルチャークと激戦を繰り広げ負傷するも内戦に勝利、このときの戦功が認められ赤旗勲章を授与された。
内戦後、将校としての教育を受けるためフルンゼ軍事アカデミーに進む。このときの同期にジューコフやバグラミャンといった後に独ソ戦で活躍する将軍たちもおり、またこの時彼らの教壇に立ったのが赤軍の至宝ミハイル・トハチェフスキーである
1929年、第5クバン騎兵旅団司令官に昇進、ソ連と中国の国境紛争マンジョウリ・ジャライノール攻勢に参加、このとき騎兵部隊の機動性を活用し、敵の片翼包囲を成功させ勝利に貢献した。
その後師団司令官、軍団長と労農赤軍のエリート軍人として順風満風に出世街道を歩み続け、一時はジューコフの上官でもあった。
ところが、1937年突如吹き荒れた赤軍大粛清で無実の罪で逮捕され1940年までレニングラードの刑務所で拘留されてしまう。拘留期間に過酷な拷問を受けたが虚偽の自白も身内を売ることもせず耐え抜き1940年、ジューコフとチモシェンコの嘆願により釈放。療養期間を経て軍務に復帰した。ソ連軍ギリギリセーフ
独ソ戦
1941年にナチス・ドイツのバルバロッサ作戦から始まった侵略時ロコソフスキーは南西戦線の第9機械化軍団長として開戦を迎えた。そして彼は量質ともに圧倒的不利で縛りゲーの初期から労農赤軍本来の力を発揮する後期問わず、縦横無尽に活躍していく。
バルバロッサ作戦~モスクワ攻防戦
- 1941年6月、ドゥブノの戦いで麾下の第9機械化軍団を率いクライスト将軍の第一装甲軍と対峙、結果的に敗北するもロコソフスキーは量質とともに圧倒的不利の中奮戦、第一装甲軍に痛撃を加えた。(ちなみにこの時の配下の部隊に第20戦車師団にあのカトォコフがいる。)
- 1941年7月、西部戦線で敗走した歩兵師団と戦車師団をまとめロコソフスキー機動集団を編成しスモレンスクの戦いに参加。最終局面でホト将軍の第3装甲軍に攻撃を加え成功包囲されていた第19軍10万人を救出し、ソ連の戦略的勝利に貢献した。
- 1941年10月、モスクワ防衛戦においてスモレンスクで救出した部隊で再編成された第16軍司令官として参加。冬将軍の力も利用した頑強な抵抗によりついにドイツ軍は攻勢限界点に到達。ロコソフスキー達の反撃により押し戻ことに成功した。このときの活躍によりレーニン勲章を授与した。だがこの後砲弾により負傷し一時前線から外れ翌年の5月まで療養する。
スターリングラード~第三次ハリコフ攻防戦
- 1942年9月、ソ連野戦軍として最大編成の戦線(ドイツでいえば軍集団)司令官として、ドン川戦線に着任。悪名高きスターリングラード攻防戦で南西戦線司令官のヴァトーチンとともにウラヌス作戦に参加、ヴァトーチンがルーマニア軍を食い破る間に二重方位の内側を担当。パウルス将軍とドイツ第6軍を降伏させた。ウラヌス作戦終了後、ドン川戦線を再編成した中央戦線を率いてブリャンスク地区とデスナ河西岸地区の敵掃討作戦に従事した。
- 1943年2月ドンバス・ハリコフ作戦では25日からの攻勢を指揮した。このとき麾下の中央線戦は「ない袖は振れない」とスターリンから増援を拒否され、さらに攻撃の準備期間が僅か5日しかない状態だった。だがそれにもかかわらず3月1日までという短期間でシュミット上級大将の第2装甲軍とヴァイス大将の第2軍を蹴散らし異例の快進撃をやってのけた。だが第3次ハリコフ攻防戦でマンシュタインの機動防御で南部が敗退したことにより、ロコソフスキーの攻勢も停止に追い込まれた。戦術で勝利しても戦略で負けるというあれである。但しこのときロコソフスキーが奪還した突出部の保持には成功しておりその場所こそ「クルスク」である。
クルスク会戦~ドニエプル攻勢
- 1943年7月、中央方面戦線司令官としてクルスクの戦いに参加。戦闘ではモーデルの第9軍に対して、ツタデェレ作戦開始1時間前に砲撃による先制攻撃、モーデルの攻撃進路を見切り戦力の集中によってモーデルのやる気のないのも手伝い北部側の攻撃は初期に停滞し、マンシュタインのツタデェレ作戦はご破算となった。
- 続く7月12日、プロホロフカの戦いが始まるなか発動したオリョールへの逆攻勢作戦「クトゥーゾフ」を指揮。モーデルの踏ん張りにより中央軍集団の殲滅は果たせなかったものの、8月5日にはオリョールを開放、またこの攻勢によりヴォロネジ戦線に食い込んでいた南方軍集団は戦闘を有利に進めていたにも関わらず撤退を余儀なくされた。
- 更にソ連軍が編み出した「作戦術」により続けて行われたドニエプル河攻勢で4つの作戦を指揮した。中でも第二戦車軍を含めた複数の部隊を深夜の灯火管制の中で100キロ進むというドイツのお株を奪う電撃戦によりヴァイス将軍のドイツ第2軍を奇襲し敗走させた。この果敢な攻撃によりマンシュタインの南方軍集団クルーゲの中央軍集団の連絡路が食い破られ、連携を不可能にした。
バグラチオン作戦~ブレスト・ルブリン作戦
- 1943年9月、ベラルーシ開放作戦のために中央戦線を再編成した第1ベラルーシ戦線の司令官に就任。43年9月から44年3月までの間に7回に渡る攻勢を指揮。ブッシュ将軍の中央軍集団をベラルーシまで追い込んだ。この一連の軍事行動により、ドイツ中央軍集団は大きく消耗しソ連軍に対応不可能になり、後のバグラチオン作戦の土台を作り上げた。
- 1944年7月、労農赤軍が量質ともに最強ということを世界にしらしめたバグラチオン作戦ではドイツ中央軍の包囲殲滅が主目標でありそれを達成するためにロコソフスキーは2方面での主力攻勢を主張、常識的に主力攻勢は1つでほかは補助でしかなかったため、スターリンを含め周囲は反対。だがロコソフスキーは自分が正しいと譲らずついに根負けしたスターリンが許可。さらに作戦準備段階において徹底的に攻撃を悟られぬよう隠ぺい、障害になる沼地にたいして丸太を使って進路を確保しドイツ軍の裏をかくなど準備をしたすえに電撃戦を敢行。歩兵 戦車 砲兵 航空機が連携し無停止進撃による包囲殲滅を連続して行った結果ドイツ中央軍は文字通り消滅。その後戦争の主導権はソ連側が終始握ることとなった。
この攻勢はかつてドイツがフランス戦で行った電撃戦と酷似、あるいはそれ以上のやってのけておりここにおいてロコソフスキーを含めたソ連軍が量質ともにドイツを凌駕したことを明確にした。この戦いのあとロコソフスキーはソ連の軍人の最高峰であるソヴィエト元帥に昇進、さらにスターリンから名+父称で呼ばれるという敬意を受け、彼の名声は不動のものとなった。
- バグラチオン作戦後、間をおかずブレスト・ルブリン作戦でモーデルに態勢を立て直す暇を与えず、ドイツ軍を押し込みポーランドへ突入。このときワルシャワ蜂起が起きた際は、残存の中央軍集団を追撃しつつワルシャワに救援に向かっていた。一般にソ連軍はワルシャワを見捨てたというが、現場の部隊は何とかワルシャワを助けようとしていた。だがバグラチオン作戦後の大幅に消耗し息切れしており、現場の兵力がドイツ軍に劣っていた状態では事実上無理な状態ゆえ、ついに進軍がワルシャワ直前で停止、ロコソフスキーは故郷を救うことができなかった。その一方でマグヌジェフの確保に成功し後々のヴィスワ・オーデル攻勢の基点確保に成功した。さてこのままいけばベルリンが目と鼻の先という段階で、スターリンの命令で第一ベラルーシ戦線をジューコフと交代し、ロコソフスキーは第二ベラルーシ戦線司令官に異動することとなった。これにはさすがにロコソフスキーも怒りを露わにしている。
東プロイセンの戦い~勝利パレード
- ベルリンの戦いでは東部側から支援作戦に従事し北側の第3装甲軍を釘付けにしてベルリン救援を断念させてナチスドイツの終焉に立ち会った。ちなみにこの第3装甲軍にはあのシュタイナー軍集団も含まれていた。これはつまり・・・・・・
?「Sie ist ohne Ehre!(ちくしょーめ!)」
- ベルリン降伏後は、ブランデンベルク方面に進出し、エルベ川で連合国のイギリス軍と邂逅。かのエルベの誓いもロコソフスキーが関わっていた。ちなみに終戦後のベルリンで、モントゴメリーとジューコフと撮った写真がある。ロコソフスキーは二人より背が高いため一発でわかりやすい。
終戦後、ロコソフスキーはソ連の勝利パレードの指揮をとり厳かかつ栄光をもって臨んだ。元々騎兵だったためジューコフと白馬にのって観閲する彼の映像はかっこいい。
その後
WW2のあとポーランド国防大臣に就任、そつなくこなしていくがスターリン死後に台頭した反スターリン派と衝突、辞任してロシアに戻りクレムリンで国防副大臣に就任するもスターリン批判を進めるフルシチョフと対立し辞任。
表舞台から去った後は自伝「兵士の義務」を執筆しながら余生を過ごし、1968年8月この世を去った。死後骨壺はモスクワのクレムリンの壁に埋められた。(独ソ戦で活躍した多くの将官がこの措置受けており名誉的なことである。例外としてチェイコフはスターリングラードに埋葬されることを望んだため、壁に埋められていない。)
人物
冷静沈着で誠実、謙虚な性格で声を荒上げることはなく口調が鋭くなるぐらいであった。部下を押さえつけることは一切せず、むしろ彼らの自主性を重んじるなどソ連軍のイメージとはかけ離れた性格をしていた。
知的で社交的、人付き合いもよく。その人柄から部下の将兵、同僚、果てはスターリンからも敬意と信頼を受けた。その一方で最前線に頻繁に顔をだして状況を確認したり大粛清で過酷な目にあっても耐え抜き、バグラチオン作戦でのスターリンに対して自分の主張を譲らなかったり、フルシチョフとの対立時があらわすように、困難な状況でも正しいならば自分の考えを曲げない信念と勇気をもちあわせてることがうかがえる。数多くの戦場で手柄を立てたもののそれを自慢するようなことはせず、それより前線の将兵達とともに過ごしたことを誇りとしていた。
指揮官としても攻守ともに有能、モスクワでの手堅い戦術、バグラチオン作戦の独創性、クルスクの防御からの一転攻勢など文句なしといってもいいぐらいである。軍に入隊してからほぼ前線一筋で将兵達と苦楽を共にしたため人気も高かった。独ソ戦の彼の活躍は文字通り最強の前線指揮官の評価は過言でもない。
ロシア内戦終結後に結婚し子供を一人もうけている。この三人は大粛清などの浮き沈みはあれど生涯を通じて共に過ごした。戦争中に浮気をしたけれど
長身でエレガントでハンサム、その性格から男女問わずイケメンと見られていたが、本人は女性に寄られるのは苦手だった模様。リア充爆発しろ
このように有能、誠実だが芯は強い、まわりを引き付けるカリスマかつイケメンと名将に必要なものをとすべて持ち合わせた完璧超人といってもいい人物であり日本では知名度がないがWW2を代表する名指揮官である。
但しロコソフスキーだけで独ソ戦を勝利できたわけではない。よく戦術的には勝利しても戦略で負けることが多いのはよく知られている話であり実際ハリコフを巡る戦いがそうである。あの戦争はロコソフスキーだけでなく、ともに戦ったコーネフとヴァトーチン等の前線司令官、ヴァシレフスキーやアントノフ、チモチェンンコ等の戦略を担当したソ連版大本営スタフカ、この間に入り戦場と作戦を監督、管理調整したジェーコフ、そして彼らの指揮のもと最前線で戦い抜いたチェイコフやカトォコフ、ゴルバトフそしてソ連兵達が勝利という目標のために一致団結していたからである。
- 大粛清で酷いめにあったもののスターリンのことは尊敬していたようでスターリンの声を聞くと落ち着くと述べている。そしてスターリンのほうもロコソフスキーを信頼していたようで、冒頭の言葉を残している(グルジア出身の猛将バグラチンはスターリンにとって地元の英雄と言う顔がある。)
逸話
- 大粛清の際、過酷な拷問受けたのみならず、取調べがひと段落した後は看守の召使をやらされていた。このときの経験があんまりに屈辱的だったっためか、それ以後ベットに自決用の拳銃をつねに手元に置いていた女体化したらきわどいメイド服不可避
- モスクワ攻防戦で遅滞防御を行い少しずつ後退するロコソフスキーに対してジューコフは「これ以上後退するならば銃殺刑だ。」と脅すもロコソフスキーは「この銃弾や砲弾でいつ死んでもおかしくない中でその脅しは無意味だ。」ときっぱり拒絶した。
- あるとき前線の戦車部隊中隊長が作戦が決定された攻勢前に、安全に敵の防衛線を迂回するルートを発見した。このルートは沼地だったが自分達で沼地に入り渡れることを確認。彼は上司の司令部に赴いてこのルートを使おうと上伸した。すると偶然司令部を回っていたロコソフスキーが入ってきた。最初は「一度決まった命令に従えないならば銃殺刑だ」と警告するも、彼らが別のルートを発見し確実に進めることを確認したと具申すると、ロコソフスキーは「やってみろ」と許可。かくしてその中隊長の判断は成功しその功績を認められ勲章を授与しさらに中隊長は戦争を生き延びた。
バグラチオン作戦の前後、とある女性軍医がロコソフスキーを訪ねてきた。彼女は戦死した夫を故郷に送り届けたいと直談判した。最初は特別扱いするわけにはいかず、拒絶するも再度直談判に来たためついに根負けしたロコソフスキーは、彼女のために輸送機をチャーターした。ジューコフとコーネフなら断りそう。でもバグラミャンとヴァシレフスキーならワンチャンあるかも
語録
- 時に戦場の一兵士が重要な役割を果たすことがある。大切なのはその活躍を小隊、大隊、師団、戦線とつなげていくようにすることである。もちろん司令本部がきめた作戦計画も重要であるがなにより戦うのは最前線の兵士である。
ロコソフスキーのここがすごい
- 一兵卒から元帥に成り上がり生涯を通して戦場の最前線に身を置いた。
- その誠実な人柄から下は一等兵からジェーコフやヴァシレフスキー等の同僚、更には最高権力者のスターリンからも敬意と信頼を得た。
- 東部戦線では初期から終戦までお馴染みのナチス・ドイツ軍と対峙しボコボコにした。(ぶっちゃけ、彼に勝てるのはマンシュタインぐらい、まあ人柄にかんしてはロコソフスキーの圧勝であるが)
- バルバロッサ作戦で大混乱になるなか唯一反撃を行いクライストをたじろがせた。
- スモレンスクの戦いで包囲された10万人を寄せ集めの部隊で救出し、グデーリアンを躓かせた。
- モスクワ防衛戦でホトの突撃を押し返した
- スターリングラードでパウルスを包囲、降伏させた。
- 負け戦の第三次ハリコフ攻防戦で唯一快進撃を行い、後々のクルスクにつながる基盤を作った。
- クルスクの戦いでマンシュタインが好き勝手しているころ、北でモーデルにカウンターパンチを食らわせツタデェレ作戦を失敗させた。
- バグラチオン作戦でスターリンも「無茶だ」といった前例のない大胆な作戦をおこないナチス・ドイツ軍中央集団を文字通り平らげた。
- ベルリンの戦いでシュタイナーを文字通り門前払いし、ヒトラー最後の希望を粉砕した
- 大粛清で過酷が拷問にも耐え抜いた不屈の心
- 温和だがはっきりと自分の意志を述べる勇気
- イケメン
あれなんで日本では知名度がないの?
関連動画
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関連項目
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- ソビエト連邦
- 独ソ戦
- スターリングラード
- ジューコフ(親友でありライバルでもある)
- 軍人の一覧
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- 完璧超人
- 理想の上司
- ソ連の西住みほ
- ソ連のミッターマイヤー
- ナチス・ドイツ最大の敵
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