サーサーン朝とは、226年から651年にかけて現在のイランを中心として存在した国家。ササン朝ペルシア、ササン朝ペルシャなどとも。
概要
首都はクテシフォン、公用語はパフラヴィー語(中世ペルシア語/中期ペルシア語)。
イスラム化する以前の最後のペルシャ帝国であり、ササンの子孫を名乗るアルダシール1世の手により建国。651年にカリフ時代のイスラームに倒されるまで約400年続いた。
建国の父アルダシール1世
紀元前4世紀にイラン高原を支配していたアケメネス朝ペルシャがアレキサンダー大王によって滅ぼされ、大王の死後は彼の将軍(ディアドゴイ)の一人であったセレウコス1世がこの地にセレウコス朝シリアを建国した。この国はイラン文化の影響を受けてはいたが、所詮は故郷マケドニアの文化を守る者達が統治するヘレニズム(ギリシャ)の国であった。住民からしたらこの王朝はよそ者であった。ペルシャ人はペルシャ人の手による国家を待ち望んでいたのだ。
紀元前2世紀半ばにはペルシャ人がセレウコス朝の土地を侵略し、遊牧民族がアルサケス朝パルティアを建設した。それから500年後、パールス地方の領主バーバクの子、アルダシール1世がパルティアを破り、自らの先祖の名にちなんだサーサーン朝ペルシャを建国した。以後、パルティアの領土全域を征服し、その領土を受け継ぐこととなる。彼は自らの系譜をアケメネス朝や、神話時代の伝説的王朝カヤーニー朝に連なるものだと喧伝し、王朝の正当性を誇示した。サーサーン朝は中近東で覇権国家となったが、後期ローマ帝国と領土を接していたため、以後王朝の滅亡まで断続的に争いを続けることとなる。
サーサーン朝の第一の義務はかつてのイラン文化の復興にあった。だが実際に生まれたものはアケメネス朝のそれとも違う、ヘレニズム文化と古代ペルシャ文化が融合した全く新しいものであった。サーサーン朝では、アケメネス朝で信仰されていたゾロアスター教はもちろん、ユダヤ教やキリスト教、マニ教、その他少数民族も尊重されており、歴代皇帝の中にはユダヤ教徒やキリスト教徒の女性と結婚したものもあった。一方でインドや唐王朝とも交流を結び、ペルシャ文化の商品は重要な交易物として珍重された。
アルダシール1世の治世化には3つの重要な動きがあった。国家の中央集権化と、ゾロアスター教の国教化と、後期ローマ帝国との戦争である。数々の困難を超えて進められた中央集権化によって、それまで諸王国連合にすぎなかったペルシャが帝国として強い力を持つようになった。また民間の信仰であったゾロアスター教を行政や国家権力と結びつけ、国家の安定を図った。他方、アルダシールが始めたメソポタミアとアルメニアの地を巡るローマ帝国との戦いは息子の代に受け継がれることとなる。
歴代の皇帝たち
アルダシール1世の子、シャープール1世の治世では、イランの地固めとローマとの戦争が続けられた。シャープールはローマ皇帝ゴルディアヌス3世を戦死させ、続くピリップス・アラブスにはアルメニアの地の割譲を認めさせた。これはピリップスがローマでの地位を守るためだったとされる。この妥協をローマの弱体化とみたシャープールは戦争を継続し、皇帝ウァレリアヌスを捕らえて殺すまでに至った(この頃のローマ帝国は軍人皇帝時代で、皇帝がコロコロ変わる時代であった)。
また、彼の即位と前後して、マニ(マーニー)という同人作家人物が新宗教の宣教を始めた。彼はシャープール1世に(医師として)重用され、東方グノーシス主義の代表とされるマニ教は大きく勢力を伸ばす。しかし皇帝の死後はゾロアスター教祭司側からの迫害が強まり、マニは第4代皇帝バハラーム1世に投獄され殉教した。
その後、王権の弱体化があったが、9代目のシャープール2世(309~379)の時代には対外的な成功が続き領土は拡大した。またゾロアスター教の国教としての制度を整えられた。このシャープール2世は何と母の胎内にいるうちから皇帝位を受けつぐという奇妙な君主であった。彼の父王が暗殺された後に権力を握った貴族たちがササン朝の王冠をシャプール2世の母親のお腹の上に乗せたという。70歳という長寿まで生きたシャプールの治世は古今東西を省みてもトップクラスの長さである。 → 治世の長い君主の一覧も参照
5世紀頃から、東方からエフタルの侵攻が始まり、王位にまで干渉されるようになっていたが、ホスロー1世の時代に西突厥と結んで、これを挟撃し、最終的にはエフタルを滅亡させるに至る。サーサーン朝ペルシャ歴代皇帝の中で最も有名なホスロー1世の時代でこの王朝は最盛期を迎える。
21代皇帝ホスロー1世(501~579)は行政と軍事、また文化の面で高い業績を残した。彼が行った改革によりサーサーン朝の寿命は100年伸びたと言われる。まずホスローは、広大な領土と住民への徴税権、一方で自らへの免税権を持っていたGrandees やWuzurgansという貴族たちの特権を廃止し、王権を強めた。この構造改革によって国家は安定した税収を確保することができたのである。この改革は彼の父王であるカワード1世のものを受け継いだと言われている。カワードの時代に社会の低い階級から好まれたマズダク教が出現し、これが貴族の力を弱めたとされる。
また軍事の面でも改革が行われた。サーサーン朝は西にローマ帝国、東にフン族、南にアラブと四方八方を敵に囲まれていた。そのため王朝軍には迅速な行動が求められていたのだ。ホスローは軍隊を四つにわけ、それぞれを将軍に指揮させた。四方の中でもローマとの戦争は帝国の悩みのタネであったが、ローマがこの時代にゲルマン民族の侵入の方に力を注ぎ始めたのはホスローにとっては好都合であった。上述した通りエフタルも滅ぼし、アラビア半島沿岸にも入植するなどして、アラビア半島南部にまで影響力を持った。
だがホスローの業績の中でも特筆すべきは文化面である。ホスローは神殿組織の再編成を行い、ジュンディーシャープールの地に学園を建てた。ここではギリシャやエジプトから亡命してきた学者たちが保護され、また人だけではなく近隣諸国からありとあらゆる文献が集められた。ギリシャの哲学書やイランの宗教書、果てはインドの本までがこの学園に集まった。これらの書籍は中世ペルシャ語だけでなくギリシャ語やその他言語に翻訳され、学園は世界でも稀に見る知識の集合地となった。ここで編纂されたこの学術知識は後にイスラーム帝国に受け継がれ、やがてヨーロッパ文化へと逆輸入することとなった。
滅亡
7世紀に入り東ローマ帝国でヘラクレイオス1世が即位すると、時の皇帝ホスロー2世はシリアやエジプト、アナトリアを制圧し、更には東ローマの首都コンスタンティノープルまで包囲するに至った。ヘラクレイオス1世は占領地を逃れ、黒海から直接メソポタミアに向けて進撃を試みた。メソポタミアに入ったヘラクレイオス1世にサーサーン朝はニネヴェの戦いで敗北し、クテシフォン近郊まで迫られたことで、長年の厭戦感情が爆発して首都では叛乱が起きた。時を同じくして起きたティグリス川の氾濫により南部メソポタミアの灌漑システムが破壊され国力を消耗、更には疫病の流行もあり、王朝は乱れた。
サーサーン朝最後の皇帝ヤズデギルド3世(624~651)はわずか8歳のときに皇帝位を受け継いだ。帝国の混乱のため首都クテシフォンではなくパールサでの戴冠であった。この頃、アラビアでは新興勢力のイスラーム教が勃興しており、イスラーム共同体は633年にイラクへと侵攻した。その侵略に対抗するために彼は国内を東奔西走して兵力を集めなければいけなかった。だがその奮闘も虚しく、イエメン、オマーン、バーレンを失い、続けて従属国のヒーラも奪われアラブとの間にあった緩衝国家をも無くした。633年にはイスラーム軍にザート・アッ・サラースィルの戦いで負け、その後もサーサーン軍は連戦連敗であった。634年までに南イラクのサワドがイスラーム勢力の手に落ち、続けて南メソポタミアも失くした。カーディシーヤの戦いでは大将ロスタム・ファルロフザードをはじめ多くの将軍が敗死した。
皇帝は首都クテシフォンを捨て最後の反撃を試みるもニハーヴァンドの戦いで負け、東へ逃亡する他なかった。様々な王朝を頼ったが助力を断られ最終的に皇帝は暗殺され王朝は実質的に滅んだ。王朝は滅んだものの他民族共生を掲げるイスラームの社会の中でペルシャ人の文化は生き延びやがてムスリムの世界と混じり合っていった。
関連項目
参考資料
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