シアトルスルー(Seattle Slew)とは、1974年産のアメリカの元競走馬・種牡馬である。
1977年にアメリカ三冠を達成、種牡馬としても巨大な勢力を創り上げるなど、20世紀後半のアメリカでは屈指の影響力を持つ馬と言える。
馬名の由来は二組の夫妻が共有していたことから、それぞれにゆかりのある土地シアトル、フロリダの湿地帯スルーの名前を組み合わせたものである。
20世紀のアメリカ名馬100選第8位。
概要
後に栄光に彩られるシアトルスルーだが、ケンタッキーの零細牧場でひっそりと生まれていた。
父のボールドリーズニングはシアトルスルーが初年度産駒だったが、この少し後に種付け中牝馬に蹴飛ばされそれが元で死亡するというなんともトホホな馬で、種付け料はなんと14万円。安い。これがどうやら配合された決め手だったらしい。
しかし、母は直近の世代こそ地味であるが、遡れば一大牝系の祖に突き当たり、後にさらにGⅠ馬を生むマイチャーマーという名牝であった。当時はまだ見出されちゃいなかったが。
そういう環境で生まれた彼は、セリに出されたのだが、良い血統や馬体を誇る馬が出られるセレクションセールからはお断りされ、安馬御用達の一般セリに回ることとなった。
なんせ馬体は曾祖父のボールドルーラーに似て大きいのだが、右後脚が外にひん曲がり、顔がやたらデカく、尻尾はポニーのごとく短いアンバランスさ加減。牧場でついたあだ名が醜いアヒルの子。ひどい。
そんな彼も一応ちゃんと落札希望額以上の金額で落札され、二組の夫妻の共同所有馬となった。
シアトルスルーにはもう1つ名前の候補があって、それはビッグジョンテイラーだった。さすがにそれはどうかと思うのでシアトルスルーに決まってよかったといえる。
しかし実際に調教してみると、6ハロンを1:10.2と2歳馬の夏ということを考えなくても目を疑うタイムを出し、レースに出ればいつでも勝てるレベルになっていた。そのときに足をひねってしまったのでデビューは9月とやや遅れた。
実際に競争に下ろすとやはり強い。猛烈に強い。デビューから3連勝。3戦目は当時最も格の高い2歳GⅠシャンペンステークスだったが10馬身ぶっちぎり逃げ切り圧勝。この活躍で全米最優秀2歳馬に選定された。
誰だこいつを醜いアヒルの子なんて言った奴。大正解だよ白鳥だったよ。
3歳になっても勢いは止まらない。初戦でいきなり1400mの競馬場レコードを叩き出すとその後GⅠ2連勝。6戦無敗でケンタッキーダービーへ乗り込んだ。
そのケンタッキーダービーではスタートでゲートに頭をぶつけてしまう。Oops!しかし気を取り直してハナを奪うと1馬身3/4差つけて逃げ切る。強い。プリークネスステークスでは2番手に控え3コーナーで後続を振り切るとそのままこのレースも1馬身3/4の快勝。無敗のまま三冠最後のベルモントステークスに挑戦することになったのであった。
無敗の三冠挑戦は、8年前にザ・プリンスことマジェスティックプリンスがプリークネスステークスで負傷しながら強行出走し2着に敗れて以来の挑戦である。果たして醜いアヒルの子…もとい白鳥と化したシアトルスルーにそれが出来るのか?
結果から言うと出来ちゃった。しかも4馬身差と一番楽にぶっちぎって圧勝。白鳥どころかなんか鵺とかキマイラの類だったようだ。無敗の三冠馬はアメリカ競馬史上初の快挙である。なお、その後の無敗の三冠馬の登場は41年後のジャスティファイまで待つことになる。
ちなみに一般セリ市出身の三冠馬は彼のみである。アメリカンドリームなんてのは競馬にはそうそう無いようだ。現実は厳しい。
しかしアメリカ三冠は詰まったローテになるためさすがに疲れ切っていた。調教師は夏休みを提案したが馬主サイドは西海岸に持って行くんだ!自慢したいし!ということでハリウッドパークのGⅠスワップスステークスに向かったがなんと4着惨敗。連勝は9で止まってしまう。
このあと調教師との確執が深まり転厩するが、その転厩先で謎の高熱を出しシーズン後半を棒に振ってしまった。因果応報なのだろうか。いやシアトルスルーには何の罪もないが。
4歳の5月にようやく復帰し一般競争を勝つがまた三ヶ月休みで春夏を棒に振り、本格復帰したのは8月。再び一般競争を圧勝、さらに叩きとして9月のGⅡを2着し、マールボロカップハンデへ向かう。ここには1978年の三冠馬にして、現在最後の三冠馬アファームドも出走してきていた。まさに一騎打ち。
どっこい、シアトルスルーは軽くひねる。3馬身差つけて。しかし競馬ファンは冷めたもんだった。「強いのはわかるが強いだけで面白みがねぇ」ってな意見ばかりであった。
強くて何が悪い?って話だが、日本でもテイエムオペラオーがこういう風に言われていたのを見ると、ただただ勝つだけじゃ人気にはなりにくいのかも知れない。
そして次走のGⅠもまた圧勝し、当時秋の最大目標と言えたジョッキークラブゴールドカップを迎えた。再戦とは言え前走で格の違いを見せつけたアファームドと、前走で破った欧州から移籍してきた一流馬エクセラーとその他三頭。正直、またただ勝つだけの簡単なお仕事…のはずだった。
ゲートが開く前に飛び出す愛嬌を見せたがアクシデントはあったものの気を取り直してスタートが切られるとアファームドと他一頭が飛び出す。シアトルスルーは逃げ体勢に入りたかったがアファームドともう一頭は退くつもりはない。
ならばぶっ飛ばすまでだ!とばかりに超ハイペースでぶっ飛ばすシアトルスルー。他一頭が向こう正面で力尽き後退していく。
アファームドも必死で食らいつく。三冠馬の意地である。しかし3コーナーあたりですでに離されつつあった。シアトルスルーはホッとしたのか、息を入れて直線に備えようとした。その刹那である。
後方にいたエクセラーが猛烈な捲りを仕掛け、息を入れようと力を抜いたシアトルスルーに襲いかかる。その煽りでアファームドは鞍がズレて万事休す。沈没して行く。 慌てて追い出すシアトルスルーだったが、
やはり余力はエクセラーの方があったようで、エクセラーが抜け出す。三冠馬二頭を負かしての金星か!と思われたが
ゴール前、再びシアトルスルーが肉薄する。観客騒然。しかしハナ差エクセラーが残し切り勝利、エクセラー大金星ゲット。
しかし、シアトルスルーも負けてなお凄まじいインパクトを残し、名声を高めた。人生万事塞翁が馬である。
その後、GⅢを1戦しもちろん快勝。引退、種牡馬入りした。通算成績17戦14勝。十分立派だが、やはり3歳の時の熱病がちょっと悔やまれる気はする。
母マイチャーマーと弟たち
余談になるが、シアトルスルーの大活躍で大牧場へ栄転し大種牡馬と言われる種牡馬を付けられ始めた母マイチャーマーは、ノーザンダンサーとの間にイギリスのクラシック2000ギニーを勝ったロモンドを輩出しさらに人気が高騰。
ニジンスキーとの間に生まれた牡馬シアトルダンサーは1985年のセリでなんと1310万ドル(約31億円!) で落札され、世界の度肝をぶち抜いた。
兄シアトルスルーの落札額1万7500ドルの数百倍なのはもちろんだが、高額の金が動く種牡馬入りの際のシンジケートの金額としても、
1000万ドルオーバーは血統がいいのはもちろん実績も相当挙げないとつかない金額である。参考までに1986年の最強馬ダンシングブレーヴのシンジケートが日本円に換算すると総額約33億円である。すげぇ。
ところがこのシアトルダンサー、競走馬としては5戦2勝で引退となってしまう。稼いだ賞金がたったの16万ドル。ガッカリ。
まあ、競争で1000万ドル以上稼ぐとかゲームですら難しい話、当時はドバイワールドカップみたいな高額賞金レースはブリーダーズカップクラシックくらいしかないからなおのこと回収は難しく、無事に走ってGⅠたくさんとっても2割に行かないだろう。
ということで本番は種牡馬としてだ!…と思ったら、代表産駒欄に当時ローカルGⅠでしかないNHKマイルカップを勝ったタイキフォーチュンが筆頭格で名前を連ねる有様。つまり1310万ドル(約31億円)は無駄になったということである。南無。
種牡馬として
現役時代も凄いが、種牡馬としてはもっと凄い奴だった。12000万ドルのシンジケートが組まれると初年度からジョッキークラブゴールドカップなどGⅠを複数制覇したスルーオゴールドを輩出。二年目はクラシック二冠を取ったが夭折したスウェイルを出し、牝馬でも夭折したランダルースら強豪を多数輩出しており、1984年には北米リーディングサイヤーとなり種牡馬としての才能でも抜きん出たところを見せた。
その後、2000年生まれのヴィンディケーションまで息長く活躍し多数のGⅠ馬を出したが、一番重要な仔はやはり1992年産のエーピーインディであろう。
このエーピーインディ、現在のアメリカ競馬の主軸をなす種牡馬群の一つの核と言える存在であり、ミスタープロスペクターやその分枝、ストームキャット系に並ぶ第三極を形成している。
要はシアトルスルーは種牡馬としてだけでなく、種牡馬の父としても超一流だったということである。ハンパなさすぎるぞ、醜いアヒルの子。
セクレタリアトやスペクタキュラービッドらその他のボールドルーラーの子孫が牝馬にばかり活躍馬が固まったりパッとしない中、牡馬の有力後継馬を多数輩出したシアトルスルーは一躍ボールドルーラー系の救世主となった。2002年まで現役種牡馬として活躍したが、種付け中に持病が悪化し死亡した。享年28歳であった。
一旦じっくり息を入れる日本の競馬と、ひたすらバリバリぶっ飛ばす彼の系統は相性がよくないが、外国産馬として輸入された数少ない仔から、タイキブリザードとダンツシアトルという二頭のGⅠ馬やヒシナタリーやマチカネキンノホシといった重賞級を輩出した。さすがの一語。
しかしタイキブリザードとダンツシアトルは種牡馬としては成功出来なかった。輸入されたエーピーインディの息子たちもイマイチぱっとしないし、日本はやっぱり向いてないのかも知れない。
極東のライバル?
同じ年に3歳を迎えた馬として、日本のマルゼンスキーがいる。マルゼンスキーの圧倒的な走りっぷりから、もしアメリカに残っていたらシアトルスルーの三冠は難しかったかも知れないと言われることもある。
個人的にはもしアメリカに残っていたとしても、欧州志向の馬主が好んで買っていたニジンスキー直仔なのでやっぱり交差することはなかったと思う。
が、もしアメリカ三冠で出会ったとしたら…わからないが、シアトルスルーが気楽にこなしていた三冠達成が難しくなった可能性はあるかも知れない。血統的にはニジンスキーの子もアメリカダートはこなせるし。
いずれにせよ、生まれる前に彼らの道は別れたし、マルゼンスキーの直系はすでにほぼ滅亡しており子孫がアメリカ三冠で雌雄を決する機会もないため永遠の謎である。
血統表
Bold Reasoning 1968 黒鹿毛 |
Boldnesian 1963 鹿毛 |
Bold Ruler | Nasrullah |
Miss Disso | |||
Alanesian | Polynesian | ||
Alablue | |||
Reason to Earn 1963 鹿毛 |
Hail to Reason | Turn-to | |
Nothirdchance | |||
Sailing Home | Wait a Bit | ||
Marching Home | |||
My Charmer 1969 鹿毛 FNo.13-c |
Poker 1963 鹿毛 |
Round Table | Princequillo |
Knights Daughter | |||
Glamour | Nasrullah | ||
Striking | |||
Fair Charmer 1959 栗毛 |
Jet Action | Jet Pilot | |
Busher | |||
Myrtle Charm | Alsab | ||
Crepe Myrtle |
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関連項目
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