ショーン・マイケルズとは、アメリカのプロレス団体WWE(元WWF)に所属していた元スーパースターである。
1965年7月22日生まれ、テキサス州サンアントニオ出身。身長186cm、体重102kgで左利き、本名はマイケル・ショーン・ヒッケンボトムである。通称”HBK”(HeartBreakKid)、必殺技は「スウィート・チン・ミュージック(トラースキック)」
ショーン・マイケルズのキャリア
デビュー、WWFとの契約、解雇、再契約
1984年に地元インディー団体でデビュー、その後AWA参戦を経て1987年、一度WWFと契約を結ぶもナイトクラブで起こした乱闘騒ぎが原因でわずか2週間で解雇されてしまう。
紆余曲折ありながらも1988年にWWFと再度契約、参戦してしばらくはマーティ・ジャネッティとのタッグチーム「ザ・ロッカーズ」でタッグ部門で活躍する。
ヒールターン、シングルプレーヤー転向、HBK誕生
1991年、相棒のマーティ・ジャネッティと試合中に仲間割れ。翌年1992年初頭の番組のインタビューコーナーのなかでマーティ・ジャネッティと和解するとみせかけて不意打ちでスウィート・チン・ミュージックをジャネッティに放ちヒールターン。
ヒールターン意向は生意気な自惚れ男のギミック”ハート・ブレイク・キッド”(略称HBK)としてシングルプレーヤーに転向した。IC王座のタイトル戦線に絡み当時のIC王者ブレット・ハートと抗争を繰り広げ、1992年7月当時WWE史上初のラダー・マッチで王座に挑戦するも敗退。同年10月27日にブリティッシュ・ブルドッグを破ることでシングルプレーヤーとしては初となるタイトル、IC王座を獲得した。
レッスルマニア10でのラダーマッチ、HBK大ブレイク
そうした中、ショーンはIC王座を保持しつつ一時WWFを離脱(理由はステロイド疑惑等様々な憶測がある)、ショーン離脱中に空位となったIC王座をめぐる戦いで最終的にレイザー・ラモン(スコット・ホール)が新IC王者となる。
しかし復帰したショーンはこれを認めず、互いに真のIC王者を主張しあい、真のIC王者を決めるべく行われたのが1994年レッスルマニア10でのレイザー・ラモンとのラダー・マッチである。
この試合でショーンは敗れるものの、試合内容のクオリティの高さからショーンの大ブレイクにつながった。同年8月には当時のボディー・ガード役のディーゼル(ケビン・ナッシュ)とのコンビでWWFタッグ王座も獲得している。(その後ディーゼルとのコンビはショーンの攻撃がディーゼルに誤爆してしまうことが原因となりディーゼルが裏切る形で解消)
ロイヤル・ランブル優勝、WWF世界ヘビー級タイトル挑戦
1995年、HBKはロイヤル・ランブルに参戦し一番手として史上初となる優勝をかざる。
同年のレッスルマニア11でディーゼルの持つWWF世界ヘビー級王座に挑戦するも敗れてしまう。その後しばらく休場し、同年5月にベビーとして復帰。7月には三度目となるIC王座獲得、8月にはレイザー・ラモンとのラダー・マッチでリベンジを果たす。同年サバイバー・シリーズ以降、再び離脱。
ロイヤル・ランブル連覇、レッスルマニア12でのアイアンマン・マッチ
1996年、HBKはロイヤル・ランブルマッチを2年連続で制し再びWWF王座への挑戦権を得るとレッスルマニア12でWWF王者ブレット・ハートに挑戦。この試合は当時史上初となるアイアンマン形式(60分でお互いどれだけのフォールを奪い合えるかを競う)で行われ、HBKはこの試合の入場で会場の最上部から滑車を使って滑り降りながら入場するという派手なパフォーマンスを行った。
試合はお互い結局1本のフォールも奪えないまま60分が経過し、ブレット・ハートの王座防衛かと思われたが急遽サドンデス形式の延長戦が決定、延長戦開始直後にショーンがスウィート・チン・ミュージックでブレット・ハートからフォールを奪いHBKは自身初となるWWFヘビー級王座を獲得した。しかし、この経緯にブレット・ハートは激怒しHBKとヒットマンの間に大きな確執が生まれてしまった。
"ニュー・ジェネレーション"のリーダーとして団体の顔に
ブレット・ハートが長期欠場したこともあり、団体の頂点に立ったショーンはブリティッシュ・ブルドッグ、ベイダー、マンカインド(ミック・フォーリー)を相手にWWF防衛を長期に渡り防衛。当時WWFはハルク・ホーガンなどといったこれまでのアメリカン・プロレスのヒーローとは異なるタイプのレスラーを”ニュー・ジェネレーション”としてプッシュしていた。その先頭に立っていたのがHBKであった。
順調に王座を防衛していたHBKだが1996年のサバイバー・シリーズでサイコ・シッド相手についに王座陥落。翌年1997年1月地元サンアントニオで開催されたロイヤル・ランブルで王座を奪還するも、以降膝の故障を理由に長期欠場してしまう(離脱の理由は直前にブレット・ハートが契約更改で高額な条件をビンス・マクマホンから引き出したことへのボイコットという説もある)
De-generation-X結成、モントリオール事件
1997年、復帰したHBKは5月にスティーブ・オースチンとのタッグでWWFタッグ王座を獲得、特別レフェリーを務めたサマー・スラムでのテイカーへのイス誤爆をきっかけにテイカーと抗争。10月のPPV「バッド・ブラッド」ではそのテイカーと史上初となるヘル・イン・ア・セルマッチを行い勝利をおさめるなど活躍をみせた。ちなみに9月にはイギリスで行われたPPVマッチにおいてブリティッシュ・ブルドッグを相手にWWFヨーロピアン王座を獲得し、当時団体初となるグランドスラム(WWF世界王座、WWFタッグ王座、IC王座、欧州王座すべての獲得)を達成している。
そして再びヒールターンしたHBKはHHH、チャイナ、リック・ルードと共にDe-generation-X(DX)を結成。過激な下ネタ、尻を丸出しにするなど完全にやりたい放題のヒール・ユニットとして人気を得る。DXはブレット・ハート率いるユニットハート・ファウンデーションと抗争を繰り広げる。
そして1997年11月、サバイバーシリーズでヒットマンの地元モントリオールで開催されたこのPPVでHBKはヒットマンの持つWWF王座に挑戦するが、試合はHBKがヒットマンにシャープシューター(サソリ固め)を仕掛けたところで強制的にゴングが鳴らされてしまう。
これはこの試合を最後に当時のライバル団体WCWへの移籍が決まっていたヒットマンが地元で王座を明け渡すことを拒否、防衛したうえで翌日のRAWで王座を返還したい旨をビンス・マクマホンに伝えたが、王座を持ったまま他団体へ移籍することをよしとしないビンス・マクマホンがヒットマンへの通達無しでHBKへの王座移動を謀った結果でる。この一件はモントリーオール事件と呼ばれ、当時アメリカで社会問題にもなった。
一度目の引退
結果的にWWF王座を獲得したHBKは1998年1月のロイヤル・ランブルにおいてアンダー・テイカーを相手に棺桶形式での王座防衛戦を行った。しかしこの試合HBKは腰を棺桶に強打してしまう。試合は続行され、ケインの乱入もあってHBKは試合に勝利したものの腰の状態はキャリアを続けるのが困難なまでに悪化してしまった。
結局状態は良化せず、1998年3月に行われたレッスルマニア14でのWWF王座戦でスティーブ・オースチンに王座を明け渡し、試合後にDXを裏切ったマイク・タイソンに見舞われたパンチのダメージが深刻であるというギミックとともにHBKは事実上引退することになった。
WWE復帰、HHHとの抗争
2002年、nWoの新メンバーとしてHBKがWWEに復帰。しかしnWoはスコット・ホールが不祥事で解雇、ケビン・ナッシュが怪我で長期欠場してしまい崩壊してしまう。その後、HHHとDe-generation-Xを再結成する流れに思われたがHHHがこれを拒否するという形でHHHとの抗争を開始。2002年のサマー・スラムでHHHを相手にノーDQ戦の復帰戦を行い勝利。試合後HHHにハンマーで襲撃され離脱するも、HHHとの抗争は継続された。
同年11月のサバイバー・シリーズでは当時初となるエリミネーション・チェンバー形式で行われたWWE世界ヘビー王座戦に出場し、勝利。WWE世界ヘビー級王者となるが、12月に行われたPPV「アルマゲドン」でHHH相手の防衛戦に敗れ王座陥落してしまう。
2003年-2005年
2003年は世界ヘビー級王者HHH及びHHHが結成したグループ”エボリューション”との抗争を続け、年末からはHHHとの試合を繰り返す。
2004年、1月のロイヤルランブルでは世界ヘビー級王座を賭けたラストマン・スタンディング・マッチで決着をはかるが死闘の末に引き分けとなった。同大会でロイヤルランブルマッチを制したクリス・ベノワが王座への挑戦権を得た上に王座挑戦権の死角をつき、当時スマックダウン所属ながらRAWの最高王座に挑戦を表明したため、HHHとクリス・ベノワ二人の抗争に割り込む形となった。レッスルマニアXXではHHH、ベノワとレッスルマニア初となる三つ巴戦のメインイベントになりクリス・ベノワが戴冠した。
翌月カナダ開催されたPPV「バックラッシュ」での再戦では前述の「モントリオール事件」がテーマとなり、ブレット・ハートと関係が深いベノワのシャープシューターにショーンがタップアウトした。
以降、再びHHHとの抗争に入り、PPV「バッドブラッド」では世界ヘビー級王座戦を差し置いてノンタイトル戦であるHBK対HHHのヘル・イン・ア・セルがメインイベントとなる。”最終決戦”と銘打たれたこの試合は50分に迫る壮絶な激闘となり、お互いの必殺技をキックアウト。最後は合計3発のペディグリーを浴びて敗北、完全決着に至った。翌日のRAWでのケインの襲撃を期に長期欠場に入った。復帰後はケイン、あるいはエッジと抗争を繰り広げた。
2005年、1月のロイヤルランブルマッチでカート・アングルをリングアウトさせて以降、スマックダウン所属のカート・アングルとの抗争を開始。レッスルマニア21で名試合を繰り広げるもアンクル・ロックにタップアウトした。
レッスルマニア21以降は一時復活したハルク・ホーガンとチームを組みバックラッシュまでモハメド・ハッサン、デバリの嫌米チームと抗争。
6月に行われたドラフトでカートがRAWへ移籍し、PPV「ヴェンジャンス」で再戦しスウィート・チン・ミュージックで雪辱を果たした。
7月4日の独立記念日に開催されたRAWでのHBK&ホーガンvsカート&クリス・マスターズ戦の試合終了後、突如ホーガンにスウィート・チン・ミュージックを浴びせヒールに転向。以降ホーガンとの抗争を開始する。PPV「サマースラム」のメイン戦でホーガンとの”ICON対決”には敗れたが、再びベビーとなった。
秋にはRAWでカートとアイアンマン・マッチを行い、スウィート・チン・ミュージックを浴びせてフォールするが3カウント直前で時間切れ引き分けとなり、カートに延長戦を呼びかけるがカートが拒否して立ち去った。11月のPPV「サバイバー・シリーズ」でのスマックダウンとの番組対抗の一連の抗争ではRAWの主将を務めたが、チームは敗れた。
2006年、DX再結成
2006年、ブレット・ハートのDVD発売に際して過去の「モントリオール事件」についてヒットマンを批判するマイクパフォーマンスを行うビンス・マクマホンに割って入ったことがきっかけとなり、HBKはビンス・マクマホンとの抗争を開始。レスルマニア22でビンス・マクマホンとのストリート・ファイト・マッチが行われたが、試合中HBKはDXチョップを披露した。(レッスルマニア22でHHHも同じくDXチョップをしている)
以降、HBKはマクマホン親子と抗争を続けると7月にはついにHHHと合流し約9年ぶりにDe-generation-Xを再結成する。DXはマクマホン親子との抗争を続け最終的にはアクマホン親子&ビッグ・ショーを相手にハンディキャップ形式でのヘル・イン・ア・セルマッチを行い勝利し抗争に終止符を打った。その後、エッジとランディ・オートンのタッグを相手に抗争を始めたが翌年のPPV「ニュー・イヤーズ・レボリューション」での試合中にHHHが負傷し、離脱。これによってDXは自然消滅してしまった。
2007年
2007年1月、ロイヤルランブルマッチに出場するも敗退。その後、ジョン・シナの持つWWE王座への挑戦権を獲得しのぞんだレッスルマニア23でのWWE王座戦は負傷で出場できないHHHのために入場曲にDXのテーマ曲を使用して挑んだが、惜しくも王座奪取はならなかった。以降、ランディ・オートンに頭を蹴られたダメージが原因(実際は膝の故障)とし離脱していたが、PPV「ノー・マーシー」翌日のRAWで復帰した。その後はオートンと抗争。11月のPPV「サバイバー・シリーズ」では王座を持つオートンに”スウィート・チン・ミュージック使用禁止及び反則裁定無し”の変則ルールのもと挑み、他のスーパースターの技などをを駆使し追い詰めるもRKOを受け敗退。
2008年
2008年1月、ロイヤルランブルマッチに一番手で出場するも敗退、レッスルマニア24でリック・フレアーの引退試合の相手を務めた。(試合は負ければフレアーが引退の条件で行われ、HBKはこれに勝利)
その後はフレアーを引退に追いやったことを理由にバティスタ、クリス・ジェリコと抗争。特にクリス・ジェリコとはHBKの実際の妻をも巻き込んだ形での抗争に発展した。9月のPPV「アンフォーギヴェン」においてHBKはクリス・ジェリコを下したものの、翌10月のPPV「ノー・マーシー」においてラダー・マッチ形式で行われた一戦では敗れている(この試合はWWE世界ヘビー級タイトルマッチ)
その後年末から翌年初頭にかけてJBL(ブラッド・ショー)と抗争をくりひろげた。
2009年
2月に行われたPPV「ノー・ウェイ・アウト」でのJBL戦に勝利し勢いづくとHBKはアンダー・テイカーのレッスルマニア無敗記録に挑戦すると表明(当時テイカーはレッスルマニアにおいて16戦無敗)、光と闇をテーマに抗争開始、レッスルマニア25でアンダー・テイカーと激闘を繰り広げるも無敗記録を破ることはできず敗退。以降、長期離脱する。
再結成後はレガシーのローデス&デビアスと抗争。PPV「サマースラム」ではDXで勝利。
モントリオールで開催されたPPV「ブレーキング・ポイント」では史上初の試合形式であるサブミッション・カウント・エニウェア・マッチで闘い、モントリオール事件を根に持つカナダの観客から "You screwed Bret!"(お前らはブレットをハメた!) のチャントが湧き起こるなかでローデスの鉄柱4の字固め、デビアスのミリオンダラー・ドリームのダブル攻撃に屈してしまい、DXとしては初めてのタップアウト負けを喫した。その後3度目の対戦となるヘル・イン・ア・セルでは勝利し、抗争は決着。
12月にはTLC戦でクリス・ジェリコ&ビッグ・ショー組に勝利し、DX初の統一タッグ王者となる。
過去の精算、テイカーへの再挑戦、二度目の引退
2010年1月4日のRAW、ゲストホストとして12年ぶりにWWEにブレット・ハートが登場、HBKはリングに呼び出され、モントリオール事件以来、確執が続いていると思われた両者が握手をして抱き合い、和解した。(プライベートでは既に和解済)
翌週の1月11日のRAW、今度はゲストホストとしてマイク・タイソンが登場。HBK、HHHは1998年のレッスルマニア14にてタイソンがDXを裏切ってHBKを引退に追い込んだ件の和解を求めたがタイソンは拒否、そこにDXによってRAWを追放されたクリス・ジェリコが割り込み、同日のメインイベントとしてDXvsジェリコ&マイク・タイソンのタッグ戦が実現。しかし、試合中にタイソンが自分の着ていたTシャツを脱ぐとその下にはDXのTシャツを着ており、ジェリコを裏切ってフック一撃でKOし、DXが勝利。12年前のレッスルマニア14でタイソンがHBKを裏切ってKOした後にオースチンのTシャツを着た場面を思い起こさせる決着となった。
以降、HBKは前年のレッスルマニアで敗れたアンダー・テイカーへの執着を見せ始める。しかし、当のテイカー本人はHBKとの再戦を拒否。再戦を拒否されたHBKは世界ヘビー級王座を持つテイカーに挑戦するべく優勝を目指しロイヤルランブルマッチ出場するも敗退、同じくランブル戦に出場したHHHに試合前にわざと負けるようとの要請をHHHに断られたことなどもあり、HHHとの関係も微妙なものになってしまう。
2月、PPV「エリミネーション・チェンバー」で行われたエリミネーション・チェンバー・マッチ方式での世界ヘビー級王座戦にて、アンダーテイカーの世界王座防衛目前でリング下から突如としてショーンが乱入してテイカーにスウィート・チン・ミュージックを浴びせ、テイカーは王座から陥落。翌日のRAWでテイカーに対して「俺に復讐したいならレッスルマニア26で俺と戦え」と挑発すると、テイカーは再戦を受諾。ただし、再戦条件としてHBKが試合に敗れた場合HBKは引退することを要求した。これをHBKが了承するかたちでレッスルマニア26においてのHBKとテイカーの再戦が決まった。
3月、レッスルマニア26でテイカーのレッスルマニア無敗記録とHBKの現役引退を懸けた反則裁定無しの試合が行われた。この試合は王座戦を差し置き同大会のメインイベントとして行われ、前年の対戦に勝るとも劣らないプロレス史上最高の名勝負を繰り広げた。終盤、テイカーの必殺技ツームストーン・パイルドライバーを浴びてもHBKはキックアウト。テイカーが首を掻き切るポーズでもう一発ツームストーンを放つ意思を示そうとしたが、敗れれば引退することになるHBKに対してトドメを刺すことをためらう。しかし、HBKはためらうテイカーに首を掻き切るポーズで挑発して張り手を浴びせ、激怒したテイカーのジャンピング・ツームストーン・パイルドライバーを浴びて敗北。HBKは引退した。
引退後
2011年、HBKのWWE殿堂入りが発表された。プレゼンターはHHHが務め、盟友のケビン・ナッシュとショーン・ウォルトマンの祝福を受けた。
その後もHHHの試合のゲスト・レフェリーを務めたり、HHHのセコンドを務めるなど、ピンポイントではあるもののWWEに登場している。
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