シャーリー・テンプル(Shirley Temple)とは、アメリカ合衆国の女優・外交官である。
僅か6歳にして1930年代を代表する大スターとして「アメリカの無垢」を象徴する存在となった。
後年は外交活動に積極的に参与している。
概要
シャーリー・ジェーン・テンプルは1928年4月23日、カリフォルニア州サンタモニカに生を享けた。実家は代々医師や弁護士を輩出してきた裕福な家で、父ジョージはカリフォルニア銀行サンタモニカ支店長、母ガートルードは専業主婦だった。
シャーリーを妊娠している間、母は美しい絵画や音楽に触れて胎教につとめた。愛情をもって育てられたシャーリーは3歳にしてダンスと音楽に興味を持ち、名門校のメグリン・ダンス学校に入学する。
女優として
6歳にして銀幕デビューを果たすや、無邪気で愛らしい少女はアメリカ国民を文字通り虜にした。
大人顔負けの難しいダンスをこなし、卓越した歌唱力と自然な演技力を持ち、生真面目ながらも快活な性格のシャーリーは、観客ばかりかスタッフや共演者をも強く魅了したのである。
大恐慌による空前絶後の不況により当時の世相は暗かったが、映画におけるシャーリーの存在は国民を励ました。フランクリン・ルーズベルト大統領もラジオ演説で「シャーリー・テンプルの笑顔に励まされ、苦労を忘れられる」と語っている。
過熱する人気とは裏腹に、シャーリーは「普通の女の子」として大切に育てられた。
撮影は法律に基づき1日4時間のみ。撮影所内に家が建てられ、夕方には家に帰って友達と遊び、食後にはラジオを聞き、家事を手伝った。
また業界特有の「悪い影響」から娘を守るため、母ガートルードは細心の注意を払った。フィルム・フォックス社(後の20世紀フォックス)もシャーリーを徹底的に保護し、他の子役の母親を始めとした心ない人々の悪意から遠ざけ続けた。
仕事の関係もあって学校に通う事はなく、家庭教師による教育が行われた。しかしシャーリーの理解力は大変優れており、すぐに数学年上の内容を学ぶようになった。
こうした環境もあり、シャーリーは子役にありがちな、早熟でスレた生き方とは無縁だった。
また撮影において、一度もわがままを言ったりぐずる事はなかったという。そればかりか前日には台本を全て覚え、撮影でNGを出す事は全くといっていいほどなかった。「一発撮り(ワンショット)シャーリー」と綽名され、周囲はプロフェッショナルとして現場に取り組む少女に敬服したという。
後にシャーリーは当時の事を「私は最高の子供時代を過ごしました。神話や小説といった素晴らしい物語を読んでもらう代わりに、物語の中で生きることが出来たのですから」と語り、最高の人生を送れた事は幸運だったと述懐している。決して謙虚さを崩さずに「私はお姫様でも女神でもないし、なりたいとも思わなかった」という。
12歳になると、シャーリーは中学校に進学する事となった。
思春期という難しい時期を過ごす為に選んだのは、ハーバード・ウェストレイク学校。アメリカでも最難関とされ、多くの優秀な人材を輩出した私立中高一貫校に、飛び級で入学を果たしている。
ここでシャーリーは学業に専念し、映画撮影は夏休みの間のみに留めた。主演作のプレミア試写会で舞台挨拶と記者会見を求められても「校長の許可が出なかったので」断ったという逸話が知られている。
その後フォックスからMGMに移籍したが、僅か10ヶ月で終了。その後は『風と共に去りぬ』などの名作を世に送り出したプロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックによる映画に出演し続けた。
この頃の作品数は少ないが、上品さと無垢を象徴してきたシャーリーに合致したキャスティングや企画が難しかった事、世間もそれを望まなかったという事情があった。ただしこれはシャーリーの人気が落ちたという訳ではなく、この頃撮影された作品も高い評価を受けている。
17歳で卒業後の1945年、シャーリーは同級生の兄で大会社社長の孫である男性と結婚。婚約した時には議会で祝福の演説がされ、第二次世界大戦の終戦関連を除いて最も多く報道されたビッグニュースだった。
ところがこの夫は人格に問題があって素行が悪く、結婚生活は4年で終了。シャーリーは本格的に女優として飛躍する事を考えていたが、その矢先、旅行先のハワイでチャールズ・ブラックという男性と出会い、お互い一目惚れしてしまう。
シャーリーは全く知らない事だったが、実はチャールズの家庭も裕福な名門だった。父はガス電気会社の会長で、本人もスタンフォード大学に進学、更にハーバード大学大学院を卒業し、徴兵によって海軍情報将校に任命。予備役となった後、パイナップルで有名なドール社の社長室に配属されるという、絵にかいたようなエリートだったのである。
そしてチャールズもチャールズで、思春期を全寮制の中高一貫男子校で過ごし、軍務とサーフィンと勉強に明け暮れ、全く映画を見ずに過ごしていた。その為シャーリーが「あの」シャーリー・テンプルであるとは知らず、パーティーで出会った彼女を見て恋に落ちたのである。
かくして1950年、二人は結婚。シャーリーは「シャーリー・T・ブラック」となり、映画界からはすっぱりと引退。夫婦仲は睦まじく、母として3人の子供を育てる事にシャーリーは全力を注いだ。
ちなみにこの結婚にあたっては、FBI長官のジョン・エドガー・フーヴァーが部下に命じ、チャールズの素行を徹底的に調査させて報告したという逸話がある。アメリカの善性を象徴するシャーリーに、二度の結婚の失敗をさせない為の配慮だったという。
その後シャーリーは、1958年にテレビ番組に復帰する。子供向け番組の司会として登場したシャーリーは当時29歳、優しく清楚な「母」としての「アメリカの無垢」は健在だった。
その後もテレビ番組へのゲスト出演や、往年の作品のカラー化・リバイバル上映が続く。こうした事から戦後でもシャーリーの人気は継続し、何度もブームが起きた。
外交官として
同時にシャーリーは、ベトナム戦争や環境保護、ドラッグやポルノの規制強化などの諸問題に熱心に取り組み、声を挙げた。戦争による人権侵害にも強く反対し、70歳で引退するまでの約30年を国家間での諸問題を解決すべく、外交活動に捧げている。
東西冷戦の緊張緩和にも積極的に働きかけ、国連代表団に参加。国際会議でもアメリカ代表をつとめた。
生来の勤勉さと実直な性格、何よりも人間的な魅力がシャーリーにはあった。
1974年にはアフリカ・ガーナ共和国に特命全権大使として着任。ガーナ人の中には女とみて反発する声もあったが、シャーリーは1日のうち17時間を仕事に当て、トップとしての仕事をしっかりとこなした事で、批判は賞賛へと変わった。積極的に市井に飛び込み、民衆との対話も継続した。
こうしたことから「アメリカ外交の秘密兵器」と称され、1976年には国務省儀典長に抜擢。国賓の接待を差配するという、超のつく要職に就任。文字通りアメリカの「顔」としての重要な職務をシャーリーはつつがなくこなし、卓越した手腕は高く評価された。
1987年にはアメリカ史上初の名誉外交官の称号を受けた。また多くの委員会、非政府組織、NPO団体の委員としても名を連ねている。
1989年からはチェコスロバキア共和国に特命全権大使として着任。ペレストロイカ以降、社会主義にあった東欧諸国の変容を察知したアメリカによる差配だった。
在任中に旧東側の体制が崩壊した際、シャーリーが民主化を支持した事で無血革命が成立。後に柔らかなビロードになぞらえて「ビロード革命」と呼ばれた革命の後もアメリカは国内の復興を支持し、1993年にチェコとスロバキアの2国に平和的に分離する「ビロード離婚」へとつながった。
晩年
一方で家族との生活を、シャーリーは堅実に守り続けた。公務や仕事をこなしながら自ら家事を執り行い、年老いた両親や義父を引き取って介護している。
70歳で公職から退くと、夫チャールズと穏やかな生活を送る。2005年に夫を骨髄異形成症候群で看取ったが、55年の結婚生活を「おとぎ話のように幸福な結婚でした」と語った。
その後2014年2月10日、老衰のため家族に看取られながらその生涯を閉じる。享年85歳。
補遺
- シャーリーがどれくらいすさまじい人気だったかという逸話には、枚挙に暇がない。
1935年から4年連続で映画興行収益1位を記録し、これは女優としては現在でも破られていない(俳優としてはビング・クロスビーが5回を獲得している)。 - 興行収益は3000万ドル以上(当時の貨幣価値)と言われ、倒産寸前まで追い込まれていたフォックス・フィルム社がV字回復して業績を持ち直したのは有名な話である。
- 1937年の出演料はダントツの1位で、クラーク・ゲーブル、グレタ・ガルボ、フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースと言った大物俳優も彼女の後塵を拝するほどだった。
- シャーリーにあやかり、女児に「シャーリー」と名前をつける親が続出。女優のシャーリー・マクレーンもその一人だと告白している。
- メディアは競うようにシャーリーを特集し、彼女を題材とした絵本や人形が飛ぶように売れた。特に人形は何度もリバイバルで発売され、古い年代の人形にはプレミアム価格がついている。
- 1935年にハワイ旅行した時は、彼女を一目見ようと10万人もの群衆が押し寄せ、州内の学校が全て休みになった。
- ファンの中心となったのは子供たちだが、大人たちもシャーリーの魅力に夢中になった。
チリ大統領のアルトゥーロ・アレッサンドリ・パルマはシャーリーの熱心なファンで、外交使節団を派遣してシャーリーの為に仕立てた海軍提督の衣装を贈呈するほどだった。官邸にはシャーリーが出演するすべての映画フィルムが揃っていたという。 - ソ連最高指導者のニキータ・フルシチョフも、負けず劣らず熱心なファンだった。外交官としての対面においては感動して手を握り、涙を浮かべて「あなたをさらって祖国に連れて戻りたいものだ!」と叫び、シャーリーや関係者を仰天させている。
- マイケル・ジャクソンもシャーリーとの面会では感極まって泣きじゃくったという逸話が知られており、ライザ・ミネリやジョージ・クルーニー、ナタリー・ポートマンらもファンあるいはマニアを公言している。こうした人気は現在でも続いており、関連アイテムのコレクター、研究者、コスプレイヤーなど、多種多様である。
- シャーリーの影響は日本でも強く、戦前戦後の少女文化を彼女抜きでは語れない。『くるくる巻き毛のおしゃまでかわいい女の子』の原型と呼んでも差し支えないだろう。
- 少女向け雑誌や塗り絵に登場したシャーリーは「テムプルちゃん」と呼ばれて絶大な人気を博した。また1936年にはシャーリー自身が日本語で吹きこんだ童謡がレコードで発売されている。
- 戦後に目を移すと、1970年代のアニメ『風船少女テンプルちゃん』はシャーリーに発想を得ている事が明白である。また子供服ブランド「シャーリーテンプル」は、シャーリー本人とライセンス契約をして事業を展開した。
- カクテル「シャーリー・テンプル」「シャーリー・テンプル・ブラック」が知られている。いずれもノンアルコールのソフトドリンクで、禁酒法廃止後に家族連れで酒場に行く際、子供向けに考案されたレシピだという。ただしシャーリーは勝手に名前を使われた事に首をかしげていたと伝えられる。
- ハリウッド名物「ウォーク・オブ・フェーム」にも、6歳の時に手型と足型を残している。式典の最中に乳歯が抜けるハプニングがあったが、シャーリーは靴を脱ぐと裸足で足型を残し、カメラや人々の視線を下に誘導。歯が抜けた所を見せず、口を閉じて微笑んだというエピソードがある。
- 幼くして時の人となったシャーリーに対し、悪意を抱く人間も少なからず存在した。他の子役の母親や狂信的なファンの中には、毒入りの菓子を送りつけたり、顔に酸を浴びせようとした手合いもいたという。
- 1930年代、ヨーロッパではタブロイド紙によるシャーリーの突拍子もないゴシップ記事が書き立てられた。「実は30歳の子持ちだ」「あの巻き毛はカツラで実はハゲだ」「母親がすさまじいステージママでノイローゼになっている」などなど。もちろん全部ウソである。
- そうした中で1937年、イギリスの作家グレアム・グリーンが雑誌に「中年男が映画のシャーリー・テンプルを見て欲情する」という趣旨の映画評論を書いたが、これは凄まじい非難を浴びた。結果雑誌は廃刊となり、20世紀フォックスから告訴されたグリーンは、多額の賠償金を支払う羽目になった。その後1990年にはグリーンのロリコン趣味と少女買春容疑が告発され、人身攻撃に晒される事となった。
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