ゴージャス松野とは、日本のタレント、歌手、プロレスラー、実業家、僧侶である。本名は松野行秀。
概要
福島県福島市出身。飯坂温泉の置屋で育ち、県内トップクラスの進学校県立福島高校を卒業し、日本大学に進学する。
日大を卒業後は芸能事務所の東宝芸能に就職し、沢口靖子や斉藤由貴らを担当。チーフマネージャーにまで上り詰めた。その後、相次ぐスキャンダルで芸能界で孤立していた沢田亜矢子の相談を受け、東宝芸能への移籍を進めようとする。その移籍が出来ないとわかると自ら東宝芸能を退社し、沢田の個人事務所を設立する。(ちなみにこの間の沢田に関する業務は全て無報酬で行っていた。)そしてそれと同時に沢田と入籍した。
が、その入籍から2年半後に離婚スキャンダルが発覚。離婚を希望する沢田に対し、離婚したくない松野の離婚調停裁判は性生活を収めたビデオやDV、事務所の金の横領まで持ち出されるなど泥沼の様相を呈する。その後、離婚は成立。DVや横領については裁判所によって正式に否定されたものの、芸能マネージャーとしてのキャリアはこのスキャンダルによって完全に絶たれてしまう。
その後は顔面を整形した上でホストとして働いたり、路上で人生相談を行ったり、AV男優として活動したりした。2000年には霊媒師歌手の田代純子(田代氏とは後に婚約)とのデュエットで歌手デビューを果たす。また、2001年にはプロレス業界に入り、2002年にはプロレスラーとしてデビューする。(詳細は後述) また、TBSのサンデージャポンに「スーパーフリージャーナリスト」として出演するなどマルチな活動を行っていた。
が、2008年頃からうつ病の症状が出始める。更にこの年の11月には急性肝不全で倒れ、一時は心肺停止状態となるなどかなり危険な状態となるものの、なんとか一命を取り留める。その後は徐々に活動を再開しつつあったタイミングで、2011年3月11日に福島市で東日本大震災に遭遇・被災する。その16日後のDDT後楽園ホール大会に姿を現し、選手としての復帰をすると宣言。その後は田代純子氏と共に仮設住宅を回り、被災者を歌で励ます活動を始めた。
7月には父親を亡くなる。それをきっかけに曹洞宗の寺院で修行を開始し、2012年3月には在家得度を行い僧侶となる。「覚念行秀」の戒名を得る。(修行を行う過程で、うつ病の症状もかなり改善された模様。)
その後もレスラーとして試合とトレーニングをこなしつつ、自身が設立した有限会社松野プランニング(自身のマネジメントなどを行う会社)・株式会社チーム福島(除染などのボランティア活動などを支援する会社)を運営。更に被災者の方々を歌で励ます活動を続けている。
プロレスラー・ゴージャス松野
離婚が成立した直後の2001年11月にIWA・JAPANのタイガー・ジェット・シンのマネージャーとしてリングに上がる。
また、翌年10月にはそのタイガー・ジェット・シンらと組んでプロレスラーとしてデビューを果たす。
2004年にはDDTプロレスリングに移籍。その独特の間などから、「DDTの門番」と呼ばれるようになる(実際に、最近ではDDTに定期参戦し始めた坂口征夫と抗争があった。)。それ以降では地元福島市国体記念体育館で年1回の興行「ゴージャスナイト」を開催している。2008年にはDDTのコミッショナーに就任するものの、前述のうつ病(DDT内での欠場理由は「心の旅中」とされていた。)のために長期欠場に入る。
2010年ごろから徐々に会場に姿を現すようになり、翌2011年の東日本大震災直後の後楽園ホール大会で復帰を宣言。 5月4日の後楽園ホール大会でMIKAMIとのタッグで復帰を果たす。(対戦相手はアントーニオ本多・星誕期組)また、11月にはポイズンJULIE澤田とのタッグでKO-Dタッグ選手権に挑戦。また、翌年には武道館ピーターパンにも出場し、11月には自身の欠場により開催が中断していたゴージャスナイトを4年ぶりに開催。メインイベントでHARASHIMA・MIKAMIとタッグを組み、高木三四郎・男色ディーノ・マサ高梨組に勝利した。
その後も限定出場ながら、DDTプロレスリングで大暴れしている。入場曲は特別狙撃隊S.W.A.T.のオープニングテーマ。(正式な曲名は『Rhythm Heritage - Theme from SWAT』 川口浩探検隊のごとく、田中信夫のナレーションが入っている。)得意技は619、フライングクロスチョップ、ゴージャススーパースターエルボー、スワントーンボムなど。
関連動画
関連項目
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