チャビエル・エルナンデス・クレウス(Xavier Hernández i Creus, 1980年1月25日 - )とは、スペインの元サッカー選手であり、サッカー指導者である。通称シャビもしくはチャビ(Xavi)。
元サッカースペイン代表。現在はFCバルセロナの監督を務めている。
ポジションはセントラルMF。利き足は右足。170cm68kg。
概要
スペイン・バルセロナ出身。FCバルセロナの黄金期を支えた世界的なプレーメーカーであり、アンドレス・イニエスタと共に歴史上最高とも言われている中盤を構成。卓越したパス能力に加え、空間認識能力や判断力も非常に優れており、時間と空間を操るプレイヤーと称されていた。
ボールポゼッションを重視するバルセロナのスタイルを体現するプレイヤーであり、11歳で入団したバルセロナには2015年まで所属。その間に4度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝、8度のラ・リーガ優勝をチームにもたらしている。
スペイン代表においても、2010年にFIFAワールドカップ優勝、2008年と2012年にEURO優勝を経験。主要国際大会3連覇という前人未踏の偉業を成し遂げた中心選手であり、クラブのみならず代表チームでも黄金期の中心選手として活躍している。2020年には史上最高のセントラルミッドフィールダーとして、歴代ベストイレブンであるバロンドール・ドリームチームに選出されている。
ちなみにバルセロナでの背番号は「6」だったが、スペイン代表ではほぼ「8」を付けていた。
2020年にはサッカー史上最高の守備的ミッドフィールダーとして、サッカー歴代ベストイレブンであるバロンドール・ドリームチームに選出。バルセロナとスペイン代表で獲得したタイトル数31はアンドレス・イニエスタに抜かれるまではスペイン人選手の最多記録であった。
キャリアの晩年はカタールのアル・サッドでプレーをし、2019年に現役を引退。すぐに監督業をスタートさせ、2021年11月より古巣であるバルセロナの監督に就任。2022-23シーズンにはバルサを4シーズンぶりのラ・リーガ優勝に導いている。
選手としての経歴
生い立ち
スペイン・カタルーニャ州バルセロナ県タラナ出身。父親のホアキン・エルナンデスも1960年から70年代にかけてカタルーニャのチームでプレーした元選手。
祖父と母は熱狂的なバルサのクレであり、2人の兄もサッカーを始めていたフットボール一家に生まれたことから必然的にサッカーに乗り込むようになった。自身も幼少期から熱狂的なバルサのファンであり、当時のアイドルはベルント・シュスターだった。
FCバルセロナ
1991年、11歳のときにFCバルセロナの下部組織(カンテラ)に入団し、ラ・マシアに入寮。トップチームを目指す仲間たちと切磋琢磨を繰り広げながら順調に成長しており、当時第一次黄金時代にあったバルサの象徴といえる選手だったジョゼップ・グアルディオラはシャビの姿を見て、「あのシャビという子は特別な選手だ。4、5年もすれば間違いなく自分のポジションを脅かす存在になるだろう」と評している。
17歳となった1997年には、FCバルセロナBに昇格。チームのキープレイヤーとして活躍し、セグンダ・ディビジオン(2部)昇格に導いている。この頃、イタリア・セリエAの強豪ACミランから獲得オファーを受けるが、家族の意向もあって断っている。
1998年プレシーズンでのプレーが認められ、ルイス・ファン・ハール監督によってトップチームに引き上げられる。8月18日のスーペル・コパ・デ・エスパーニャのマジョルカ戦で18歳にしてトップチームでのデビューを果たし、この試合でゴールも決めている。その後はバルセロナBとトップチームを行き来する日々が続くが、17試合1得点という成績を残し、トップチーム1年目でラ・リーガ優勝を経験する。
その後のバルセロナはなかなかタイトルを獲得できない暗黒期に突入。オランダ人選手を重視し、カンテラ出身の選手を冷遇することに批判を浴びたファン・ハール監督だったが、グアルディオラが負傷で長期離脱を余儀なくされたこともあってシャビを積極的に起用。次第に中盤の主力としての地位を手にするようになる。2002年3月16日のレアル・マドリードとのエル・クラシコではクラシコ初ゴールを記録。2002-2003シーズンからは背番号「6」を付けるようになる。
2003-2004シーズンにはフランク・ライカールトが監督に就任し、クラブは新たなサイクルに入る。翌シーズンには第二キャプテンに選ばれるが、FCポルトからデコが加入。前年にトップチームに昇格したイニエスタと共に中盤の激しいポジション争いの中に入るが、3人が揃ったときは魅力的な中盤を構成。このシーズンのラ・リーガ優勝に貢献し、バルサを暗黒時代から脱却させる。しかし、2005年12月2日の練習中に左膝前十字靭帯断裂の大怪我を負ってしまい、5カ月間の長期離脱を強いられる。2006年4月に復帰し、チームはラ・リーガとCLの二冠を達成したものの、本人にとっては不完全燃焼のシーズンとなった。
その後、2シーズン連続で無冠に終わり、ライカールト政権は終了。2008-2009シーズンにかつてチームメイトだったグアルディオラが監督に就任する。グアルディオラの指導によって高いボール支配を実現するメソッドを身に着けたことで世界最高峰のMFに成長。クラブ史上初となるCL、ラ・リーガ、コパ・デルレイのトレブレ達成においてもっとも重要なキープレイヤーとなる。その後もイニエスタ、セルヒオ・ブスケツと構成する中盤は圧巻のポゼッション力を発揮し、世界中に衝撃を与えるほどの存在となる。世界最高プレイヤーとして進化したリオネル・メッシにも決定的なパスを何度も送り、「バルサの心臓」として躍動。2010-2011シーズンにもラ・リーガ、CLの二冠を達成するなど、グアルディオラ政権が築いた第二次黄金時代に欠かせない存在となった。2011年のバロンドール最終候補をメッシ、イニエスタと共に独占するなど、この頃のサッカー界はバルサを中心に回っていた。このとき受賞したのはメッシだったが、シャビは「これはカンテラへの賞だ」と語り、称えている。ちなみに受賞はできなかったものの、2009年から2011年までの3年間連続でバロンドール最終候補3人に選出されている。
2012-2013シーズンには、カルレス・プジョルが現役を引退したことで正式にチームのキャプテンに選出される。しかし、2012年6月を最後にグアルディオラが退団してからのバルサは徐々にポゼッション重視のスタイルから前線の火力に依存したスタイルへとシフト。その影響でシャビの影響力も低下していく。
2014-2015シーズンはクラブのOBであるルイス・エンリケが監督に就任するが、メッシ、ネイマール、ルイス・スアレスのMSNトリオを前面に出したスタイルへと転換していき、シャビは控えに回ることが多くなる。出場機会は減ったものの、途中出場した際はポゼッションを安定させて試合をコントロールする仕事をこなし、存在感を見せる。そして、2015年5月21日に記者会見を開き、17年間を過ごしたバルセロナを退団することを表明。最後の試合となった6月6日のCL決勝のユヴェントス戦で途中出場し、クラブは二度目のトレブレを達成。キャプテンとしてビッグイヤーを掲げ、最高のシチュエーションで愛するバルサを退団する。
アル・サッド
2015年5月21日、バルセロナ退団を表明すると同時にカタール・スターズリーグのアル・サッドへ移籍することを発表する。背番号はバルサ時代と同じ「6」。加入最初の試合となったアル・ナスルとの親善試合では直接FKでゴールを決めている。
2シーズン目となった2016-2017シーズンには、自身のキャリアで2度目となるリーグ戦二桁ゴールを記録。加入後、毎年チームにタイトルをもたらし、2018-2019シーズンにはスターズリーグ優勝に貢献。リーグ制覇した2019年を最後に39歳で現役を引退している。
スペイン代表
世代別のスペイン代表にはU-17代表の頃から選出されており、1999年にはU-20スペイン代表として4月にナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権に出場。当時のチームにはイケル・カシージャスやガブリが居た。この大会で圧倒的な強さを見せたスペインの不動の司令塔として活躍し、ベスト16のアメリカ戦と準決勝のマリ戦ではゴールを決めている。決勝では、小野伸二を擁した日本を4-0で粉砕し、スペインを初優勝に導いている。
2000年9月には、U-23スペイン代表としてシドニーオリンピックに出場。初戦のU-23韓国戦でゴールを決めている。前年のワールドユース優勝を果たしたメンバーにカルレス・プジョルやダビド・アルベルダらが加わったチームは決勝へ進出。決勝では後にチームメイトとなるサミュエル・エトーを擁したU-23カメルーンと対戦し、先制ゴールを決めたもののPK戦の末に敗れ、銀メダルに終わっている。
2000年11月15日にオランダとの親善試合でスペインのフル代表にデビュー。2002 FIFAワールドカップのメンバーにも選出され、21歳でワールドカップデビューを果たす。チームでの序列は控えという立場だったが、ホセ・アントニオ・カマーチョ監督からは途中出場で流れを変える役割を与えられる。準々決勝の韓国戦でも途中から出場し、PK戦では3人目のキッカーとして成功させたが、チームは敗れている。
その後もスペイン代表には招集されるが、ベテラン勢が健在の中盤においてポジション争いで勝てず、ポルトガルで開催されたEURO2004では全く出番が与えられないままスペインはグループリーグで敗退している。
EURO2004後に就任したルイス・アラゴネス監督からは信頼を得たことでレギュラーに定着。2006 FIFAワールドカップ欧州予選では10試合中8試合に出場。スロバキアとのプレーオフ1st legでは2アシストの活躍で5-1の大勝に貢献し、本大会出場を勝ち取る。ドイツで開催された本大会でも主力としてプレーし、グループリーグ3連勝に貢献。しかし、ベスト16ではジネディーヌ・ジダンを擁したフランスを相手に逆転負けを喫し、自身も途中交代になるなど不完全燃焼に終わった。
オーストリアとスイスで開催されたUEFA EURO2008では、アンドレス・イニエスタ、ダビド・シルバ、セスク・ファブレガスと共にクアトロ・フゴーネス(4人の創造者)と称された中盤を形成。一見アンバランスに見えたクラッキたちの共演だったが、彼らは絶妙なバランスを保ちながらショートパスの連続で他国を圧倒。その中でも中心として君臨したシャビは、卓越したパスセンスで攻撃陣をリードし、準決勝のロシア戦では自ら先制ゴールをマーク。決勝のドイツ戦ではフェルナンド・トーレスの決勝ゴールをアシストし、スペイン代表に44年ぶりのビッグタイトルをもたらす。ゲームメーカーとしての貢献度の高さが評価され、大会の最優秀選手に選ばれる。
アラゴネス監督が勇退し、ビセンテ・デルボスケ監督が就任したスペイン代表ではバルセロナのカンテラ出身であるチームメイトが多く主力を担い、スペイン代表でもバルセロナと同じようなポゼッション重視のスタイルが採用され、重要なキープレイヤーとなる。南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでは初戦のスイス戦に敗れたものの、圧倒的なポゼッションを見せつけ盛り返していく。ベスト16のポルトガル戦ではヒールパスでダビド・ビジャの決勝ゴールをアシストし、この試合のMOMにも選出。準決勝のドイツ戦でもCKからプジョルのゴールをアシストすると、この大会2度目のMOMに選ばれる。この大会でのシャビは、決勝までの7試合で669本のパスを試みて544本を成功させ、そのパス成功率は81%にも達するという脅威的なスタッツを記録。決勝のオランダ戦は延長戦までもつれ込む死闘となったが、盟友イニエスタが決勝ゴールを決めるまで戦い抜き、スペインを悲願の世界一に導く立役者となる。
2011年3月25日、UEFA2012予選のチェコ戦では史上4人目となるスペイン代表キャップ100試合を記録。ウクライナとポーランドで2012年6月に開催されたEURO2012本大会でも引き続き主軸として活躍。イニエスタ、ダビド・シルバと共に高いポゼッションで試合の主導権を握り、全6試合にスタメンとして出場。決勝のイタリア戦ではジョルディ・アルバとフェルナンド・トーレスのゴールをアシストする活躍を見せ、前人未到となるEURO連覇、そして主要大会3連覇を成し遂げ、代表でも黄金時代を築く。また、前回に引き続き大会の優秀選手に選ばれている。
4度目の出場となる2014 FIFAワールドカップでは、初戦のオランダ戦にスタメンとして出場するが、かつてトップチームに引き上げた恩師であるファン・ハール監督の戦略によってイニエスタと共にマンマークに苦しみ、何もできないままチームはまさかの大敗。結局出場はこの試合のみとなり、スペインはグループリーグ敗退となる。大会後、スペイン代表からの引退を表明。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1997-98 | バルセロナB | セグンダB | 39 | 3 | |
1998-99 | バルセロナ | ラ・リーガ | 17 | 1 | |
バルセロナB | セグンダ | 18 | 0 | ||
1999-00 | バルセロナ | ラ・リーガ | 24 | 0 | |
バルセロナB | セグンダB | 4 | 1 | ||
2000ー01 | バルセロナ | ラ・リーガ | 20 | 2 | |
2001ー02 | バルセロナ | ラ・リーガ | 35 | 4 | |
2002ー03 | バルセロナ | ラ・リーガ | 29 | 2 | |
2003ー04 | バルセロナ | ラ・リーガ | 36 | 4 | |
2004ー05 | バルセロナ | ラ・リーガ | 36 | 3 | |
2005ー06 | バルセロナ | ラ・リーガ | 16 | 0 | |
2006ー07 | バルセロナ | ラ・リーガ | 35 | 3 | |
2007-08 | バルセロナ | ラ・リーガ | 35 | 7 | |
2008ー09 | バルセロナ | ラ・リーガ | 35 | 6 | |
2009-10 | バルセロナ | ラ・リーガ | 34 | 3 | |
2010-11 | バルセロナ | ラ・リーガ | 31 | 3 | |
2011-12 | バルセロナ | ラ・リーガ | 31 | 10 | |
2012-13 | バルセロナ | ラ・リーガ | 30 | 5 | |
2013-14 | バルセロナ | ラ・リーガ | 30 | 3 | |
2014-15 | バルセロナ | ラ・リーガ | 31 | 1 | |
2015-16 | アル・サッド | スターズリーグ | 24 | 3 | |
2016-17 | アル・サッド | スターズリーグ | 26 | 10 | |
2017-18 | アル・サッド | スターズリーグ | 18 | 6 | |
2018-19 | アル・サッド | スターズリーグ | 14 | 2 |
個人タイトル
指導者としての経歴
アル・サッド
2019年、プロ選手としての現役を引退してすぐにアル・サッドの監督に就任。バルセロナで培ったポゼッションを重視するスタイルをチームに導入するも就任1年目はリーグ戦のタイトルを逃し、AFCチャンピオンズリーグでも準決勝で敗れるなど無冠に終わっている。また、2019年12月にはカタールで開催されたFIFAクラブワールドカップで指揮を執り、準々決勝まで進んでいが、5位決定戦ではエスペランス相手に6失点を許し、大敗している。
2年目となった2020-2021シーズンにはかつてスペイン代表のチームメイトだったサンティ・カソルラが加入。古巣であるバルセロナからオファーも受けるが、クラブ首脳陣への不信感から断り、引き続きアル・サッドの監督を務めることに。チームは破竹の勢いで快進撃を続けて首位を独走し、2021年3月にはぶっちぎりでのリーグ優勝を決める。監督としての初タイトル獲得となった。
2021-2022シーズンもチームは首位を走るが、2021年11月5日バルセロナの監督に就任することを決断し、アル・サッドとの契約を解除することで合意する。
バルセロナ
2021年11月5日、ロナルド・クーマン監督が解任となったFCバルセロナの監督に就任することを発表。低迷する古巣を救うために6年ぶりにクラブへ帰還することとなった。監督就任発表には、多くのサポーターが集まり、いかにファンがシャビの監督就任を待ちわびていたかを物語っていた。就任1年目は期待に応えられたとはいえず、CLではグループステージ敗退、リーガでもレアル・マドリードの優勝を許し、無冠に終わる。
2022-23シーズンは、クラブが将来の放映権などを売却する強引な手法で資金を集め、ロベルト・レヴァンドフスキらを獲得する大型補強を敢行。それでも資金難に悩む不安定な台所事情の中でCLではバイエルン・ミュンヘン、インテルに敗れ、2シーズン連続でグループステージ敗退となる。一方、ラ・リーガではこれまでの「美しく勝つ」から「手堅く勝つ」スタイルへ転換。いわゆるバルサらしさは失われたが、チーム全体にハードワークを徹底させた泥臭いサッカーによる堅守を構築。リーグでは20失点と断トツでの最少失点を記録し、シーズン14回のクリーンシートを達成。気が付けば、2位レアル・マドリードとの勝ち点差を最大10広げる独走状態で4シーズンぶりのラ・リーガ優勝に導く。
監督としての成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 順位 | 獲得タイトル |
---|---|---|---|---|---|
2019-20 | アル・サッド | スターズリーグ | 3位 | カタールカップ シェイク・ジャシムカップ アミールカップ |
|
2020-21 | アル・サッド | スターズリーグ | 1位 | カタール・スターズリーグ カタールカップ アミールカップ カタール・スターズカップ |
|
2021-22 | アル・サッド | スターズリーグ | ※ | ||
バルセロナ | ラ・リーガ | 2位 | |||
2022-23 | バルセロナ | ラ・リーガ | 1位 | ラ・リーガ、スーペル・コパ・デ・エスパーニャ |
個人タイトル
人物・プレースタイル
卓越したボールコントロール、視野の広さ、パスセンスを兼ね備えた司令塔。運動量も多く、守備技術も高い。小柄だがボールキープの技術に長けており、前述のワールドユース決勝で対戦した元日本代表MF稲本純一が何度チャレンジしてもボールを奪う事が出来なかった程。ピッチ上での存在感と影響力は絶大で、彼次第でバルセロナとスペイン代表のポゼッションサッカーの質は大きく変動する。特にバルセロナにおけるアンドレス・イニエスタ、セルヒオ・ブスケッツと構成する中盤は世界最高峰。
熱くなりやすい節があり、判定に異議を唱え続けしばしばイエローカードを掲示されている。
根っからのクレ(バルセロナファン)であり、行き過ぎたバルセロナ愛ゆえに問題発言を放つ事がある。2008-09シーズンのチェルシー戦、2009-10シーズンのルビン・カザン戦やインテル戦において相手が超守備的な布陣を敷いた際にそれらを「アンチフットボール」と揶揄し、相手ファンからの顰蹙を買っている。また、バルサの下部組織出身であるセスク・ファブレガスの復帰騒動について踏み込み、アーセナルのアーセン・ヴェンゲル監督から苦言を受けた事も。
近年は釘を刺されたのか、守備的なチームに敗れても感情的に相手の戦術を批判する事は殆ど無くなった模様。
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