ザクセン州ないしザクセン自由州(Freistaat Sachsen)とは、ドイツ連邦共和国を構成する16連邦州のひとつである。ドイツ東部に位置する。
概要
ザクセン州は、ドイツの東部、かつてのザクセン王国の領域と主たる領域とする州である。かつて東ドイツ(ドイツ民主共和国;DDR)の領域に創設された「新連邦州」のひとつ。
ザクセン州は、その南西をバイエルン州と、西をテューリンゲン州と、北西をザクセン=アンハルト州と、北はブランデンブルク州と接しているほか、東はポーランドと、南はチェコとの国境を成している。
州都ドレスデンは、かつてザクセン王国時代に壮麗な建築物が次々と建てられたが、第二次世界大戦で壊滅的な爆撃を受けた。一部の建物はそのまま廃墟として保存されていたが、近年再建が進められ、往時の姿を取り戻している。また、エルベ渓谷の自然美も見逃せない。
主要都市
人口10万人を超える都市は次のとおりである(2012年現在、人口の多い順に配列)。
- ドレスデン (Dresden) : 約53万人、ドイツ第11位、州都
- ライプツィヒ (Leipzig) : 約52万人、ドイツ第12位
- ケムニッツ (Chemnitz) : 約24万人、ドイツ第28位
この外にも、白磁の生産で世界的に知られるマイセン(Meißen)、州南部に広がるエルツ山地(Erzgebirge)に位置するおもちゃ作りで知られるザイフェン(Seiffen)などの中小規模の都市がある。
世界遺産
ザクセン州の歴史
ザクセン人
ゲルマン民族の一部族にザクセン人がいる。
このザクセン人は現在のニーダーザクセン州(低地のザクセンという意味)に住んでいて、一部は海を渡り
イギリスに移住してアングル人と合流した。これがアングロサクソンの語源である。
この言葉は英国人を表す言葉として現在も使われている。
大陸に残ったザクセン人は西からのフランク人の圧迫を受け、東へ逃げることになった。
南東へ延びるエルベ川をたどり、山深いエルツ山地の麓に移住した。ここが現在のザクセン州だった。
Google地図で見るとよく分かる。ニーダーザクセン州から、ザクセン州
へ移動していった。
ザクセン選帝侯
1356年、神聖ローマ皇帝カール4世が金印勅書を出し、7つの選帝侯(皇帝を選挙する貴族)が決まった。
このうち1つがザクセン公爵に与えられザクセン選帝侯となり、これが現在のザクセン州の原型となる。
ライプツィヒの発展とザクセン選帝侯の富裕化
ライプツィヒは東西・南北の道路の十字路に当たる場所で、ヨーロッパの中でも屈指の商都になった。
(詳しくは個別記事を参照→ライプツィヒ)その商業的利益がザクセン選帝侯の経済力の源泉となった。
ザクセン選帝侯の財力を示すエピソードは多い。
特に有名なのがフリードリヒ・アウグスト1世(1670年生まれ~1733年没)で、この人は財力を駆使して
ポーランドの国王位を金で買い、ポーランド王アウグスト2世と名乗っている。
またこの人は金に物言わせてドレスデンにツヴィンガー宮殿を建て、そこにはライプツィヒで買いあさった
日本・中国の磁器をずらっと並べていたような人である。ザクセン選帝侯の羽振りの良さがよく分かる。
プロイセン王国との争いに敗れ、ドイツの天下を取れなかった
1805年頃にフランスからナポレオンが軍事侵攻してきてドイツの諸国は敗れ、神聖ローマ帝国は解体、
「選帝侯」という身分は無くなった。その代わりにできたのは王国だった。ザクセン地方にも
「ザクセン王国」というものができた。
ザクセン王国は引き続き経済が絶好調でお金持ちだったが、そういう地方は、総じて軍事的に弱い。
ザクセン王国も同様で、貧乏なプロイセン王国が目の色変えて富国強兵に乗り出しているころも
わりとのんびりしていた。ナポレオン時代を通じてフランスに味方したが、これを理由にして
プロイセン王国の猛攻撃を受け、領土を奪われてしまった。
1866年の普墺戦争(プロイセン王国と南方のオーストリアの戦争)のときもオーストリアに味方して、
精強なプロイセン王国軍に猛攻撃されあっさり降伏、そのままプロイセン王国の属国となった。
ドイツを統一したのはプロイセン王国となり、ザクセン王国との違いが際立った。
貧乏で軍隊が強いプロイセン、裕福で軍隊が弱いザクセンという対照的な形となった。
共産圏に組み込まれる
1945年の第二次世界大戦敗北の結果、ザクセン州を含むドイツ東側はソ連に占領され、共産圏になった。
ザクセン州は工業化が進んでおり、特にドレスデンにはイハゲーというカメラメーカーがあった。
またザクセン州の隣のテューリンゲン州のイェーナにはカール・ツァイスというカメラメーカーがあり、
こうした名門が共産主義の手に落ちて西側諸国のカメラ産業は大打撃を受けた。
ザクセン地方は東ドイツ最大の工業地帯だったが、共産主義らしく環境配慮を全く欠いていた。
1990年の東西ドイツ統一のあとに西ドイツの人が調査したところ、環境汚染の酷さに絶句したという。
旧西ドイツに人材を吸われる
1990年の東西ドイツ統一のあとは住民の多くがザクセン州から逃げ出し、ドイツ西部に移住していった。
現在でもまだ人口減少が止まっていない。ドイツ連邦政府は旧東ドイツへの企業投資を奨励しているが、
まだ効果は今ひとつである。
ザクセン州も経済振興公社を設立し、日本語のこのページを作り、日本企業の進出を誘っている。
関連リンク
関連項目
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