ゴーストップ事件とは、1933年6月17日の信号無視から発展した事件である。
概要
1933年6月17日、大阪市北区にある天神橋六丁目の交差点で、帝国陸軍歩兵第八連隊の中村政一一等兵(22)が信号無視をした。当日は非番で、急いで電車に乗りたかった故の信号無視であった。それを見ていた曽根崎警察署所属の戸田忠夫交通巡査(27)が一等兵をメガホンで咎めて天六巡査派出所へ連行。すると中村一等兵は「軍人の身柄を拘束できるのは憲兵だけ、警官の指図は受けん」と反論し、派出所内で乱闘する騒ぎになった。殴り合いの結果、中村一等兵は左耳の鼓膜が破裂する全治三週間の怪我、戸田巡査も下唇を切る全治一週間の怪我を負う。見かねた通行人からの通報で憲兵が駆け付け、中村一等兵を連れ帰った事で騒ぎは終息。これだけなら単なる信号無視なのだが…。
憲兵隊には中村一等兵が警官にいじめられているように見えたようで、皇軍の威信に関わるとして第八連隊と第四師団に報告、更に中村一等兵も「何も手出ししていないのに殴られた」と主張し、警察の非を訴えた。対する戸田巡査は「兵士の方から手を出してきた」と正反対の主張を行って意見が対立。この事を知った第四師団は事件から5日後の6月22日、声明を出して大阪府警に抗議を行い、「陛下の軍隊を侮辱するのは不敬」「(非番とはいえ)軍服を着ていたのだから軍人として扱うべき」として謝罪を求めた。当初大阪府警は事態を重く見ていなかったが、第四師団からの正式な抗議を受けて緊張が走り、同日中に府警も「公務外の外出であれば交通規則に従うべき」「警察官も陛下の警察官である」と反論。両者互いに一歩も譲らない姿勢を示す。今や些細な信号無視は警察vs陸軍の大論争に発展し、各新聞社は軍と府警の対立を大々的に報じた。間に大阪憲兵隊が入り、6月24日に軍幹部と府知事が会談を行ったが物別れに終わり、対立は次第に苛烈化していく。激務により警察署長が過労で入院(後に急死)、乱闘の目撃者は警察と憲兵の両方に呼び出され、それぞれ自分たちに有利な証言をするよう圧力をかけられた。そのせいで一人が精神的にまいって自殺してしまっている。陸軍のトップである荒木貞夫陸軍大臣、警察のトップである山本達雄内務大臣、そして松本学内務省警保局長もこの事に言及。事態は拡大の一途を辿る。
大阪憲兵隊が斡旋役から降りた事で、渦中にある中村一等兵は7月18日に戸田巡査を告訴。戦いの舞台は法廷へと移った。中村一等兵には私服の刑事が、戸田巡査には私服の憲兵が尾行し、互いに粗を探しあう泥仕合と化す。警察は中村一等兵が過去に7回も交通違反を犯していた事を暴き、陸軍に突き付けたが決定打には至らない。荒木陸軍大臣が現地入りしたり、全国在郷軍人会が支援に回って中村一等兵を支持、警察側も各府警警察部や内務省警保局が戸田巡査を支持するなど終息の兆候がまるで見えず、事件は暗礁に乗り上げた。舞台となった大阪では市民が沸き、漫才の題目にもなるほど有名だったという。
際限なく広がっていく騒動であったが10月中旬に福井県で行われた陸軍特別大演習がきっかけで一気に解決へと傾く。この大演習には昭和天皇が参列しており、ゴーストップ事件について言及したのである。現人神が心配していると知った荒木陸軍大臣は焦燥、大慌てで内務省との会談の場が設けられた他、兵庫県知事の仲裁により陸軍と警察は和解を約束。11月19日、警察署長と師団参謀長がそれぞれ相手方に訪問して会談。翌20日には、当事者の中村一等兵と戸田巡査が事件解決に尽力した和田良平検事正を訪ね、官舎前で互いに謝罪し、握手を交わして完全に和解。こうして陸軍と警察を巻き込んだ事件は幕を閉じたのだった。軍と警察が出した共同発表によると、警察が何らかの譲歩をしたようだが詳細は不明。
結果で見れば引き分けなのだが法曹界に「警察の権力も軍には及ばない」という考えが根付いた。実際ゴーストップ事件以降警察も軍に対して及び腰になり、軍人の不祥事は憲兵隊に一任する事にしている。また満州事変で臣民からの支持を獲得していた軍が更に強権を持つ転換点にもなった。
関連動画
関連商品
関連項目
- 4
- 0pt