コンモドゥス / アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス・アウグストゥス(161年~192年)とは、ローマ皇帝で、アントニヌス朝の二代目である。
概要
それまでの養子皇帝制ではなく(実態はほとんどなきに等しいのだが)、マルクス・アウレリウス・アントニヌスから世襲で皇帝になった彼の息子。12年の統治の末暗殺された暗君として評価されている。
コンモドゥスの治世
161年にルキウス・アウレリウス・コンモドゥスとして生まれた。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの子供は多かったもののほとんどが早世し、唯一の息子として後継者として育てられ、生前に共治帝となった。
父マルクス・アウレリウス・アントニヌスはドナウ川方面でのゲルマン系の部族との戦いのさなか亡くなり、コンモドゥスは軍事行動を止めローマに帰還した。凱旋行進中、サオテルスという従者とキスを繰り返していたことが、人々に一抹の不安を与えたという。
コンモドゥスは帝国政府への不干渉主義をとったが、そのためにたびたび命を狙われる羽目になった。最初の陰謀は姉ルキラの扇動によるもので、甥のクィンティアヌスがその実行犯だった。さらにサオテルスが殺され、コンモドゥスはルキラ、クィンティアヌス、親衛隊長パテルヌスを処刑し、ペレンニスがパテルヌスに代わって親衛隊どころか政府の管理まで行うようになった。
しかしペレンニスも185年、失脚し処刑され、侍従のクレアンデルがこれに代わった。クレアンデルはもとフリュギア人奴隷であり、有能ではあったもののコンモドゥスの放蕩を支えていった。さらに187年に元脱走兵のマテルヌスによる暗殺未遂が発覚し、ますますコンモドゥスは公の席から遠ざかるようになった。
190年にクレアンデルが失脚した。クレアンデルは、穀物管理官のディオニシウスに穀物不足の責任を押し付けられ、民衆の暴動の末、身の危険を感じたコンモドゥスに処刑された。しかしコンモドゥスはこのころから自身をヘラクレスと一体視して剣闘士に加わり、ローマが大火に包まれると、これ幸いとコロニア・コンモディアナに名を改めたともいう。
そして192年の年末、クレアンデルに代わった侍従長エクレクトゥス、親衛隊長ラエトゥス、愛妾マルキアによる暗殺劇が行われた。当初は毒殺するつもりだったが、コンモドゥスは毒を吐き出し、仕方なくナルキッソスによって絞殺されたのである。
元老院はドミティアヌスやネロ以上の暴君であったと遺体の引き渡しを要求したが、次帝ペルティナクスはハドリアヌス廟に遺体を移し、4年後セプティミウス・セウェルス帝によって神としての栄誉を授けられた。
関連項目
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