サミュエル・エトー(Samuel Eto'o Fils, 1981年3月10日 - )とは、カメルーンの元サッカー選手である。元サッカーカメルーン代表。現・カメルーンサッカー連盟会長。
現役時代のポジションはFW。180cm79kg。利き足は右足。
サミュエル・エトオと表記されることもある。
概要
カメルーン・リトラル州ドゥアラ出身。抜群のスピードと決定力を武器に2000年代の欧州サッカーを席巻したアフリカの伝説的ストライカー。瞬間的な加速や得点能力、足元の技術に優れるなど高い決定力で得点を量産する理想的なストライカーの資質を持つ一方で、前線からの献身的なプレッシングも持ち味の一つである。4度のアフリカ年間最優秀選手賞に選ばれるなど輝かしい実績を持つ。
若くしてヨーロッパへ渡り、レアル・マドリード時代はレンタル移籍を繰り返すなど苦労したが、2000年にレンタル移籍したマジョルカで才能が開花し、チームをコパ・デルレイなどの活躍が認められ、2004年にFCバルセロナへ移籍。加入初年度で25得点を挙げ、チームの6シーズンぶりのリーガ・エスパニョーラ優勝に貢献。翌年にはリーガ連覇、UEFAチャンピオンズリーグ優勝を達成し、前年を上回る26得点でリーグ得点王(ピチーチ賞)となる。2008-09シーズンにはクラブ初となるトレブル(三冠)達成に貢献。
ジョゼップ・グアルディオラ監督との確執から2009年夏にインテル・ミラノへ移籍。加入後すぐに中心選手として活躍し、イタリア勢初となる三冠獲得に貢献。個人としては史上初となる2シーズン連続でトレブルを果たした選手となった。
カメルーン代表には1997年に15歳の若さでデビュー。アフリカネイションズカップ2000、アフリカネイションズカップ2002で優勝を経験。2010 FIFAワールドカップ、2014 FIFAワールドカップではキャプテンを務め、2014年の代表引退までに118試合56得点を記録。2000年のシドニーオリンピックではパトリック・エムボマとの強力2トップで金メダル獲得という快挙を成し遂げている。その一方で2011年にボーナス未払い問題で代表戦ストライキを行うなどカメルーンサッカー連盟とたびたび対立していた。
現役時代の経歴
生い立ち
1981年3月10日、カメルーンの首都ヤウンデ郊外にある町ンコンに生まれる。父親は会計士の仕事をしており、6人兄弟(男3人、女3人)を養っていた。その後、一家は大都市のドゥアラへ引っ越し、ギニア湾に面したニューベル地区に定住する。
小さい頃からサッカーに熱中し、でこぼこの空き地で手製のボールを蹴って友達とゲームに興じていた。やがて地元クラブのUCBドゥアラに入団すると、同国の英雄であるロジェ・ミラのプレーを真似しながら、サッカーへのめり込んでいった。13歳で地元2部リーグの試合に出場するなど才能を開花させ、家族とともにフランスへ渡航しパリ・サンジェルマンのトライアルを受ける。しかし、合格とはならずカメルーンへ戻ることになる。
帰国後の1992年、ドゥアラに新設されたカジ・スポーツアカデミーに入団。カジSAはフランスのクラブと提携しており、ここでの活動を通じてASサンティティエンヌやASカンヌの練習に参加したが、スカウトされるまでに至らなかった。だが、カメルーンジュニアユース代表での遠征試合での活躍がスカウトの目にとまり、名門レアル・マドリードのトライアルを受けて合格する。
レアル・マドリード
1996年、スペイン・リーガ・エスパニョーラの名門レアル・マドリードに入団。下部組織からスタートとなり、1997年にプロキャリアをスタートする。もっとも当時16歳であり、外国人枠の関係もあるためトップチームでの出場は困難で、さらにレアル・マドリードBがEU外の選手が出場できないセグンダB(3部)に降格していたことから1997-98シーズンはセグンダ・ディヴィシオン(2部)のCDレガネスにレンタルされる。プロ1年目は公式戦30試合4ゴール5アシストを記録。
1998-99シーズンはレアル・マドリードに戻るが、出場機会はほとんどなく、1998年12月5日のRCSエスパニョーラ戦でリーガデビューを飾るが、出番はこの試合のみだった。1999年1月、リーガ・エスパニョーラのRCDエスパニョールにレンタルされるが、ここでも出場したのはコパ・デル・レイのレアル・バリャドリード戦の1試合のみだった。
1999-00シーズンもレアル・マドリードで出場機会を得られず、2000年1月にRCDマジョルカにレンタル移籍する。すると、カンプノウでのFCバルセロナ戦で2ゴールを決め、リーガでの初ゴールを決めるとともにその後のブレイクに繋がるきっかけを作り出す。その後も結果を残し、半年間の在籍ながらも13試合6ゴールを決めるなど爪痕を残す。
マジョルカ
1999-00シーズン終了後、活躍が認められマジョルカに移籍金6億6000万円で完全移籍する。実質2年目となる2000-01シーズンは本格的に覚醒し、レギュラーに定着。当時まだ19歳と若かったこともあって短気で精神的なムラもあったが、ルイス・アラゴネス監督の指導のもとでメンタル面でも成長。2000年12月の試合で途中交代を命じられた際にアラゴネス監督から首を掴まれて問い詰められたことがあったが、和解したことで深い信頼関係を築く。以降はエースとして信頼されるようになったことで28試合11ゴールを記録し、クラブ創設最高順位タイとなる3位に躍進させたことでスターダムにのし上がる。
恩師であるアラゴネス監督がチームを去った2001-02シーズンは3度の監督交代が起きるなどチームは混迷に包まれ、自身も不振のチームに引っ張られたこともあり6ゴールと不本意な成績に終わる。
2002-03シーズンは2シーズン前のキレを取り戻し、ゴールを量産するようになる。もはや絶対的エースと言うべき存在となり、2003年1月3日には敵地サンティアゴ・ベルナベウで古巣のレアル・マドリードと対戦。この試合で爆発的なスピードを武器に銀河系軍団を圧倒すると、2ゴールを決める大活躍によって5-1というクラブ史に残る大勝の立役者となり、因縁の地で冷遇された古巣へ最高の恩返しを果たす。ちなみにこのシーズンのリーガを制したマドリーにとってこの敗戦がホームでの唯一の黒星となった。その後も勢いは止まらず、リーガでは自己ベストを更新する14ゴールを記録。また、コパ・デル・レイでは決勝のレクレアティボ戦で2ゴールを決め、マジョルカのクラブ史上初となるタイトル獲得に貢献。マジョルカにとっての伝説に残る選手となった。
2003-04シーズンも圧倒的なスピードと決定力でマジョルカの攻撃を牽引し続け、キャリアハイをまたも更新する32試合17ゴール、公式戦43試合22ゴールという成績を残す。トップストライカーの実力を証明したエトーは、「黒い宝石」の異名で呼ばれるようなり、2003年のアフリカ最優秀選手に選出。同時に中堅クラブであるマジョルカはもはやリーガ最高レベルのタレントと化したエトーを留めることは不可能となっており、夏の移籍マーケットでの最注目株とされていた。
バルセロナ
2004年夏にスペイン・リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナへ移籍。当初は古巣のレアル・マドリードへの復帰が有力視されていたが、移籍金2400万ユーロでスペインのもう一つの名門へ移籍することとなった。前年に暗黒期を脱したバルサにとって新たな黄金期を迎えるための「最後のピース」として加入すると、開幕から早速ゴールを量産することで期待に応えてみせる。フランク・ライカールト監督のもとでロナウジーニョ、リュドヴィク・ジュリと強力な3トップを形成し、ゲームメーカーのシャビやデコとも好連携を形成したことで37試合25ゴールの活躍により、バルサの6シーズンぶりとなるリーガ優勝に貢献。世界最高クラスのストライカーとしての地位を確立し、2年連続でのアフリカ最優秀選手に選出される。
2005-06シーズンも前年に匹敵するレベルのペースでゴールを量産し、バルサのエースストライカーとして圧倒的な存在感を見せていた。急成長を遂げる神童リオネル・メッシを牽引し、文字通り非の打ちどころがないパフォーマンスを見せるなどキャリアの絶頂期を迎えていた。2006年5月20日のリーガ最終節アスレティック・ビルバオ戦でシーズン26ゴール目を決め、初のリーガ得点王に贈られるピチーチ賞を受賞。UEFAチャンピオンズリーグでもラウンド16のチェルシーFC戦、準々決勝のベンフィカ戦で重要なゴールを決め、5月17日の決勝のアーセナル戦では前半に相手GKイェンス・レーマンを退場に追いやり、後半31分にはヘンリク・ラーションのパスから同点ゴールを決め、クラブの14シーズンぶりとなるビッグイヤー獲得に貢献。CLでも6ゴールを記録し、二冠獲得の立役者となったことで3年連続でのアフリカ最優秀選手に選出。FIFA年間最優秀選手でも3位に入った。
2006-07シーズンはメッシ、ロナウジーニョとの「マジックトリオ」が本格的に結成されるが、2006年9月27日のCLヴェルダー・ブレーメン戦で右膝半月板損傷の大怪我を負い、5か月に渡る長期の戦線離脱を強いられる。2007年2月に復帰するが、2月11日のラシン・サンタンデール戦では交代出場を拒否する事件を起こし、これをきっかけにライカールト監督との確執が取り沙汰されるようになる。さらにこの出来事を批判したロナウジーニョの生活態度を批判したことで両エースが対立するようになる。その後得点感覚を取り戻し11ゴールを記録するが、チーム内に不協和音を呼び込むトラブルメーカーとなってしまい、バルサは無冠に終わる。
2007-08シーズンにティエリ・アンリが加入したことでさらなる期待が高まるが、開幕前の2007年8月29日のインテル・ミラノとの親善試合で大腿部を痛めてまたも長期離脱。離脱中にスペイン国籍を取得し、12月11日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で戦列に復帰。2008年2月24日のレバンテ戦では意外にもこれがリーガで初となるハットトリックを記録するなど、18試合16ゴールと決定力の高さを見せるが、ライカールト監督の求心力が落ちたチームは2年連続で無冠に終わる。
2008-09シーズンにジョゼップ・グアルディオラが監督に就任。当初、同監督から戦力外通告を言い渡される。ロナウジーニョがACミラン、デコがチェルシーへと、一時代を築いた選手達がチームの和を乱す存在として次々と放出されたが、エトーの移籍交渉が難航した事に加え、プレシーズンマッチとCLプレーオフでの活躍が決め手となり残留。ティエリ・アンリ、リオネル・メッシと世界最強と言われた3トップを形成すると、2008年9月21日の第3節スポルティング・ヒホン戦で2ゴールを挙げ、リーガ通算100ゴールを達成。10月25日のアルメリア戦ではクラブ最速記録となる23分間でのハットトリックを記録。11月8日のバリャドリード戦ではキャリア初となる1試合4ゴールを達成。最後までグアルディオラ監督との確執は快勝しなかったが、キャリアハイとなる36試合30ゴールの活躍で3シーズンぶりのリーガ優勝に貢献。さらにCLでは決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦で先制ゴールを決めるなど、12試合6ゴールの活躍で自身2度目のビッグイヤー戴冠を経験すると共にコパ・デル・レイと合わせてクラブ史上初のトレブル(三冠)達成に貢献。エトー、メッシ、アンリの3人で驚異の公式戦100ゴールを達成している。
インテル
2009年7月27日、ズラタン・イブラヒモビッチとのトレードでイタリア・セリエAのインテル・ミラノへ移籍。ジョゼ・モウリーニョ監督からの熱烈なラブコールに応える格好となった。同時期に加入したディエゴ・ミリート、冬に加入したゴラン・パンデフ含めて3人で3トップを形成。中心選手として殆どの試合に出場し、2010年3月16日のCL準々決勝チェルシーFC戦ではチームを4シーズンぶりのベスト4に導く決勝ゴールを決める。モウリーニョ監督からは左サイドで起用され、戦術理解度の高さで守備から攻撃までこなしつつ32試合12ゴールを記録し、セリエA5連覇に貢献。さらにコッパ・イタリアも制し、CLでは優勝候補筆頭だった古巣のバルセロナを下してファイナルに進出。5月22日のCL決勝バイエルン・ミュンヘン戦でも効果的な動きでイタリア勢初となるトレブル(三冠)達成に貢献。個人としては史上初めて2シーズン連続で三冠を獲得した選手となる。さらに2005年以来となる通算4度目の4度目のアフリカ年間最優秀選手賞を受賞。
2010-11シーズンも好調を維持して攻撃陣を牽引し、2010年9月29日のCLグループステージ、ヴェルダー・ブレーメン戦でインテルで初となるハットトリックを達成。ちなみにCLグループステージでは6試合で7ゴールを決めている。11月21日のキエーヴォ・ヴェローナ戦で相手選手を頭突きし3試合の出場停止処分を受ける。12月18日、FIFAクラブワールドカップ2010のマゼンベ戦ではチームの2点目を決め、クラブ世界一のタイトルを獲得し、大会のゴールデンボールを受賞。前年と比べて不安定だったチームはスクデット、CLのタイトルを逃すが、2011年5月9日のコッパ・イタリア決勝パレルモ戦では2ゴールを決め、連覇に貢献。リーグ戦35試合21ゴールを記録し、公式戦38ゴールは自己ベストを更新している。
アンジ・マハチカラ
2011年8月24日、当時石油会社を経営する大富豪スレイマン・ケリモフがオーナーを務めていたロシア・プレミアリーグのアンジ・マハチカラに移籍金2700万ユーロ、年俸2000万ユーロとも伝えられる破格の条件で移籍する。ロシアでのデビュー戦となった8月27日の第22節ロストフ戦で途中出場し早速ゴールを決める。第23節FCヴォルガ・ニジニ・ノヴゴロド戦では2試合連続となるゴールを決める。2011-12シーズンは22試合13ゴールを記録するが、CL出場権は獲得できなかった。
2年目となった2012-13シーズンはチームの核としてコンスタントに活躍。30歳を過ぎたものの前線からのプレスやチャンスメイクにも関与。リーグ戦では25試合10ゴールを挙げ、チームを3位に押し上げる。UEFAヨーロッパリーグでも予選も含めて16試合9ゴールを記録し、グループステージ突破に貢献している。
2013年8月、アンジは経営規模の縮小を発表。予算削減のため高額年俸のスター選手たちは放出されることにもなり、チームトップの高額を得ていたエトーも当然その対象となり、移籍先を探すことになる。
チェルシー
2013年8月29日、イングランド・プレミアリーグのチェルシーFC戦に1年契約で移籍。インテル時代の恩師ジョゼ・モウリーニョ監督のもとで計算できるベテランとしての活躍を期待されると、途中出場が中心ながらもストライカー不足に悩むチームを救う貴重な働きを見せる。2013年10月19日のカーディフ・シティ戦でプレミアリーグ初ゴールを記録。2014年1月19日のマンチェスター・ユナイテッド戦ではイングランドの地で初のハットトリックを達成。リーグ戦21試合9ゴール、公式戦35試合12ゴールと結果を残したが、シーズン終了後に契約満了により退団する。
エヴァートン
2014年8月26日、イングランド・プレミアリーグのエヴァートンFCに2年契約で移籍。わずか4日後のホームのチェルシーFC戦で新天地でのデビューを果たし、数か月前まで在籍した古巣相手に初ゴールを決める。10月26日のバーンリーFC戦では2ゴールを決めるが、満足な出場機会を得ることができず、シーズン途中に新天地を求めることに。
サンプドリア
2015年1月24日、イタリア・セリエAのサンプドリアに2年半の契約で移籍。3年半ぶりのイタリア復帰となり右ウイングやセカンドトップでプレーしたが、33歳となったことでスピード面での衰えは隠せず、18試合2ゴールという成績に終わる。
アンタンヤスポル
2015年7月1日、トルコ・スュペル・リグのアンタンヤスポルに3年契約で移籍。リーグ戦デビューとなった8月15日のバシャクシェヒル戦で2ゴールを決め、順調なスタートを切る。チームの中心選手として、リーグ戦ほぼすべての試合でセンターフォワードとして先発出場し、安定した得点力を発揮。シーズン最初の15試合で13ゴールを決める活躍ぶりを見せる。12月7日から1か月間は暫定ながらも選手兼監督を務めている。新監督が決まり選手に専念するようになってからも勝負強さを発揮し、ゴール前での嗅覚と決定力は全盛期に近い輝きを取り戻していた。最終的に得点ランク2位の31試合20ゴールという堂々の成績を残し、チームを降格の危機から救っている。
2016-17シーズンも高い決定力は健在で、ポジショニング、シュート技術、そして経験を生かした駆け引きで、確実に得点を積み重ね、ゲームキャプテンとしてもチームを牽引するなどチームの精神的支柱にもなっていた。絶対的な中心選手として30試合18ゴールの成績により、チームを上位進出へと導く。
2017-18シーズンは前半戦で15試合6ゴールを記録していたが、チームの成績が低迷していたこともあって2018年1月31日に双方合意により契約を解除する。
コンヤスポル
2018年1月30日、トルコ・スュペル・リグのコンヤスポルにフリーで加入。残留争いに巻き込まれるチームの中でコンスタントにゴールを決め、チームの1部残留に貢献。2017-18シーズンのトータルでは12ゴールと3年連続で二桁得点を挙げている。
カタールSC
2018年8月13日、カタール・スターズ・リーグのカタールSCに移籍。37歳で初めてヨーロッパを離れてのプレーとなったが、加入直後の試合で華麗なバックヒール弾を決めるなど年齢を感じさせない技術の高さを見せていた。主力ストライカーとして十分機能していたが、2019年2月に退団。その後無所属となっていたが、同年9月に現役引退を発表。
カメルーン代表
16歳の誕生日前日の1997年3月9日、コスタリカとの親善試合でフル代表にデビュー。その後も代表のメンバーに名を連ねると、1998年6月にフランスで開催された1998 FIFAワールドカップのメンバーにも選出。グループリーグ第2戦のイタリア戦に途中出場し、17歳3か月というカメルーン史上最年少でのワールドカップ初出場を果たす。結局出場したのはこの試合の21分間のみだったが、グループリーグ敗退に終わったカメルーンにとって数少ない希望となった。
2000年1月、ナイジェリアとガーナで共同開催されたアフリカネイションズカップ2000に出場。グループリーグ第2戦のコートジボワール戦でスタメンに抜擢されると、代表初ゴールとなる追加点を決め、勝利に貢献する。第3戦のトーゴ戦はスタメンを外れたが、準々決勝のアルジェリア戦で再びスタメンに起用されると、開始7分に先制ゴールを決める。この活躍でパトリック・エムボマの相棒の座に定着するようになり、準決勝のチュニジア戦でまたもゴールを決め、決勝へと導く。決勝は開催国でもあるアフリカ屈指のタレント軍団ナイジェリア。下馬評では不利と見られていたが、前半26分に大会4ゴール目となる先制ゴールを決める。5分後にはスルーパスでエムボマのゴールをアシスト。その後は同点に追いつかれるが、PK戦の末にカメルーンが7大会ぶり3度目の優勝を果たし、エムボマと共に大会通算4ゴールを記録したエトーは大会のベストイレブンにも選出される。
2000年9月にはU-23カメルーン代表の一員としてシドニーオリンピックに出場。オーバーエイジ枠で選出されたエムボマと先のAFCONに続いて強力2トップを組むこととなったが、カメルーンは準々決勝でロナウジーニョを擁する優勝候補のブラジルを激闘の末に下す大金星を挙げる。準決勝でチリを破り、決勝ではシャビ、カルレス・プジョルがいるスペインと対戦。2点を先制される厳しい試合展開となったが、オウンゴールで1点を返した直後の後半14分にエムボマのクロスを見事なボールコントロールで処理し、同点ゴールを決める。試合はPK戦にもつれ込んだが、きっちりと成功させ、カメルーンが金メダルを獲得。この年はAFCONに続いて2つのタイトルをもたらすこととなった。
2000年4月からスタートしていた2002 FIFAワールドカップ アフリカ予選では3ゴールを記録し、4大会連続での出場権獲得に貢献。2001年1月にはマリで開催されたアフリカネイションズカップ2001に出場。自身は大会を通して不調が続き、ゴールを決めたのはグループリーグ第3戦のトーゴ戦のみだったが、チームは決勝でセネガルを相手にPK戦を制し、大会連覇を成し遂げる。
2002年6月、日本と韓国で共同開催となった2002 FIFAワールドカップに出場。初戦のアイルランド戦を引き分け、第2戦のサウジアラビア戦ではワールドカップ初ゴールとなる決勝ゴールでチームを勝利に導く。しかし、第3戦のドイツ戦ではオリバー・カーンからゴールを奪うことができず敗戦。グループリーグ全試合にフル出場したが、大会前のボーナス支給を巡って協会と対立したチームは敗退となる。
2003年6月にフランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003では初戦でブラジルを相手に大金星を挙げる決勝ゴールを決める。第3戦以降は怪我の影響もあってスタメンを外れるが、チームは準優勝という好成績を残す。2006 FIFAワールドカップ・アフリカ予選ではチームトップの4ゴールを決めるが、首位のコートジボワールに勝ち点1届かず、敗退。25歳というピークで迎えるはずのドイツW杯への出場が途絶えてしまう。2006年1月にエジプトで開催されたアフリカネイションズカップ2006では、初戦のアンゴラ戦でハットトリックを達成し、4試合で5ゴールを挙げ大会得点王となるが、チームはベスト8で敗退し3連覇は果たせなかった。
2008年1月、ガーナで開催されたアフリカネイションズカップ2008に出場。グループリーグ第3戦のスーダン戦で2ゴールを決め、AFCONでの歴代通算ゴール記録保持者となる。その後チームは決勝まで進むが、エジプトに敗れて準優勝に終わる。決勝トーナメントに入ってからはゴールを決められなかったが、大会5ゴールを記録し、2大会連続での得点王となる。2010 FIFAワールドカップ・アフリカ予選では驚異的な得点力を発揮し、予選最多となる9ゴールを挙げてカメルーンを2大会ぶりの本大会出場に導く。
2010年6月、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。初戦の日本戦ではチーム事情から右サイドでのプレーとなるが、マッチアップした長友佑都のマークによって仕事をさせてもらえず、敗北。第2戦のデンマーク戦、第3戦のオランダ戦と2試合連続でゴールを決め、ロジェ・ミラを抜いてカメルーン代表の歴代最多得点保持者となる。しかし、チームは3戦全敗という大きな失望を残す結果でグループリーグ敗退となる。
2010年9月4日、アフリカネイションズカップ予選のモーリシャス戦で代表通算100試合出場を達成し、この試合で2ゴールを決める。その後、代表戦でのボーナスの支払いが未払いとなっていることからカメルーンサッカー連盟との対立が激化するようになり、2011年11月15日にはアルジェリアとの親善試合の出場を拒否。このことを受け、12月16日に連盟から15試合の出場停止処分を言い渡される。年明けにカメルーンのポール・ビヤ大統領の懇願もあって4試合に軽減される。その後もチームの内紛は続き、カメルーンはAFCON出場を逃すなど国際舞台から遠ざかることになる。
その後も連盟との対立は続き、しばらくの間は代表と取っていたが、2013年3月23日の2014 FIFAワールドカップ・アフリカ予選トーゴ戦で復帰すると、2ゴールを決める活躍で勝ち点3をもたらし、チームを首位に押し上げる。同年11月のプレーオフのチュニジア戦ではキャプテンを務め、カメルーンを2大会連続での本大会出場に導く。
2014年6月、ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップにて4度目のW杯出場となる。キャプテンとして初戦のメキシコ戦にフル出場したが、膝の故障のため残りの試合は欠場。カメルーン代表は第2戦のクロアチア戦で仲間割れを起こし、世界に醜態を晒し、3戦全敗で大会を去る。大会後の8月27日に33歳でのカメルーン代表からの引退を表明。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1997-98 | レガネス(loan) | セグンダ・ディビシオン | 30 | 4 | |
| 1998-99 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 1 | 0 | |
| エスパニョール(loan) | リーガ・エスパニョーラ | 0 | 0 | ||
| 1999-00 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 2 | 0 | |
| マジョルカ(loan) | リーガ・エスパニョーラ | 13 | 6 | ||
| 2000-01 | マジョルカ | リーガ・エスパニョーラ | 28 | 11 | |
| 2001-02 | マジョルカ | リーガ・エスパニョーラ | 30 | 6 | |
| 2002-03 | マジョルカ | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 14 | |
| 2003-04 | マジョルカ | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 17 | |
| 2004-05 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 37 | 25 | |
| 2005-06 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 26 | |
| 2006-07 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 19 | 11 | |
| 2007-08 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 18 | 16 | |
| 2008-09 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 36 | 30 | |
| 2009-10 | インテル | セリエA | 32 | 12 | |
| 2010-11 | インテル | セリエA | 35 | 21 | |
| 2011-12 | アンジ・マハチカラ | ロシア・プレミアリーグ | 22 | 13 | |
| 2012-13 | アンジ・マハチカラ | ロシア・プレミアリーグ | 25 | 10 | |
| 2013-14 | アンジ・マハチカラ | ロシア・プレミアリーグ | 4 | 2 | |
| チェルシー | プレミアリーグ | 21 | 9 | ||
| 2014-15 | エヴァートン | プレミアリーグ | 14 | 3 | |
| サンプドリア | セリエA | 8 | 1 | ||
| 2015-16 | アンタルヤスポル | スュペル・リグ | 31 | 20 | |
| 2016-17 | アンタルヤスポル | スュペル・リグ | 30 | 18 | |
| 2017-18 | アンタルヤスポル | スュペル・リグ | 15 | 6 | |
| コニャスポル | スュペル・リグ | 13 | 6 | ||
| 2018-19 | カタールSC | スターズ・リーグ | 30 | 18 |
個人タイトル
- アフリカ年間最優秀選手賞:4回(2003年, 2004年, 2005年, 2010年)
- アフリカ年間最優秀若手選手賞(2000年)
- ピチーチ賞(2005-06)
- アフリカネイションズカップ得点王:2回(2006年, 2008年)
- FIFAクラブワールドカップゴールデンボール(2010年)
引退後
2021年9月、カメルーン・サッカー連盟(FECAFOOT)会長選への立候補を表明。12月11日の会長選で現職を破り、カメルーンサッカー連盟新会長に当選。2022年1月からエトー体制が発足。
2022年6月、カタールで開催された2022 FIFAワールドカップのアンバサダーを務める。大会中、スタジアム外でアルジェリア人サポーターに対して暴行を加え、後に謝罪声明を出す。
2024年2月、代表チームの成績不振を理由に会長職からの辞意を表明するが、FECAFOOTによって否決され、留任する。
2024年9月11日のFIFA U-20女子ワールドカップのブラジル対カメルーン戦で「攻撃的な振る舞い及びフェアプレー原則の違反」を定めた規律規定第13条と「選手及び役員の不正行為」を定めた同第14条に違反したとして、9月30日にFIFAより半年間は全てのカメルーンに関わる試合の観戦を禁止される。
2026年1月、AFCONの準々決勝モロッコ戦において、スポーツマンシップに反する行為があったとして、アフリカサッカー連盟(CAF)から4試合のスタジアム入場禁止と約2万ドルの罰金処分を受ける。
プレースタイル
爆発的な瞬発力とスピードを活かした飛び出しやドリブルに加え、強靭なボディバランスも持つワールドクラスのストライカー。裏への抜け出し、ディフェンスラインの背後を突くスピード、そして冷静なフィニッシュでゴールを量産する。左右のウイングでもプレーしていた時期もあるが、メインポジションはセンターフォワードである。
最大の武器はやはり異常ともいえる瞬間的なスピードであり、ディフェンダーを一瞬で抜き去り、裏のスペースへ抜け出す形がもっとも得意なゴールパターンである。ゴールへの嗅覚も鋭く、チャンスと見るとあっという間にゴール前に飛び込み、並みのスピードのDFでは対応することができない。また、こぼれ球への反応も動物的と言えるレベルで素早い。
足が長く、混戦を抜け出す時や、瞬間的なトゥキックのシュートなどに活用され、名コンビだったロナウジーニョのようなトリッキーな技は使わないのにプレーは常に意外性に富んでいた。止まってからの一歩が速く、リーチがあってボールも大きく動くため、一瞬でDFを置き去りにできた。身体能力だけでなく、技術も高く、どの位置からでもゴールを狙えるシュートセンスを持っている。運動量によるオフ・ザ・ボールでの貢献度も高く、味方のスペースを作る動きも秀逸。
攻撃だけでなく、守備においても最前線からプレスをかけ、チームのために精力的に動く献身性が魅力であり、必要とあれば自陣にまで戻って守備に参加することもある。モウリーニョ監督時代のインテルではディフェンシブ・フォワードの役割をこなし、サイドでプレーするときは相手SBの攻め上がりをケアし、マンマーク気味の対応もこなしていた。
空中戦は得意としておらず、高さ勝負では不利になることが多かった。キープ力そのものは高かったが、相手DFを背負ってのポストプレーも苦手としていた。
人物・エピソード
バルセロナ時代、リーグ優勝報告会の席で、古巣レアル・マドリーへ向けて"Madrid, cabrón saluda al campeon!"(くそったれマドリーは王者に挨拶しろ!)と絶叫し物議を醸した。満員の観客を前にテンションが上がり過ぎてしまっていたらしく、翌日に謝罪会見を開いている。
だが現地バルサファンはこのフレーズを大変お気に召したらしく、それ以降のエル・クラシコやレアル・マドリーが到達出来なかったカップ戦の決勝でチャントとして度々大合唱する姿が見られる。
また、バルセロナで行われたパーティに飛び入り参加するなど退団後もバルサとの交流は深い。折り合いの悪かったグアルディオラとも和解した模様。
インテルでチームメイトだった日本代表・長友佑都曰く、シャワールームで見たエトーのエトーの大きさは半端ではなく、思わず二度見してしまう程の大きさであったという。
カメルーン代表で副キャプテンを務めるアレクサンドル・ソングとは確執があり、問題を抱えていた。
自己主張の強さからチーム内で軋轢を生むことが多く、歯に着せぬ言動から規律を乱すことがたびたびあった。
幼い頃に父親に腕時計を買ってもらって以降、腕時計にはこだわりがあり、自らプロデュースも行っている。2010年W杯予選の際は「カメルーンがW杯に出場できたらチームメイト全員に腕時計をプレゼントする」と宣言し、実際に出場決定後、自らのブランドの450万円相当の腕時計を贈った。
携帯電話のマニアとして知られており、400台もの携帯を所持している。2012年1月には母国カメルーンで携帯電話会社を設立。
関連動画
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- アリエン・ロッベン
- アレッサンドロ・デル・ピエロ
- アントワーヌ・グリーズマン
- アンドリー・シェフチェンコ
- アンドレア・ピルロ
- アンドレス・イニエスタ
- アンヘル・ディ・マリア
- アーセン・ヴェンゲル
- イケル・カシージャス
- 伊東純也
- 稲本潤一
- 井原正巳
- ウェイン・ルーニー
- 内田篤人
- エデン・アザール
- エリック・カントナ
- エンゴロ・カンテ
- 大久保嘉人
- 岡崎慎司
- 岡野雅行
- 小笠原満男
- 小野伸二
- オリヴィエ・ジルー
- カカ
- 柿谷曜一朗
- カルレス・プジョル
- ガブリエル・バティストゥータ
- ガレス・ベイル
- ゲルト・ミュラー
- 後藤啓介
- 酒井宏樹
- 佐藤寿人
- 佐野海舟
- 澤穂希
- シャビ・アロンソ
- ジャンルイジ・ブッフォン
- ジーコ
- 鈴木淳之介
- 鈴木隆行
- スティーヴン・ジェラード
- セスク・ファブレガス
- セルヒオ・ブスケツ
- セルヒオ・ラモス
- 孫興民
- 田中マルクス闘莉王
- 田中陽子
- ダビド・シルバ
- ダビド・ビジャ
- ティエリー・アンリ
- ディエゴ・マラドーナ
- ディディエ・ドログバ
- デニス・ベルカンプ
- トニ・クロース
- 冨安健洋
- 豊田陽平
- トーマス・ミュラー
- ドゥンガ
- ドラガン・ストイコビッチ
- 中澤佑二
- 中田英寿
- ネイマール
- ハメス・ロドリゲス
- 原口元気
- ハンス・オフト
- バスティアン・シュバインシュタイガー
- パオロ・マルディーニ
- パトリック・エムボマ
- パベル・ネドベド
- フィリップ・ラーム
- 藤田譲瑠チマ
- フランク・ライカールト
- フランク・ランパード
- フランク・リベリ
- フランチェスコ・トッティ
- フランツ・ベッケンバウアー
- フリスト・ストイチコフ
- 古橋亨梧
- ペペ(ポルトガルのサッカー選手)
- ペレ
- 本田圭佑
- 毎熊晟矢
- 前田大然
- 松井大輔
- 松田直樹
- マリオ・ザガロ
- マルコ・ファン・バステン
- ミカエル・ラウドルップ
- ミシェル・プラティニ
- ミロスラフ・クローゼ
- モハメド・サラー
- 守田英正
- 山瀬功治
- ヨハン・クライフ
- ライアン・ギグス
- ラウール・ゴンサレス
- ラドミール・アンティッチ
- ラモス瑠偉
- ルイス・フィーゴ
- ルーカス・ポドルスキ
- ルート・フリット
- ロナウジーニョ
- ロナウド
- ロビン・ファン・ペルシー
- ロベルト・カルロス
- ロベルト・バッジョ
- ロベルト・フィルミーノ
- ロベルト・レバンドフスキ
- ロマーリオ
- ローター・マテウス
- ヴェスレイ・スナイデル
▶もっと見る
- 2
- 0pt

