サンフレッチェ広島単語

サンフレッチェヒロシマ
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サンフレッチェ広島とは、広島県広島市を本拠地とするJリーグ所属のプロサッカーチームである。

概要

Jリーグ創設時から存在したいわゆる「オリジナル10」のうちの1チーム

前身は1938年に設立した東洋工業蹴球部。後に「東洋工業サッカー部」(※1971年)~「マツダスポーツクラブマツダSC)東洋工業サッカー部」(※1981年)~「マツダスポーツクラブサッカー部」(※1984年)~「マツダサッカークラブマツダSC)」(※1986年)と4度も名称を変更している。1982年今西和男が総監督となり、後に日本代表監督となるハンスオフトをコーチとして招聘し強化を図る。1991年Jリーグ加盟に伴いプロ化し、現在の名称になった。

称の『サンフレッチェ』の由来は、地元の戦国大名である毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんで、「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ」はイタリア語で「矢」を意味している。

ユニフォームは、2023年ホーム(厳密には)、ビジターが

ホームスタジアムは1992年から1994年までは広島スタジアム、1994年から2023年までは広島ビッグアーチエディオンスタジアム広島)を使用していた(2006年までは併用)。2024年度より同年2月オープンしたエディオンピースウイング広島を使用。

マスコットは、ツキノワグマのサンチェ君とフレッチェちゃん。サンチェ君はJリーグ創設時から存在し、Jリーグをあまり知らない人でも姿だけは見たことがある、という人が多いのではなかろうか。ただしサンチェは2013年整形しており、さらにマスコット大賞を受賞するなど昔の不細工&不人気っぷりからは考えられないことになっており、昔を知る人からすると隔世の感になっている。

天皇杯では準優勝を4度(東洋工業サッカー部時代を除く)経験するなど健闘しているが、優勝経験はい。一方でリーグ戦では1994年以降は成績は芳しくなく、J2降格を2度経験している。だが、J2ではの様な強さを見せており、数々の記録を残している。

2006年6月から2011年まで監督として揮を執っていたミハイロ・ペトロヴィッチのサッカースタイルが浸透し、二度J1昇格以降は毎年ランキング上位に位置するまでになった。また、そのサッカースタイル監督森保一に交代しても受け継がれ、3度のJリーグ制覇という栄を経験する。

Jリーグ創設当初のネタチーム

1994年に前期(サントリーシリーズ優勝を果たすが、その際にテンションが上がったチームトレーナークリスタル製のチェアマン杯を粉々に粉砕してしまう事件が発生し、それ以降のチェアマン杯が金属製になったきっかけを作った。

また懲りずに翌年には、今度はユニフォームを忘れてサポーターからレプリカユニフォームを借りて試合をするというとんでもない伝説を打ち立てた(これは横浜フリューゲルスホームとなる試合で、サンフレッチェはアウェイということで当時の2ndユニフォームであるを持ってきてしまったが、当時のフリューゲルスチームカラーなので、本来であれば1stユニフォームであるを持ってこなければならなかった。後日、Jリーグから制裁が課せられたのは言うまでもない)。

クラブの歴史

Jリーグ創設時

今西和男を中心にプロ化へ向けて着々と準備を進め、1991年1月プロリーグ参加を表明。オリジナル10の中ではもっとも西に位置するチームとなった。

1992年にスチュアート・バクスター監督に就任。高木也、森保一前川和也といった日本代表選手が在籍し、欧州の最先端の戦術を取り入れ、欧州から外国人を獲得する独自の強化方針を採用するが、当初は引退コーチをしていたヤン・ヨンソン、松田浩、望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄かった。

1994年Jリーグで初めて風間森保一ダブルボランチを採用したことで中盤がコンパクトになり、バクスターすゾーナルな守備が機するようになる。さらに、元チェコスロバキア代表のイワン・ハシェックの活躍もあり、ファーストステージ優勝を果たす。しかし、チャンピオンシップヴェルディ川崎に敗れ、Jリーグ年間王者には届かなかった。

1990年代後半

1995年よりバクスターに見切りを付け、オランダ人のビム・ヤンセンを監督に招聘。システマチックサッカーからオランダ式のトータルフットボールそうとするが、これが選手に浸透せず、チームは低迷。さらにこれまでのが次々とチームを去り、結局ヤンセンは1996年に退任。チーム革は失敗に終わる。

追い打ちをかけるかのように、Jリーグバブルが崩壊しチームは観客動員の低下に苦しめられることになる。会社のマツダも不況によって経営の建て直しを図っていたこともあり、1997年末にはクラブの経営難が深刻なもとなっていく。クラブ選手に大幅な減俸を提示せざるを得なくなり、結果として高木保、本啓成、路木次といった中心選手を流出することになってしまう。

このような厳しい逆の中、1997年から監督を務めるエディトムソンは堅守速攻のスタイルチーム確立させ、一時はJ2降格が現実を帯びるほど低迷していたチーム1999年には何とか安定した順位へと引き上げてみせる。高木に代わる新たなエースとして久保竜彦覚醒するようになり、上村健一ポポヴィッチ、フォックスによる3バックは当時Jリーグでも屈の堅さを誇っていた。この年、天皇杯では決勝で名古屋グランパスに敗れたものの準優勝と健闘する。

2000年代の2度のJ2降格とミシャ式の確立

2001年に4年もの間チームを率いたトムソンからヴァレリー・ニポムニシ監督が交代。攻撃的なサッカーを標榜するヴァレリのもと久保藤本悦、コリカ、大木勉を擁する攻撃リーグでも屈の破壊を見せるようになる。さらには下部組織出身の駒野友一、森崎兄弟ブレイクし、戦術が浸透するようになった2ndステージは3位と躍進を遂げる。これからと期待された矢先にヴァレリーが突然辞任してしまう。

2002年にヴァレリーの推薦もあって同じロシア人のガジ・ガジエフが監督に就任するが、戦術が定まらないバラバラな戦い方でチームは迷走。加えて開幕直後にDFリーダー上村が大怪を負ったことにより守備が不安定になり、連戦連敗を重ねてしまう。シーズン途中に監督交代に踏み切ったが、後任を任された木村孝洋は監督の経験がく、歯車の狂ったチームを立て直すには荷が重すぎた。結果、この年にJ2降格が決まるという最悪のシーズンとなってしまう。しかも代表クラス久保藤本J1チームに新地をめ、上村ベテラン勢はリストラとなる。

初めてJ2を戦うこととなった2003年小野剛が監督に就任。若手体に大きくシフトしたとはいえ、J1クラスの戦える容で挑み、シーズン前半戦は圧倒的な強さで首位を独走する。後半戦に入ると、勝ち切れない試合が続き失速するも、終盤に巻き返しに成功。1年でJ1に復帰する。

J1に復帰してからは新たに佐藤寿人エースとして定着するようになり、堅守をベースにしたスタイルで中位に定着するようになる。だが、2006年の前半に低迷し、小野監督は辞任。低迷するチームの再建を託され、ミシャことミハイロ・ペトロヴィッチが6月監督に就任。ミシャは可変式の3-4-2-1を採用し、DFラインからのビルドアップを重視する当時の日本では異例なスタイルJ1残留に成功する。しかし、翌年は補強がうまくいかなったこともあって守備が崩壊、リーグワーストの71失点を記録してしまう。ナビスコカップ天皇杯では準優勝と健闘したものの、京都サンガF.C.との入れ替え戦に敗れ、二度となるJ2降格という地獄に突き落とされる。しかし、クラブ側はミシャの手腕を高く評価し、J2降格チームとしては異例となる監督留任を決断。この決定が後のチームのV字回復に繋がるのだった。

5年ぶりにJ2で戦うこととなった2008年だったが、佐藤寿人の大半が残留したことで戦を維持。3月ゼロックス・スーパーカップではJ2クラブによる優勝を成し遂げる。この年のJ2リーグでは、他チームトラウマになるレベルの強さを発揮し、史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チームの「勝ち点100」を達成。またも1年でJ1に返り咲く。

2009年J1に復帰して以降は、青山敏弘柏木陽介、萩洋次郎森脇良太、槙野智章といった若手が台頭し、いわゆる「ミシャ」が確立されていく。エル・ミキッチら安価で獲得できる東ヨーロッパ出身の選手を補強し、システマチックサッカーJ1でも異を放つようになる。ただし、選手にかなりの運動量をめることもあって場に失速する傾向があり、攻撃はともかく失点の多さがネックとなってタイトルにまでは届かなかった。それでもJ2チームを熟成させJ1に復帰し以降の躍進は、チーム作りの好例として評価された。一方、チームの財政難はなかなか好転せず、2011年を最後に高年俸となったミシャとの契約更新が難しくなり、浦和レッズへ引き抜かれる形になってしまう。なお、槇野や森脇を中心としたゴールパフォーマンス話題になったのもこの頃からである。

黄金期の到来

2012年クラブOBの森保一監督に就任。保は「ミシャ式」を踏襲しながらも、守備の善に着手し、チームに安定感をもたらす。結果、ベガルタ仙台との首位争いを制し、悲願のJ1リーグ戦初優勝を果たした9月15日の首位対決勝利を収め首位に立つと、終盤勝ち切れない試合が続いたものの、11月24日ホームC大阪を4-1で下し、オリジナル10としては最も遅い3大タイトルの1つを獲得とした。1ステージ制となった2005年以降で、最終節を待たずに優勝を決めたのは10年の名古屋以来2クラブ。また、西日本クラブが年間王者となったのは05年のG大阪に次いで2クラブとなった。なお、この試合での観客数は32,724人であり、3万人以上を動員したのは実に18年ぶりの事である。12月にはCWCに開催として初出場し、初戦のオークランド・シティに1-0で勝利。準々決勝でアルハリに1-2で敗れたものの、5位決定戦でアジア王者の蔚山(韓国)に3-2で勝利し、世界5位となった。

2013年浦和レッズへ移籍した森脇良太以外はほぼ昨年度のメンバーで臨むシーズン2月23日に行われたゼロックス杯で柏レイソルを1-0で下し、5年ぶり2度優勝2013年タイトルを獲得した。さらに12月7日の最終節、鹿島アントラーズを2-0で下し、1位であった横浜Fマリノス川崎フロンターレ敗北した為、二年連続優勝を果たした

2015年シャドーポジションで連覇を支えた高萩洋次郎石原直樹の二人がって退団し、前評判は非常に低かった。しかしレンタルで獲得したドウグラスボランチからシャドーコンバートされた柴崎が前任者のを埋めて余りある大活躍。さらに後半15分前後に佐藤寿人から浅野拓磨バトンタッチして相手に止めを刺すという必殺パターン確立し、1stステージで3位という好成績を残す。
 2ndステージでもその勢いは止まらず、第3節でそれまで敗だった浦和レッズを敵地で撃破、第16節ではガンバ大阪勝、最終節は湘南ベルマーレを5-0の圧勝で下して、見事年間1位2ndステージ優勝の座を獲得。さらにはチャンピオンシップ決勝でも後半アディショナルタイムに劇的な逆転劇を演じるなど、圧巻の勝負強さで3度の年間王者となり、この年のFIFAクラブワールドカップCWC)への挑戦権を得ることになった。
 CWCでは、初戦のオークランド戦で野津田柴崎が負傷交代するという事態に陥り、この二人を欠いたまま、かつ2二日の試合の連続という過酷な状況に置かれながらも、アフリカ王者マゼンベを撃破、南米王者リーベル・プレートに惜敗、アジア王者広州恒大に逆転勝ち。リーグ戦で出番の少なかった若手を何人も起用しつつ、世界3位という見事な成績を残した。

黄金期終焉後

2016年チームトップスコアラーリーグ優勝CWC3位の立役者ドウグラスを失う事になった中で天皇杯優勝G大阪ゼロックススーパーカップシーズン初戦を迎えてタイトルを獲得。
しかし、リーグ戦より一足先に開幕したACLは初戦ホーム山東魯から開幕(川崎)戦を含めて公式三連敗と1stステージ第2節(名古屋戦)で佐藤J1通算最多得点単独トップ(当時)となる158ゴール記録するものの1-1のドロー、第3節(湘南戦)も引き分けとなり5試合勝ちなし。これにより開幕前「2チーム分の戦」とリーグ戦、ACL戦略が序盤から頓挫する形となった。
その後ACL第3戦で初勝利すると1stステージ第4節(大宮戦)では5-1と攻撃爆発してリーグ戦初勝利を挙げた。しかし、試合終了間際に佐々木が右膝前十字靭帯断裂でシーズン中の復帰が難しい重傷を負ったのを皮切りに浅野3月31日に右腸筋損傷で全治3週間、更に6月には佐々木ポジションに入っていた水本が右第3中足骨折で全治2かに故障者が続出。加えて、野津田新潟4月1日期限付きで移籍させておりシーズン序盤で選手層に問題を抱える事態となった。新加入のウタカが々にチームフィット得点王争いもする大きな連敗こそなかったものの最大2連勝止まりといまいち波に乗れず結局4位で1ステージを終えた。一方ACL保就任後ACLウェイ勝利ブリラムから挙げたもののアウェイでの山東魯戦は、好調だった外国人選手を一切使わずに落としてしまい1戦を残してグループステージ敗退。
2ndステージは、開幕戦で磐田を3-0と一蹴したが、1stステージに引き続き波に乗れない状態であった。そんな中予てより海外移籍の噂があった浅野アーセナル全移籍との発表。7月17日2ndステージ第4節横浜戦を最後に立った。その後も多くの選手が期限・全問わず移籍やリオデジャネイロ五輪オーバーエイでの選出最後は連勝したものの結局2ndステージは10位で終えた。
個人ではウタカが19得点得点王(レアンドロと同点)、塩谷が3年連続でベストイレブンチームとして5年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞した甲斐もなく年間勝点順位は6位となった。カップ戦は、ルヴァンカップ天皇杯ともにベスト8で敗退しシーズンを終えた。

2017年は前シーズンをもって森崎引退佐藤ウタカらが退団した一方、フェリペ・シウバ工藤壮人らが全移籍で加入した。また、ロペスの期限付き移籍期間を延長した。
攻撃の不調で開幕から出遅れ降格圏に沈んだチーム7月保の退任を発表、クラブOBのヤン・ヨンソンに交代した。パトリック丹羽大を補強し、ペトロビッチ保体制下で継続してきたフォーメーションと決別したチームは持ち直し、ホーム終戦となった第33節で残留を確定させた。最終順位は15位。

2018年福浩が監督に就任。シーズン前半戦は驚きの大躍進を遂げ、9試合で8勝1分というロケットスタートを切り、一時は首位を独走する。しかし、ワールドカップによる中断期間明けに大きく失速。パトリックの不調によって得点不足に悩まされ、6連敗、最後の6試合勝利なしという内容で何とか2位は維持したが後味の悪いシーズンとなる。

その後も大きく低迷はしないものの、上位に食い込むには物足りないというシーズンを続きリーグでは中位が定位置となっていた。一方、大迫敬介、森島川辺駿荒木隼人といった若手が台頭し、若返りに成功していた。2021年天皇杯ではアマチュアおこしやす京都ACに1-5と大敗するという大失態を犯し、その後も調子が上がらなかったことで4年間続いた福政権はシーズン途中で終了となる。

2022年ボルシア・ドルトムントバイヤー・レヴァークーゼン監督を務めた経歴のあるミヒャエル・スキッベが監督に就任。コロナの関係で来日が遅れたスキッベだったが、モダンスタイルチーム作りをすぐに浸透させると、リーグ戦ではACL圏の3位でフィニッシュする躍進を遂げる。さらに、2つのカップ戦でいずれも決勝進出を果たしていた。
天皇杯では、J2リーグヴァンフォーレ甲府との対戦となるが、前半に先制されながら後半40分に同点に追いついたものの、PK戦で敗れ、準優勝に終わる。
変則日程によって天皇杯優勝のわずか1週間後となったルヴァンカップ決勝ではセレッソ大阪と対戦。またも前半に先制されるが、途中出場のピエロス・ソティリウの2ゴールの活躍によって逆転勝利天皇杯での悔しさをらし、7年ぶりのタイトルとなる初優勝を果たす

スキッベ体制2年2023年キーマンである満田の負傷離脱がき、得点不足に苦しむチームは順位を低下。さらに森島も移籍してしまい窮地に立たされる。しかし、ユー卒業以来の復帰を果たした加藤次郎調子を上げてきたマルコス・ジュニオールの活躍、さらに満田ら怪人の復帰によって前年に見せたクオリティを取り戻し、8月以降のリーグ戦では8勝3分2敗の好成績を残し、最終節で浦和レッズを逆転して3位に浮上。翌年から新設されるACL2の出場権を獲得する。

2024年シーズンより新スタジアムのエディオンピースウイング広島ホームスタジアムとして使用。

主なタイトル

国内タイトル

個人タイトル

現在の所属選手

背番号 Pos. 選手名 生年 加入年 前所属 備考
- 監督 ミヒャエル・スキッベ 1965.8.4 2022 アルアインFC 監督
1 GK 大迫敬介 1999.7.28 2018 サンフレッチェ広島ユー 【H】
3 DF 山崎大地 2001.1.8 2022 順天堂大学 【H】
4 DF 荒木隼人 1996.9.6 2018 関西大学 【H】
5 MF 松本大弥 2000.8.10 2019 ツエーゲン金沢 【H】
6 MF 青山敏弘 1986.2.22 2004 作陽高校 【H】
7 MF 津田岳人 1994.6.6 2013 ヴァンフォーレ甲府 【H】
8 MF 川村 1999.8.28 2018 愛媛FC 【H】
9 FW ドウグラス・ヴィエイラ 1987.11.12 2019 東京ヴェルディ
10 MF マルコス・ジュニオール 1993.1.19 2023 横浜F・マリノス
11 FW 満田 1999.7.20 2022 流通経済大学 【H】
14 MF 松本泰志 1998.8.22 2017 セレッソ大阪 【H】
15 DF 中野蹴斗 2000.6.27 2023 横浜大学
16 DF 志知孝明 1993.12.27 2023 アビスパ福岡
17 MF エゼキエウ 1998.3.9 2020 ルゼイロ
18 MF 好文 1987.8.29 2014 ヴァンフォーレ甲府
19 DF 佐々木(C) 1989.10.2 2015 ヴァンフォーレ甲府
20 FW ピエロス・ソティリウ 1993.1.13 2022 PFCルドゴレツ
21 GK 田中雄大 1995.11.17 2023 ブラウブリッツ秋田
22 GK 1991.4.30 2021 ベガルタ仙台
24 MF 東俊希 2000.7.28 2018 サンフレッチェ広島ユー 【H】
25 MF 雄介 1991.7.20 2014 ジェフユナイテッド千葉 【H】
27 DF イヘア理ヘンリー 1998.6.23 2017 京都サンガF.C. 【復】【H】
32 MF 道草 2004.4.3 2023 サンフレッチェ広島ユー 【H】
33 DF 塩谷 1988.12.5 2021 アルアインFC
34 MF 細谷 2001.12.11 2024 法政大学 【卒】
35 MF 中島洋太朗 2006.4.22 2023 サンフレッチェ広島ユー 【H】
39 GK 薄井覇斗 1999.7.11 2024 松本山雅FC
40 MF 小原 2000.3.9 2023 水戸ホーリーホック 【復】
51 FW 加藤陸次 1997.8.6 2023 セレッソ大阪 【H】
77 FW 大橋 1996.7.21 2024 湘南ベルマーレ
- FW 井上 2006.8.19 2024 東急SレイエスFC 【2】
- MF 木吹翔太 2006.4.22 2024 JFAアカデミー福島 【2】

※備考欄は【】=全移籍での加入、【レ】=レンタル移籍での加入、【復】=レンタル先からの復帰、【新】=新任の監督、【昇】=トップチーム昇格、【卒】=新卒での加入、【特】=特別定選手、【2】=2種登録、【H】=ホームグロウン選手

過去に所属したおもな選手

歴代監督

監督 在任期間 備考
スチュアート・バクスター 1992年1994年 Jリーグ1stステージ優勝(1994)
ビム・ヤンセン 1995年1996年
エディトムソン 1997年2000年
ヴァレリー・ニポムニシ 2001年
ガジ・ガジエフ 2002年2002年7月
木村孝洋 2002年7月12月 J2降格(2002)
小野 2002年12月2006年4月 J1昇格(2003)
望月一頼 2006年4月6月 暫定監督
ハイロ・ペトロヴィッチ 2006年6月2011年 J2降格(2007年)
J2優勝J1昇格(2008年)
森保一 2012年2017年7月 J1優勝(201220132015)
ヤン・ヨンソン 2017年7月12月
福浩 2018年2021年10月
沢田太郎 2021年10月12月
ミヒャエル・スキッベ 2022年 ルヴァンカップ優勝(2022)

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68 ななしのよっしん
2018/02/20(火) 16:31:45 ID: 9DNzWaiz1a
>>66
ミスった しっかり残ったからセーフ
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69 ななしのよっしん
2018/02/24(土) 20:27:35 ID: ciHxshXz0e
ティーシンいきなり結果を出すとは
タイ英雄異名伊達ではなかったか
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70 ななしのよっしん
2018/11/03(土) 23:14:23 ID: I2jS4CcWNJ
ここ数試合で順当に失速して下位クラブ相手にに勝ち点3を配ってるのも生えない
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71 ななしのよっしん
2019/05/14(火) 16:31:15 ID: S2H40eAYKJ
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72 ななしのよっしん
2019/12/26(木) 10:41:26 ID: ZzLsYJ/NPB
あれは・・・カープ
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73 ななしのよっしん
2019/12/26(木) 11:19:20 ID: KudkoY3jql
サッカーファンってさすがに民度低いよね。こんなこと世界レベルに合わせる必要ないのよ?
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74 ななしのよっしん
2022/07/13(水) 22:59:16 ID: ggtf0L3vbo
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75 ななしのよっしん
2023/05/10(水) 22:30:43 ID: ciHxshXz0e
満田離脱は痛すぎるだろ
福岡もウチの期待のに余計な事しくさってからに
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76 ななしのよっしん
2023/07/02(日) 04:56:52 ID: taanmqXf53
満田がアビスパ小田に破壊されてからチームの勢いが全に死んだな
他の若手が不甲斐ないのはあるけどやっぱつらいし許せんわ
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77 ななしのよっしん
2023/08/15(火) 01:41:43 ID: taanmqXf53
加藤がいきなり得点を挙げ、満田も帰ってきて浦和を撃破は上々過ぎる
次は丁度上の位置にいる福岡を引きずり下ろすためにこれ以上順位を下げない事だな
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